『チャイナ・ガールで大流血☆』

THE ETERNAL RUNAWAY 番外編

 その日、リーファンはミトコーモンという名とコバヤシエイイチローという存在を知った。

『魅惑のプロフィール。小林栄一郎。花も恥じらう23歳。好きなものは事件とムチムチお姉さんとなんといっても水戸黄門!ただいま助さん角さんお銀、さらにうっかり八べぇと風車の弥七も募集中!誰も決まってないんじゃないかとか言う奴はちりめん問屋アタックだ!オレの両脇で決めポーズ取ったり毎回風呂入ったり思う存分うっかりしたくてたまらない奴は今すぐ集結せよ!』

リーファンは自分のデスクに置かれた一枚の紙を手に取り、不審物を検査するように見回した。
「なんですの?コレ…」
周りを見ればオフィスにいる人間すべてが同じように怪訝な顔をしている。
隣で書類に向かっていた同僚のツェンカイがぽつりとつぶやいた。
「今日来るって言ってたICPOのエリート…名前、何だった?」
ツェンカイは驚異的な記憶力で有名な男だ。
車のナンバープレートなど一瞬見ただけで覚えることができる。
その彼が自信なさげに小さな声で尋ねた理由はただ一つ。
認めたく、ないのだ。
リーファンにはその気持ちが痛いほどよくわかった。
答に迷っていると、自分たちの上司が一人の男を連れてオフィスに姿を現した。
元々どこか威張った感じの動作をする人物だったが今日は特にそれが激しい。
どこかの軍隊のように高く手を挙げ、大きく声を張り上げる。

「先日諸君らに伝えておいた、例の国際麻薬密輸組織を追っておられるICPOのコバヤシエイイチロー君である!」

リーファンとツェンカイは苦笑いを浮かべた。
上司の背中から一体どんな人間が出てくるのか。
憧れていた警察官になってまだまもない。
内部事情がうっすらとわかってきて夢と現実のギャップに苦しみながらも、自分たちにとっては雲の上にいるようなICPOの刑事という存在に少なからず期待と尊敬の念を抱いていたのだ。
頼むから裏切らないで欲しい。
と、リーファンは心の中で祈った。
そんなことを思われてるとも知らず、小林栄一郎は無造作に顔を上げて挨拶した。

「ICPOから派遣されました小林栄一郎です。今回の事件に関してみなさんの御協力が得られることを感謝いたします。なにぶん中国は初めてでして失礼なこともあるかもしれませんがどうかよろしくお願いします。」

普通だ。
普通すぎるほど普通だ。
本当に普通だ。
拍子抜けするほど普通だ。
リーファンは胸をなで下ろした。
少しスーツがしわになっていたりネクタイが不格好だったりするのが気になったが、おそらく彼は仕事に熱心で有能な、まさに自分たちがイメージするICPOの刑事なのだろう。
安堵したリーファンの隣でツェンカイはまだ怪訝な表情を崩さなかった。
その手には先ほど目にした一枚の紙がある。
それに気付いた上司がますます声をあげて言った。
「諸君!手元にある書類に目を通していただきたい!それはコバヤシ君がまとめたこの事件に関する詳細なデータである。それを元に我々が捜査にあたるのである!」
オフィス内にどよめきが起こった。
ある者はあからさまに顔をしかめ、ある者は真剣に何度も読み返し、またある者は紙飛行機を折った。
「流石ICPOの敏腕刑事である!みな素晴らしい出来に驚いているようである!」
ところ狭しと飛び交う紙飛行機に気付いているのかいないのか上司は高らかに言い、誉れ高い敏腕刑事の方を見た。

小林栄一郎は抜き足差し足忍び足で今まさにオフィスを脱出しようとしているところだった。

「これはどう見てもふざけた自己紹介にしか見えないんですが。」
ツェンカイが呆れたように言い、手にしている紙を上司に手渡す。
上司はその紙をまんべんなく見回し虫眼鏡まで持ち出して凝視してから叫んだ。
「どういうことかねコバヤシ君!」
小林栄一郎は飛び散るつばきをかわしながら言った。
「いや〜、せっかくの中国だし国際色豊かなお供を探そうかなーなんて思いまして…いいと思いません?助さん角さんが中国語で喋るんですよ!八べぇが中国語でうっかりするんですよ!…どうです?うっかり八べぇおやりになりませんか?あなたなら少しうっかりの修行をしただけですぐうっかり八べぇになれますって!まーさーにうってつけ!」
本人は精一杯ごまをすっているつもりらしいがまったく褒め言葉になっていない。相手が水戸黄門を知らないことが唯一の救いだったが、もちろん上司の怒りが収まるはずもない。
「コバヤシ君!君は一体何をしておるのであるか!このようなことは我々に対する侮辱である!ICPOの刑事とはみなこのようなことをするのであるか!二度としないでくれたまえ!」
超音波のような声に小林栄一郎をのぞくその場にいた全員が耳をふさぐ。
リーファンは当然のことだと思いながらも少しだけ小林栄一郎に同情した。
あれだけ至近距離で騒がれてはさぞや不快だろう。
失礼になると思ってか耳もふさげずにいる。
あのままでは鼓膜が破れてしまうのではないだろうか。
しかし、リーファンの心配は無駄以外の何ものでもなかった。
「うおお!今までになかった反応!まともに怒られてるぞオレ!なんっていい上司なんだ!人智を超えたわけのわからん昔話を長々と聞かせられることもなければ頬が妙な音を立てて伸びることもない!」
そう言って上司の頬を無理矢理ひっぱる。
「これぞまさに理想の上司!」
頬をつかんだまま感激に浸る小林栄一郎の姿は、すでに警察という仕事に期待を抱く若者達の見るに耐えないものになっていた。
リーファンは頭が痛くなった。
その横でツェンカイはすでに興味が失せたとでもいうように違う仕事を片付け始めている。
ようやく頬を離され、上司は大きく息をして「君の上司は一体どのような人物なのであるか。」などとつぶやきながら咳払いをした。
『魅惑の小林栄一郎プロフィール』を差し出して低く告げる。

「我々はICPOではないのだからして、書類を暗号で書かれてもまるでわからないのである!」

オフィスにいた人間は一人残らずため息をついた。
今度は小林栄一郎も例外ではなく、そのため息は誰よりも長く深かった。
「オレの運が悪いのか?それとも世の中の上司はみんなこうなのか?」
答は出なかった。


 嫌な予感はしていた。
リーファンは額に手を当てて目を固く閉じた。
刑事はたいてい二人一組か何人かのグループで行動することになっている。今職場内でそのペアはほとんど自然と決まっていて、まだ固まっていないのは新米の自分たちだけだった。
だからといって一応仮にもICPOの刑事である人間と経験の足りない新人を一緒に行動させることなどないだろうと思っていたのだが、
甘かった……。
上司が栄一郎のペアにリーファンを指名したのである。
リーファンはすぐにピンときた。
新米の中で女性は自分一人だ。
二、三本抜けているとはいえICPOから派遣された刑事。
適当に機嫌をとっておけということだろう。
自分で言うのも何だが、顔もスタイルもいい。
そのことを褒められるのも嫌いではない。
だがこんな扱いは悔しくてたまらなかった。
自分は立派な刑事になりたいのだ。
ホステスになりたいわけではない。
リーファンは沈痛な面持ちで機嫌をとらなければならない相手を見た。
『コバヤシエイイチロー』はリーファンの隣の仮デスクに近郊の地図を広げ、何かを書きながら鼻歌を歌っている。
「Mr.コバヤシ。何をしてますの?」
のんきなその様子に半ば苛立ちながらも尋ねた。
「あー、小林でも栄一郎でも呼び捨てで結構ですよ。むしろ美人には呼び捨てにされたいっ!せっかく中国来たんだしパーッと遊べるところなどをチェックしているところです。」
見れば観光地や繁華街などに赤い印がついている。
リーファンは拳を……繰り出しかけてかろうじて我慢した。
「Mr.コバヤシ!あなた事件を解決しにきたのではありませんのっ?」
そう怒鳴ったとき、オフィスの扉が開かれた。
「コバヤシさーん、書類の印刷完了しましたよ、どうぞ。」
「ああ、どーもありがとうございます。ほい、一冊。」
急に分厚い紙の束を投げ渡され、リーファンは目を丸くした。
その白い表紙には『国際麻薬密輸組織についての資料』と書かれている。
パラパラとめくるとグラフや図表入りで丁寧に細かく書き記されたデータが並んでいる。
作成にも印刷にもずいぶんと時間がかかったであろうそれは、軽く2センチはあった。
「もしかして……印刷が間に合いませんでしたの?」
そうつぶやいて隣を見ると、すでに少し離れたところで一人一人に書類を手渡している。
「まったく訳のわからない人ですわ。」
リーファンが誰にでもなく言うと、
「まったくだ。」
ツェンカイが書類を見ながらそっけなく感嘆した。
書類はわかりやすくそして抜けたところのない、見事な出来だった。


 ちょっとでも見直したのが間違いでしたわ……

リーファンは嘆息した。
その視線の先には敏腕刑事であるはずの小林栄一郎。
そしてその背後にはこれでもかというくらい毒々しいネオンに飾られた歓楽街が映っていた。
「おおっ何故なんだ!何故だかとーんとわからんがこんな楽しそうな場所に来てしまったぁっ!もしや敵の策略!しかし来てしまったもんは仕方ない!虎穴に入らずんば虎児を得ーず!さあ!この辺を遊びある……いや、調査しようかリーファン君!」
わざとらしすぎるくらい爽やかな笑顔の彼の手には蛍光マーカーでチェック済みの観光マップが握られている。
「Mr.コバヤシ……あなた本当にICPOの刑事ですの?」
頼むから違うと言ってほしい。
リーファンの祈りは切実で、そしてもろかった。
「失礼な。ICPO広しといえどもこのオレほど水戸のご老公様素質を持った刑事はいませんぞ。」
リーファンは水戸黄門を知らない。
が、目の前の男が正真正銘ICPOの者だというだけで警官への夢と希望は遙かイスカンダルまでさよならホームランされた気がした。
めまいを感じて数歩後ずさると、妙に栄一郎の視線がからみついた。
「なんですの?」
栄一郎はさらりと言った。
「いやー、見れば見るほど見事なナイスバディ美女だなと。」
リーファンは不覚にも顔が赤くなるのを止められなかった。
脂ぎったおっさんから歯の光る好青年まで。
もうすでに飽きるほど言われ慣れた言葉だった。
そのどれもが容易に見透かせる欲望を孕んでいて、心から喜べたことなど一度もない。
しかし何故か栄一郎の言葉は『素直な感想』とでもいうようにすっきりと耳に届いた。
リーファンは心の中で首を振り、気を取り直そうとするように眼差しを鋭くした。
その顔を栄一郎が凝視する。
「な、なんですの?」
どもるリーファンの手をしっかりと捕らえ、栄一郎はまっすぐ瞳を見つめてくる。
リーファンの心臓が何故か高鳴った。
栄一郎は真剣そのものの表情で言った。

「頼む!リーファン!チャイナドレスを着てくれ!」

リーファン石化。
「やっぱり中国といえばナイスバディのチャイナドレス美人!」
彼女の中に一つの強い衝動が生まれる。
しかし耐えなければならない。

こんな人でも一応ICPOの刑事……
こんな人でも一応ICPOの刑事……
こんな人でも一応ICPOの刑事……

心の声の『こんな人でも』と『一応』が大きくなってしまうのはどうしようもなかったが、リーファンは鋼鉄の忍耐力でかろうじて耐えた。
「……それで……Mr.コバヤシは私にチャイナドレスを着せて一体どうするおつもりですの……?」
震える声を必死に抑えて尋ねると、栄一郎は頭を抱えてうなりだした。
真剣に考えているその様子に、単にチャイナドレスを着た姿を見たかっただけで特には何も考えていなかったのだろうかと眉をひそめる。
そう考えるとリーファンはなんだか栄一郎が子供のようで可愛らしく思えてきた。
が、しかし。
うめき声に混じってかすかなつぶやきが聞こえてくる。
「チャイナドレス美人なぁ……そりゃもうあんなこともこんなこともしたいけど一番っつったらなぁ……。」
栄一郎は自分の顎をさすりながらうんうんとうなずき、やがて一つの結論を導き出した。

「……スカートめくり?」

もはや限界だった。
鋼鉄の忍耐力はリーファン自身の拳によって粉砕された。
鼻の下を伸ばしてチャイナドレスへの夢を語る栄一郎ににじり寄り、神速で足技を繰り出した。

「天誅!」

リーファンに躊躇はなかった。
その容赦のない速さは確実に首の骨を狙っている。

殺られる……!

受け止めようとしたら骨ごと断たれるようなスピードと切れ。
栄一郎はとにかく避けようと姿勢を低くして前へ飛ぼうとしたが、リーファンの前には亀の歩み同然だった。

ゴキッ

鈍い音がした。
リーファンは数回瞬きしてすぐにそれに目をやった。
栄一郎は瀕死のゴキブリのように手足をばたつかせている。
リーファンは驚きに目を見張った。
何に驚いたのか。
もちろん栄一郎が生きていることにも驚いたのだが、それよりも……

「なんて気持ちいいんですの。」

栄一郎は青ざめた。
瀕死の状態で元々血の気は引いていたのがさらに青く染まった。
そして彼は瞬時に悟った。
次は赤く染まる番だということを。
「Mr.コバヤシ、ちょっと失礼いたしますわ。」
栄一郎は涙目で首を左右に振ったがリーファンはすでに違う世界へ旅立っている。
今までストレスをためまくっていたせいか理性のたがが外れやすくなっているようだ。
繁華街に凄まじい悲鳴が響いた。

「やって……しまいましたわ…ICPOの方を……私…ど、どうしたらいいんですの。仕方ありませんわ…。何故かMr.コバヤシに技をかけたとき今までにない爽快感が襲ったんですもの…。あらゆる技を試したのにまだ生きてらっしゃるし…なんだか運命のサンドバックに巡り会えたような…ああ、いけませんわ。仮にも一応ICPOの…」
リーファンは魂の抜けかけた栄一郎の体を道端に寝そべらせ、なんだか危険なことをつぶやきながら途方に暮れていた。
行き交う人々はみな触らぬ神に祟りなしと見て見ぬふりをしている。
私服警官にあるまじきことに、かなり怪しく目立っていた。
リーファンはため息をついた。
こんなはずではなかったのだ。
警察官になったら犯人逮捕に全力を注ぎ、人々の安全な生活を影から支えるのだと、そんな立派な人間になりたいと心から思っていた。
なのに実際になってみればお茶くみや書類整理ばかりをやらされ、犯人ではなくセクハラと戦う日々。仲間を逮捕してやりたいと思うくらいだ。
事件だって「正義」だけでは取り締まれないことを知った。圧力はかかるわ管轄の違いでいざこざが起こるわあげるときりがない。職場になじめばなじむほどやりきれない思いをしなければならなかった。
そしてそれはまだ氷山の一角を見ただけにすぎないのだろう。
夢が叶ったと思った日から毎日少しずつ夢を壊されていく。
栄一郎の目が開いたら必死に平謝りしなければならない。
悪いのは自分だけではないが相手はICPOの人間なのだから。
中国の株をあげるために上司が自分とパートナーを組ませたのだから。
わかってはいても、なんだかひどくやるせなかった。

「はっ!……夢か。なんだかこの世のものではないような美しい花畑と清らかな小川を見たような気がしたんだが…畜生もったいないことした!川で釣れた八べぇに金の印籠と銀の印籠どちらを落としたのか聞かれて正直に言ったのがまずかった。嘘をつけば向こう岸で黄門様に会えてたかもしれないのにっ!」
リーファンが思い悩んでいるうちにとうとう栄一郎の目が覚めてしまった。
何やら苦悩している様子だったが、かろうじて、一応は、百歩譲って、正気を失っていないようである。
リーファンは謝らなければと、しかし一体どのようにして謝るべきなのかと躊躇した。
その隙に栄一郎に両手を握られた。
リーファンの体がこわばる。
栄一郎の目は鋭い。

「リーファン、オレのお銀になってくれ!」

リーファンは目を瞬いた。
てっきり叱責を受けるのだと思っていたのだ。

おぎん?おぎんって何ですの?
でも…ああ、なんだか今までと違ってずいぶん真剣な顔をされておられますわ。引き締まったお顔をされるとほんのちょっと素敵かもしれませんわね。って、そんなことありませんわ!気の迷いですわ!
そうではなくて、これってまるでプロポーズみたいではありませんの。
ええっ!ちょ、ちょっとお待ちになって。まさかこのことは上司には黙っておくから結婚してくれと言っておられますの?「おぎん」とは日本で妻を表す言葉ですの?
そんな…私…そんな…

「冗談じゃありませんわーーーーーーーーーっ!」

リーファンの頭はめまぐるしく回転した。そして結論を導き出す…と同時に凄まじいまでの速さで右腕が動いていた。

アッパーカットォ!

とってもジャストミートな感じの音を聞いてリーファンが正気に戻る。
顔色は蒼白だ。
「ま、またやってしまいましたの私…確かに気は短い方ですけれど普段はこんなことありませんのに…Mr.コバヤシが、Mr.コバヤシが、あんまり殴り心地が良すぎるからいけないんですわぁぁぁぁぁっ!」
リーファンは涙に泣き濡れて走り去った。
今度会うとき何を言われるか…という考えもよぎったが、このままでは栄一郎を完全に亡き者にしてしまう。
彼の命を守るためにはそうするしかなかったのだ。
栄一郎は薄れゆく意識の中で今度こそ黄門様に会うのだと握り拳で誓っていた。


 その日、リーファンはコバヤシエイイチローという名のサンドバックと運命的な出会いを果たした。

何はともあれこれが、正真正銘、二人の初めての出会いである。

事件が解決したとき栄一郎の命はあるのかないのか、それは神とリーファンの自制心のみぞ知る。
続く。
HOME