『猫より先に』

 猫より先に、彼を飼った。

いつも仕事から帰ってくると冷蔵庫の音しか聞こえてこなかった部屋に、今は彼がいる。
私はその寝息を聞きながら重いスーツを脱いだ。その辺に投げかけてしまいたいのを我慢して汚れやしわを確認してからハンガーにつるし、ストンとした寝間着を頭からかぶる。ベッドの上で布団も何も掛けずに大の字になっている彼をつつくと、彼は少し身動いですぐに目を覚ました。
「お帰り。」
一言だけ言って体を起こし布団をめくってすぐにまた横になる。
「ただいま。」
私もそれだけ言って、一緒に布団の中に潜り込んだ。いつも仕事から帰ってくると氷のように冷たかった布団が今はぽかぽかと温かい。すぐ隣からはまた寝息が聞こえていて、私はそっと目を閉じた。
この暮らしを私はとても気に入っている。

 彼を拾ったのは約一ヶ月前。歩道で電柱によりかかるようにして立っていた彼と何故か目が合った。仕事以外で人と目を合わせるのは久しぶりだった。この街の人間は必要以上に人の顔を見ようとはしない。瞼があがらないかのように地面ばかりを見つめて、たまに顎をあげたかと思えばいらだった顔で信号機をにらんでいる。そしてまた地面を見つめて歩き出す。私もその中の一人だった。
何もかもが慌ただしい都会は嫌いではない。歩き続けていると余計なことは何も考えずにすむような気がするからだ。雑踏の中にいながらたった一人で立っているような孤独感もいっそ気楽で心地よい。なので私はすぐに彼から目をそらした。出勤途中のたった数秒。会社に着いたときにはすっかり頭から消えていた、そんな出会いだった。
何も映していない。こっちを見てはいるが私を見てはいない。そんな瞳。
その目を思い出したのは帰宅途中、朝とまるで同じ場所にまるで同じ格好で突っ立っている彼を目にしたときだ。
また、目が合った。
彼は流れる人の中から頭一つ飛び出た長身で、「そんな人は人より目が合いやすいのかもしれない。」と考え「でもかえって誰とも目が合わないものじゃないだろうか。」とも考えて「どうでもいいことに頭を使っているな。」と苦笑しながら、ふと、思いついた。自分でもどうしてかわからないが、私は彼に歩み寄ってこう言ってしまっていた。
「私ちょうど猫が飼いたいと思ってたんだ。」
言ってしまった私も馬鹿なら大人しくついてきた彼も馬鹿だと思う。
後で聞いたらてっきり売春のお誘いだと思っていたらしいが、とにかくその日から彼と私の生活が始まった。
私が会社に行っている間彼は家で掃除や洗濯などをして過ごす。そして帰ってくると二人で温かいベッドに潜り込んで眠りにつく。世間では『ヒモ』とかいうのかもしれないが、私と彼の間にはそういった契約も肉体関係もなく、あくまで主人とペットだった。

 休日の朝。動かそうと思った体がなんだか重くて動かなかった。不思議に思って目を開くと彼の腕が背中に回っている。最近彼はスキンシップが多い。少し身をよじると腕に力が入るのがわかる。無理矢理体を起こすと彼は眉根を寄せて何もない空間を探った。無精ひげを生やした大の男がこういった仕草をするのはなかなか可愛いかもしれない。思わず口元がゆるんでしまうのがわかって、私はまたその腕の中へと倒れ込んだ。
ぬくいのは嫌いじゃない。眠るのも嫌いじゃない。今日は休日で、のんびりするのも嫌いじゃない。
単純な理由だった。
途端に彼の腕がきつくからみつく。
……これでは眠れない。
抗議のつもりで彼の頬を軽く叩いてみると、思ったより簡単に目が開かれた。
「……もしかして起きてた?」
「だいぶ前から。」
悪びれずに言う。
「眠れないんだけど。」
あきれ顔で彼の腕を指さすが彼は腕をどけようとしない。
「話がしたかったから。」
至近距離で見る真剣な表情に私は少し驚いた。彼と改まった話などしたことがなかった。いつもどちらかが他愛のない世間話をし始めて、片方が適当な相づちを打って聞いている。そんな感じだったから。
私の気に入っている生活の何かが変わりそうな予感がした。
「ペットに昇格制度はあるのかな。オレはこれ以上猫ではいられそうにないんだけど……。」
言いながら体を起こし、私を見下ろしてくる。
「どういう、意味?」
警鐘が頭の中をかき回すのを感じながら、それでもこの空間の居心地の悪さに聞かずにはいられない。
彼は迷う様子もなくはっきりと言った。
「猫から恋人には、やっぱりなれない?」
寒気がした。
こわばる顔を必死にごまかしながら彼を押しのける。
「猫を恋人にする人間はいないと思うけど?」
できるだけ冷たく聞こえるように言おうと思った。
彼のことは好きだ。
でも、だから、だめだ。
「第一号になればいい。」
彼の手がまっすぐ伸びてくる。
私はとっさに彼の頬を叩いていた。
一瞬よぎったのは後悔にも似た苦い思い。それでも口が勝手に動き出す。
「猫もう捨てるわ。」
笑ったつもりだった。なのにこみ上げてきたのは涙だった。彼がまた腕を伸ばして、振り払う間もなく広い手のひらが私の頬をそっとぬぐった。
「悪いけど、オレは人間だよ。」
当たり前のことを言う。
「悪いけど、心があるんだ。」
本当に、ごくごく、当たり前の……
「悪いけど、いつの間にか好きになってたみたいだ。」
私は体を震わせた。
それはいつの間にか万が一にも告げられるのを一番恐れていた言葉だ。
「私、猫が飼いたかっただけなの。恋人なんて……いらない。」
涙を堪えようと思うのに目が言うことを聞かない。思うとおりにならない体にいらいらする。もっと冷たく言い捨てたいのに。頬に触れたまま離れようとしない彼の手がとても温かくて、突き放すこともできない…。
「欲しかったのは猫なんかじゃなくてただベッドを暖めておいてくれるだけのぬくもりだろう?」
彼がゆっくりと私の頬をなでる。
労るようなその動きがかえって心に痛かった。
「そうよ。恋人なんていらない。邪魔よ。一人の方が気楽。」
声がどんどん震えていくのがわかった。情けない。でも止められない。彼は困っている風でもなく、私をなだめながら続けてくる。
「いつか、傷つくかもしれないから?」
きっと全部見透かされている。
「……そんなことを考えてるくらい、何より自分が大事なのよ?恋人なんていらないじゃない。私には猫で十分だったのに……」
「あれ?過去形だね。」
あまりに憎たらしいので彼の手を振り払い、その頬をつねってやった。
「嫌いよ。絶対信じない。恋人なんていらない!」
彼は赤くなった自分の頬を押さえながら言う。
「信じなくてもいいよ。オレもオレが信じられない。人を猫として飼いたいなんて言い出す変人のご主人様を好きになるなんてね。」
「それなら私だってよ!猫として飼われてもいいなんて人をす……っ」
私は慌てて口を押さえた。
彼はニヤニヤと笑っている。
「この街で一人でいることにはもう飽きた。確かに楽だけど、楽だと思い慣れる自分にも嫌気がさした。だから…。」
彼は私を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「オレも寂しかったんだよ。お互い錯覚かもしれない。お互いぬくもりだけが欲しかっただけかも。でも、確かにある気持ちを無視してしまう前に正面から見つめ合った方がきっと前に進めると思わないか……?」
低く掠れた彼の声に私はやっと微笑むことができた。あふれる涙は止まらなかったけれど、それでも私は微笑んでいた。さっきまでどん底にいたのに……なんだかおかしな気分だった。

 涙が乾いてきたとき、私は力一杯彼をベッドから蹴り落とした。
「じゃあ今日から床で寝てね。」
彼が腰を押さえて目を白黒させながらこっちを見る。
私は今までの仕返しとばかりに満面の笑顔で告げた。
「猫じゃないんだもの。当然でしょ?恋人にしてあげるなんて一言も言ってないわよ?」
彼は頭を押さえて冷たい床にごろんと寝転がり、
「望むところだよ。そのうち絶対言いたくさせてやる。でもまだ床は冷たい…オレ、もうしばらく猫でいた方が良かったかな?」
などとつぶやいた。
私は笑いながら家の中から布団になりそうな物を探すために動き出した。

どんなに幸せな気分にさせてくれても絶対信じてやりはしない。
だって彼はさっきまで猫だったのだから。
だからもっとゆっくり一風変わった恋を楽しもう?
そのうちきっとあなたが好きだと告げてしまうだろうから。
どうかそれまで…私に証明し続けていて。

「いいじゃない、人間にはちゃんと昇格制度もあるんだから。」

私はうなだれる彼にコートと試合開始のセリフを思い切り投げつけてやった。
END.
HOME