『最も近いもの』

やぁ、はじめまして。
いや、はじめましてという挨拶をするのはやめておこう。
君にとって私ははじめましてだが私にとって君は見飽きた顔だ。
ふふ、そう露骨に不審がることはないだろう。
人と人との繋がりがみな自己紹介から始まるとは限らない。これもまた、ごく自然な繋がりなのだよ。
名前?
私と君のあいだに名前など必要かな?
私には名前があり、君にも名前がある。互いにそのことを知っている。ならばそれでいいじゃあないか。
私はこれを限りに二度と君に会うことはない。名乗るだけ無駄だというものだ。
そんなことよりも君に聞かせたいことがある。
できるなら時計を気にせずに聞いてくれたまえ。あくびをしてもかまわないが、タイミングは計った方がいい。
断っておきたいのは、私は至って真剣だということだ。
さぁ、用意はいいかな?トイレはすませたかい?
ふふ、そう力まずに、楽にしていてくれてかまわないよ。
私はただ君に聞いてもらいたいだけなのだから。
生まれ出でてから今に至るまでの記憶をすべて持っている人間などいない。人は忘れていくものだ。だが覚えていることもある。どのようにして取捨選択されていくのか…知る由もないが、私の覚えている幼いころの思い出はほとんどが苦いものばかりだ。
その中の一つを、私の心に今なお残る恐怖の話をさせてもらおう。

そのころはまだ父と母がおり、家も裕福で、私は良い服を着て良い学校へ通った。
随分やんちゃで怖いもの知らずだった気がするよ。そして愚かだった。
過去の己自身など、誰しも決まりごとのように似た評価を下すものなのかもしれない。だが本当に…本当にそう思うのだ。
私には友人が多くいた。中でも仲の良かったのが、大食らいで、ひどく太っていて、腹が比喩ではなく本当にビア樽のように膨らんでいた少年だった。
彼は始終何かを食べていて、授業中にもこっそり食べ物を持ち込んでは先生に叱られていた。
でぶ、太っちょと、掛け声のように投げてみれば、彼はいつも温厚な微笑みを浮かべて、「俺はぁ、食い物みぃんな美味くて幸せだぁ」と返すのだった。
妙に調子のずれたヤツだったが、そばにいると居心地がよかった。
大勢で遊ぶときにも私たちはいつのまにかコンビを組んでいて、隠れるときは一緒に隠れたし、怒鳴られるときは一緒に怒鳴られた。
ただどうしてもできなかったのが一緒に逃げることだった。
彼はとても足が遅かった。どれだけ一生懸命走ってもどたどたという音が大きくなるばかりで、前へ進む速度は一向に上がらない。私は置き去りにするつもりなどなかったが、普通に走るだけでどうしてもそうなってしまう。何度も彼を置いて逃げてしまった後で、「もう少し早く走れるようになれよ」と苦笑した。彼はやはり微笑みを浮かべながら、「でも美味いものたくさんあるからなぁ」と、丸々とした頬を掻いてみせた。
子供というのは、狭い場所が好きだ。
暖炉の中、煙突の中、床の下、天井裏、どんなところだって潜って行く。一度使われていなかった焼却炉に入ったまま眠ってしまってこっぴどく怒られたことがある。以後二度と焼却炉には入らなかったが、狭いところを見つけると潜んでしまう癖は抜けずに、色々なところを探検した。
ある日昼食を摂り終えた私は凄まじい眠気に襲われた。ほどよく満たされた腹、窓から降り注ぐ暖かな陽射し、となれば、眠くなるのは当然というものだ。午後の授業を寝て過ごそうかと思ったが、それには少し問題があった。
どんなに目の冴えているときでも五分とかからずに眠りの淵に追いやる先生の授業だったのだ。
ならば渡りに船、問題など何もないではないか、と、そう思うかもしれない。だがその先生は、自ら眠りの呪文を唱えていながらその術中に陥った人間を見ては目をむいて叩き起こし、長い木の棒で尻が赤くなるまで折檻するのだ。うつむいて前髪で顔を隠す者、まぶたに目を描く者、色々現れたがことごとく敗れ去った。拷問・処刑時間と呼ばれるその授業に、出席できそうな状態ではとてもない。
私は教室を抜け出してどこかで眠ることにした。
「どこに行くの?」
あっというまに給食を食べ終え、持参したおやつを食い漁っていた彼が尋ねてきたので、「一緒にこいよ」と誘った。どうせ授業に出ていても隠れて飲食しているのを叱られるに決まっているのだから。
私は厄介な生徒ではなかったと自分では思うが、地獄の責めのような授業と心地よい陽気の中での安らかな眠りを天秤にかけて誘惑に抗えるほどお利口な生徒でもなかった。
私は彼を連れてさてどこへ行こうかと考えた。
見つかりにくく日当たりの良い場所というとそうはなかった。彼はお菓子を食べながら前も見ずについてくる。時々ぽろりとこぼしては低いうめきをもらして新しいお菓子を取り出す。しばらくうろうろしているととうとう手持ちがなくなったのか、「戻ろうよぉ」と言い出した。
「今戻ったら怒られる」
「だけどぉ」
「こんなに天気がいいんだ、眠くなるのは当然だろう?なのにあの先生は怒る。ひどいじゃあないか、睡魔の申し子のくせに」
そんな会話を交わしたように思う。眠気は大分覚めてきていたが、今さら戻るのは馬鹿馬鹿しいと思ったのだ。私は彼を黙らせそうなものを半ば意地になって探した。
そして倉庫の扉がわずかに開いているのに気がついた。
いつ見ても鍵がかかっていて先生しか入ることができないのに、その日に限って鍵を閉め忘れたのか、かすかな隙間から光がもれていた。
薄汚れた倉庫の中にあるものなど考えれば想像がつく。
しかし私はわくわくした。こうなるともうだめだった。
「入ってみよう」
彼が頷こうと首を振ろうと関係がないと無理やり引きずり込んだ。
中はほこり臭く、歩いただけで視界が白く染まりそうだった。
すそのほつれた暗幕やら取っ手の壊れた大きな三角定規、カラカラに乾いた雑巾、まともに音が出るのかどうか甚だ疑問なピアノ、様々なものがだまになったほこりをかぶっていた。不思議なもので、鼻がむずむずして今にもくしゃみが出そうなくせに、ほこりをかぶっていればいるほど嬉しかった。
「こんなふうになってたんだぁ」
彼が間延びした声で言うのに私は手柄を立てたような気分になっていた。
「しばらくここにいよう」
内側から鍵をかける。その音にさえ興奮した。

さて、先が読めただろう?お約束のパターンだ。
私たちは閉じ込められたのだよ。

立て付けが悪かったのか金属が曲がっていたのか錆びていたのか、今だからこそそんなことを考えるがあのときはただただ心臓の音を早めるしかなかった。
どれだけ押しても引いても扉は開かない。私は冷や汗や脂汗だらけになって、ついには床に座り込んだ。
ざらりとした感触があったのを覚えているよ。温度のわからない汗でぬるりとした足に砂粒が気持ち悪かった。
私は軽口を叩こうとして彼の方を見た。
ちょっとドジったけど大丈夫さ。すぐに誰かが見つけてくれる。それまで何して遊ぼうか。
色々と考えていたのに、
「帰ったらいつもの倍食うぞぉ」
先を越された。
私は笑って、「このでぶめ」と呆れつつも、彼のこういうところが好きなのだと思った。
しばらく普通に語らい、たまに暴れたりもして、とにかく時間を過ごしていた。
やがて夜がきた。
扉は相変わらずびくともしないくせに風の泣き声を運んできた。
鳴咽しているようにも、咆哮しているようにも聞こえた。
私も、彼も、一言も発さずにその音を聞いていた。
何かが倒れるような音、揺さぶられるような音、壊れたような音、泣き声に乗って遊んでいる音たちが私たちを笑っているような気がした。
そう、すべての音が、私たちを食らおうと魔物が向かってくる足音のように聞こえたのだ。
目が慣れているとはいえ辺りは闇だ。高いところにある窓からは一筋の月明かりしか入らない。
背後に何かが潜んでいても、わからない。
私は心臓の音を全身で聞きながら生命の流れに恐怖した。
どくん、どくんと、己の命を紡いでいるはずのその音さえ悪魔が訪れる秒読みのようで。
彼に話し掛けようと思うのに、いつもしているはずのたわいのない話も、あーとか、うーとかいう音でさえももらせなかった。
突然すぐ近くで鼻をすする音が聞こえて私は震えた。
「帰りたいよぉ、母ちゃん、こわいよぉ」
彼の気持ちはよくわかった。
それに元はといえば私が悪いのだ。私は頭を下げて謝り、彼を慰め、元気づけなければならなかった。
だが私は腹が立ったのだ。
彼の涙が私の中の恐怖を増幅させたから。
遠く、近く、止まない泣き声に囲まれ、私は耳を押さえていた。
魔物などいるはずがない。すべては錯覚なのだ。わかりきった、わかりきっていること。
明日の朝になれば出られるに決まっているし、それまで危険なことなど何も起こらないに決まっている。
そう思えば思うほど『言い聞かせている』という感覚が強まるばかりで、心臓は胸の肉を突き破って飛び出しそうになるほど鼓動を大きく響かせていた。

コン、コン

思わず吸い込んだ空気が喉につぶされて小さな悲鳴をあげた。
誰かがノックした。今、この倉庫を、誰かがノックしたのだ。
声はかからない。声を出さなければ。出さなければ入ってきてしまう。出したら入ってくる?
全身を震わせる私に、恐る恐るといった感じの声がかかった。
「ご、めん…今の、俺だぁ。食べるもの残ってないかと思ってポケット探ったら、床叩いちゃって」
私の頬を涙が伝っていた。
「もう嫌だ、出る。ここから絶対に出る。今すぐ!」
私はがむしゃらに扉に体当たりして、肩が痛むのもかまわず繰り返した。
倉庫は壁ごと揺れて、魔物に襲われたらひとたまりもなさそうだった。
ふと、床を見る。月明かりが窓の形に切り取られて落ちている。
私はすぐさま上を見上げ、小さな窓を目に捕らえた。
狭いところを通るのは慣れている。届いたなら絶対にあそこを通って出てみせる。
問題はどうやって窓に手をかけるかだった。私は背が高い方ではあったが、いかんせん子供の身だ。私がもう二人いて肩車をしてくれたならたどり着けるかもしれないが、一人ではとても無理だ。
とりあえずピアノの上にありとあらゆるものを積み重ねて行く。あと少し、あと少しだけ足りない。
「何してるの?」
私は彼の存在をやっと思い出した。
「あそこから出るんだ。手伝ってくれ。あと少しで届く」
彼の上に乗り、ようやく窓にたどり着く。くるりとガラスを傾けると、風は随分と優しく頬をなでたように感じた。
私は勢いよく上半身を滑り込ませた。
やっと出られる。
魔物から見事逃げ去り、父と母が待つ我が家へと帰るのだ。
心底嬉しかった。
窓枠に手をつき、外壁のでっぱりに腕を伸ばす。
はやる私の前に障害が立ちふさがった。
「俺はぁ、どうやって出ればいい?」
障害以外の何にも見えなかった。
私は自分の肩越しに後ろを振り返り、一瞬だけ迷った。
だがすぐに迷う必要もないことだと思い至った。
「無理だよ、おまえはでぶだから」
でぶ、太っちょと、掛け声のようによく口にした。そのたびに彼は温厚な微笑みで―――
そこにあるのは、すべての感情が抜け落ちたような表情。
からっぽ。
かすかに、ほんのかすかに悲しみのような憤りのような、そういった感じのかけらがほの見えた気がした。しかしそれは私の心が生んだ錯覚だったのかもしれない。そのくらい、何もない表情だった。
彼がその顔を見せたのは一瞬だったが、私ははっきりと悟った。
今まで軽々しくでぶ、でぶと言うたびに、彼が笑顔の奥に様々なものを押し込んできたこと。
彼を置いて逃げるたびに。
今の今まで気づきもしなかった。
彼は私によって傷つくことなどないのだと、彼はいつでも微笑んでいるのが当然なのだと思っていた。
それは、何よりも深い罪のように思えた。
「すぐに大人を呼んでくるから!すぐだから!」
私は必死に叫んで窓から飛び出した。決して振り返らなかったのは、急がねばならないからだと言い訳した。

暗闇の中私の首を絞める腕がある。
急速に遠のけられる意識にすがり付いてうっすらと目を開いた。
彼だ。
私の首を絞めているのは、彼だ。
そんな顔は似合わない。悩みなんて何もないというふうに笑っていてくれなければ。
そうでなければ彼ではない。
だが彼は、ずっとこの顔を隠してきたのだ。
私だ。
責められるべきは、私なのだ。

目が、覚めた。
私はまだ薄暗い辺りを見回し、全身に汗を感じて口を閉じた。
無理やりに引っ込めた荒い息は心臓をますます急がせて、私はベッドに突っ伏した。
あれからこってりと絞られ、温かい飯をたらふく食べて、寝心地のよいベッドに入った。
今のは夢、だがあれは夢ではない。
私は次に彼に会ったときなり振りかまわず謝ろうと決め、実行した。
「俺がでぶなのは本当だぁ、美味いもの食べてると幸せ、俺は幸せだぁ」
彼はそう言って、笑った。

わかるかな?
私が一番恐怖したものは魔物ではない。そんなものはたわいのないものなのだよ。
本当に恐ろしいものは最も近いところに潜んでいる。
そうしてある日突然その恐ろしさに気づくのだ。
ところで、私が何故わざわざこの話を君にしたのか、もうわかったかな?
人は忘れていくものだ。どのようにして取捨選択されていくのか…私の覚えている幼いころの思い出は苦いものばかりだが、甘いものばかりを覚えている者もいる。
君はあの日、心から恐怖を感じ、彼に頭を下げて泣きながら………やがて、忘れた。
人は忘れることのできるものだ。
だが過去が消えたわけではない。
決してない。

君は忘れた。
私は覚えていた。

名前?
ふふ、まだ名前を聞くのかい?
やれやれ、察しの悪いことだね。
それとも往生際が悪いのかな。そろそろ気がついているんだろう?
いくら君がそういったことに長けていても、私は今ここにいて、絶対に君を許しはしない。
あれから父が、母が死に、家がつぶれて、学校からも去り、様々な人間に騙されてここまで来たね。
君はいつもこう言った。

痛くない。
苦しくない。
つらくない。
怖くない。

そして泣かず、うめかず、叫ばずに今まで来たのだ。
すべてを私に押しつけて。
私はいつもこう言った。

痛い。
苦しい。
つらい。
怖い。

上から覆い隠すように君がどれもを否定する。そのたびに私の体を打ちつける杭が増える。
泣き叫ぶのはいつだって私一人だ。
君を殺してやりたいほど憎んでいるよ。
ああ、安心してくれていい。
この手がその首を絞めることもなければ胸を突き刺すこともない。物陰に潜んで君をつけ狙うこともない。
言ったろう?
これを限りに、二度と会わないと。
ふふ、私はただ知ってもらいたいだけなのだよ。
君が何気なく言った言葉がどれだけ私を傷つけたかを。
痛くない?苦しくないだって?
私はこんなにも痛い。苦しい。つらい。怖い。
なのに君は私に気づきもしない。
いや、気づいていたのかな?だが君はいつもと同じようにやりすごした。
君はあらゆる苦渋を乗り越えてここまで来たのではない。
気づかぬふりを、忘れたふりをしてやりすごして来ただけだ。
その皮膚はどれほどに柔らかいのか、私は楽しみでたまらない。
私にとって君はそうではないが、君にとって私ははじめまして。
そしてこれが、私たち二人の別れだ。

さようなら。

もう二度と会うことはないだろう。

私は私を殺す決心をした。
今、この瞬間から、私は存在しなくなる。

すべての苦痛は君の元へ。

やっと届く。

君はもう気づかぬふりも忘れたふりもできない。否応なく痛みが押し寄せるからだ。


私は、私の名は、君。

君がずっと押し殺し続けていた君自身―――。
END.
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