『天地神明』

 西暦二XXX年。
 人類が地球に仕掛けた数々の爆破装置はすでに秒読みを開始していた。
 鳥は落ち、魚は浮き、獣は果てた。大気も水も、厳めしい装置を通してでしか得ることはできない。
 まもなく地球は死の星と化す。
 人々はその瞳に終焉を映しながら、未だ地球を離れることができずにいた。
 繰り返される宇宙開発。次々と飛び立つ宇宙飛行士。何一つ実を結ばなかった。
 宇宙は来客をもてなしはしたが、決して受け入れようとはしなかった。
 情熱と欲望と懇願と……あたら若い命を、ただ呑み込んでいく。
 やがて自らが眠りにつく墓土の上、はるか遠いそらを見つめたまま――人々は。

 今こそ神を呼び始めた。


第一章 斎姫


 少女がいた。
 ぬばたまの闇の中、白皙の美貌と純白の千早が蒼く浮かび上がる。天空の輝きをすべて吸い寄せ輝く月の下、その両腕がわずかに持ち上げられた。

 「どうか――お願いです」

 声は凛とした響きを持ちながら、かすかに語尾を震わせた。
「……忘れないでください。あなた方は、すでに赦されているということを。人はみな、――いいえ、生きとし生けるもの、すべての命が、等しく慈しまれているのです。……例えどれほどに重い罪を負っていようとも」
 音一つない夜。人々は懸命に耳を澄ませる。少女のまとう高貴でいて優しさに満ちた輝きを、一心に求めて首を伸ばす。
 「忘れないでください。あなた方はみな母の胎から生まれた。母の御胸にて育まれ――、やがては御元へと還るのです。我らが母、この大地は――すべてを包み、癒し、浄めてくださいます。あなた方は、わたくしたちは赦されている。愛されている。どうか――どうか、……忘れないでください」
 言霊。祈るように、憂うように、すべてを賭けて紡がれた言葉。
 目も耳も離すことができない。心の襞という襞をそっとなでられていく。
 少女が胸の前で指を組み合わせ、瞳を閉じて天を仰ぐ。
 人々は虚をつかれたようにびくりと肩を揺らした。

 「未来をさしあげます」

 少女のまぶたが持ち上がり、腕がまっすぐにおろされる。貫いていく重々しい沈黙を、淡い吐息が押さえ込む。
「この度の宇宙開発計画は、……またも、成功しないでしょう」
 人々はぶるぶると震えながら、半ば呆然と鋭利な月を仰いでいた。
「人の手によってつくられた大地が人の分を越えることなどあり得ません。大地は、――母は、この地球……ただ一つ。宇宙は人を育まない。いかな命も、一人では生きていけないのです。人だけが空へ飛び立ったとしても、人にのみ都合の良い命だけを連れ立っても。生の営みはそのように単純なものではありません。……これは予言であり、真理」
 ああ、――美しい。なんて美しいのだろう。黒々としたスモッグからのぞくあの月光。照らされる巫女。
 「どうか――思い出してください。自らの深淵に眠る遠い記憶を。あなた方ははるか昔、緑に囲まれ、多くの生物と共に暮らし、そこに安らぎを得る人々でした……」
 紡ぎ出される一つ一つの言葉は、神の御意志に他ならない。
「土を、愛してください。あなた方を生み育てたこの大地を忘れないで。逃げないで。立ち向かうことは、できるはずです。すべては移りゆく。過ちは赦される。地球はまだ死んではいない。あなた方を――赦しているのだから」
 夜が沈みゆく。少女の纏う緋袴が闇に黒ずむ。上体だけが白くまぶしく、輝いて。
 静まりかえった人々の中、たった一つ、かすれた声が響き渡る。

「……嘘だ。地球が俺たちを愛しているなんて、俺たちが愛されているなんて嘘っぱちだ! だったらどうして……っ、どうしてこんなに苦しまなきゃならないんだ……っ!」

 消えそうなほど小さなつぶやきのはずだったが、張りつめた空気は声の主をはっきりと浮かび上がらせた。
 人々は息を呑む。
 少女が祭壇を降りてくる。護衛が止めるのを制し、しずしずと。ゆっくりと、ゆっくりと、一人の男の前に立ち、人々と同じように膝を折った。
「わたくしどもにあなた様の苦しみを除くことはできません。我らが母にもそれはできないのです。……神を人の枠にはめるなど栓のないこと。大地のもたらす愛は……土を耕し、作物を授かり、それが血となり肉となりてこの身を作る。死して後、躯は土へと還り、命を育み、回帰していく。生かし、生かされている事実の中で、ただ理として感じ取るもの。この循環から外れることはありえない、それこそが赦されているという証なのです。あなた様の苦しみはあなた様の御力で越えていくしかありません。わたくしどもは神の赦しが伝わりますようできうる限りのことを為すだけ――。あなた様が救われることを心よりお祈りしております」
 少女が床に手をついて一礼する。床ばかりを見つめていた男は慌てたように顔を上げ、すぐに背けて、苦々しく言葉を吐いた。
「俺たちが食べているものなんて成長促進処理されたクローン動物や原子合成の植物ばかりじゃないか。……もう空気だってそのままのものは吸えないっていうのに! 一体どこにそんなことが感じられるっていうんだっ? これで循環から外れてないなんて――」
 少女は華やかに微笑んだ。
「わたくし、宮の中庭で十年前から菜園をいたしております。あまり量は採れないのですが、とても美味しいものができます。一度他の方にも召し上がっていただきたいと思っておりました。是非お持ち帰りください。……大地は冒され、本来の姿を忘れつつあります。ですが、まだまだわたくしたちとの繋がりは断たれておりません。互いに、……生きているのですから」
 男はもはや、声もなかった。


 静香は肺の力を抜き、まどろむようにして座椅子にもたれた。はっと気がついて姿勢を正す。
 部屋には自分と護り役の鏡子しかいない。人目を気にする必要はないのだが、この身は巫女なのだ。斎女なのだ。人々はこの口から出た言葉を神の教えとして受け止める。普段からきっちり自覚して自身を制しておかねば。誰も見ていないからといってだらしのない所作をするわけにはいかないのだ。
 とは思うのだが、どうにも気持ちがよくてついつい力が抜けてしまう。
 鏡子に髪を梳いてもらう、ただそれだけの時間を、静香はこよなく愛していた。
 背後から丁寧に、丹念にくしけずられていく髪の一筋一筋が、大切に扱われた分だけそれに応えるように、さわさわと心地よさを伝えていく。自分のすべてを預けるような快感。預けられる相手がそばにいてくれるという幸福感。穏やかな喜びに浸かりながら、うっとりと目を閉じる。
 しかし、ふと先刻のことが脳裏に浮かぶ。静香はわずかに眉を寄せた。
 「……どこか引っ張ってしまいましたか?」
すぐさま気づいて反応を返す声に、慌てて両手をついて向き直る。
「そんなことないっ! ごめんなさい。違うの! そうじゃなくて……」
 鏡子は憂えた顔をしている。静香は見ているだけで苦しくなって、うつむいて袴をきゅっと握った。
「私、ちゃんとできていた? ……さっき、あの男の人に、巫女らしく、ちゃんと向かい合えていた?」
 鏡子は鷹揚にうなずいて、静香の肩にそっと触れた。
「もちろんでございますとも」
「……本当に?」
「わたくしが静香様に嘘を申すと?」
「違うっ! そんなこと絶対思ってない! ごめんなさいっ、私、さっきから浅慮な言動ばかり……」
 力の限り否定し後悔する様子に唇をたゆませ、静香を鏡台に向かい合わせる。鏡子は再びくしを進めた。
「いいえ。申し訳ございません。揶揄するような真似をいたしました。わたくしの方こそ、静香様がわたくしをお疑いになるなどとは、露ほども考えておりません。疑心ではなく不安であることはようく存じ上げております。……ですが、まったくの杞憂であることを知る身としては、少々歯がゆく感じてしまうのでございます」
「杞憂……?」
「ええ、まったくの」
 鏡子は流れる黒髪からくしを離し、代わりに指を差し入れた。滑らかな手触りがすんなりと押し流そうとする。指を曲げてなんとか手中に捕らえ、ほうっと息をつき、そっと唇を押し当てた。
「……月明かりに照らし出された静香様の御姿、息が止まるほど美しく、清らかで。御言葉の隅々にまで心を尽くされているのがはっきりと感じられ、わたくしなどは感動に打ち震えるばかりでございました。……静香様はまことに素晴らしい方。あのようなねじくれた男にも、もったいないほど優しい言葉をおかけになって……」
 その姿は静香の影に隠され、鏡には映らない。鏡の中の静香はますます顔を曇らせた。
「『ねじくれた』、なんて……あの人の気持ちはとてもよくわかるわ。……もう少しいい言葉があったんじゃないかしら? せめて、せめて言葉くらい、何よりも力になれるものを贈りたい。……人々に力を与える振る舞い方、話し方。どれだけちゃんとやっても、全然たりていない気がする。……鏡子さんは私のことを綺麗だって言ってくれる。でも私は鏡子さんの方が断然綺麗だと思う。私なんて頼りない小娘にしか見えないもの。もしも私が鏡子さんみたいに美人だったら……もうあとほんのわずかばかりでも、あの人の心を軽くすることができたのかな……?」
 口付けた黒髪に頬を寄せ、鏡子ははっきりと首を振った。
「静香様は未だに御自分を理解していらっしゃらない。そのように卑下されることなど何もないのです。人々は静香様の御姿や御言葉のみに感動するのではありません。何よりもその御心に心癒され、赦されるのです」
 静香はうつむいて唇を噛む。
 鏡の中の自分は両の眉をだらしなく垂れていて、威厳のかけらさえもない。丸みのある頬のラインが頼りなさを倍増させる。年相応と言えばその通りなのかもしれないが、静香には自分の薄弱な内面が表面化しているようにしか見えなかった。その点鏡子はシャープな美貌で、まるで戦国時代の姫御前のような迫力と清廉さを兼ね備えている。
 外見は内面を映すものだ。鏡子の言葉にはいつだって迷いがない。
「素晴らしい御方なんかじゃない。私はそんな……」
 静香はそれ以上何と言ったらいいのかわからなくなる。
 力なく落とされた肩から指を滑らせ、鏡子は静香の頭を抱きかかえた。
「そのように思い悩まれますな。静香様が悲しい面持ちでいらっしゃると、わたくし、あの男を憎んでも憎みたりなくなってしまいます……」
「私は……。鏡子さん、ごめんなさい。今だけ甘えさせてもらっていい? ……どうしたらいいのかな。鏡子さんは知らないんだよ。私……素晴らしい御方なんかじゃない、違う、違うの……」
 静香はまぶたを閉じてうつむき、鎖骨の上にある鏡子の腕にそっと指を置く。
 自分を抱きしめてくれる人はここには鏡子だけだ。もう一人、頼めば了承するだろう人物もいるにはいるが、やはり同姓相手の方が心が落ち着く。
 すべてを預かり、髪を整え、この身を抱きしめてくれる鏡子。けれど自分は――決してすべてを預けてはならない。そうまでしても『素晴らしい方』と思われねばならないのだ。
 胸が張り裂けそうな罪悪感を必死に押しつぶす。鏡子の腕に爪が食い込みそうになり、「もういい」と首を振ったが、鏡子は腕を解かなかった。
 それがとても嬉しくて。
 胸のしこりが和らぎ心が落ち着きを取り戻してきた頃、障子の向こうから声がかかった。

「申し上げます。ミコト様がお越しになりました」

「お兄様がっ?」
思わず声を上げてから慌てて両手で口を押さえる。それでも我慢しきれずに、鏡の中の鏡子に問いかけた。
「私、どこもおかしくないっ? 髪まとめるの、時間かかりそうっ?」
 もっと毅然と、いついかなるときも冷静な態度でいなければ巫女らしくない。ピンクに染まった頬よ鎮まれ、ゴムまりのように弾む声よ落ち着くがいい。
 自制心が頭の片隅で騒ぎ立てたが、あっという間にはるか彼方、見えない場所へと飛んでいってしまった。
 鏡子はやおら腕を解き、いささかの動揺もない微笑を見せる。
「静香様は常にお美しゅうございますから。髪も、このようにつややかでは時間などかかろうはずもございません。少々お待ちください。檀紙と水引を……はい、よろしゅうございますよ」
「ありがとう!」
 さっきまでの曇り顔はどこへやら、静香はまぶしいほどの笑顔を浮かべ、今にも障子を開け放って走り出したそうにしている。鏡子はさらに笑みを深めて、流れるような動作で障子を開けた。
「参りましょう」
 静香の手を取ろうとした鏡子を、障子の前で控えていた少年が制止した。
「姉上、ミコト様は護衛は必要ないと仰せです」
 微笑はすっと影を潜める。
「……草太、静香様は大切な御方。護り役は静香様を護るためのもの。控えであるおまえはともかく、この私が静香様のおそばにいるのは当然のこと」
「しかしミコト様は静香様と水入らずの時間をお過ごしになりたいと仰せで、……もしもこのビルに賊が忍び込んだとして、最上階にまでたどり着くのは容易ではありませんし……」
「可能性があるからこそ私がいるのだ。先ほどの信者の中に刺客がいないとも限らぬ。いや、私が刺客を送るなら必ず利用しよう。もしも監視の目を逃れ、今も潜んでいるとすれば?」
「しかし姉上」
「その口、繰り言を紡ぐしか能がないとみた。静香様のお役には立たぬ。即刻捨ててくるがいい」
 急速に温度を下げていく空気に、静香はたまらず割って入った。
「鏡子さん、草太さんもやめて! ミコトお兄様がおっしゃったのならそうします! 鏡子さん、ごめんなさい。……私もミコトお兄様と二人っきりでお話したいこともあるし……あの……あのね……」
 次第に言葉に困ってしまう。
 静香がいたたまれなくなる寸前、鏡子はにっこりとした微笑を取り戻し、恭しく頭を下げた。
「……静香様、申し訳ございません。静香様を煩わせるつもりなど毛頭ございません。どうかお許しください」
 静香も慌てて頭を下げる。
「いいの。私もごめんね鏡子さん。……本当に、ごめんなさい」
「いえ。どうかわたくしなどのためにそのように御心を悩ませないでくださいませ。……草太、おまえも静香様に謝罪を」
「はい。まことに申し訳ございません」
「ううん、草太さんもごめんなさい。私のせいで鏡子さんと……その、仲が悪くなっちゃったりしないでね」
 草太はわずかに眉を垂れた。


 静香の暮らす(つち)の宮は四十階建てビルの最上階にある。三十九階までは様々な人間が様々に働いているが、最上階は中央の集会場を除き、限られた人間がそれぞれに許された範囲でしか出入りできない。賄い役などの世話係たち、数え切れないほどの警護連中。その中でも地の宮に入ることのできる人員はほんの数人。必要に応じて用意される指南役などは一定期間が過ぎればすぐに入れ替えられたため、実質的にはただ三人のみということになる。
 我妻鏡子、我妻草太。――鳴神ミコト。
 ミコトの叔父に引き取られてからの十年間、静香は最上階から出たことがない。護り役の二人以外には話す相手を持たず、義理の両親に会うこともなく、定められた装束を纏い、定められた生活をして、定められた学を修めた。
 時には『神』であり、あるいは『母』であり、『大地』、『ガイア』、すなわち『地球』――と、名を持たぬ神の名を繰り返し唱えて過ごす日々。
 数年前から始められた『集会』は様々な人々の顔を見られて楽しくはあったが、それは『人と人との出会い』と呼べるような接触ではない。静香は巫女姫であり、預言者であり、人々は信者だった。神を、静香を信じる者。鏡子や草太との関係とは違う。ましてやミコトとは――比ぶべくもない。

 にんじん、タマネギ、じゃがいも、トマト、かぼちゃ、等々、少量ではあるが種々の野菜が育つ畑の脇にミコトはいた。いついかなるときもスーツと眼鏡着用の彼にはそぐわない場所だ。
 静香はなんとなくおかしくなって吐息で笑う。
 草太が控えめに低頭して下がっていく様子が視界の端に映ったが、一言「ありがとう」と声をかける時間さえも惜しかった。

「お兄様!」
「久しぶり、静香」

 二人は同時に両腕を開き、静香はまるで重力に対して水平に落下したかのようにミコトの胸に飛びついた。
「お兄様、お会いしたかった! 今回は一体何分こちらにいてくださるの? 十分? 二十分? 三十分? 一分、一秒でもいい! お兄様に会えるなら!」
 ぎゅうぎゅうにしがみつかれ、ミコトは苦笑しながら静香の肩を抱く。
「どうしたんですか? 今日の静香はいつにもまして寂しがり屋ですね。もしかして先程のことを気にしている……?」
「……見てらしたの……?」
 静香はこわごわと顔を上げる。スーツの背中にすがる手が震えた。もしもミコトの目に落胆や憤慨の色があれば心臓が止まってしまうかもしれない。
 祈りながら確かめ、ミコトの顔に常と変わらず穏やかな表情が浮かんでいるのを認めると、全身の力がへなへなと抜け落ちていくのがわかった。
「ここに来るまでの間に中継をね。……そんなに私の反応をうかがう必要はありませんよ。静香の考えそうなことはだいたいわかりますが。……ああいった場合の対応は本当にあれでよかったのかと気に病んでいる。違いますか?」
「ううん、そう、なんだけど……」
 ミコトの顔に微笑が広がる。
「大丈夫。静香は充分よくやっています。いや、違うな。この上ないほど上手く、私の期待に応えてくれています」
 優しい笑顔。暖かい胸。気づかいに満ちた腕。心地よいぬくもり。
「……ありがとう、お兄様。……嬉しい」
 静香は同じような笑顔を返そうとして、どうしてもそうできなかった。
「鏡子さんもね、心配することないって、言ってくれました。それで、私のこと、『素晴らしい方』って、言うんです。……お兄様、私は本当に人々を救えているの? あんな言葉一つで。たったそれだけで。こんな私が誰かを救えるだなんて、救おうだなんて、あまりにおこがましいのに! ……いつか、きっと……きっと!」
 力いっぱいすがりつく。煩わしいと思われるのを恐れて胸に封じ込めていた不安が堰を切ってあふれ出す。頬を伝う涙も、立つことさえおぼつかなくなった両足も、静香にはもはやどうしようもないことだった。
「……静香、落ち着いて。神を人の枠にはめてはならないと教えましたね? 神はただ、『在る』だけのもの。かの愛はただ『在る』ことだけ。救いにはなるが救いではない。救いは人の心にこそあるのです。『救いたい』と願ったならば、それこそが資格。無力を言い訳に傍観することこそ最も罪深いことですよ。……君は何も悪くない。おこがましいというなら誰よりもおこがましいのはほら、この私ですから。大丈夫。……おまえは何も悪くない。罪も罰もすべては私の元へ。だから、笑ってくれませんか。大切なこの時間をおまえの涙を見て過ごすのはとても……切ない、のでね」
「お兄様……」
 触れ合った箇所のぬくもりがいっそう涙腺を緩くする。しかしその涙は安心からもたらされるものへと変わっていた。そのことを早く伝えなければと思いつつ、もうしばらく抱きしめて、頭をなでていてほしいと思う。静香は鼻の頭を固い胸に埋めたまま、ちろっとミコトを見上げた。
「あの……」
「静香?」
「あのね、……すごく、すごくすごくすごくすごく……大好き」
「……ありがとう」
 少々気恥ずかしかったがミコトがそう言って笑ってくれたので、静香はようやく満面の笑みを向けることができた。
「お兄様ほど人々を救いたいと思ってる人いない。そしてその通り頑張ってる人って、絶対いないっ! だからお兄様は何も悪くない。もしも罪に問われるようなことがあっても……私だけは、お兄様が間違ってないって、知ってるわ。だから私も罰を受ける。でね、絶対の絶対にお兄様を助けてみせるの!」
 ミコトは小さく吹き出して、息を弾ませて笑い出した。
「……静香は本当に可愛らしい。おまえに出会えたのは私の人生最大の幸運だよ」
 静香は目をぱちくりした。そんなにうけるとは思わなかったのだ。自分としてはかなり、いや、まったくの真剣だったのだけれど。
 笑声はすぐにやみ、静香の体が引きはがされる。ミコトは途端に真顔になって、ぼうっとする静香の頬をなぞった。
「……あれほど幼かったおまえも今年で十六になるね。……約束を覚えていますか?」
 静香の鼓動が飛び跳ねる。
 ミコトの意に添うように、期待に応えるために、様々な努力をしてきた静香だったが、それらはすべて求められたのではなく自発的にやっていたことだ。
 約束といえば、一つしかない。
「十六になったら……お兄様と……」
 しかしそれは幼い頃の自分とまだ学生だった義従兄が交わした、今となっては冗談のようなもの。『大人』には笑い飛ばされるようなもの。てっきりミコトもそのつもりで、もう忘れているのだろうと思っていた。
 静香はミコトの靴を見つめる。昔の恥を笑うような空気ではないと思うが、酸素が脳細胞まで届かない。
「……私と?」
 続きを促されても声が出ない。口を開いても息ができない。地面がぐにゃぐにゃとうねり出す。よろめいてすがりついた拍子にぽろりと出た。
「けっ……こん、するっ……って」
 静香は固く目を瞑った。頭上でミコトが息を吐く。
「……よかった。忘れているかと思いました」
「お兄様こそっ! 私のこと……義従妹としか思ってないんだと……そう、思って……」
 唯一会いに来てくれる義理の身内。整った顔立ち、丁寧な物腰、穏やかな気性の、優しい義従兄。自分にとってはただ一人、裏も表も、小さな秘密もない相手。さほどないはずの年の差を三倍にも四倍にも感じるたびに己の幼さを疎み、並んで遜色ない女性になることを夢見た。
 それが。自分はまだ嫌になるほど幼いまま。ちっとも理想を実現できていない。なのに。
「静香がこんなにも綺麗になってしまうものだから、兄らしくあろうとするのは大変でしたよ」
「そ、れは……うそ、です」
 嬉しいはずの言葉にも喜びより先にとまどいがくる。静香は顔を上げることができなかった。
「やれやれ、信用ありませんね」
 ミコトはわずかに口の端を歪めると、再び静香を腕に収めた。静香はふっと顔を上げる。
 瞬きもしない間に唇が重なった。
「昔から、私にはおまえしか考えられない。……結婚してください。君が十六になるその日に」
「……たん、じょ……び、に……?」
 静香は二、三度舌を噛みながらもなんとか口にしたが、一体何を言おうとして口がもごついたのかはまったくわかっていなかった。
 ミコトがすべてを見透かしたかのように微笑する。
「……そう。十二月二十五日。半年も待てるか自信はありませんが」
「あ……の……おに、お兄さ……」
「静香、そう男心をもてあそばないで。……返事は?」

返事は?

「……はい」

 まるで夢の中で溺れているようだ。
 静香は口をうっすら開いては閉じる動きを繰り返し、うつろだった瞳に光を取り戻すとすぐに両手で顔を覆った。


 「……私、ミコトお兄様にプロポーズされちゃった。あのお兄様に……こんな私が……」
 静香はミコトが去った後の畑に一人立ちつくしていた。
 ほどなく草太がやってくる。それまでの短い間、自分の心だけを見つめていたい。
 鏡子、草太、二人の護り役と顔の見えない世話係。『巫女』を求める無数の信者。自分を取り巻く環境は何かが歪んでいるのではないのかと、近頃たびたびそう思うようになった。
 何かひどい誤解を受けているような。
 鏡子はともかく、ミコトまでもが静香自身の目に映らない素晴らしい美点があるかのようにほめそやす。
 どう考えても自分はそれほどほめられた人間ではない。間違っても結婚など申し込まれるような人間ではないのに。
「どうして私なの? ……救おうとする意志はあるわ。お兄様のためを置いても。苦しむ人を見るのは痛いもの。でも素晴らしい人間なんかじゃない。誰が誤解してもお兄様だけはわかってるはずなのに! どうしてなの……? 怖い。誰か本当のことを見て。本当の私の、本当のことを教えて。……お願い」
 天窓からの月明かりが静香を照らす。うつむけば足下を緑が照らす。すべてを見つめるそらとこの手で育む命。どちらも答を知っているだろうにどちらも答をくれはしない。
 膝を抱えてうずくまる。袴の裾と袂が土に汚れる。
 十二月二十五日が、いつまでもこなければいい。
 ミコトのことを想うがゆえに、何度も強くそう願った。

 「……静香様」

「……草太さん」
「申し訳ございません。その……、静香様をお護りするのが自分の役目ですので、いかに宮の中庭とはいえ、いつまでもお一人にしておくわけにはいかないのです……」
 腰をかがめて言いにくそうにしている草太に苦笑を返す。思ったより長く考えに没頭できたのだ。草太が気をつかってくれたに違いない。
「わかってます。私こそごめんなさい」
 静香はすぐに立ち上がり、これ以上困らせまいと足を踏み出した。が、そっと右腕をつかまれる。
「いえ、違うのです。その……静香様の独白が聞こえてしまいましたので」
 静香の頬に朱が走る。草太は慌ててひざまずいた。
「静香様を辱めようというのではありません! 話を聞いていただきたいのです」
 草太はおずおずと顔を上げ、静香を落ち着かせようとするように、一つうなずいてから話し出した。
「……私は未だ学生の身でありますので、本来のお役目の多くを姉に任せ、外で勉学に励ませていただいております。しかし私も姉も最初は静香様と御同様に宮の中で学ぶ予定だったようなのです。それが正規の学校に通うこととなったのは……外の世界から静香様をお護りする我々が、『外』を知らないようでは話にならないからです。しかし静香様は外の世界をほとんどご存じない。そのように育てられた御方です。ですから……その、無礼を承知で申し上げますが……静香様の素晴らしさは、無垢なる点にある……のではないかと」
「……無垢?」
 静香は首を傾げた。聞き慣れない言葉だった。
「穢れないということです」
 草太の短い補足に、なんとなく意味を知る。草太が何を言いたいのかもわかってきた。
「……おそらくは、無知ゆえに?」
「……はっ、申し訳……」
「かまいません。むしろお礼を言うべきことだわ」
 外の世界。ミコトの叔父に引き取られる前の記憶は静香の中にほとんど残っていない。ただ――父親、のような人間が、毎日のように自分を殴っていた――ような、あやふやな断片がふわふわとさまよっている。今となっては夢の中のできごとのようだ。
 六歳のとき、この宮で暮らすようになってからの記憶には、穏やかなもの、嬉しいもの、楽しいもの、幸せなものばかりが思い浮かぶ。勉強がつらかったとか、ミコトがなかなか来てくれず悲しかったとかいう記憶もあるが、鏡子と草太とミコトの笑顔にみるみる覆い隠されていく。
 きっとあの頃も今も、たくさんのものに守られて生きているのだと静香は思う。
 その中の一つが『この階から出ないこと』に違いない。ここには自分を責める人は一人としていないから。
 今日の集会で初めて自分の言葉を「嘘だ」となじる人がいて、本当はどうすればいいのかまったくわからず内心パニックに陥っていた。口が頭を通さず勝手にしゃべり出したので、悲鳴を上げてしまいたいくらいだったのだ。
 外に出ればもっと色々な意見を持った様々な人々がいるに違いない。そうした中で揉まれたことのない自分は、さぞ物知らずであることだろう。
 考えればわかることなのに、思いつきもしなかった。そうした思考の幅さえも、他人様に比べて随分と狭いのかもしれない。
「……本当に、ありがとう。お兄様も鏡子さんも言ってくれなかったことを――草太さんが教えてくれたんだわ」
 急に目の前が開けたような感覚に、静香は目眩を感じずにはいられなかった。
 おそらくはミコトも鏡子も、『言わない』のではなく、『隠して』いたのだ。

 ――私がここから出たら困るから――。『無垢』でなければ、困るから――?

「静香様、しかしそれは稀有な素晴らしさなのです。姉が申しております通り、静香様はまことに素晴らしい方なのです。ただ私は……温室の中で見守られる花が極寒の僻地では一日ともたないような、危うい美しさではないかと感じてしまう。静香様がお望みなら草太はいかなることでもいたしましょう。ですから、どうか、思い詰めるようなことだけはなさらないでください。私も姉も、もちろんミコト様も、静香様を心より大切に思っておりますれば……」
「……変わらなければ、いいのね」
「は?」
 草太は思わずまじまじと見てしまった。立っている静香に対してひざまずいたままなので表情はうかがいづらい。それでも静香の受けた衝撃は小さくないのだと、充分すぎるほど伝わってくる。
 再び弁明しようと息を吸えば、静香もさっと膝を折り曲げ、まっすぐに目と目を合わせて口を開いた。
「『穢れない』ってどういうことかよくわからないけれど、お兄様や鏡子さんが私に無垢であることを求め、今の私にそれが備わっているというのなら。……何があろうと、どんな目に遭おうと、無垢であり続ければいい。……そうすればきっと、私は私を認めてあげられる。……そういうことでしょう?」
「静香様……」
 静香の眼差しは強い。彼女はもう決意したのだ。
「草太さん、やっかいなお願いごとをさせてください。どうか私に……嘘偽りない外の世界を見せてください。お願いします……」
 草太は深々と礼をして、一言「承知いたしました」とだけ告げた。胸中では不安が渦巻いていたが、もしかしたら本当に何があろうと、どんな目に遭おうと変わらずにいてくれるのではないかと、小さな期待を消すこともできないのだった。


第二章 ゲーム


 武器は一本のカッターナイフ。防具はブレザーの制服と、学校指定、白のハイッソクスに革の靴。伝説の鎧も防弾チョッキさえもなく。鞄の中にはセロハンテープ。いざというとき相手の動きを封じるのに使えるかもしれないから。ただしまだ一度も試してみたことはない。
 絶対に必要なのは獲物の行動と監視カメラの位置を把握すること。人通りの多い場所には必ずカメラが仕掛けてある。警察に捕まったら一巻の終わり。獲物がカメラのない場所を通る時間帯をチェックしておかねばならない。
 あとは、返り討ちにあわないことが何より大事。
 そして期限は――一週間。


 殺しますか? 殺されますか?


 敵は『ワイルド・パラサイト』。地球に巣くう害虫ども。


 Kは自分の状態を正確に把握し終えると、前方から向かってくる獲物の顔を確かめた。司令書は指示通りに燃やしてしまったが、写真の顔ははっきりと覚えている。何せ間違えれば人間を殺してしまうことになるのだ。嫌でも覚えるというものだ。
 獲物はヒールの音を響かせて小さめの歩幅で向かってくる。スリットの浅いタイトスカートをはいているため、それ以上は足を開けないのだろう。動きを封じるのは簡単そうだ。
 問題は監視カメラだが、おそらくここにはないと思う。先日調べたときには上を見ても下を見てもそれらしきものはなかったし、小型カメラが設置されるほど人通りのある通りではない。現に今も歩いているのは自分と獲物だけである。
 虫が虫らしい格好をしていてくれれば楽なのに、とKは思う。奴らは人間に取って代わって地球を支配しようとしているだけあって、非常に知能が高く、変身能力も備えている。パッと見た分には人間そのものだ。つまり、Kに命じられた虫退治は、人間を守るための行動であるのに、一見殺人にしか見えないのである。

 まったくぼんくら警察どもが。

 一つ息をつき、Kは拳の中でカッターの刃を少しずつ伸ばしていった。キリ、キリ、という音は、上手いこと足音にかき消されてくれたようだった。
 しかし――Kはなんとなく、獲物がこちらを不審な目で見ているように思えた。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたい。夜道ですれ違うのが自分と同じ女であっても、このご時世だ。絶対に安全だとは言い切れない。だからついつい不安を感じてしまうだけなのだろう。まさか明確な殺意を抱かれているなどと、気づいてないに違いない。
 いや、だが相手の手も拳を作っている。あの中に凶器が潜んでいるやもしれない。もしも同じ武器だとしても、体格は向こうの方が上だといえる。勝算は不意打ちにしかない。安全にいくなら後ろから。先手を取るには前からいく方が確率が高い。
 獲物とすれ違うまであと五歩程度。四歩、三歩、

 どうする?

 Kの手に汗がにじむ。何匹殺そうともこの瞬間の緊張が薄らぐことはない。自分は伝説の勇者などではないのだ。ぎりぎりの選択肢。生きるか死ぬかの――。
 まっすぐに前を見る。目を合わせたら終わりだ。『相手は殺意に気づいてない』。この命を賭けるしかない。
 二歩、一歩、今、すれ違う。先手を取れ。背後から口をふさげ。頸動脈をぶった切れ――。


 「景子! あんたって子はまた徹夜でゲームしてたね! 夜はちゃんと寝なさいって言ったでしょうっ!」


 景子ははぁとため息を吐いて右手を額に押し当てた。あと二秒早ければし損じるところだった。左手でキーボードをたたき、セーブ画面を開いてセーブする。
 今日も生き延びた。
 電気代どれだけかかると思ってるの、学校で倒れてもしらないわよ、授業中寝てるんじゃないでしょうね、どこまでも止まらない母親のお小言を聞きながら、「ああ、戻ってきたんだなぁ」と思う。
 『ワイルド・パラサイト』。景子がそのオンラインゲームのことを知ったのは、高校に入学した当初のことだ。友達がはまって景子に紹介し、景子もまんまとはまってこの一年間『虫退治』をしない夜はなかったと言っても過言ではない。
 敵が宇宙人というのはまったく非現実的だが、それ以外は現実世界と見まごうばかりのリアルなゲーム。手に入る武器も、防具も、所持金も。スキルなんて何もないし、裏技なんてのももちろんない。いつも見ているような街の中を、知恵と度胸で生き抜いていく。
 目的はたった一つ。『虫を狩る』、ただそれだけだ。
 プレイヤーには一週間に一枚の司令書が与えられる。一週間以内にターゲットを殺せなければ『仲間をかばった』と見なされ、自分が始末されてゲームオーバー。もちろん虫に殺されてもゲームオーバーだ。一度死んでしまえばロードはきかない。一応コンティニュー画面は出るけれど、Yesを押してもタイトル画面に戻るだけなのだ。

 殺しますか? 殺されますか?

 景子は今までに何度か殺されたことがある。『コンティニュー』の文字を見るたびに「そうか、これはゲームだったんだっけ」としらけた気分になったものだ。
 だから景子は懸命に虫を殺す。死なない限りはパソコンの中の世界で生きていられる。ぎりぎりの選択肢に囲まれて、生ぬるくない生を生きられる。

 「ああ、もうっ、こんな時間じゃないの。景子、何ぼーっとしてるの! 早くご飯食べなさい!」

 景子は緩慢な動作でパソコンの電源を落とした。せっかく今日も生き抜いたのに、こちらの世界は相も変わらず生ぬるい。しかしパソコンの中で暮らせない限りは、毎日ちゃんと高校に通わなければならなかった。


 『天皇陛下を崇拝する過激宗教団体、国家血盟神教による狂信的行為は警察の手が入った今も一部信者たちによってなおも続けられており、警察側は他の宗教団体に属する人々にくれぐれも警戒を怠らないよう再三注意を呼びかけて……』
 朝のニュースはここ一週間この話題ばかりやっている。
 景子は適当に顔を洗って食卓につくと、味噌汁に浮かぶ黄緑の物体を見てうんざりした。
「お母さんっ、あたしがこれ嫌いなの知ってるでしょっ? ワカメはちゃんと遺伝子組み換えのじゃないと嫌! 原子合成ワカメって色からして気持ち悪いんだからっ!」
「うるさいわね! 贅沢言ってられないでしょっ、最近は何でも値上がりしてるのよ! 好き嫌い言わずに、ちゃんとお祈りしなさいっ!」
「わかったわよ! ……海よ、山よ、川よ、今日も私たちを生かしてくださりありがとうございます。ワカメが美味しければ言うことないんですけどっ!」
「景子っ!」
 母親の怒声を右から左に受け流し、景子は味噌汁をすすって顔をしかめた。やっぱり遺伝子組み換えの方が断然美味しい。
 そんな景子を今度は父親が注意する。
「お祈りは心をこめてやるものだよ? 景子が生きていられるのはその『不味い』お恵みのおかげなんだから」
 穏やかな口調で言い聞かせるように言われてしまうと景子も反射的に噛みつくことができなくなる。ぼそぼそと不平を口にした。
「……ワカメは海じゃできないじゃん。山も関係ないし、川だって……」
 父親は景子の頭をぽんぽんとたたく。
「そうだね、その通りだ。じゃあ目の前に並ぶご飯たちにお祈りしなさい」
 景子は何も言えなくなって、しぶしぶと両手のひらをくっつけた。
「……えーっと、今日も食べるものがあって私は幸せ者です。食べられてくれてありがとうございますっ」
 父親は満足そうに微笑んだ。
 朝の食卓が再開する。テレビは血盟神教関係の報道を終え、次に天気予報を映し出した。
『……D地区の降水確率は40%。光線のレベルは2。ガスのレベルは4でしょう。外を歩くときはマスクの設定をお間違えのないように……』
「40%か……最近の雨はかなり強いらしいから注意しておいた方がいいかもしれないな。景子も気をつけなさい。皮膚に触れたらただれることも珍しくないそうだから」
 景子は素直にうなずいておく。雨用の防護服を持ち歩くのはかなり鬱陶しいが、背に腹は代えられない。光線のレベルが2の分まだましだと思うべきだろう。
 たまごの黄身より黄色いたくあんを頬ばっていると、テレビの中のキャスターが切羽詰まった様子でニュースを読んだ。
『今情報が入りました。……火星で開発中だった実験基地が爆発、炎上した模様です。原因は未だ不明ですが、今計画には最初から様々な問題点が持ち上がっており……』
 食卓がしんと静かになる。景子は一人ぼりぼりとたくあんを鳴らしながら、「またか」というつぶやきを呑み込んでいた。
 景子の記憶が確かならば、あの可哀想なニュースキャスターは今までに一度も宇宙開発に関する吉報を読ませてもらっていない。
 人類が宇宙に夢と希望を抱いていた時代ははるか遠く、今や難攻不落の関所に体一つでぶつかる以外策を持たないような感じである。それでも人は宇宙へ飛び出していく。地球はもはや、海も山も川も死んでいるから。
 景子は二枚目のたくあんに箸を伸ばす。両親はまだ回復していない様子である。二人が時々自分のことを痛ましげな目で見ていることは知っていた。大変な時代に生まれてしまった子どもの行く末が心配らしい。しかし景子自身は自分の行く末をまったく案じてはいなかった。

 偉い人がなんとかしてくれるでしょ。

 もしもなんともならなかったとしても、みんなで死ぬだけの話ではないか。それまでの間、せいぜい楽しく生きられればそれでいいのだ。

 制服に着替えて鞄の中身を確認し、ガスマスクをつける。今日の光線レベルは2だが、一応手足にクリームも塗っておく。防護服は雨用のだけでいいだろう。ハンカチとティッシュをポケットに入れ、携帯用の防犯ベルも放り込んでおく。今まで一度も役に立ったことはないが、持ち歩かないと両親ともうるさくてかなわない。
「いってきまぁーすぅー」
 出る頃になって襲ってきた眠気を振り払い、玄関の扉を勢いよく開けた。

 学校に着けばもうマスクは必要ない。景子は幾重ものドアをくぐりながらマスクを取り、水を払う犬のように首を振る。
 少子化著しい昨今、学校の空調設備はかなりの上物だ。思わず深呼吸する景子の背中を、背後からばしっとたたく手があった。
「おはよっ!」
「痛いよ、英美……おはよ……」
 景子はのっそりと返事した。
「景子ってば、すっごく眠そうだよ? 昨日も徹夜で『虫退治』したの?」
「うん。ちゃんと生きてるよ。Aは?」
「私もちゃんと生きてるよ。でも三時には寝てる」
「……三時でも充分寝不足になると思うけど……」
「……まあね」
 ほんの少し小声になった英美を呆れた目で見てから、景子は我が身を振り返って反省する。
 『虫退治』をしているといつのまにか時間が過ぎてしまう。パソコンの中でKとして過ごす時間は緊張に満ち満ちているのに、冷や汗をかけばかくほど危険な快感を感じてしまう。
 しかし元はといえば、景子を眠れぬ夜に引きずり込んだのは英美の仕業なのである。
 英美は自分の名前を漢読みにして、Aとしてあの世界で生きている。景子はAの経験談が元でゲームに興味を持ち、翌朝AとKの話をしあうことでさらにどっぷりとはまっていったのだ。
 なのに今は英美より自分の方がはまっているかもしれないなんて、景子はなんとなく面白くない。自然と口がとがってしまう。

 「あ。大地君と我妻君だ」

 英美の視線の先には幼なじみとその友達。景子は自分の眠気を覚ますために、廊下中に響き渡る声で名前を呼んだ。

「だーいーちー。おーはーよー」

「ちょっ、ちょっと景子っ」
 英美が恥ずかしそうに景子の袖をつかむ。廊下を歩いていた生徒たちがいっせいに振り返る。しかし返事は返らなかった。その代わりに幼なじみの隣を歩いていたその友達が、「……呼んでいるみたいだが」と遠慮がちに景子を見た。しかし無反応。
 景子は小走りに近づいて、幼なじみの頭をぐーでごつんとやってやった。
「返事もできんのかおのれは」
「迷惑な知り合いには無視で通すのが常識だ」
 未だ振り返らない背中にふつふつと怒りがわき上がる。もう一発殴ってやろうかと思ったところにすかさずフォローが入ってきた。
「大地、……気心が知れているのはわかるが、女性をわざと怒らせるのは感心しない」
 景子は思わず赤くなってしまった。
 粗雑で無愛想な幼なじみと何故友達をやっているのか未だによくわからないこの男、我妻草太は、よくこういった鳥肌物の言動をするのだが、何故か、何故かそれがおかしくない。逆にときめいてしまいそうになるほどなのだ。
「……おまえ、そういうこと普通に言うから浮いてんだよ」
 大地の言葉に景子は力いっぱい首を縦に振る。
 草太はわずかに眉を寄せ、「私は何か間違えているのでしょうか?」と景子に聞いた。
 その言葉づかいがすでにおかしい。
 思っていても景子には何も言えない。
「我妻君はねー、なんかそこにいるだけで浮世離れしちゃってるんだよねー。大地君にはそれなりにくだけてるのに、他の人……女の子には特に丁寧なしゃべり方するでしょ? 私たち普段そういう接し方されたことないからとまどっちゃうんだよ」
 代わりに答えた英美の言葉に、草太はますます眉を寄せた。
「……大地を名前で呼ぶなら私のことも草太と呼んでくださって結構ですが……もしやそれも私が『浮いている』という証なのでしょうか? 努力はしているつもりなのですが……やはり女性にぞんざいな口をきくというのは……できないのです。どうしても」
 次第に深刻な様子になり、苦しそうに口に手を当てる。景子と英美は何故そこまで重く受け止める必要があるのかさっぱりわからなかった。
「まぁいいんじゃねーの?」
 どうでもよさげに大地が言う。
「しかし……」
「できないんだろ? どうしても」
「……すまない」
 草太が何故謝るのか意味不明だったが、この二人が友達である理由がわかったような気がしないでもない景子だった。
「うん、今さらだし。あ、でもね、私が我妻君のこと『我妻君』なのは、雰囲気のせいもあるけど、我妻君のことを好きな女の子たちが怖いのもあるんだからね。あまり気にしないで」
 英美が笑顔のフォローでまとめようとする。が、落ち着きかけていた草太は今度は困惑の面持ちで考え込んでしまった。『自分を好きな女の子』『たち』『怖い』というキーワードにとまどっているらしい。
 そうか、この人やっぱり素だったんだ。真面目すぎて大変だなぁと景子は思った。


 男子が技術の授業で棚だのラジオだのを作っている時間、女子は家庭科をやることになっている。
 四時間目。本日の家庭科、調理実習。
 景子はこの時間が極めて嫌いだった。料理自体は得意ではないが好きなのだ。嫌いなのは女子だけで班分けをしなければならないことである。
 六人グループ。聞くだけでうんざりする。
 景子は今のクラスに英美と大地しか友達がいない。他の子とも話はするが、友達としてつるむようなことはない。草太は『友達』と呼んでいいのか判断に困る特殊人物だ。ようするに大地と草太のいない今、景子の仲間は英美だけである。
 6-2=4。
 これで四人グループが見つかればいいのだが、このクラスの女子は景子と英美を除くとまっぷたつ、二大勢力に分かれていたりする。景子は英美と二人で勢力内の話し合いが終わるのを待たなければならなかった。
 たかが一時間の間だけなのだ。さっさと割り切ってくれればいいものを、長々とじゃんけんをした後も「えー」とか「やだー」とか言っている。で、やっと決まったかと思ったら、あぶれた形になる彼女らは景子と英美を嫌そうにねめつけるのだ。
 勘弁してほしい。
 だがここで正直になってしまうとクラスの中で生きていけない。景子は念仏代わりに心の中で「沈黙は金」と唱え出す。しかし彼女たちとのとげとげしい気まずさは一向に和らぐ様子がない。料理が得意な英美は重宝され受け入れられたが、『得意じゃないけど好き』なだけの景子は邪魔者扱いだ。
 景子が「早く終われー早く終われー」に念仏を切り替えたとき、隣の調理台からクスクスという笑い声が聞こえてきた。
 台の脇にはクラスの女王様、高田亜美が立っており、見るからに性格悪そうな笑みを浮かべている。その視線の先に誰がいるのか、見なくてもわかってしまう。
 ……またやってるんだ。
 景子はじゃがいもをむく手を止めた。はらりと落ちる皮をじっと見つめる。
 『女の子』『たち』ってやつは、別に誰を『好き』じゃなくても、まったくもって『怖い』ものだ。
 理由もよくわからないいじめ。クラスの女子でそのことを知らない人間はいない。男子と先生の目を上手くかいくぐって。高田亜美のことを好きな人間などいないのに、どうしてかクラスの中心にいる彼女に、誰も逆らえない。彼女の取り巻きは隠れたところでみんな陰口をたたいている。しかし、いざ松本優希をいじめる段になると、亜美の端末なのではないかというくらい結託する。「本当はやりたくないのに亜美に言われて仕方なく」と言われても信じられないだろう。
 そして他の人間はひたすら――「沈黙は金」、だ。
 決して向こうを見てはいけない。やっかいごとだ。目を合わせちゃ駄目。見て見ぬふりする分には『関係ないこと』として通り過ぎてくれるんだから。

 そう、あたしなんか正義感振り回すような資格ないしさ。
 松本さんと話したこと一度もないしさ。もしかしたら高田さんにいじめられても仕方ないくらいヤな人なのかもしれないし。
 ……いじめられても仕方ない人なんて、いるのかな……。

 「景子、手ぇ止まってるよ? どしたの?」
 英美が顔をのぞき込む。
「えっ? なんでもない、なんでもないよっ?」
 景子ははっとして首を振る。
「ならいいけど……それが終わらないと次進めないんだからー」
「ごめんごめん、大丈夫、すぐ終わる。すぐ……ぎゃーっ!」
 景子の親指からは赤い血がしたたり落ちていた。驚いた拍子にじゃがいもがすっぽ抜け、床をころころと転がっていく。
「ちょっ、景子大丈夫っ?」
 英美が心配する声と重なって、
「食べ物を粗末にしないっ!」
家庭科の先生の怒号が轟いた。
「そのじゃがいも一つにどれだけの人間が関わってどれだけのお金がかけられたと思っているのですか! 研究施設、栽培施設を維持するだけでもかなりの税金が使われているのですよ! 今日のために手をつくして保存してきた食材だというのに……それから、不注意で体に傷をつけるなどもってのほかです! そもそも食べ物はあなた方の命を育むためのものなのですからね! ほら、いらっしゃい、手当てしましょう!」
「……はい」
 さんざんにまくし立てられ、自分でも不注意だったとわかっている景子は返す言葉もない。英美以外の班の子の視線が痛かったが、大人しく引きずられていく。
 戻ってきたときには『あとは煮込むだけ』の状態で、景子は非常に気まずかった。

 放課後、委員会で残るという英美に別れを告げ、景子は教室の遮光カーテンにそっと隙間を作る。
 雨は降っていないようだ。ほっとしながらも何のためにかさばる防護服を持ち歩いたのかと少し悔しくなる。
 景子はため息をついて鞄を持ち上げた。ガスマスクを見ると、学校がドーム都市の中にあればよかったのに、と思っても仕方のないことを考えてしまう。
 生きるためにはなんて色々なものが必要になるんだろう。面倒くさいったらありゃしない。

 帰る前にトイレに寄っておこう。そう思って女子トイレの扉を開ける。
 その瞬間に後悔した。
 狭いトイレにブレザーの壁。その向こうに高田亜美の茶色い頭。きっとその奥には松本優希がいるのだろう。
 顔を見られる前に扉を閉めたかったが、取り巻き連中はすでにじろじろと景子を見ていた。
「……あ、いや、トイレにね……行きたかったんだけど……もういいかな……みたいな……」
 景子は自分の口からエクトプラズムが出てきたような錯覚に陥った。
「あら、入ってくればいいじゃない。ここで何があろうと、あなたには関係ないことでしょ?」
 亜美はクスクスと笑っている。

 止める勇気なんてないんでしょ?

 景子にはそう聞こえた。
 そしてそれは、事実だ。
 頭にかっと血が上る。人を小馬鹿にする笑い声。それにかき消されているすすり泣きを聞かなかったことにしたくて、景子は思いきり乱暴な音を立てて扉を閉めた。
 そのまましばらく動かずにいたが、やがて重い足取りで歩き出す。
 親指の絆創膏がねちゃねちゃした。気持ち悪くて引きはがすと、傷はもう目立たなくなっている。何故だかひどく腹立たしくて、鞄を握る力をぐっと強めた。

 開くたびに空気が濁っていく幾重もの扉。鼻や口を通さずとも肌で感じてわかってしまう。
 ようやく開けた空は、雨こそ降っていないものの灰色の雲が立ちこめている。
 早く帰ろう。黒い雨が降るかもしれない。
 そう思いながら、このまま家に帰って暗澹とした気持ちを抱えて過ごすのかと思うとさらに足取りが重くなる。『虫退治』で気が晴れるだろうか? とも考えるが、このもやもやはKではなく景子が晴らさなければならないもののような気がした。
 心なしか今はマスクも重い気がする。顎を押し上げるようにして位置を整え、景子はふと、ドーム都市に行こうと思いついた。
 街の中でもマスクを外していられるドーム都市を、景子はいたく気に入っている。
 ウィンドウショッピングでもして、公園でぶらぶらしたりして……

 あの子は今トイレで泣いているのに。

 ぶんぶんと首を振る。
 関係ない、関係ないのだ。だいたい自分に何ができる。一緒にいじめられるのがオチだ。話したこともない相手のために、どうしてそんな危険を犯さなければならない。今までだってさんざん見て見ぬふりをしてきたではないか。
 景子は猫背になり、深いため息をついた。
 やはりドーム都市に行こう。素敵な出会いでもあれば……とまで贅沢は言わないが、気分も幾分良くなるに違いない。そうと決まれば早速実行あるのみ。
 しかし天候は徐々に悪くなってきている。ドームにたどり着く前に降られては大変と、景子は少々近道することにした。トイレも気になってきたところだ。普段通らない細い路地を駆け抜ける。

 カツンと鳴った靴音が、強烈な既視感を呼び起こした。

 この路地は片手で数えるくらいなら通ったことがある。そうではなくて。それとは違い。前にもこんな場所で……
 景子は立ち止まる。足下を見て、上を向く。
 ない。
 弾かれるように後ろを見た。
 誰もいない。
 近づいてくる足音も。カッターの刃を伸ばす音だって聞こえない。
 当然だ。あれはしょせんゲーム。死んだ後だって『コンティニュー』の文字が出るゲームなのだから。
 景子は脱力して頬をゆるめた。馬鹿みたいに緊張した自分がおかしかった。
 今日はとことん駄目な日な気がする。ドーム都市に行くのもやっぱりやめようか。
 そう思ったときだった。
 前方の電柱から影のようなものが飛び出してきたのは。
 あっという間もなく背中に衝撃を感じる。荒々しい力がのしかかる。息を呑む前に鋭い刃を突きつけられた。

 「貴様の信じる神の名は?」

 景子の喉仏がひくつく。
 問いつめてくる男はマスクの上に真っ白な布を被っている。朝のニュースで何度も見た。国家血盟神教の信者だ。
 こういった場合の対処の仕方も、ニュースで何度も聞かされていた。
「あ、現人神。万世一系の尊い血筋であらせられる、我らが天皇へい……」
「然り」
 ぐっとナイフが近づいてくる。
「ならば問う。国民でありながら邪宗教に惑わされる愚民ども、如何にすべきや」
 そんなことはニュースで言っていなかった。
 殺してしまえとでも言えばいいのだろうか。改宗させろとでも? 前者の方が確率は高い。だが。間違えたら、死ぬ。頸動脈を切られずともマスクに穴があいてしまえばもう終わりだ。
 心臓はどくどくいっているのに、全身がひんやりとしたものに覆われていく。景子はもう、声が出なかった。
「返答や如何!」
 ぎらぎらとした刃。自分はここで死ぬのだ。目を、閉じることができない。まぶたが動かない。息、が。

 「景子、動くなっ!」

 目の前の白がなぎ倒された。景子は瞬きもせずに息を詰めていた。
 目覚まし時計のようにけたたましい音が鳴る。
 突然やってきた見覚えのある制服は白い男にのしかかり、攻防しながら舌を打った。
「くそっ、早く来いっ」
 その声でやっと、景子は自分が救われたのだと知った。
「……だ、いち? 大地? ……大地っ!」
「う、る、せっ、……泣くなっ! 俺はこいつを取り押さえるのに忙しーんだよっ」
 何度も確かめるように名を呼ばずにはいられない景子に、ぶっきらぼうに返してくる言葉。普段は腹が立ってしょうがないのに、今はひどく安心できる。
 頬を伝う熱を拭えずにいる間に、どこからかパトカーの音が聞こえてきた。

 男が連行された後も、景子の涙は一向に止まる兆しを見せなかった。
「あ……りが……」
 お礼さえもちゃんとした音にできない。
 大地は靴の先をとんとんと鳴らすと、怒ったように言った。
「おまえ携帯用の防犯ベルくらいちゃんと持ち歩けよ。今時常識だろ?」
 景子はふるふると首を振る。
「……持っ、て……た」
「……そうか」
 震える体もこみ上げる涙もそのままに。ただただ奔流が通り過ぎるのを待つ。
 大地ももう何も言わずに、景子の目の前にずっと突っ立っていた。

 「落ち着いたか?」
 まぶたを擦ってうなずく。
「警官が送ってやるって、おまえのことをずっと待ってる。知り合いにもいてほしいなら、俺がついていてやってもいい」
 景子は大地の顔をそっと見上げ、本当に真摯な表情を見つけて声をなくした。
 甘いほど優しい言葉ではないが、『守られている』と、強く感じる。暴れん坊の『幼なじみ』はいつのまに『男の子』になっていたのだろう。
 小さくうなずけば、それだけでわかってくれたようだった。
 景子は大地の制服の裾を軽くつまんだ。
 いつもなら心底嫌そうに振りほどくだろうに、今は何も言わず好きにさせてくれている。
 心臓が、とくんと鳴った。
 頬が熱いのは泣いたからだ。そう思いたいのに、大地の顔を見れば三秒と目を開けてられなくて。自分で自分が信じられなかった。


 家についた景子は心配する両親への説明を警官にまかせてすぐにベッドへ倒れ込んだ。ポケットが脇腹の下敷きになり、固い感触に眉を寄せる。
 防犯ベルだ。あの瞬間、こんなものの存在は忘れてしまっていた。いざというとき頼りになるのは何よりも自分の強い意志なのだ。使えない道具に意味はない。
 Kならば使えたかもしれないと景子は思う。虫相手には必要ないが、あのとき狂信者に対峙したのが景子ではなくKであったなら。少なくともただやられるだけの展開は避けられたはずだ。
 景子はゆっくりと起きあがり、パソコンを起動しようと腕を伸ばした。が、しばし迷って机の上のペン立てからカッターナイフを抜き出す。
 生ぬるい生活。
 景子は食卓の脇で騒いでいるニュースを毎朝耳に入れながら、それが自分の身に降りかかってくるなどとは一度たりとも考えたことがなかった。誰が殺されようと自分には関係ないことで、どこで何が起ころうと自分にはまったく影響がないのだと漠然と信じていた。
 今日初めて。自分の命に関わるぎりぎりの選択に直面した。
 そして、選べなかった。
 生ぬるいのは周囲ではない。自分が生ぬるい生き方をしてきたのだ。
 しかしもしも次があったとしても、景子には決断を下す自信はない。
 ――だからこれはお守りのようなものだ。
 景子はカッターナイフを制服のポケットに忍ばせ、一つ息をつくと、おもむろに両手のひらを重ね合わせた。
「海よ、山よ、川よ、この命に感謝いたします。願わくば――ゲームの中のような知恵と度胸を。強く生きられるだけの強靱な意志を――この私に与えてくださりますように」


第三章 世界


 「占いのために瞑想するとおっしゃってください。難しい占いなので集中が必要だと。人払いをお命じになって。そうでもせねば姉は静香様のおそばを離れますまい。姉の目さえごまかせたなら、後はこの私がどのようにでもして差し上げられますゆえ」
 静香は草太の着物の袖をぎゅっと握った。
 出ることを考えて自分の環境を見つめ直せば、それは不可能と言っても過言ではないことに気づかされた。
 超高層ビルの最上階。四六時中鏡子に見張られ、宮から出るのにさえミコトの許可が必要となる。ましてや階からの、ビルからの脱出などと。
 草太は鏡子の目さえごまかすことができればと言うが、何よりもそれが非常に困難なことだった。
 鏡子は自分のことをとても大切に思ってくれている、と、静香はことあるごとに実感させられてきた。限りなく優しく、時に厳しく。十年間、宮の中にいて静香が危険をこうむったことなど一度もないのに、日常の中のほんの小さなことに実に様々な気配りを見せてくれる。近頃は行動を見透かされているのではないかと思うこともしばしばあるくらいだ。
 今は入浴中のため草太に役目を預けているが、鏡子の入浴は烏の行水で、入ったと思ったら即あがってすぐに静香のそばに控えている。さすがに就寝時は静香から襖一枚を隔てるが、わずかな物音で簡単に目を覚ましてしまうのである。
 鏡子の不覚を狙うのは無理だ。ならば作るしかない。それはわかる。
 しかし静香は草太の策に乗るわけにはいかなかった。何故なら草太の策では鏡子はだませてもミコトは絶対にだませないからである。
 大切な人たちに嘘をつかなければならないというのも、どうしても踏ん切ることのできない理由の一つだった。
「……静香様、外を知るということは、そういうことなのです。ミコト様と姉の望みに反します」
 草太が静かに言い聞かせる。静香ははっとして目を見開いた。
「……ごめんなさい、草太さんが頑張って準備してくれたのに。肝心の私の覚悟があやふやで。……わかりました。鏡子さんには悪いけど、嘘をつきます」
 後でミコトにばれるにしても、こうでもしなければこのビルを出ることは不可能だ。たった一度きりだとしても――絶対に、外の世界を見ておきたかった。

 草太が口にした通りのことを鏡子に告げると、鏡子ははっきりと怪訝な面持ちになった。
「難しい占いと言われますと……どのようなものでございましょうか。今まで静香様が急にそのようなことをおっしゃったことなど一度もなかったと記憶しておりますが」
 静香は途端に言葉に詰まる。細かいことは何も考えていなかったのだ。
「あ、あのっ、難しいというのは、占い自体もそうなんだけど、他言しづらいというか、占ってみないとなんともいえない難しさなの。鏡子さんでも駄目。誰だって駄目なの。急なのは、どうしても、そのっ、占わなくちゃいけないって、ひらめき! そう、ひらめきが降りちゃって! ……だから……」
「……わたくしにもお話してくださらないと。……このようなことを口にしてよい身ではございませんが……わたくし、寂しゅうございます」
 とっさについた嘘に鏡子の瞳が揺れ動く。静香はいたたまれなくなり、必死に謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいって、心から思ってます。……でも、お願いします!」
 それでも譲ることはできない。
 鏡子は白い額にしわを寄せ、沈思黙考してからゆっくりとまぶたを伏せた。
「……わたくしは静香様の御姿を確かめられない状態など一秒たりとて過ごしとうございません。なれど、静香様の花のような御尊顔に陰が宿るなど、ましてそれがわたくしの所為などと、思い浮かべただけであまりの罪深さに胸が張り裂けます。……静香様、他の者は誰一人近づけませぬ。しかしわたくしだけは障子の陰に控えさせていただきます。よろしいですね?」
 それが妥協の言葉だったので、静香は一も二もなくうなずいた。心の中では再び謝罪を唱えながら、感謝の意を力いっぱい言葉にし、鏡子の胸に飛びついて。
 鏡子は完全には心晴れない様子だったが、最後には「静香様のよろしいように」と微笑んでいた。

 しかしいざ部屋にこもると、静香は自分がとんでもない大失敗をしてしまったことに気がついた。いくら鏡子から逃れたとはいえ、唯一の出入り口である障子の向こうに控えているのだ。これで出て行けるわけがない。
 静香は草太に何と言って詫びればよいのかと悶えると同時に、自分のあまりの馬鹿さ加減に憤死してしまいたくなった。わがままを言ったのも妥協してもらえたのも初めてのことだったから、思考能力に麻酔がかかってしまったのだと思う。できれば麻酔がなくても同じだなんて思いたくない。
 静香はたった一人で部屋で過ごすことになってしまった長い長い時間を、さて一体何に使おうかと考えた。
 鏡子に聞こえないよう小さな小さなため息一つ。
 それに重なるように、膝の下でカタッと、文箱を開けるような音がした。
 静香は出しそうになった大声を両手で押さえ込み、必死の思いでやり過ごす。
 自分の腕で作れるくらいの大きさの、正方形の穴がぽっかりと。その奥では草太が人差し指を鼻に押し当てていた。
 静香が完全に口を閉ざしたのを見ると、指を離して手招きする。静香はそーっと、どんなに小さな音も立てないよう、ことさらゆっくりと穴に降りていった。

 暗くて狭いところを進んで数分後、やっと腰を伸ばせるところに出たと思うと、今度は地面が下がっていく。静香が息を呑み込むと、草太はかすれるような声で「失礼」とだけ言って静香の口を手で覆った。落下はどこまでも、滑るようなスピードで進んでいく。
 まともに声を出すことを許されたのは、パッと明かりがついて目の前に行き止まりが立ちはだかってからだった。
「……草太さん、これはどういうことなの? 今まで通ったところは一体何で、どうして私の部屋にあんな穴があいていたの? もしかしてあらかじめ草太さんがあけておいたの? あの落ちていったのは一体何?」
 静香は矢継ぎ早に質問を浴びせる。草太は困ったように微笑んで、「少々お待ちください。必ずお答えいたします」と告げながら、ガスマスクと紫外線遮断クリーム、ワンピースを差し出した。
 それらは静香にとってはまったく用途のわからないものだった。重ねて質問しようとする静香に、草太はゆるゆると首を振る。
「とにかくこの服をお召しになってください。静香様の御衣装は目立ちますゆえ。その後肌の露出している部分にこのクリームをまんべんなく塗り広げていただきます。外に出る際必ず必要になることです。最後にこのマスクをつけていただきますが、使い方は後ほど説明いたします。それでは、壁の向こうで控えておりますので、用意を終えたらお知らせください」
 静香がハテナマークを飛ばしている間に、草太はさっき確かに行き止まりだったはずの壁を開いてさっさと出て行ってしまった。静香は一人取り残されて、首を傾げながらも言う通りにする他なかった。
 はてこの洋服らしき布はどういうふうに着るものなのか。
 ハテナがずらりと行列を作る。
 試行錯誤の末思いきって適当に着てみたら、その着心地から理解できた。
 しかし一つ終わればまた次だ。クリーム。肌に塗るものらしい。おそらくこれは容器であり、このまま擦りつけても仕方がないものと推測される。とりあえず触りまくってふたが外れる。出てきた珍妙な液体を触り、におい、少し塗りつけてから舐めてみようかどうしようかしばし迷った。
 そんなふうにして、再び草太を見たときの静香は、ガスマスクの使い方を聞きたくて聞きたくてしょうがない顔をしていた。
 草太は苦笑しながら懇切丁寧に教えていく。そして先ほどの答も。静香の部屋には十年間ずっと非常用の出入り口が隠されていたこと。地面が下がっていったのはエレベーターという乗り物であることなどを説明した。
 静香はへえ、とか、わあ、とか言いながら、それはそれは楽しそうだった。
 だから草太は未だビルを脱出していないにもかかわらず、進言差し上げて良かったと、心からの安堵をもらしたのだ。
 だがそれはすぐに覆された。
 幾重もの扉。一枚、また一枚と開いていく外界への出口を抜けるうち、静香の体調は目に見えて悪くなっていった。
「……少し、息苦しいかもしれない。どうしてかしら、肌がピリピリするような……」
 マスクの設定に問題はない。天気予報では防護服が必要になるような日差しではなかったはずだ。
 草太は半ばパニックになりかけた頭を落ち着かせ、とにかくこのままではいけないと静香を置いて耐光線用の防護服を取りに行った。全身を覆う宇宙服のようなもので見映えは悪いが、マスクよりはよほど高度な空気清浄機能が備わっている。
 そんな予想外のアクシデントのせいで、静香がようやく外に出れたのは正午を回ってからのことだった。

 「静香様、私はこちらに残る必要があるかと思われます。姉は聡い。あのままおいて気づかれないとは思えません。ほころびを見つけられる前につくろっておかなければ。ですが静香様をお一人にするなどもってのほかでありますので、私の友人に静香様の護衛と外の案内を頼んでおきました。彼は信用のおける人物です。武術に関しても優れているかと。しかしくれぐれも静香様ご自身が危険を避け、御身をお大事になされますよう、この草太、心よりお願い申し上げます」
「はい。わかりました。ありがとう草太さん」
 静香がそううなずくと、草太は斜め後ろにいた学生服の男に体を向け、「大地、静香様にご挨拶をお願いする」と促した。
 わかったとは言ったものの、静香は内心不安と緊張でいっぱいだった。鏡子と草太とミコト以外に『普通に』話した経験などまったくないのだ。六歳以前の記憶はひどくあやふや。初対面での『普通の』会話、『普通の』挨拶。何もかもわからない。
 静香が『普通に』接する初めての外の人間は、
「……朝倉大地。……こいつと同じ年。よろしく」
非常に面倒そうにそう言った。
 はっきり言って印象はよくない。しかしこれが普通なのかもしれない。
 静香は努めて笑顔を作った。
「大地様。素晴らしいお名前ですね。我らが母の祝福を、目に見える形に表された。とても素敵なお名前だと思います」
 表情は努力した結果だが、言葉は心をそのまま音にしたものだ。
 が。
「おい、マジでコレをつれて歩けっていうのか? こんな世間知らずの、がちがちの宗教系を。まともに話できるのかどうかさえ怪しいじゃねーか」
 期待に支えられていた小さな好印象は地獄の底の底まで落ちてえぐれた。
「あのっ、あなた様の態度は今この場にふさわしいものなのですか? わたくしにはとてもそうは思えません。わたくしが世間知らずだとおっしゃるなら、あなた様は礼儀知らずだと思います」
 静香は思わずそう言っていた。
 朝倉大地と名乗った男は目つきが非常に悪かった。真っ黒い二つの瞳がぎらぎらと光を発し。むっつりと押し黙るうちに曲がってしまったのではないかと思われる緩やかなへの字に結ばれた口は、親しみのかけらさえも抱かせない。
 しかし静香の鋭い視線に、
「俺は礼儀知らずじゃない。正直者なんだ」
まるで悪戯好きの子どものような笑顔を浮かべてみせた。
 あまりに鮮やかな変化だったので、静香は目をぱちくりさせてしまった。
 草太が困り果てたように首を揺らす。
「……大地、女性をわざと怒らせるような真似は感心しないと何度言えば……」
「……楽しんでいるのは確かだが、わざとしているわけじゃない。女の方が勝手に怒り出すんだ」
 大地はまったく悪びれない。
「……静香様はお優しい御方だ。ただ幼少の頃から人と接することを制限されたため、すべてのことに慣れていらっしゃらない。あまり失礼な言動はしないでほしい」
「言ったろ。意識してやってるわけじゃない。それに、正直なのが俺の美点なんだ」
 草太は二人をこのまま送り出してよいものかと非常に心配になった。大地のことは信頼しているが、この点に関してはまったく信用ならなかった。
 大地は顎をしゃくって口元をにやつかせる。
「俺はこの女を見ておまえの形成過程が理解できた気がしたぞ。こんなのとあんなやりとりを毎日のようにしてたんだな」
「静香様を『この女』などと……っ」
 すぐに噛みついた草太に、鷹揚にうなずいて指を指す。
「そう、ソレ、そーゆうの。あの女をうちの学校に放り込んでみろ。確実に浮く。浮くどころじゃすまねーぞ。だから俺みたいなんが相手になるのがちょうどいいのかもな。なんたって俺はおまえのオトモダチなんだし」
「……これは無理だろうかと思っていたが、少しはやる気になってくれたのか? しかし静香様を『あの女』呼ばわりするなど、許せることではないのだ。私にとっては……」
 うつむきがちになる草太の肩を軽くたたき、大地は静香に向かって歩き出した。
「ところでなんで防護服?」
 静香は何を言われているのかよくわからない。
「あ、ああ……静香様のお体が外気に耐えきれなかったのではないかと思う。マスクとクリームだけでは不十分だった。考えれば無理もないことだ、静香様は十年間外に出られたことがない」
 代わりに草太が説明したが、それに対して大地が「……はぁあ?」と呆れたような声を出したので、静香はむっとしないまでもあまりいい気はしなかった。
「それで、今日は静香様をドーム都市に連れて行ってもらいたい。慣れない防護服を着用し続けるのは相当な負担となるだろう」
「あー……わかったよ」
 またもや面倒くさげな口調で締めくくられる。静香は草太に不安を訴えずにはいられない。
「静香様……その、少々お気に障る点もあるかと存じますが、……大地は私が唯一友と呼べる男ですから。静香様にもきっと理解していただけると……そう思います」
 草太を疑うつもりはないが、どうしても不安を拭いきれないのだった。


 アスファルトで覆われた固い地面、超高層ビルの建ち並ぶ谷の底を、言葉もなくただ歩いていく。見るものすべてが珍しく興味深いのに、静香は目の前の背中から目を離すことができない。
 大地は一度も振り返らず、立ち止まりもせず。まるで静香の存在を忘れ去ったとでもいうように、速い歩調で進んでいく。静香は小走りにならなければならなかった。それでも間隔は開いてしまって、幅跳びして一気に距離を詰める。
「きゃあっ」
 静香は固い背中に頭をぶつけた。
「ど、どうされたのですか? 急に立ち止まるなんて……」
 ゆっくりと振り向いた大地はなんともいえない顔をしている。
「……信号くらいは、知ってるよな……?」
「え、……しんごう……あ、はい。六歳の頃までは外で暮らしておりましたから。あの……赤く光るときは止まる、のですか?」
 おずおずと見つめる静香に、大地は深いため息を吐く。
「……そうだ。それから防護服で頭突きすんな」
「申し訳ございません。ですが……走らないと、追いつけないのです」
 大地はえ、と口を開いて、眉間に指を当ててうつむいた。
「……そうか」
「……そうです」
 信号が青に変わった途端に歩き出す。静香は慌てたが、大地の歩みは一転して小さく、ゆっくりとしたものに変わっていた。

 黒い背中のすぐ斜め後ろをぴったりくっついてついていく。もう置いて行かれる心配はない。それでも静香は大地を見つめ続ける。
「あの……」
 呼びかけても止まってくれない後ろ姿。けれど、このゆっくりとした歩調は確実に自分のためのものだ。静香は意を決して大地の背中の布を引っ張った。
「大地様、先ほどは礼儀知らずなどと口にして、わたくしの方こそたいへん失礼なことをいたしました。反省しております。ですから……お話し、してください。お願いです」
 大地が足を止める。しかし振り向かない。静香は不安に突き動かされるままそーっと顔をのぞき込む。
 大地はまた、なんともいいがたい表情をしていた。驚愕しているような、困惑しているような、妙なにおいを吸い込んで息を止めたような顔だ。
「……大地」
「え?」
「サマはいらない。ただの大地」
「えぇっ、いえ、ですが……あのっ」
 静香は声を裏返して汗をかく。今まで誰かを呼び捨てにしたことなど一度もない。
「無理なら『サン』」
 ほっと息をついた。
「あ、はい……大地、さん」
 鏡子と草太以外の人間を『さん』付けで呼ぶなんておかしな気分だ。どぎまぎする静香に、大地は片眉をひょいと上げる。
「おまえ、もしかして俺が怒ってると思ってんの?」
「違う……のですか?」
 静香は上目づかいでおそるおそる表情をうかがった。大地は口のへの字を少しだけ急にして、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「別に。『礼儀知らず』くらいで」
「ですが、あれからずっとお話ししてくださりません……」
 静香にはやっぱり怒っているように見えてしまう。
「初対面の女に……」
 大地は言いかけて口をつぐむと、なんでもないと手を振った。
「……俺と話すとたいていの女は怒る。俺はそれが面白いんだけど、おまえは草太の女だから。必要以上に怒らせちゃ悪いだろ」
「……? あの、わたくしは大地様……いえ、大地さんの物の言い様に驚いてしまったのですが、大地様……さん、にとっては、あれが普通のことなのですね?」
 何度か舌を噛みながら言い直す静香に、大地は片目を眇めて首を振る。
「……もういい。好きなように呼べよ」
「あ、はい。お言葉に甘えさせていただきます。あの、大地様にとっての普通があれでしたら、わたくしは是非そうしていただきたいのですがっ」
 静香はつかんでいる背中をぎゅっと握りしめた。まるで初めて過ごすような外の世界。それ以上に、そこで暮らす朝倉大地という人間のことがひどく気になってしょうがない。草太が自ら同行せず彼に役目を預けたのは、外の人間と接する機会を与えるためでもあるのではないかと静香は思う。外の世界を知るということは、外の人間を知るということなのだ、きっと。
「……いいけど」
 大地は一つ間をおいてから言った。
「ではっ、お話しして……くださりますか?」
「あー……わかった」
 やはり面倒そうにしていたが、それが朝倉大地という人間であると思えば、静香はもう不快にはならなかった。

 やっとお話しできると、花のほころぶような笑顔を浮かべた一秒後。ぐうう、と、象のいびきのような音が鳴る。静香は顔を真っ赤にしてうつむいた。
 大地はその頭上でにやにやと口の端を歪め、静香が何も言えなくなったのを知ると、交差点の向こうを見て軽くうなずく。
「ハンバーガーでも食うか」
 静香は一言も発さずついていった。

 例えファーストフードであっても飲食店であるからにはきっちりと空調が整えられている。対光線防護服の頭部を外し、静香は心おきなく息を吸う。
 ふと視線を感じて周囲を見ると、なんとなく、気のせいかもしれないが、誰もが自分の方を見ているような気がした。
「……あの、わたくし、どこかおかしいのでしょうか?」
 尋ねても答えてくれない大地。
「……わたくしがここにあることは、奇妙なことなのですか?」
 静香は思わず泣きそうになる。
 大地はしばらく口をまっすぐに閉じていたが、やがてやれやれとでもいうようにまぶたを伏せた。
「……普通はこんな日に防護服は着ない」
 嘘だ。確かに最初はそれで目立っていた。だがたった今衆目を集めているのは静香がただ、美しいからだった。しかしそんなことを大真面目に口にするなんて冗談じゃない。恥辱の極みと言ってもいい。
「……そうでしたか」
 大人しく納得してくれた静香に内心で安堵の息をつきながら、大地は「草太、おまえ面食いだったんだな」としみじみ考えていた。静香は静香で、人と違う格好をしなければ外にも出られない自分はやはり、『ここにあるのが奇妙な存在』なのではなかろうかと考えた。
 沈黙のテーブルにセットが二つ運ばれてくる。静香はきょろきょろと周りを見た。ハンバーガー。聞くのも見るのも初めてだ。両手で抱えてにおいをかぐ。
 興味津々な様子がありありと伝わってくるので、大地はふっと笑みをこぼした。
「ところでおまえ、名前なんての? あーいや、静香ってのはわかるけど、名字は?」
 静香は目を見開いたまま時を止めた。
「……わたくしに名字などございません。大地様は……ご存じないのですか?」
「……はぁ?」
「お兄様が……、わたくしはただ一人の特別な存在であり、誰一人としてそのことを知らぬ者はおらぬから、わたくしに名字は必要ないのだと仰せになりました」
 こぼれ落ちそうなほど大きな瞳の前に、大地は思いっきり顔をしかめた。
「……草太からは『お仕えすべき大事な御方』とだけ聞いてる。おまえ、もしかしてどっかの教祖だったりする?」
「いえ、わたくしはただの斎女でございます」

 ……どのみち関わり合いになりたくねー。

 大地は今まで一度も頼み事をしてこなかった友人のたっての願いを深く考えようとせず安易に引き受けてしまったことを後悔した。
「……まぁいい。あいつが説明しなかったってことはなるべく普通の女として扱ってほしいってこったろ。……食えよ、さっさと」
「はいっ」
 静香は力いっぱいうなずいた。爪がパンに食い込みハンバーグがずり落ちそうになるのを慌てて止める。大きく口を開けて噛みついて、すぐに右手で口を押さえた。

「……大地様、これは……食べ物なのですか?」

 驚いたのは大地だ。静香は『好き嫌い』を通り越して青い顔をしている。
「おまえ……ちょっと貸せっ」
 ハンバーガーを奪って確かめ、一口含んでみるが異常はない。そうしてすぐに思い当たる。
 普通の対応では外気に耐えられなかった静香。普通の食物も受け付けないのではないのかと。
「嘘だろ……何食ってんだ普段」
 大地は呆然とつぶやく。しかし今はそれどころではない。慌てて静香の肩を揺する。
「おい、すぐに吐けっ」
「いえ、いかな食物といえど尊い命、我らが母の恵みなのです。ましてや一度口に入れたもの」
「自分の顔色見てほざけっ!」
 大地は静香の口に無理矢理手をねじ込んだ。

 痛いほどの注目を避けて店を出ると、大地は静香の食生活を問いたださずにはいられなかった。静香は乱れた息の合間に答えていく。
「……いつもは、中庭の畑で採れたものを、食しております。種々の野菜を育てておりますし、調理も特に変わったことは……。このようなことは、今まで一度も……」
「中庭の『畑』?」
「はい……。わたくしはお兄様の叔父様にひきとられてからというもの、ビルの最上階で暮らす毎日で……、常にそこで採れたものだけを食して参りました。自らの手で耕し、水をまき、育ててきたのですが、水も、土も、どのようになっておるのかは存じません。まさか他のものを口にできないなどと……そのようなことは、考えたこともございませんでしたが……」
「……畑で、野菜を……」
 大地は静香という存在がとても信じられなかったが、静香の方が信じられないという顔をしている。これ以上は追究するのも酷なような、どこまでも追究せねば納得できないような。しかし静香を質問攻めにあわせたとてたいしたことは引き出せそうにない。限られた短い時間、そんなことをするよりもっと他にしてやらねばならないことがあるだろう。大地は静香を少し哀れに思っていた。

 空きっ腹をそのままに、まっすぐドーム都市へと向かう。その途中で、静香はぴたりと足を止めた。
 視線の先には段ボール。側面には一言「拾ってください」。そして中から小さな鳴き声が。生まれて間もない危うい命がタオルにくるまれ震えていた。
「大地様、これは何ですかっ?」
 タオルごと腕に抱え上げる。
「……捨て猫? 珍しいな」
 大地はいぶかしげに首を傾げる。
「そんなっ、捨てるだなんてっ。この子の親は何をされているんですかっ!」
「……猫? いや、その場合飼い主だろ」
 大地は静香から猫を取り上げ、段ボールの中にそっと戻した。
「何を……っ」
「あれはもう死ぬ。『外』に出されて、しかも生まれたてだ。……もつわけがない」
 静香は段ボールの前にひざまずく。
「死ぬとわかっていて放っておかれるのですか。先ほどわたくしを助けてくださった大地様のお言葉とは思えません」
「……あのな。どうやって助けるっていうんだ」
 大地ははっきりと呆れていた。猫と人間を一緒にされたって困るだろう。第一さっきの静香は手の施しようもなかったわけじゃない。捨てられた動物の運命なんて幼稚園の子どもにだってわかるものだ。
 しかし静香は毅然と首を横に振る。
「無力を理由に傍観するのは最も恥ずべきこと。お兄様はそうおっしゃった。助けます。絶対に」
 そうして防護服の頭部をがばっと開き、鳴き声の消えつつある子猫を胸に抱く。
「こっの、馬鹿っ!」
 大地は瞬時に静香の防護服を元に戻した。
「おい! ちゃんと息できるかっ? 肌はっ? 異常ないかっ? おいっ!」
「だい、じょぶ……です」
 けほけほと咳をする静香に、大地は無性に腹が立った。
「……来い」
 自ずと声が低くなる。
「……だ、いち、様……?」
「いいから来いっ!」
 とまどう静香を無理矢理引きずり、人通りのない路地のさらに奥まった場所へと入っていった。

 静香はその光景にごくりと唾を飲み込んだ。
 そこには全身をぼろぼろの布で覆った多くの人間が積み重なっていた。時折這うように動き出す。ところどころ露出した肌は黒くただれ、破れたガムテープのようなものをぞろびかせている。魂を残して肉体の生だけ奪われたかのような。人としての息吹を奪われ崩れた肉だけを残されたかのような。紛れもなく人間であるのに、それはもはや人とは呼べない姿だった。
 静香は懸命に目を開く。ひきつる頬に、熱い滴に邪魔されながら。膝が折れそうなほど震えていたが、決して目はそらさない。
「……今の時代、家を持てない人間はみんなああなるんだ。……助けられるか? 気まぐれに猫を拾ってちっぽけな正義感を満足させて一体何になるってんだ?」
 静香の胸元から小さな小さな声が聞こえる。大地は片目を眇めて頬を歪めた。
 静香はうわごとのようにつぶやいた。
「だって……命は尊い、ものなんです。救おうと思ったなら、それこそが人を救う資格なんです。他にはいらない。何もいらない。……なのに私は、彼らを、救えない……?」
 声が聞こえる。

 神よ、どうか私たちをお守りください。お助けください。どうか、どうか、お許しください――。

 まるで亡者の断末魔。彼らが一体何をした。今生で、前世で、どんな罪を犯したと。
 ――神はただ、『在る』だけのもの。人を裁くものではない。だが、ならば――彼らをここへ堕としたのは何者だ。この声を聞き届けるのは誰なのか。
「……救いは――人の心にこそ、あるのです。……あなた方はやがて息絶え、肉は朽ち果て、魂とともに母の御元へと還るでしょう。なれど、想いは大地に溶け、新しい命を芽吹かせ、生の輪の中で生きるでしょう。生きとし生けるもの、幾度も生まれ、幾度も果てる。あなた方は愛されている。土はすべてを赦しています――。どうか、忘れないで……」
 肉は腐ろうとも、心はどこへまでも飛翔していく。自分を救うのは自分自身。静香はただ神の愛を伝えるだけ――。受け止めてもらえることを、願って。
 指を組み合わせてひざまずき、熱心に祈りを捧げる静香の姿に、大地は舌を打ちたい気分になった。だがこの場にはそぐわない。そんな気がする。静香の言葉には穏やかな静寂こそがふさわしい。そう思うからこそ、あえてあらがう。
「……土は毒に冒されてる。純粋培養のおまえにはわかんねーんだ。この大地はとっくの昔に死んでいる」
 静香は大きく震えた。
「いいえ、いいえ。だって私は土に育まれた命を食べて生きてきたんだもの! 土を愛し、逃げずに立ち向かったなら。誰もが本来の姿を取り戻すことができるはず……っ」
「その土は、水は? 最初の種は。一体誰が用意したんだっ? どれだけの金を払って。おまえの力で手に入れたものが一つだってあんのかっ?」
 大地の激怒に声も出ない。静香はさっと青ざめ、アスファルトで覆われた地面に手をついた。
 消えかけた声がニャアと鳴く。
 大地は靴の先をとんとんと鳴らして、静香の体を乱暴に引っ張り上げた。
「猫、助けるんだろ……?」
「え……?」
 静香は何を言われたかわかっていない様子だ。
「清浄な空気を与えたくらいで助かると思ってんのか? 生まれたてだ、もっとちゃんとした処置がいる」
 つかんだ腕を突き飛ばすようにして離し、大地はさっさと歩き出した。後先考えない馬鹿みたいな正義感。脳みそもたりないのに口だけはやかましい女。静香の顔を見たくなかった。


 景子はしきりに背後を気にし、時折ポケットの中の感触を確かめながら歩いていた。昨日が特別だったのだ。もうしばらくあんなことには出くわさない。出くわしてたまるものか! と思いつつ、背筋によぎるぞわぞわとしたものに逆らえない。
 早く大地に会いたかった。
 昨日はお礼もろくに言わず、今朝になって気がついて激しく後悔、反省した。なんたって命の恩人である。ありがとうと、何万回言ったって絶対にたりない。
 景子はドーム都市に入り、求めていた姿を見つけて声を……かけようとして口を閉じた。
 幼なじみの隣には自分の知らない女の子。
 立ち去ろうかと思う。だが自分はお礼を言いに来ただけなのだ。別にデートを邪魔するような用ではない。
 デート。やはり、デートなのだろうか。
 大地は目つきも態度も悪いが、黙って立っていればそれなりにカッコイイ……と、言えなくもないような容姿をしている。しかしひとたび口を開けば女の子はそろってそっぽを向いて去っていく。性格が悪い、とみんな言うけれど、景子はどちらかというと底意地が悪いのではないかと思っている。……同じことなのかもしれないが。
 そんな大地に恋人が? 見てはいけないものを見た。同時に、幼なじみたる自分に紹介してくれてもいいではないか、と思う。
 しばらくの間逡巡して、拳を握ってから声をかけた。

「大地! ちわっ。この子誰?」

 近くで見ると――すごく綺麗な子。アイドルみたいな『キレイ』じゃなくて。もっと浮き世から遠いところにいる、人ならぬもののような、そんな『綺麗』だ。一度見たら絶対に忘れない。なのにどこかで見たことがあるような気もした。
「……彼女?」
 ちろりと表情をうかがえば、大地はひどく嫌そうな顔をした。
「おまえ――こんなところで何してんだ?」
 心なしか声が低い。目つきの悪さも三割増し。もしかしなくても機嫌が悪い。景子はもしや自分がお礼を言わなかったからかと、さっと姿勢を正してみせた。
「大地にありがとうって言いに来たの。昨日は本当にありがとう。大地が来てくれなかったらあたし死んでたよ。なのになんにも言わずに帰しちゃってホントにごめん。感謝してもしきれないくらい感謝してる」
 深々とお辞儀をする。大地はこれみよがしな息を吐いた。
「馬鹿か。家で大人しくしてりゃーいいのに」
 景子はぴくりと眉を持ち上げる。せっかくわざわざお礼を言いに来たというのにその言いぐさはないのではなかろうか。顔を上げて噛みつこうとして、
「どうせなら菓子折くらい持ってこい」
何も言えなくなってしまった。
 確かにそうだ。お礼なんて手ぶらで言いに来るものじゃない。ただ、お礼を言わなくちゃと。無性に話がしたかったものだから。当然の気配りが頭からすっぽ抜けてしまったのだ。
 大地はうつむきがちになる景子の額を見てうっすらと口を開いた。
「……甘いもんは嫌いだ」
 景子はえ、と顔を上げる。
「……あー、礼は聞いたから、明るいうちにさっさと帰れ。今度は近道すんなよ」
「あっ、ありがとっ!」
 しゅんとした心が一気にふくらむ。底意地じゃなくて表面意地が悪いだけなのだ、と、景子は大地に対する認識を新たにした。
 さっさと帰れと言うけれど、もう少し話していたかった。
「ねね、どうして休みなのに制服なの?」
 ちょっぴり気になったことを聞いてみる。大地はかすかに眉をひそめ、
「……あー、色々仕込んであんだよ。宗教上の理由で危害を加えようとしてくるヤツは多くはないけど少なくない」
と面倒そうに言った。
 景子はびっくりして目を瞠る。まさか幼なじみがそんな目に遭っていようとは。
「あっ、あたしもっ、わかるよ! その気持ち! ……今日からカッターナイフなんて持ち歩いちゃったりして……」
「使うなよ」
 強い口調に気圧される。景子は振り子のようにうなずいた。
「もちろんっ、使えないと思うし、気休めだよ、こんなの。お守りっ」
 大地の目が鋭く自分を見据えている。
「え、えとっ、ところでこの子! そうこの子! 誰っ?」
 景子は下手すれば裏返りそうになる声を必死に抑えて尋ねた。大地は途端に渋面になる。
「……草太の女」
「えぇっ、ホントにっ?」
 思わずまじまじと見つめてしまう。これが学校の女の子たちに知れれば血を見る騒ぎとなることは必至だろう。しかし大地は意味不明な訂正をした。
「……あー、いやー、『ゴシュジンサマ』ってやつかも」
「はあぁ? ……いいけど、なんでそれが大地と一緒にいるの?」
 大地はうんざりとした顔になる。
「……おまえ、そんなにコレが気になんのかよ」
 景子は言葉に詰まったが、すぐにゆっくりとうなずいて視線をそらす。
「……なるよ。こんな、綺麗な子……」
 見れば見るほど綺麗な子だ。透き通るような肌。細筆で描いたような眉。唇は桜色。一糸乱れぬ黒髪はつやつやと輝き、人形だと言われた方がよほど信じられるような美しさだ。大きな瞳はとまどったようにこちらを見ている。
 景子は少女の全身を眺め、腕に不似合いなタオルが抱かれていることに気がついた。
「それ、何……?」
 のぞき込めば少し傾けて見せてくれる。目も開ききらないような、生まれたばかりの猫の赤ん坊だった。
「『外』に捨ててあったのをこいつが拾ったんだ」
 大地が言い捨てると、少女の肩がびくりと震えた。
「見捨てることなどできません! この子くらいは、……助けられます。助けられずとも、救いたいと感ずる心のまま動くことは……悪いことではないと……わたくしはそう思います。己の心をあざむいてまで命を見捨て、一体何が得られましょうか」
 発せられた口調はなるほど『草太の女』にふさわしい。しかし景子はそれよりもその中身に気を引かれた。
 少女は必死だ。たかが猫一匹救うために。『外』に捨てられてたならもはや先は見えていただろうに。見て見ぬふりをしたって誰も彼女を恨みはしない。情けをかけなければ猫だって下手な期待を抱かない。なのに何故心を痛める確率の高い方を選ぶのだ?
「沈黙は金……」
「……は?」
 景子がぽつりともらした言葉に大地と少女の視線が集まった。
「あ、いや、ううん。その……傍観は金って、思わない? 関わり合いになったことを後悔するって、あるでしょ?」
 慌てて弁解する景子に、少女ははっきりと首を振った。
「この子を見た瞬間救いたいと願いました。その気持ちに背けば後で悔いることとなります。傍観は罪深く、何よりも……心、痛むこと。わたくし、救いたいという気持ちは恥じることなどないと思っております。例え力及ばずとも、他人の痛みを感じ、幸せを願うこと。そのものが、生き物に備わった大切な力ではございませんでしょうか? それに従い行動すること、わたくしは……迷いとう、ございません」
「……ん。そう、なのかな。そっか、そうかも。そだね。……あは、やだなぁ……」
 景子はなんだか泣きたくなって、どうしてもここで涙を見せたくはなかった。
 ため息の音が聞こえる。
「『沈黙は金、雄弁は銀』ってな」
 大地が疲れたように首を横に曲げた。
「確か『雄弁よりも沈黙の方が説得力がある』みたいな意味じゃなかったか? その使い方あってんのか? 普通は『君子危うきに近寄らず』だろ」
「……え?」
「『関わり合いになりたくない』こと相手に露骨な侮蔑の視線でも投げてやればあってるのかもしれねーけどな」
 景子の頭は混乱した。
「とりあえずさっさと帰って国語辞典でも調べて月曜俺に教えてくれ」
 そのまま歩き出す大地の背中に、うなずきを返すことしかできなかった。


 「大地様は……ものをよく知っておられるのですね」
 静香はぽつりと口に出す。押し黙る背中にずっと話しかけられずにいたが、さっきの女性とのやりとりの途中から雰囲気が和らいだような気がするのだ。歩き方だってどことなく優しいものに戻っている。
 大地は相変わらず振り返らなかったが、返事はちゃんと返してくれた。
「神社の息子だからな。変なことに詳しいことはある」
「神社……?」
「ここが俺の家だ」
 大地は鳥居の前で足を止めた。
「本殿の奥の脇の方、参拝客の目にとまらないところに生活の場があって……まぁ、一通りのものはそろうだろ。ソレ、まだ生きてんな?」
「あ……はい、大丈夫です」
 静香はぎこちなくうなずく。
「あ、あの、失礼かとは存じますが、わたくし、大地様は神の存在を否定なさる方かと思っておりました」
「あー……まぁ確かに、信じてない……? かもな」
「え。ですがこのお社の……」
「話は後だ。今ならちょうど家の方には誰もいないから面倒な説明をしなくてすむ。とにかく来いよ」
 静香は出迎える狛犬や立ち並ぶ灯籠をきょろきょろ見ながら、落ち着かない足取りで参道を駆けていった。

 子猫の体を手でさすり、スポイトでミルクを飲ませ、毛布で暖めて。頼りない命だがなんとかとりとめたらしいことを確認すると、静香は思わず壁に倒れかかった。
 大地が聞く。
「で、こいつをどうする気だ? このドームの中に捨てんのか?」
「そのような……っ、わたくしの宮に連れ帰ります」
 静香は壁にもたれていた背中を勢いよく引きはがした。
「十年間監禁されて、お忍びで外に出るのも困難なところにか? さぞかし草太が困るだろうな」
 大地の言葉に声をなくす。頬が朱色に染められた。さっきといい今といい、大地と話していると静香は自分の考えがいかに浅いかということに気づかされる。――恥ずかしくてならない。顔を上げられずにいると、こもったような声が届いた。
「あー……、違う。……飼ってやってもいいって、言おうと思ったんだ」
 大地は口元を手で覆って言いにくそうにしている。しばらく押し黙ると、眉間にしわを寄せて話し出す。
「……俺は、ここが……嫌いなんだ。……この辺りがドーム区域になったのはこの神社があるからだ。ちっせーが由緒は正しい。歴史のある社だからな。……本来この家は建材を補強し、空調を整えられるほどの財はない。もしも神社でなければあっという間に朽ちて、俺たち一家は……さっき見たような、人ならぬ人の仲間入りだ」
 大地の双眸は自嘲にかげっている。
「……古代、神は聖なる場所に降り、その依代は石や樹木であったらしい。……この神社にそんなものはない。本殿の中にうさんくさげなご神体が眠っている、ただそれだけだ。……今となっては形ばかりの社だが、それでもそのおかげで俺はこうして生きていられる」
 引き伸ばされた口の端がひくりとつった。静香が痛々しくて見ていられなくなるような笑い方だった。
「そんな……」
 大地は静香の言葉を押しのけるようにして遮る。
「知ってるか? 昔、多くの神社を併合して一つにしろという法律があった。強欲な連中は余った社地の鎮守の森を伐採して売りさばき、一財産もうけたらしい。数々の御神木が倒された。当時の連中には神は必要なかったのかもしれねーな。……それがだ。今の時代、人々は神の手を切に求めている。こんなちっぽけな神社に馬鹿でかいドームをあてがうくらいだ。御神木も何もない、ただの掘っ立て小屋に!」
「大地様っ!」
「金をためて何度だって植樹した。でも駄目だ。種のせいか? 土のせいか? 何も芽吹かない。神なんかいると思うか? ……だから宗教に関するもんは嫌いなんだ。見たくない。知りたくない。関わりたくもない。……けど、御神木があれば……少しはこの神社にも御利益ってもんがあるのかもしれない、そう思うからには……ちっとは信じてるのかもしれねー」
 嘲りも影をひそめ、寂しそうに笑う。
「……俺に猫なんか拾えない」
 静香は力いっぱい首を振った。
「でも、大地様は……救いたいと、願っておられました! 猫も……、あの人たちも……っ!」
「……かもな。だから、飼ってやるよ」
 静香は泣いてはいけないと思いつつ、熱いものがこみあげるのを抑えられなかった。

 畳の上に沈黙が沈む。静香は未だ激流をこらえている。大地はため息を響かせると、「まぁ座れ」と言って先にしゃがんだ。静香もゆっくりと膝を曲げる。
「……話がそれたんだ。……俺はおまえにあんなことを言いたかった訳じゃなくて。いや、もっと軽く説明するつもりだったんだが……違う、そうじゃなくて」
 大地は膝と膝の間に埋めた自分の頭をぐりぐりと手でかき回した。
「あー……っと、つまり」
 面倒そうに見えるが真剣に言い淀んでいるのだと伝わってくる。静香は不思議そうに大地を見つめた。
「……悪かった」
 突然の結論である。目で問い返せば大地は激しく舌を打ち、ますます頭を埋めて息を吐く。
「つまり、……おまえの短い時間を、俺のやつあたりで台無しにしただろ? だから」

 悪かった。

 静香はついつい声もなく笑ってしまった。
「謝るようなことなんて一つもない。私、今日という日を大地様と過ごすことができて本当によかった。……色んなことを知って、色んなことを考えさせられて、きっと、大地様だからこそ教えてもらえたことばかりだと思うの。ありがとう。……大地様」
 そーっと頭を上げた大地は真っ赤になっていて、静香はずっとその様子を眺めていたいと心から思った。が、大地は視線から逃れるように顔を背けて時計を見る。
「あー……まだ時間あるな。案内してほしい場所とかないのか?」
「もう少しここにいたいです」
 静香はにっこりと微笑む。
「……そうか。……あー、……テレビでもつけるか?」
 その語尾は確かに上がっていたのに、大地は静香の返事を待たなかった。二人の間にテレビの音が介入する。

『未来をさしあげます。……この度の宇宙開発計画は、……またも、成功しないでしょう。人の手によってつくられた大地が人の分を越えることなどあり得ません……』

 画面の右上には『再放送』の文字が並ぶ。静香と大地はゆっくりと目を合わせた。

『大地は、――母は、この地球……ただ一つ。宇宙は人を育まない。いかな命も、一人では生きていけないのです。人だけが空へ飛び立ったとしても、人にのみ都合の良い命だけを連れ立っても。生の営みはそのように単純なものではありません』

「ガイア教の……斎姫、か……?」
 大地はまじまじと静香を見る。
 ガイア教といえば今ある新興宗教の中では一番か二番くらいに信者数の多いところだ。宣伝が活発でテレビの中継などもやっているので大地でさえそれなりの知識を持っている。
「……本来わたくしどもの教えに名はございません。『ガイア』とは仮の名でございます」
「おまえ、あっこの斎姫つったら教祖みたいなもんだろうがっ」
 斎姫は預言、予言、占いなどの力を持ち、その結果は百発百中、外れたことはないという。そして神の使いというよりは象徴のような扱いを受けている。ガイア教の信者はみな静香をあがめているのだ。
「いいえ、わたくしはただの斎女でございます。他の団体と比較したなら多少は重きを担っておるやもしれませんが」

『……これは予言であり、真理――』

 大地はぷちんとテレビの電源を落とした。静香は膝の上で重ねた指を見つめていた。
「『わたくし』って、舌噛まないか?」
 静香はまぶたを持ち上げる。大地は額に指を当てて息を吐く。
「普通は『あたし』だろ」
 静香には大地が何を言いたいのかよくわからなかった。
「斎女として世俗ずれした言葉を使うわけには参りません。わたくしは『在る』ことで人々に力を与えることのできる存在でなければならないのです」
「……煽動か。けどおまえ、今日何度か『私』って言ったよな。さっきはそのデスゴザイマス語も使ってなかった」
「それは……」
 いつだって心のままを口にしているが、『巫女として』の意識がそれると『静香』の口調が出てきてしまうのだ。
「あっちの方が素なんだろ。楽な方でしゃべりゃあいい。……ついでに俺は『大地サマ』じゃなくて『大地』。無理なら『サン』付け。よろしく」
 人々に力を与える振る舞い方、話し方。どれだけちゃんとやっても全然たりていないそれら。ここで怠けてしまったらもっとたりなくなってしまう。
 そうは思ったが、『巫女』ではなく『静香』として接したいという思いにあらがうことはできなかった。
 いや、今日はもうさんざん化けの皮をはがされたのだ。今さら、あとは言葉一つだけ。
「ありがとう大地様。……嬉しい」
 静香は満面の笑みを浮かべる。大地は眉をひそめた。
「……『大地』。『サマ』抜き」
「楽な方でいいって言いましたよね♪ ……でも私、大地様のお名前が好き。本当に素敵なお名前だと思うんです。だから、猫の名前は『大地』です」
「……はあぁ?」
 大地は思わず奇声を上げた。
「そしたら私にも大地様のお名前、呼び捨てできるじゃないですか」
 楽しそうに微笑む静香に、大地はぐったりと脱力した。
「……訳わかんねー理屈」
 そうして猫の名前は『大地』になった。


第四章 選択


 松本優希は目立たない少女だった。
 ドライヤーもあてないぼさぼさの髪を腰まで伸ばし、学校指定の色を守ったゴムで一つにしている。制服のスカート丈が膝から上にあったことは一度もない。授業中に化粧直しをする女子生徒も多い中、眉を整えることさえしていない。手入れの届いていない肌や光沢がなく色も悪い爪。
 クラスの女子はしきりに彼女を嘲ったが、積極的に関わろうとすることは特になかった。
 彼女自身も人と接するのを避けており、友人らしき相手は一人もいない。休み時間の間も席に座り、指を黒くしてずっと何かを書いていた。
 そのまま誰と話すこともなければ、彼女の望む冷たい平穏は保たれていたのかもしれない。しかし『学校』はそれを許してくれるような場所ではなかった。
 きっかけは些細なことだったといえる。
 ある放課後の掃除の時間、教室掃除に割り当てられていた彼女はいつものように黒板消しを手にし、チョークの粉を払っていた。
 彼女は教室を掃除する際必ず黒板にあたることにしていた。黒板磨きは一人でたりる。始まってすぐに取りかかれば誰と話すこともない。周囲も話しかけるのが嫌なのか、文句を言うような人間は一人もいなかった。

 その日までは。

「ねぇ、あなたいつも黒板やってない? 机運んだことある? なんで勝手に自分の仕事決めてるの?」

 高田亜美。気がつけばいつもクラスの真ん中にいる少女。傲慢と言ってもいいほど思ったことをはっきりと言い、感情の赴くまま行動する彼女を、優希は意図的に避けてきていた。
 そして人を避けるということは、優希にとっては貝のように口を閉ざすことだったのである。

「……いつまで黙っているつもり? 私と話す気がないってこと? 自分で自分の態度が悪いと思わない?」

 次第に眉をつり上げていく亜美に対し、優希はただただ嵐が通り過ぎるのを待った。

「……そう。……ねぇ、私、前からあなたのこと気になってたのよ。あなた友達いないでしょ? ……私がなってあげる。そういう態度がいかに人をいらだたせるかってこと、教えてあげる」

 次の日から優希が一人でいることはなくなった。彼女のそばには常に亜美がいて、クスクス喉を鳴らして笑っていた。
 見えない場所に増えるあざ。爪には時に血がにじみ、授業で指された時さえろくに言葉を言えなくなった。

「なぁに? どうして泣くの? 優希。私はあなたを可愛がってるじゃない。本当に可愛い。馬鹿な子。私が色々教えてあげなきゃ何もできないんだから……」

 クスクス……クスクス……

 亜美が笑う。亜美の周りのみんなが笑う。さざめきがなでるように首を絞める。
 学校に来なければ家にやってきてしまう。両親には言えない。先生は気づかない。

 悪魔よ去れ。

 ――神よ。お助けください。私が何をしたというのですか。信心深く毎日祈りを捧げて参りました。あなたを疑う気持ちなど微塵もないというのに。
 ――神よ。お教えください。人を憎んではならぬとあなたは言われた。私は人としての尊厳を傷つけられてなお、耐えがたきを耐え続けなければならないのですか。……どこまですればあなたのお心にかなうのか――。神よ――。

 私の祈りは届かない。

 それでも優希は神に祈る。


 景子は朝から何度も優希と話そうとして、未だ果たせずにいた。
 優希が一人になった――と思ったら亜美が来て、亜美がいなくなった――と思っても亜美のお取り巻きが囲んでいる。そんなものを恐れていてはいつまでたっても何もできない。そう思ってもいざとなると踏み出せない。
 景子は人壁の向こうの優希をじっと見つめた。その横には亜美がいて、またも薄ら笑いを浮かべている。
 景子は昨日の少女の言葉を思い返した。
 他人の痛みを感じ、幸せを願う力。それに従い行動すること。

 ……迷いたくない。

 ポケットの中のカッターナイフをスカートごしに握りしめる。身を守るためのお守りは強くなるためのお守りへと変わっていた。
 「景子? どうしたの? 今日変だよ」
 英美が心配そうに見つめてくる。景子は曖昧な笑みで答えた。
 クラスの女子に横行するいじめを英美はどう思っているのか、聞いたことがない。自分が意図的にその話題を避けていたこともある。しかし英美の方も少しも触れようとしなかったので、やはり『見て見ぬふりが一番いい』と思っているのだろう。
 止められたくはなかった。

 景子はとまどう英美をおいて、やおら優希の方へと歩き出した。昼休みの喧噪にかき消されていた声が届き出す。
「……隠さなくてもいいじゃない。優希ったら、草太君のことが好きだったのね? ……そうでしょ? 気がついたら見てるものねぇ。……ふぅん、よりによって、草太君?」
 人壁が笑声を響かせる。震えてうつむく優希の顔を、亜美が無理矢理上げさせる。
「優希は健気で可愛いわあ。叶わない想いを胸に抱き続けるなんて、ホント、可愛い。……見ているだけでいいとか、思ってるんでしょう……?」
 景子はその後の展開がすぐに予想できた。
「いいわ。私が一肌脱いであげようじゃない。大丈夫よ、優希。これで小さな期待に夢を見続ける残酷な日々が終わるんだから」
 亜美は優希の恋心をみんなの前で草太に暴露するつもりなのだ。
 「た、高田さんっ」
 渇いた喉の粘ついた唾液を振り切って。景子は壁の向こうへ声を投げた。
「……何? 何か用?」
 亜美は余裕の表情だ。まさか自分が注意されようとは思ってもいないのかもしれない。
 景子はゆっくり深呼吸したが、胸は浅くしか上下しなかった。
「……い、いいかげんに、松本さんをいじめるのはやめたら……っ」
 取り巻き連中の視線が集まる。針のように、痛い。
 亜美は顔の右側だけがひきつったような笑みを浮かべた。
「……いじめる? 私が? 優希を? 馬鹿なこと言わないでよ。私と優希は友達よ?」
 その目には景子のことなどものともしない光があって、景子は負けじと声を荒げた。
「そ、そんなの女子には通用しないわよっ! 昨日っ、トイレで何してたのっ! 松本さん泣いてたでしょっ?」
「ふぅん……。……ねぇ、あなた優希と話したこと一度だってある? この子のこと何も知らないでしょう? この子ねぇ、当然のことを知らないの。特に人への配慮ってものが全然なの。だから私が教えてあげなきゃいけないの。友達だもの。あなたは何の権利があって私たちのことに口を出すの?」
 景子はぐっと言葉に詰まる。
「そ、そんなの……っ」
 否定する気持ちはいくらでもあるのに綺麗に並んで出てくれない。突破口を求めて優希を見る。優希は下を向いていて、どんな顔をしているのかまったく読みとることができなかった。
「私たちの友情に首をつっこまないで? 今までのように大人しくしていればいいじゃない。……ねぇ? 私のことを悪く言うけど、自分の保身はちゃんと用意できてるの?」

 今まで黙って見ていたくせに。

 景子の唇がわななく。そんなこと言われなくたってわかってる。だが。
 景子が押し黙ったのを見ると、亜美は教室いっぱいに高い声を響かせた。

「草太くーん、ちょっと聞いてほしい話があるのー」

 「はい、なんでしょうか」と草太が近づく。景子の呆然とした瞳に優希の座る机がカタカタと揺れているのが映る。景子がはっとした瞬間、亜美はとびきりの猫なで声を出して言った。
「あのね草太君、……恥ずかしがり屋の優希の代わりに私が言ってあげるんだけど、……優希、草太君のことが好きなの。草太君は優希のことどう思ってる? 返事、聞かせてあげて?」
 教室のあちこちから「我妻モテモテー」、「すげぇな我妻、松本なんかもトリコにしたのかよ」などといった声がわき上がる。
 当の草太は至って真摯な表情で、深々と腰を折り曲げた。
「申し訳ありません。……私には……想うひとがおります。……ですが、このような私を想ってくださり、ありがとう、ございます……」
 冷やかしがピタリと止まる。亜美がぽつりと口にした。
「……草太君、好きな人、いたの……?」
 草太は眉をひそめた。
「……はい」
 まぶたを伏せ、そっと開いてためらいがちに言葉を紡ぐ。
「……絶対にかなうことのない想いです。ですが私は……生涯この想いにとらわれて生きていく。ですから、どなたのお気持ちにも応えることはできません。私のことは忘れていただきたい。きっと他に素晴らしい方が待っておりますから」
 声はわずかにかすれている。そこには恋の切なさよりも、苦痛に耐えるような響きがあった。
 亜美はさっと青くなり、「そう、優希は悲しいだろうけど仕方ないわね」とだけ言って大股に離れていった。

 景子はなんとなく草太を見つめる。
 馬鹿丁寧な口調を扱う浮世離れした雰囲気の主。甘くて計算のない態度はどんな女性だってお望み次第。といった感じなのに、どれだけつらい恋をしているというのか。
 草太はまるで雨に打たれたかのように頭を垂れている。
 大地がそれをむんずとつかみ、ドリブルのごとく振り下ろした。
「……今時聖職者だからって結婚できないってことはないんじゃねーか?」
「……? 何の話だ?」
 草太は不快そうに首を傾げる。大地は呆れてため息をつく。
「『静香』の話」
「……静香様の? ああ、昨日の礼はどれだけしてもたりない。いくらでも言おう。本当にありがとう、大地」
「……そうじゃねー」
「昨夜の静香様は非常なお喜びようで、何度も同じ話をせずにおられないご様子だった。大地のことも手放しの礼賛ぶりだ。うっかりと姉にまで語りかねない状態だったが……、……私はとても嬉しかった。ありがとう」
「……だからそうじゃ……」
 聞こえてくる会話。景子は教室の床が糸で編まれているような感覚に陥る。
 『静香』とはおそらくあの少女のことだ。あの子も随分と浮世離れしていたけれど――大地にとっては、『静香』なのだ。
 それだけで心臓をつかまれた気分になるなんてどうかしている。大地はただの幼なじみなのに。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。亜美も自分の席へと戻っていく。優希は相変わらずうつむいていたが、失恋のショックは計り知れないに違いなかった。
 景子は心の中で深く詫び、次こそは守ってあげたいと思っていた。

 大地は席に戻る途中、机や椅子がうるさく騒ぐ中で、聞こえるか聞こえないかくらいの声を出した。
「――松本」
「……松本さんが何か?」
 草太が耳ざとく聞き返す。
「……いや、普通代理の告白を昼休みの教室なんかでやるか? 見せもんだぞ? あいつ――いじめにあってんじゃねーのか?」
 大地は努めて声を落とす。名誉に関わることだ。軽くしていい話じゃない。
「……高田さんが加害者だと? ……しかし彼女は明るい方だ。私のような者にも親しみをもって名前で呼んでくださる。……それに女性がそのような……」
「『女は怖い』って聞かないか? まぁ……少し気になっただけだ」
 昨日の景子がした『関わり合いになりたくない』話が思い出されて。
 大地は優希を一瞥し、考え過ぎか? と首を振った。

 授業が終わってさっさと帰ろうとする大地を、景子は何故か呼び止めていた。
「あっ、えっ、あのっ、ね、猫っ! 猫どうなったっ? 気になってたんだよね!」
 とっさに引き出した話題は言いたかったこととは少しずれているような気もしたが、本当は何を言いたかったのかなんてわかるはずもなかった。
 大地は面倒そうに片目を眇める。
「……今のところ生きてる」
「そっか! よかったね。……それにしても珍しいよね。捨て猫なんてさ」
 動物を買うなんてよほどのお金持ちじゃないとできない。野良なんて見たことがない。
「……どっかの大金持ち没落。周囲にペット飼うなんつー道楽やるアホがいなかった。夕飯のおかずになるところを子どもが必死の思いで逃がした? 俺の想像力じゃ他に思いつかねー。ドームの中に捨てりゃあ夜には撤去される。……苦渋の選択だったのかもな」
 大地の推論に景子も想像力を働かせてみたが、どっこいどっこいのレベルだった。
「そうだね。それにしても『外』に捨てられてよく生きてたよね」
 人間がガスマスクなしに外を歩けば一分もしないうちに死んでしまうというのに。
 その点については大地も不思議に思っていた。
 おぼろげな記憶によると、猫は一匹では生まれない。しかし箱の中には一匹しかいなかった。一匹だけ捨てられたとしても、『外』に出てからそれなりの時間がたっていたはずだ。
 昨夜も今朝もちゃんとミルクを飲んでいた。帰ったら死んでいるなんてこともないだろう。最初は家に着くまでもたないだろうと思っていたのだが。

「人間なんかよりクローン動物の方がよっぽど強いのかもね」

 景子のつぶやきにはっとした。
 静香のことが脳裏によぎる。
 普通の装備で外に出られない。普通のものを食べることができない。彼女は異質だ。だがはるかな昔、彼女こそが『普通』だったのかもしれない。
 鳥は落ち、魚は浮き、獣は果て――今地球に生きる動物は食用のために作り出された人工物だ。様々に手を加えられ、きっと本来のものとは異なっている。
 ならば――普通の装備で外出し、普通のものを食べることのできる自分たちは――? 本当に『普通』と言えるのか? もしや、知らぬ間に――『人ならぬもの』になっているのではないのか――?

 考えてはいけない。

 自分は人間だ。他の何だというのか。飛躍しすぎだ。
 大地は目眩に耐え続けた。

 「大地?」
 景子は急に固まってしまった大地を怪訝に見やった。
「あー……?」
 大地はなんだか重たそうに頭を傾ける。景子は心配になって、明るい声音で明るい質問を投げかけた。
「猫の名前、何にしたの?」
 途端、大地が思いきり顔をしかめる。景子は思わぬ反応にびっくりした。
 大地ははあと息をつくと、仕方がないという素振りで言った。
「……『ポチ』」
「……嘘でしょ?」
 景子は白い目を向ける。
「何? 言えないような名前? すっごい気になる!」
 らんらんと目を輝かせて腕をつかむと、大地はうめくような声を出した。
「……一応抵抗はした。けどあいつが……」
 『あいつが……』
 『静香』だ。『静香』のことだ。
 景子は自分の顔が張りつめていくのがわかった。

 大地はただの幼なじみだ。

 まるで言い聞かせるようにそう思う。しかし景子は聞きたくてたまらない。

『その子のこと、好きなの――?』

 自分よりも大地の近くにいるの――?

 聞いたら教えてくれる? そのくらいは心を許してくれてる? でも聞きたくなんかない。どんな言葉が返ってきたって、大地の口から他の子のことなんか聞きたくない。

 ――好きなんだ。

 景子は今はっきりと自覚した。

 好きになっちゃったんだ、大地のこと。

 意識すると顔を見ていられなくなった。
「も、もういい。大地が言いたくないなら、別に」
 紅潮する頬を悟られないよう深くうつむく。大地は眉間に指を置くと、小さくうなずいて景子を見た。
「ああ。……じゃあな」
 あっさりと告げられた別れの言葉に心臓の血が滞る。今までは平気だったのに。これから毎日こういった思いをするのだ。――なんてつらいんだろうと景子は思った。

 左手で右肩の布をつかみ、腕で胸を押さえるようにして机の上の鞄に向き直る。背後から声をかけられた。
「……帰ろっか」
 英美が浮かない顔で立っている。いつもはやっと解放されたとばかりに嬉しそうな顔で帰るのに、一体何があったのだろうと景子は聞かずにいられない。
 英美は言いにくそうに眉を寄せたが、おずおずと目を合わせて口にした。
「……あのね、……景子、松本さんと何かあったの?」
「え……何も、ないけど」
 景子の胸が見えない何かで圧迫される。
「じゃあ……どうして昼休み、あんなことしたの? これからは景子も亜美ににらまれるよ? いじめにあわなくたって、班分けのときとか……どうするの?」
 英美は視線をそらさない。
「……景子がにらまれたら私だってにらまれちゃうよ」
 景子は喉の奥に粘土を詰め込まれたような気がした。
 悲しみ? 憤り? 罪悪感? ……後悔?
 胸のざわめきがせり上がってくるのに出口がない。英美の眼差しが自分を責めているようで、息をするのもおぼつかない。

 「あの……」

 金縛りを破ったのは意外な人物の声だった。英美も目を丸くしてそちらを見る。
 松本優希が、景子に話しかけようとしていた。
「……話したいことが、あって。……ついてきて……くれる?」
 そんなはずはないのだが、初めて彼女の声を聞いたように思える。うつむいた顔に心持ち上目づかいな瞳。腹の前で重ねられた手。声は空気にも溶けそうだ。何もかも、ためらいがちな。
 行かなければと景子は思う。同時に、英美の前にいたくなかった。
 何も言わなくても景子がついていこうとするのがわかったのか、英美は「じゃあ私先に帰るね」と、あっさりと教室を出て行った。
 景子はどこかほっとした自分を複雑に感じながら、鞄を持って優希の後をついていった。

 廊下を通る間、優希は一言も発さない。元々無口な人なのだ、仕方がないと思いつつ、景子は居心地が悪くてたまらない。
 話はおそらくいじめについての相談だろう。いくらでも聞いてやろうと思っている。自分の他に言える相手はいないだろうから。――昨日までの彼女を思うと胸が痛んだ。
 下校する生徒の流れが少しずつとぎれていく。交わし合う別れの挨拶が遠くなる。机を運ぶ音、ぞうきんを絞る音、ほうきを掃く音の中を通り抜ける。
 景子は妙な違和感を感じた。何かがおかしいような。それが何かはわからないが。
 女子トイレの前を通ったとき、その違和感は倍増した。
 次第に人気のないところへと進んでいく優希。それはいいのだ。いじめに関する相談事など人のいるところではできやしない。それよりも。
 何故今優希は――一人なのだ?

 たどり着いた先はほとんど使われていない倉庫だった。扉に近づこうとする優希に、景子はためらいながらも問いかけた。
「あのさ……高田さんとか、みんなは? 今日は大丈夫なの?」
 優希はくるりと振り返り、顔中の筋肉を弛緩させた。
「……亜美は我妻君のことが好きだったの。今日……私を通して亜美も失恋したから。それをみんなには知られたくなかったの」
 初耳だ。しかし質問の答にはなっていない。景子が怪訝な顔をすると、優希は長い髪を払いのけてゆらりと景子に笑顔を向ける。
「……今日はどうして、止めようとしてくれたの……?」
 景子はなんだか恥ずかしくなった。
「うん……でも止められなかった。ごめんね。……いつも、助けてあげたいとは思ってたんだ。だけど勇気がなくて……あたしも高田さんのこと、怖かったから。ごめん。でもこれからは、あたし絶対力になる! 約束するからっ!」
 青春ドラマみたいな台詞。だが嘘偽りのない気持ちである。
 初めて見た優希の笑顔ははかなげで、庇護欲というやつをかき立てられる。そういう意味では亜美の『可愛い』発言にも納得できた。きっと友達になれるだろう。
 優希はうつむいて倉庫の外壁に手をついた。
「……亜美が私に何をしてきたか、知ってる……?」
 景子には答えられなかった。見たくないと願ってきたから、具体的に優希が何をされてきたかは知らないのだ。
 優希はぽつり、ぽつりと話し出す。
「……朝来たら上靴が水浸しで……授業中には後ろの席の子が首にシャーペンの芯を突き刺すの。……休み時間には『綺麗にしてあげる』とか言って、蛍光マーカーで顔に落書きされる。……トイレに行ったら上から物を投げ込まれる。戻ってきたら教科書もノートも筆箱も、鞄も全部なくなってる。昼休みにはお弁当を捨てられて、『これを食べろ』ってぞうきんに顔を押しつけられたこともある。……放課後は勝手に帰ることができないの。掃除が終わるまでずっと待ってて……女子トイレの掃除で亜美と一緒になったときはまるで地獄のようだった」
 景子は声をなくす。もっと早く助けてやればよかった。助けなければいけなかった。
「……掃除が終わるといつもこの倉庫につれてこられた。殴られたり蹴られたり、ハサミやカッターでいたぶられたり。……亜美はずっと笑ってる。『友達だから可愛がってる』、『色んなことを教えてる』、……『優希の友達になろうとする人なんて私くらいよ』、『優希はみんなに嫌われてるの』。『先生だって、気づいていないんじゃない、気づかないふりをしているだけよ』……亜美はずっと、笑ってるの」
「そんな……っ、そんなの嘘! あたしが友達になるよっ! これからはあたしがいるからっ!」
 景子はそう言わずにはいられなかった。聞いているだけでもつらいのに、優希は涙を流さない。もはや枯れ果ててしまったかのように。
「……中に閉じこめられたこともある。やっと帰れると思ったらガスマスクが切り刻まれてて……保健室で借りさせてもらって、理由を聞かれても答えられなくて……。いじめられてるって、親にも言えなくて……。神に祈りを捧げる度、私は救いに値しない人間なのかもしれないと……何度も疑心を抱いてしまいそうになって、ますますそう思わずにいられなくて……」
「もういい! もういいよっ! つらかったねっ……苦しかったねっ」
 景子は優希を抱きしめた。優希はうつむいたまま、景子の腕を強くつかんだ。
「……つらかった。……苦しかった。……ねぇ、……本当にわかってる……?」
 見た目からは考えられないほどの力が景子の腕を締めつける。
「……私がどんな日々を過ごしてきたか。わかってそう、言ってるの……?」
 血が止まる。腕がちぎれそうだ。うめきをもらせば力はますます強くなる。
 優希はなで上げるような笑声をもらした。
「……私は何度も助けを求めたのに。……がむしゃらに泣きわめいて訴えたのに。どうして今になって? ……気づかないふりをするのに飽きたの……? それとも今度は気まぐれな救いで優越感を楽しむつもりなの……?」
「違うっ! あたしはっ、友達に……っ」
 景子は優希の指を振りほどこうともがくが、まるで枷のように外れない。耳に届く言葉は茨となり、鋭い棘で突き破る。
「『友達』に……?」
 やっと解放された。
「……そう。友達に、なりたいの」
 しっかりと心を伝えようと、優希の瞳をまっすぐ見据える。優希は緩やかな笑みを浮かべた。
「……聞いて。私は救いに値しない人間ではなかった。……昨日やっと、神は救いを差し伸べてくださった。……悪魔を倒す許しを……くださったの。ねぇ……見て」
 倉庫の引き戸が開け放たれる。
 その中は、赤く、染まっていた。
 床に走るいくつもの線。中心でじわじわと領域を広げる呪われた沼。そこに沈む壊れたマリオネットのその顔は――亜美。

「……亜美が悪魔でよかった。悪魔は打ち倒されるものだもの」

 これは夢だ。景子はまばたきもできない。早く目を覚ましたいのに。
 優希は声を立てずに笑う。
「……神よ、私にもう一度力を与えてください。この悪魔を地獄へ帰すための力を――。私はもう、けして疑いを抱かない」
 亜美の躯からナイフを抜き取り、ゆっくりと景子に向けてくる。
 正気じゃない。――何故。
 景子は声が出なかった。体に力が入らない。この浮遊感。絶対に夢だと思うのに!
 曇りのないナイフがぎらりとした光を放つ。一歩、また一歩と近づいてくる。景子はよろけた拍子に後ずさり、太股に固い感触を得て覚醒した。
「よ、寄らないで……っ!」
 キリ、キリ、と、刃を伸ばす。身を守るための、強くなるための武器。ただの文房具だが、Kはいつだってこれで立ち向かい、生き延びてきた。
 優希の頬がかすかに引きつる。
「ああ……やっぱり……あなたもそれで私を刺す。亜美の代わりに。『友達』として。でも今はもう……私には神の許しがある」
 し損じることはありえないとでもいうように、優希は一歩一歩踏みしめて近づいてくる。そのまま景子の胸へとたどり着くのが、理だといわんばかりに。
 そのとき景子は初めて防犯ベルのことを思い出した。ポケットに入れっぱなしだ。さっき手を入れたとき指に当たったと思う。しかし。景子はカッターを握る手にぐっと力を込めた。優希の瞳に迷いがないからだろうか? 大地のように身を守る技を持たないからだろうか? それこそが生き延びる術のように思えたのだ。
「それ以上近づかないで。あたし人間だから。やられるばっかじゃないんだからね」
 優希はきょとんとした顔をして、一気に景子の前へと踏み込んできた。
「いや……っ」
 景子の肩が打ち付けられる。押さえつけてくる力にあらがうと、鋭い刃が首をかすめた。

 本気で殺すつもりだ。そして亜美のようになるのだ。

 どうして自分が? 何もしていない。優希を助けようとしただけなのに。
 こんなことで。『悪魔』なんて呼ばれて。狂気にとりつかれた相手に殺されてたまるものか――っ!

 景子は渾身の力を込めて右手を引いた。

 ざくり、と。

 感触が音となって耳を打つ。生ぬるいものが降りかかる。優希が眦が切れそうなほど目を見開く。
 景子は優希の体を押しのけて、一目散に走り出した。

 人を傷つけた。
 自分の意志で。確かに刺した。殺してしまったかもしれない。
 だって、殺されたくなかった!

 手から凶器がこぼれ落ちる。景子は慌てて拾い上げ、床に付着した血をティッシュでごしごしと擦り取った。顔にかかった血も拭い取って。カッターも綺麗にしてキリキリと刃を収め、何もかもをポケットの中にしまい込む。中指の先に防犯ベルがカツンと触れた。

 どうしてこっちを選ばなかった? どうしてすぐに走って逃げなかった? ゲームとは違うのに。立ち向かったからって何が得られるわけじゃない。

 人を切った、感触。

 悪魔に肌をなぞられたような寒気が全身を襲う。息の根が止まりそうなほど震えながら、おくびにも出さないよう拳を握る。誰とも目を合わさぬように、何食わぬ顔でゆっくりと歩いていく。

 景子は自分で自分が信じられなかった。


第五章 現実


 警察が来る。

 布団の中で膝を抱える。全身が力無くわなないて唇も結べない。時計の針が心臓をたたく。固く固く目を閉じるのに、いつまでたっても眠れない。

 これは夢だ。

 今日の放課後から。一昨日の帰り道から。ずっと夢を見続けている。
 人を殺したかもしれないなんて。警察に捕まるかもしれないなんて。絶対嘘に決まっている。やわらかな肉を裂いた音。噴き出してきた温かな水。全部、全部作り事だ!
 生ぬるい生活はどこへ消えた? 何故自分がこんな目に遭うのだ。何もしていない。ただ助けようとしただけだったのに!
 そうだ。自分は何も悪くない。正当防衛だったのだ。命が危なかった。他に手段は――あった。
 景子は震える手をポケットの中にねじ込み、中の物を取り出した。血を吸ったティッシュのかたまり。凶器であるカッターナイフ。それから、防犯ベル。
 もしも優希がゲームの中の敵キャラだったら、自分の取った行動は間違いではなかった。だがここはパソコンの中ではない。紛れもない――現実世界なのだ。
 なんてことをしてしまったのだろう。
 戦慄が上から殴りつける。景子はベッドに沈み込み、自分の体をきつく抱いた。
「……自首……しないと。……松本さん、死んじゃった……?」
 確かめるのは恐ろしかった。布団の中から顔を出すことさえ恐ろしくてならない。殺そうとしたわけじゃなかった。ただひたすら自分の身を守りたかっただけ。人を刺すだなんて、本来そんな恐ろしいことをできる人間じゃないのだ。警察に行かなければ。しかるべきところへ……。
 思い浮かぶのは牢獄のビジョン。警察は自分のことをちゃんとわかってくれるのだろうか? 本当に話を聞いて、しっかりと理解してくれるのか?
 誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしかった。「君は悪くないよ」と。「仕方がなかった」と、「怖かったね」と。嘘でもいいから。優しさだけは偽らず。
「だ……いち。……大地。大地。……あ、あぁ……うっ」
 粗雑で無愛想だけれど、本当は優しい幼なじみ。彼ならきっとわかってくれる。会いたかった。抱きしめてほしかった。

 だが、知られたくない。

 もしも、もしも軽蔑されたなら。いとわしげな目で見られてしまったら。考えるだけで全身の血が凍って割れる。
 そうだ。こんなことになってしまって、明日から自分の周りはどうなってしまうのだろう。
 学校には行けなくなる。英美も、誰も話しかけてくれなくなる。クラスのみんなはどう思う? 先生は? 両親は? 誰一人自分と同じ選択を強いられたことがないくせに、何故そんな目に遭わなければならないのだ。
 何故自分だけが。……こんなことで!

 ――隠し通さなければ。

 明日も大地と話したい。明後日も、明々後日も、ずっと。普通に。生ぬるくてかまわないから。
 ティッシュは気づかれないよう燃やせばいい。カッターはどこかに埋めればいい。もしも優希が生きていたらどうすればいいだろう? それはそのとき考えるしかない。
 渇ききった喉の唾を飲み下す。景子は布団の中から這い出て髪をとく。乱れた髪が一筋、また一筋と整っていく。くしを置き、色つきのリップを唇に引く。制服はしわくちゃだったが、首から上はきっちりと整った。

 部屋の扉に手をかけようとすると、コンコンと控えめなノックが響いた。
「……景子? 調子は大丈夫?」
 母親の声に心配以外の響きは入っていない。
「……大丈夫」
 景子が慎重に答えると、小さな音を立てて扉が開く。
「手紙が来てたから」
 母親は一通の封筒を差し出した。
「……何か食べたくなったら降りてきなさい。おにぎりを置いておくから」
 景子は軽くうなずいて、受け取った封筒をまじまじと見た。真っ白な封筒に差出人の名前はない。
 扉を閉めてベッドの上に座る。少し迷ったが、カッターで封筒を開けていく。
 中には一枚の紙と一枚の写真。景子は今まで何度もこういった手紙を受け取ったことがあった。

 ゲームの中で。

 それは必ず一枚の紙と一枚の写真によって構成されている。写真は明らかに隠し撮り。紙にはプロフィールがずらりと並ぶ。まるでパソコンの中からこぼれ落ちたかのような。それ、そのままの。――『虫退治』の、司令書。
 ――誰がこんな悪戯を。そう思いつつ指が震え出す。

 写真に写っていたのは英美だった。

 もしや誰か、自分が優希を刺した現場を見ていたのだろうか?
 景子の喉がきゅっと締まる。間の悪い悪戯か? それとも、脅迫、なのだろうか?
 『虫退治』の期限は一週間。一週間たっても放っておいたら何がある? ゲームオーバーのその先に、『コンティニュー』の文字が浮かぶ。例えパソコンから抜け出ても?

 これは悪い――夢だ。

 だが景子の右手はすでに人を裂く感触を知っている。


 火曜日の時間割。鞄の中にそろう教科書を見つめながら、景子は『火曜』ということを強く意識した。手紙を受け取ったのは月曜の夜。もしもあれが脅迫ならば日曜が期限ということになる。時は刻一刻と過ぎていく。
 優希は死んではいなかった。だが生死の境をさまよっている。彼女が目覚めれば自分のしたことが明るみに出る。目覚めなければこの脅迫に対し、どう立ち向かえばいいのだろう。
 景子は大地を見つめる。その周りでは草太と英美が楽しそうに会話していた。ごくありふれた日常の情景。昨日までは自分もあの中にいたのに、たった一晩でどこまで遠くなってしまったのか。未だに夢を見ているのではないかと思ってしまう。
 英美は今朝のホームルームで亜美の死と優希の重体を知ると、景子に一言「……大変だったね」と言った。廊下で会ったときからずっと沈んでいた景子の状態を、『巻き込まれた』からだと思っているらしい。好奇心を抑え、口を閉ざして、ただそっとしておいてくれる。景子にはそれが非常にありがたかった。
 英美は高校からの友達だ。一年生の最初の日、出席番号が近かったことで話し出し、意気投合して今に至る。二年でも同じクラスになったときには二人して飛び上がって喜んだものだ。朝から『虫退治』のことで盛り上がり、休み時間には先生の悪口を言い、放課後には好きなドラマやアーティストの話をしながら一緒に帰る。トイレだって一緒に行くし、授業でグループ分けがあれば必ず二人、離れずにいた。
 大切な友達。クラスの女子の中ではたった一人の自分の仲間。景子は何度も英美を見ては無理だ、と思う。英美でなくても無理だが、英美ならば余計に無理だ。
 しかし常のごとく平和の中にいる英美に、自分に与えられた指令を突きつけてやったら一体どんな顔をするだろう? そのときの反応を想像すると嗜虐的な心がざわめきだす。景子は打ち消すように首を振った。
 大地と何でもいいから何か話したかったが、日常に触れて己の非日常が浮き上がるのが怖かった。
 まともな授業は行われず、景子にとっての火曜日はあっという間に過ぎていった。

 水曜日。一晩越すごとに右手の感触が薄れるような気がしていた景子の心を、早朝の電話が切り裂いた。クラスの担任からのもので、景子が優希と一緒に歩いているのを見た人がいる、何か知らないだろうか? 是非話を聞かせてほしい、といった内容だ。
 まだ誰もいない廊下を進みながら、景子は黄泉平坂を歩いているような気分になる。しかしそれにはやがて終わりがあり、地獄の門が待っている。
 教師の周りには数人の警官がいた。穏やかさのない固い声で事の次第を問うてくる。
「……松本さんは高田さんにいじめられていました。……クラスの女子ならみんな知ってると思います。……みんな見て見ぬふりしてました。……でも私はその日の昼休みに、高田さんのことを止めようとしたんです。けど止められなくて、友達に『もうそんなことしない方がいい』と言われて、だから、放課後松本さんに呼ばれてついていったけど、途中で思い直して引き返しました。そしたら朝先生が……高田さんが亡くなったって……」
 事実をねじ曲げた嘘はすらすらと口をついて出た。景子は二度と戻れないと感じながら、不思議と罪悪感のようなものはなかった。ただ追いつめられた思いだけがある。
「……そうか。松本は高田に……それで二人がもみ合って……」
 教師の言葉に「はい」と言おうとして、声は音にならなかった。
 教師は景子の顔色を心配して早々に切り上げてくれた。そろそろ授業が始まるというのもある。警官は終始表情を変えずにこちらを見つめていたが、特に何かを言うようなことはなかった。
 息の詰まる空間を出た途端どっと汗がわき上がる。乗り切った、とは、とても思えない。
 一つの嘘を守るにはもう一つ嘘が必要になる。そうしてどんどん増えていって、やがて嘘に押し殺されてしまうんですよ。
 そう言ったのは幼稚園の先生だったか。だが景子が守りたいものは嘘ではない。日常だ。かけがえのない、この毎日。どうしてこんなことに、と、何度も数え切れないくらい考えたことをまた思う。景子は深い息を吐いた。

 朝のホームルームで、担任は早速遺憾の意を表明した。クラスの中にあったいじめについて、裁かないまでも遠回しに責めたのだ。「本当に残念だ」、「まさかそんなことがあったなんて」、「もうそんなことはないようみんな仲良く」。沈痛な面持ちで同じ言葉を繰り返す。
 男子はあっけにとられたような顔をしていた。女子は何も聞かずとも、誰が秘密をもらしたのかみんなわかっていたようだった。

 一時間目が終わった後の休み時間。景子はただ「あれ?」と思った。英美が自分のそばに来ないのだ。教室の中を見渡すと、少し離れたところで数人の女子に囲まれている。
 景子はかっての優希の姿を思い出し、いてもたってもいられず近づいた。
 しかし、
「うん。そうだね。他にいないよね。だってあのとき……」
いやらしい笑い声もすすり泣きも何もなく、英美はいたって普通に話していた。
 景子はほっとして、輪の中に入ろうと身を乗り出す。「何話してるの?」と問いかけると、集団はいっせいに景子を見た――かと思うと顔を背けた。そうして再び普通に話し出す。
 景子は首を傾げた。英美も自分の方を向いたのに、何も言おうとしてくれない。苦虫を舌の上に乗せたままチャイムの音を耳にした。

 二時間目が終わっても、三時間目が終わっても、英美は一向に自分のそばに来る気配がない。あまり話したこともない女の子たちとぺちゃくちゃ言葉を交わしている。
 明らかに避けられている。
 景子は昼休みこそ英美を捕まえて話をしようと思った。
 知らず唇を噛んでいると、目の前にぬっと黒いかたまりが現れる。大地だった。
 景子は目を丸くして思わずのけぞる。大地はいつものように「あー……」と言い淀みながら、そこには面倒そうな響きは微塵も含まれていなかった。何かを言おうとして景子の前までやって来て、やっぱり言うまいかと考え込んでいるような様子だ。
 眉間に寄ったしわを指で押し広げてからゆっくりと目を合わせてくる。
 景子の鼓動がうるさくはねた。
「……『沈黙は金』、は、松本のことだったのか?」
 その口からその名前が出たことに戦慄した。
 大地は返事を待っている。
 景子は言葉もなくただうなずく。
「……そうか」
 景子がうつむいたまま視線だけを持ち上げると、大地はひどく苦い顔をしていた。
 景子の中に何かがすとんと落ちてきた。
「……もっと早く、最初に気づいたときに止めていれば、……こんなことにはならなかったのかもしれない……」
 うわごとのようにつぶやく。優希は亜美を『悪魔』だと言った。その所行を止めずに見ていた自分たちも、優希にとっては充分『悪魔』だったのかもしれない。もっと早く――そうすれば、優希は自分の言葉を信じてくれたのかもしれない。亜美だって死ぬことはなかったに違いない。

 ――今となっては、何もかもが遅すぎる。

 大地は景子の頭をつかんで軽く押した。景子は泣きたいほどの切なさを押さえ込む。息を呑んだ拍子にすべてを打ち明けてしまいそうで。しまいたくて。でもできなくて。ずっと下を向いていた。
 それを見ていた女子の集団がひそひそとざわめいていたことに、景子はまったく気づかなかった。

 昼休みになり、景子は他の子と教室を出ようとする英美を慌てて捕まえた。
「私、友達と約束してるから」
 英美はすげなく背中を向ける。景子は英美の制服を引っ張って、
「待ってよ! 急にこんなの納得できないよ! あたし、何かしたっ?」
ところかまわず大声を張り上げた。
 英美がくるりと振り返る。
「亜美と松本さんのこと、先生に言ったの景子でしょ? みんなすごく怒ってる」
 景子には理解できない。それと英美の態度の急変とに一体何の関係があるのか。
 英美はわずかに声を落とす。
「景子のことは好きだけど、景子と一緒にいると私が無視されるんだもん」
 それがすべての答だとでもいうように、踵を返して立ち去ってしまった。
 景子は呆然と立ちつくした。

 そんな理由で?

 さっきのは本当に本物の英美だったのか? とてもじゃないが信じられない。だが今自分はたった一人で、鞄の中の昼食を一緒に食べる相手はいない。
 景子にはどこか英美さえいれば自分は一人ではないという思いがあった。だから気の合わない相手と積極的に話をすることはなかった。しかし英美の方は一番仲がいいのは景子だったが、それなりにまんべんなくクラスの女子とうち解けていた。景子がいなくても英美が一人になることはない。
 教室の床を編む糸が、一本ずつばらけていく。景子はふらふらする体を必死に支えながら、鞄を開いて弁当を見る。教室中の視線が自分に集まっているような気がした。
 大地と草太はまだ学食から戻っていない。他に親しい相手はいない。景子は弁当箱を胸に抱え込み、逃げるようにして教室を出た。
 左右に伸びる廊下を前に立ちつくす。行き交う人々は景子になど目もくれず、それぞれの仲間とそれぞれの場所へとむかっていく。
 景子は教室を振り返って時計を確かめ、腹に鉛を埋め込まれた気分になった。

 五時間目、六時間目と、景子は英美の姿をじっと見つめる。早く嘘だと言ってほしくて。自分がいずとも平気な笑顔に耐え続ける。しかし英美は何も言わず、こちらを見ようともせず、景子の希望を次々と押しつぶしていく。
 放課後、教室には誰もいない。景子は一人立ちつくす。英美が来ないことは知っている。それでもその場から動けない。
 何がどうしてこうなったのか。そればかりを考えていた。

 木曜の朝。景子は教室の重い扉を押しのけ、聞こえてきた声にどきりと胸を高鳴らせた。大地と草太が楽しそうに話している。低い声が耳に心地よい。
 景子が聞き惚れていると、草太がとびきりの宝物を差し出すようにして微笑んだ。
「静香様から伝言をお預かりしている。……『大地』は元気? と」
 大地がしかめっ面になる。
「……草太、おまえ知ってんのか?」
「それほど嫌ならばお断りすればよかったろうに」
 草太は微笑をときほぐし、大地はますます顔をしかめる。
「……家では『ネコ』って呼んでる」
「それは、……静香様がさぞお嘆きになられるだろう」
「……それはねー……と、思う。だいたいその名前になったのはあいつが……」
 大地が机に突っ伏してため息混じりにつぶやくと、草太は小さく吹き出した。
「可愛らしいお考えではないか」
「……だから折れてやったじゃねーか」
 大地はうめくようにしている。
「ありがとう、大地。どちらの『大地』も元気でしたと伝えよう」
 そして何も言わなくなった。
 景子は息ができなくなる。『静香』。その名前を聞く度に胸が痛む。あんなに綺麗な少女が大地を選ぶはずはない。自分以外に大地の良さなどわからない。そう思っても、大地自身は一体どちらを選ぶのか。とても勝ち目があるとは思えない。
 大地のそばにいるのが自分だけだったらいいのにと、馬鹿みたいなことを真剣に考え込んでしまう。
 自分が今ここにいるのは――その一番大きな理由は――大地のことを見ていたいから。なのに。
 大地は机に突っ伏したまま、きっとあの子のことを見ている。

 今日も英美は他の女の子たちと一緒になって景子のことを無視している。景子は休み時間になると極力自然を装って大地のそばに行くようにした。
 無視されていることは話せなかった。自分が悪いとは思わないが、情けなさは拭えなくて。大地はきっと軽蔑しない。きっと守ろうとしてくれるだろう。だが景子は立ち回ってもらいたいのではなく、ただ普通に、『いつも』と変わらぬ態度でそばにいてほしかった。
 昼休みになると大地は草太と連れ立って学食に行ってしまう。予鈴が鳴るくらいになるまで帰ってこない。
 景子はため息をつき、弁当箱を抱えて隣のクラスをそっとのぞいた。
 二年になりクラスに英美以外の友達がいなくなってから、二人の友情が深まる分他のクラスの友達とは疎遠になっていった。こうして昼食に混ぜてもらいにいくのはとても気まずい。
 教室の中の友達はみんなでまぁるい円を作ってすでに食べ始めていた。絶え間ない笑顔と笑い声。
 景子は友達には正直に話して理解してもらうつもりでいた。しかし楽しそうなその様子を見ていると、話してはいけないことのような気さえしてきた。頭の中でぐるぐる言い訳を考えて、立ちつくして、どんどん気力が萎えていく。景子は教室を通り過ぎた。
 今日も食べずにいようかと思うが、これから毎日こんな日々が続くのだ。肺をたたいて歩き出す。
 誰もいない美術室に潜り込み、扉を気にしながら昼食をとる。
 宗教での差別を防ぐため、校内では宗教的行動を控えることが求められるが、誰もいないのだからかまわないだろうと祈りを捧げた。
「海よ、山よ、川よ……今日も私を生かしてくださり、ありがとう……ございます。……どうか、くじけない強さを……」
 配列野菜、合成食品。いつも食べ慣れているはずのそれらは、ちっとも美味しいと思えなかった。

 女の子は陰口をたたく際あまり声をひそめない。もしかしたらひそめているつもりなのかもしれないが、本人のすぐそばでしているのだからそもそもあまり隠すというつもりがないのだろう。いや、近くにいるときも遠くにいるときもいつもひそひそやっているという可能性も捨てきれない。
 景子はそんなことを考える。言われる側になるまでは本当にどうでもよかったことだ。今だってどうでもいい。いいのだが、自然と耳が向いてしまう。抑えられた笑声というのはなんて耳障りなのだろう。
 「えー、うそぉー」、「ふぅーん、やっぱりー」。どうでもいい連中のどうでもいい言葉の中で、英美の声を探している。
「うん、毎日ネトゲーやってるんだよ? それで徹夜して寝不足になってるの」
「毎日徹夜? 一年間? 普通そこまではまるぅ? オタクっぽーい」
 景子は握った拳に親指の爪を食い込ませた。

 自分だってずっとはまってるくせに。

 たわいのない陰口だ。悪意のない世間話でも通用しそうなレベルのものだ。それでも、その口が、そんな口調で、そんな連中と!
 手首から先がぶるぶる震える。
 英美は仕方なく話に乗っているに違いない。きっとそうでもしなければグループから外されてしまうのだ。だから……自分を裏切ったのも、仕方のないことなのだ。

 ホントに?

 景子は思考を無理矢理遮断した。それ以上は考えてはいけないと思った。予鈴はとっくに鳴っているのに、本鈴は一体いつ鳴るのだろう。笑声が耳に届くたび、力いっぱいまぶたを閉じた。

 やっと五時間目が始まると思ったら担任が来て、クラスの全員が亜美の葬式に行くことになった。
 生前の亜美が友達と呼んだ人間は誰一人として涙を流さない。静かな表情で手と手を合わせて目を閉じている。景子には悲しみをこらえているようには見えなかった。
 一人の人間がいなくなり、もう一人は生死の境をさまよっているというのに、教室の中身は少しも変わらない。あいた穴を埋める代わりをすぐに見つける。そしてはかなくもしぶとい日常へと還っていくのだ。
 優希の穴を、自分が埋めた。亜美の代わりを務めているのは誰なのだろう。自分は英美を――まだ、『友達』と呼ぶことができるのか。
 景子は英美を一瞥する。英美はまぶたを閉じている。あれから英美と目があったことは一度もない。

 家に帰ると、景子はすぐにパソコンの電源を入れた。英美はああ言ったが、ここ数日は『虫退治』をしていなかった。する気にもなれなかったというのが正しい。
 パソコンの脇にはあの日届いた指令書が置いてある。見たくもないものだが、うかつに捨てるわけにもいかずそのままにしているのだ。
 ゲームの中では読んですぐに燃やさなければならないことになっている。警察は敵だから。下手な証拠を残すことはない。
 景子は短い息を吐き、隠すようにしてパソコンの下に滑り込ませた。
 今はただ、気晴らしがしたい。外を出歩く気にもなれないから、結局『虫退治』をする他にない。花の女子高生ともあろうものが。昼間の陰口の言う通り、オタクっぽいのかもしれなかった。
 ゲームをロードしてステータス画面を確認する。景子はキーボードをたたく手を止めた。装備の欄には『カッターナイフ』の文字がある。
 右手がぞくりと泡だった。
 日常は自分の前だけ食い破られて、毒虫の群れがさんざめく。

 そうだ――今日は木曜。一週間はその半ばを過ぎていたのだ。

 金曜の昼。美術室には人がいたので、景子は屋上へつながる階段で昼食をとることにした。屋上の扉は非常時にしか開かないのだが、その階段は校舎の少し奥まったところにあって、まるで屋根裏部屋のような雰囲気を醸し出している。逢い引きやサボタージュによく使われる場所だ。
 先客がいれば引き返せばいい。そう思って近づくと、狙い合わせたかのように英美たちの声がした。
「あの子絶対朝倉のこと好きだよねー。休み時間になったらいそいそ朝倉んとこ行くしさー。オトコに守ってもらおうと思ってんじゃないのぉ? なんかムカつくー」
 景子はすぐに踵を返そうと思う。わざわざ嫌な思いをすることはない。だが。

「ねぇ英美、朝倉のこと好きなんでしょ? 奪っちゃいなよ」

 視界の色が反転する。

「うーん、でも大地君と景子は幼なじみなんだよ」

 英美は否定しない。

「幼なじみなんて男と女にならないと思うけどぉ? どっちか好きだってくっつくことなんてめったにないって。英美があきらめることないじゃん。大丈夫、英美なら」
「そうかなぁ……?」
「そうそう。あたしたち協力するしー!」
「じゃあ、がんばろっかな」
「よぉーくぞ言った! それでこそ女! 奪っちゃえ! 奪っちゃえ!」

 景子は聞いていられなくなって、震える足で走り出した。
 英美が大地のことを好きだったなんて。一体いつから?
 英美とならどちらが選ばれても恨みっこなしだと言えただろうに。一緒に頑張ろうと心から励ますことができただろうに。それが……『奪う』? どうして? 周りの子に言われたから?
 そこまでして群れから外れたくないというのか。

 自分の身を守るためならば何をしてもかまわないと?

 一緒に弁当を食べるための、休み時間をともに過ごすための、『一人にならないため』だけの友達など、あたしはいらない。

 『ワイルド・パラサイト』。始末するのは人間ではなくただの虫。
 それはパソコンの中の話だけれど、ならば現実世界に現れたあの指令書が、ターゲットに選んだおまえは何だ?

 景子は立ち止まって右手を見つめる。
 ゲームの中に英美の顔をした敵キャラが出れば迷わず殺してしまえるだろう。
 裏切られた。友達じゃなかった。あんな子だとは思わなかった。体の中をマグマがどろりと落ちていく。
 現実で手を下さないのは良心のため? 保身のため? 友情のためではもはやない。

 あの指令書が脅迫であったなら。自分の身を守るためにその命を手にかけたなら――英美は一体、どんな顔をするのだろうか。

 授業の後、優希の死が伝えられた。
 その夜景子はパソコンの下に隠した封筒を燃やして捨てた。

 土曜日。景子は上を見ては下を見て、下を見ては上を見て歩いていた。
 カルトな集団は国家血盟神教だけではない。安全のため人通りの多い場所には必ず監視カメラが仕掛けてある。たいていは見てわかるものが設置され、警官が二十四時間態勢で映像を調べている。行き交う人の流れの特に多いところには、小型カメラも無数に隠れている。ようは何事かしでかすなら人のいないところですればよいのだ。ただし自分も他の危険に呑み込まれないよう注意する必要がある。
 街のポイントを確認し、頭の中で計画を練り上げながら、それでも景子は英美を殺すと決めたわけではなかった。
 あくまで念のためだ。もしもこれが自分の命に関わるものだった場合。警察は頼れない。ゲームの中では敵であるし、景子自身、名前を覚えられたくはない。――自分の身を守るためならば――例え英美であっても――。
 そう思う景子のポケットには、防犯ベルだけが入っている。
 ふとした瞬間鮮やかによみがえるあの感触。ざくりとした音。二度と味わいたくはない。
 景子はこれがたちの悪い悪戯であることをひたすらに願っていた。

 そうして迎えた日曜の夜。
 景子は制服で白のハイソックスに革靴という、学校に登校するときのいでたちで外に出た。
 駅に立ち寄り公衆電話から英美の携帯に電話をかける。
「……どうしても話したいの。お願い。今から誰にも何も言わずに出てきて。学校じゃしゃべれないでしょ? 今しかないの。場所は……」
 英美はすんなりと了承した。
 景子は夜道を歩きながら、自分が二度と引き返せないところへ入ってしまったような、そんな気になった。
 以前にもそう感じたことがある。優希を刺して逃げた後。担任に事情を話しに行ったとき。今は――まだ、引き返せる。普通に腹を割って話して帰ればいいのだ。ポケットの中のカッターナイフをひた隠して。なのに何故、こんな気持ちになるのだろう。
 コツコツと靴の音が鳴る。他には鳴らないことに安堵する。心臓をたたかれるようで恐怖する。たどり着くのを恐れつつ、立ち止まれば動けない。
 突然何かが口を覆った。

「――今宵で七日が過ぎる。その身は狩る側から狩られる側へ転ずるのだ」

 喉元には鮮やかな刃物が光る。息を呑めばやられてしまう。
 景子は声を封じる指に噛みついた。
「待って! ……今から退治しに行くの! まだ今日は終わってないんだからっ!」
 暗殺者は凶器を持った腕をすっと下ろす。
「……よかろう。しばし待つ」
 そうして次の瞬間には闇に隠れていた。
 景子はたった今起こったことがとても信じられなかった。前も後ろも誰もいない。だが、確かにいたのだ。確かに今、殺されるところだったのだ。
 悪戯じゃなかった。きっと脅迫でもない。

 ――ゲームが現実になったのだ。

 景子の足がわななく。自分がどうやって前に進んでいるのかわからない。それでも決して足を止めてはならない。寒くてたまらない。なのに汗がどっと噴き出してくる。体を作るあらゆる組織が恐慌を来す。脳味噌の中が空になる。
 いつからか何かが狂ったのだ。どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのだ。優希を刺したのが罪だというならいくらでも悔い改めるだろう。罪悪感などすでに何度も感じてきた。
 海も山も川も、感謝を捧げるもので救いをもたらすものではない。たった今生き延びるためなら何だってあがめ奉ろう。額を地につけてすがりつこう。だから――!

 助けてください、カミサマ。

 景子は英美の前に立つ。歩みはたたらとなり、言葉はうめきとなる。
 英美は景子の動向を見守っている。
 景子は英美の意識をそらさなければと考える。だが何を言って何が返っても殺意が鈍るだけのような気がした。
 いや、英美を前にして、景子は殺意など抱いてはいなかった。胸にあるのは見えない闇への恐怖だけ。……殺さなければ殺されてしまう。――仕方がないのだ。

 そう、これは仕方のないことなのだ。

 景子はポケットからカッターナイフを取り出し、ゆっくりと刃を伸ばす。
 それこそが何よりも英美の動揺を誘うだろう。
 そう思ってのことだったが、英美は微動だにしなかった。

「……景子は私を殺すのね」

 感情のない声。

「――生命を司る神の一、トウレンは言う。『私の与えたものを大事にしなさい。生をあきらめた者などただの土くれにすぎぬのだから』と。『さすれば血には血、肉には肉、魂には魂を。命の杯を割る者は、命でもってあがなわねばならぬ――』。人は本来、それ以上のものを持たぬのだから」

 英美は肩に提げていた鞄からアーミーナイフを取り出した。
「私は景子を殺すつもりなんかなかったのに。私の身を脅かさない限りは――誰も殺す気なんか、なかったのにね?」
 その顔はどこか寂しげにも見える。
「抵抗していいよ? 命ってそういうものだから。どっちが死んでも、恨みっこなし。ね?」

 何度も見た。スタート画面は一面の黒。段々と文字が浮かび上がる。

 殺しますか? 殺されますか?

 『コンティニュー』の文字はもう見えない。


 血溜まりに立つ英美に暗闇が言う。

「おめでとう。おまえは生きる権利を勝ち取った」


第六章 虚構


 景子が殺された。

 大地は信じられない思いでその知らせを聞いた。
 些細なことですぐに摩擦が起こる子ども時代、大地と景子はいつも同じ派閥にいた。景子の家は自然を崇拝しており、『神社の息子』として育てられてきた大地とは考え方が近かったのだ。成長するにつれ『男子』と『女子』という垣根で分かたれていったが、大地にとって景子は今ももっとも気心の知れた異性だった。
 先週までは自分の近くにいたその顔が、今日はどこにも見あたらない。机の上には花が置かれる。まるで冗談のような光景だ。
 亜美、優希、そして景子。このクラスは呪われてしまったのか。
 大地は幼なじみの死をどうしても信じられずに、クラスの担任から景子が殺された現場を無理矢理聞き出した。
 そうしてそこでそれこそ信じがたい言葉を聞いた。
 白線の横で「可哀想に……」と十字を切る警官。もう一人の警官はこうつぶやく。

「……ああ。だがこれも神の思し召しだ。仕方ない」

 仕方がない? 仕方がないだと?
 人が一人死んでいて。それが刑事の言うことか! 犯人をとり逃した後にも『仕方がない』とほざくのか?

 神の思し召しなど糞くらえだ。

 大地は自分の無力を知っている。
 幼少の頃から武道に励み、喧嘩慣れもしているが、しょせんは素人。何を為したこともない。学校の成績もほめられたものではなく、誇れるものはたった一つ。手に負えないほど頑固な反発心。それだけだ。
 事態は冗談のようだが冗談でない。一介の高校生ができることなど何一つありはしない。けれど。
 あのときもっと気にかけていたならば。クラスメイト二人の死を避けられたかもしれないと、強く、強く、悔いるように。景子の死を前にして、刑事の言葉に灼熱の怒りを抱きながら、どうして何もせずにいられるのだ。
 人の手に負えないものなど無数にある。だが神などいない。いるはずがない。例え、いたとしても、数多の想いをチェスのようにもてあそぶ神など願い下げだ――。

 あがいてやる。

 人の死が神の意志などではないことを。人殺しの正体を。景子が何故殺されなければならなかったかを――。暴いてやる。


 四十階建てビルの最上階にある地の宮。その中庭にはプールのような十畳ほどの溝があり、真っ黒な土で埋められている。天井はその部分だけガラス張り。庭の脇には冷蔵庫のようなタンクがあって、出てくる水は常に清浄を保っている。
 静香は土いじりが好きだ。人の体温に通じるようなやわらかなぬくもりを感じる土。生命を育むところ。それはさながら胎盤である。
 十年間そこで採れたものだけを食してきた静香には、大地の赦しは疑いようもないものだった。
 ――『大地』。
 静香は学生服の少年を思い出す。何も知らなかった自分に様々なことを考えさせてくれた少年。そうして土をすくい上げる。
 この土は特別な土なのだろうか? 他のものでは命が芽吹かない? ならば循環は? 大地の赦しはどうなのだ。
 静香は首を振る。地球は生きていると信じよう。人が生を営んでいるのだから。ただ本来の姿を取り戻すのは――それまで自分が考えていたよりも、もっとずっと困難なことなのだ。
 静香は畑で採れた野菜を何度か護り役の二人に勧めてきた。だが決して受け取ってくれない。ともに育てたのだからともに味わうべきだと誘うのに、頑として首を縦に振らないのだ。代わりに塩漬けやら酢漬けやらジャムやらと、保存の方法を勧めてくる。不思議でならなかったが、普通に扱っていた土も水も種も、何もかもひどく高価なものなのかもしれない。
 自分を取り巻く環境は――何か歪んでいるのではないのかと――。
 静香はとみにそう思う。『何故』は積み重なっていくばかり。
 『大地』に会いたかった。
 もっともっと、色々なことを教えてほしかった。

 「どうされました? もしや気分がお悪いのでは――」

 静止し続ける静香を鏡子が心配する。静香は慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫。ごめんなさい。土が気持ちよくて……」
 あの日部屋にこもったまま昼も夜も食事を取らなかった静香を、鏡子はひどく気にかけていた。「これまで一度もそのようなことはされませんでしたのに、御体を壊されてしまったのですか?」と。何度も「大丈夫」だと告げたのに、未だに不安げな表情を浮かべたままだ。申し訳なさをかき立てられる。『大地』に会いたい気持ちは毎日募っていくけれど、きっと二度と会えなかった。
 鏡子は土にまみれた静香の指を両手ですくい、二本の親指でそっとなでる。
「……この土は、静香様にこのように愛でられて……。きっと瑞々しい作物を実らせることができるのも、静香様の清らかな御心が染み入っているからなのでしょう……」
 静香はそっと眉をひそませる。鏡子の言葉をお世辞や欺瞞だと思ったことはない。ただ、誤解していると強く思う。
 鏡子は自分のことをちゃんと見てくれているのだろうか? この心がそれほど清らかだなんてとても思えない。自分は普通の、ごくごく普通の人間だ。六歳以前のことは覚えていないが、生まれがわからなくたって、この心でそうわかる。
 静香は鏡子、草太、ミコトのことを、家族のように、友のように愛している。
 誤解が解けたらどうなるのか。
 解けるのも、解けないままでいるのも恐ろしいのだった。
 鏡子はしばらく静香の指を見つめていたが、ふいに視線を外すと立ち上がって草太の方へと歩いていった。
「――草太、何を手を止めている。静香様がお召しになる作物をお育てするのになまなかな心構えでかかろうというのか」
 草太ははっとして顔を上げる。
「いえ、けしてそのような……申し訳ありません、姉上」
「相手を間違えておろう」
「はっ。静香様、申し訳ございません」
 地に膝をつき深く頭を垂れる草太に、静香はとんでもないと首と手を振る。
「そんな、草太さんが謝るようなこと……大丈夫?」
 静香には草太の方こそ体調が悪いように見えた。
「はい。静香様にご心配をおかけするなど、……不覚でございました」
「心配くらい普通にさせてください! 草太さんのことを心配するの、当たり前でしょう? お願いだから無理はしないで」
「……もったいない。恐縮にございます」
 草太は力無く微笑む。

 四六時中控えている鏡子に比べ、草太が静香のそばにいる時間は限られる。会話を交わす機会はもっと少ない。護り役として草太は「控え」であり、たいていのことは鏡子の口から伝えられる。鏡子と静香が同じ女性であることもあって、ちょっとした会話の中にも草太の参加が求められることはめったになかった。仕えるべき巫女と従うべき姉の手前、草太が自ら口を出すこともない。草太と静香が二人でいる時間は鏡子の入浴中などに限られた。
 姉の目から離れたことを確認し、両手両膝ついて頭を下げる。草太の指は畳にしがみつくような格好になる。
「……静香様、お願いしたき儀がございます」
 静香はびっくりして目を瞠った。とにかく頭を上げるようにと促すが、草太はますます低頭した。
「私は静香様にお仕えする身。このようなことを申してよい立場ではないとようく存じ上げております。ですが……、どうか、どうかお耳に入れるだけでも……っ」
「――わかりました。私にできることならなんでもします。他ならぬ草太さんの初めてのお願いだもの」
 静香は固く深くうなずく。自分にできることがあるとはとうてい思えなかったが、必死な気持ちに少しでも応えてやりたくて。
 草太は頭を低くしたまま語り出す。
「――『大地』のことでございます」
 静香の鼓動が拍を変える。
「……先日彼の友人が亡くなられました。何者かに殺害されたのです。大地はひどく激怒して、……自ら犯人を捕まえようというのです。……彼の気持ちはわかります。ですが、私は心配でたまらない。懸命に止めたのですが――それで止まる男でないことは知っております」
 草太が息を吐く。何かを決意したように。
「静香様、お願いでございます。どうか、占いを――大地のために、占いをしてはいただけませんでしょうか」
 静香は真っ青になった。
「静香様のお力は決して私事に使ってよいものではないと承知いたしております! ですがっ、……お願いです。一度だけでよいのです! 大地の身を守るために、一度だけそのお力をお貸しください! どうすれば危険を避けることができるのかを……っ」
 草太は額を床に擦りつけて頼み込む。我が身を捨てて大地のためを思っている。
 静香は――

「……お兄様を呼んで」

 草太が顔を上げる。
「ミコトお兄様を呼んで! 会いたいの! 今すぐお兄様に会いたいのっ! お願い……っ! お兄様に会わせてっ! 会わせて……っ、おねがい……」
 静香は顔を両手で覆い、あられもなく泣きわめいた。

 ミコトが現れたのはそれから二時ほど後のこと。すでに深夜に入っていたが、静香は己の体を抱きしめたままじっとミコトの訪れを待っていた。顔を見た瞬間その胸にすがりつく。
 ミコトは幼子にするようにして頭をなでると、控えていた鏡子と草太を一瞥した。
 草太が一礼して席を外す。鏡子はミコトをまっすぐに見る。ミコトが再び目を合わせると、すっと目礼して部屋を出た。
「静香、落ち着いて。静香。一体どうしたというのです? 二人には宮から出るよう言いました。ここには私と君だけです。……落ち着いて。ゆっくりと話してごらん?」
 ミコトが静香の髪をなでる。鏡子がくしで梳いたときのような心地よさが伝わってくる。だがそれを受け止めるわけにはいかないと、静香は必死に頭を振った。
「お兄様……助けて」
 ぬれた瞳で取りすがる。ミコトは穏やかに微笑んで、静香の体を抱きしめた。
「何があったの? おまえのためならなんでもしよう。……何も心配しなくていい。……さあ、大丈夫だから言ってごらん?」
 全身を包み込む揺るぎない安心感。ミコトの胸に顔を埋めたまま、静香はぽつり、ぽつりと口にする。
「友達の友達が殺されて亡くなったの。それで……友達が……大地様が、犯人を見つけてやるって、危険を顧みずに怒ってるの。私、大地様を助けたいの。大地様が殺されてしまうなんて嫌。彼は私に色んなことを教えてくれたの。恩返しをしなきゃ。どうすればいい……? お兄様、私、どうすればいいの……? わからないの!」
 震える舌に負けないよう、助けを求めて言葉を尽くす。ミコトが静かな声で言う。

「……外に出ましたね?」

 仰ぎ見たミコトの顔は、いつものごとく優しげな微笑を浮かべている。
「……先日君が『占いのため』にかなりの時間を一人で過ごしたことは聞いています。……部屋を抜け出て、外で過ごしていましたね?」
 ミコトは静香の頬を両手で捕らえ、吐息が触れ合うほど顔を近づける。眼鏡の向こうの瞳に落胆も憤慨も見えはしない。
「――かまいませんよ? 外に出ること自体はさほど重要ではない。君が無事で本当によかった。それで、お友達の名前は……大地君、ですか」
 何も変わらない。普段通りの義従兄なのに、静香は何故か寒気を感じる。ミコトは静香に口付けた。
「結論から言いましょう。二度と会わなければいいんです。……そうしたら、大丈夫でしょう?」

 ――生きていようが死んでいようが。

 静香はミコトを凝視する。ミコトはくすりと首を傾ける。
「……冗談ですよ。大地君はきっと動かずにはおれない心境なんでしょう。そんなときに外からつついても逆効果ですから。落ち着くのを待つのが一番です。大丈夫、その間に警察が犯人を逮捕してくれますよ」
 静香は身じろぎさえできずに、肩が震え出すのを必死にこらえていた。
 スーツの懐から耳障りな電子音が鳴る。
「失礼、電話がきたようだ」
 ミコトは携帯電話を耳に当て、静香に背を向けてから話し出す。
「こんな時間にどうしました? ……ああ、そうですね。もう先はないでしょう。……え? 何故私が。知りませんよ。私などを頼らずともあなた方にはあなた方の神がいらっしゃるじゃありませんか。腐ってもこの国の象徴だ。おすがりしてはいかがです?」
 電話は唐突に切れたようだ。ミコトは静香に向き直り、「すまないね」と片方の眉を垂れてみせる。
 何の電話だったのだろう。そういえばミコトは何をして暮らしているのだ?
 静香はそれまで気にもとめなかったことが急速に気になりだした。
 静香がこの義理の従兄について知っていることは、その人となり以外に何もない。ただ――義理とはいえ静香にとっては彼だけが唯一の身内である。ひきとった本人であるはずのミコトの叔父でさえも、一度も顔を見たことがなかった。
 十年間、静香はいつだってミコトに会いたくて。その力になりたくて。何もかもを言われるままにして育ってきた。ガイア教の斎女として――。六歳の少女の運命をまだ学生だった少年が決めたのだ。
「お兄様は……何をしてらっしゃるの?」
 声が震えた。
 ミコトはわずかに目を丸くし、眉と眉を引き寄せる。
「私の仕事ですか? 君がそんなことを聞くのは初めてですね。……急に興味を持ったのは、今の電話を聞いたから? それとも、外に出たからなんですか?」
 小さく息をつき、静香の前髪をそっと分けた。
「色々としてますよ。そうですね、私は薬屋の息子です。それが本業、ということになりますか。ですから言うんですが――静香、外に出るのはもうやめてください。君は弱い。今は無事でも次はどうなるかわからない。心配なんです、とても」
 静香はうなずかなければと思い、頭を下げてそのままうつむく。大地を心配する思いが胸で渦巻いている。ミコトには大地を助けるつもりがないのだ。自分が外に出ても何もできない。だが、二度と会えなければそれこそ何もできないのだ。
「……君を外につれだしたのは草太でしょう? いけませんね。ちょっとおしおきしちゃいましょう」
 静香ははっとしてミコトのスーツを握りしめた。
「やめてお兄様! お願いっ! 私が悪いの! 草太さんは何も悪くないの! 怒るなら私にして!」
 ミコトは困ったような顔で笑う。
「そんなに必死にならなくても。大丈夫、ちょっとだけですから。それに、私は君を怒ったりしませんよ。……ねぇ、ちゃんと覚えてくれていますか? 君は私の妻になる人なんですよ?」
 静香はミコトを見つめたまま何も言えなかった。
 あの日のプロポーズは静香にとって夢の中の出来事だ。自分の価値がわからないままの今、水の奥深くに沈めた宝箱のようなものだ。

「忘れないで。私は君を愛しています。二度と外には出ないでください」

 静香は逡巡する。だがそこに選択肢などないと知っている。
 ミコトにYes、Noを求められれば、答はもはやYes以外何もないのだ。

 ミコトが去ってほどなくして、鏡子と草太が戻ってきた。
 静香は草太が無事でいることに安堵する。ミコトがひどいことをするはずもないのに、何故だか胸をなで下ろさずにはいられなかった。
 ほっとした後すぐに罪悪感がわいてくる。草太の視線は気づかいに満ち満ちている。今の静香にそれほど痛いものはない。視線をそらした先には鏡子がいた。
「……鏡子さん、私ね、『どうして私なんだろう』って考える。鏡子さんや草太さんが大事にしてくれるのはどうして私なんかなの? ミコトお兄様も、どうして私のことを大切にしてくれるの? わからない……」
 鏡子は静香の手を取って、ふるふると首を横に振る。
「静香様、わたくしが静香様にお仕えする理由などただ一つでございます。静香様は素晴らしい御方でございますれば。わたくしは、いついつまでも――その御姿を見つめ続けていたいのです」
「……そう、やっぱり……そうなのね」
 静香は深くうつむいた。
「……鏡子さん、私、草太さんと少しお話ししたい。……呼ぶまで宮から出てくれる……?」
「……草太と? 宮から、でございますか?」
「……うん。障子の向こうじゃなくて、宮の外にいてほしいの」
 鏡子の美しい顔がさっと歪む。
「静香様、わたくし、どのような失礼を……」
「違うのっ! 悪いのは私。全部、全部、悪いのは私なのっ! ……お願い。お願いだから。もう、何も言わないで。……お願い。……ごめん。ごめんなさい……」
 静香はうつむいたまま喉を引き絞る。先刻泣きわめいたときよりも、さらに悲愴な面持ちで。鏡子は胸をかき乱される思いがしたが、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「……承知いたしました。……草太、後を頼む。私の代わりに静香様をお慰めするように」
 草太は神妙にうなずく。鏡子が宮を出るまでの時間を待って、静香はゆっくりと顔を上げた。
「……草太さんがお兄様に叱責を受けることを承知でお願いします。大地様を、ここにお連れしてください」
 草太の目が見開かれる。
「……どうしても直接お話ししなければならないことが――。いいえ、これはただの私のわがままです。どうしても大地様に聞いていただきたいことがあるんです。草太さんのお願いをかなえるためでもありません」
 静香はこくりと唾を呑む。
「……お兄様に見放されるのが怖くて外にも出られないこの私が、草太さんの苦労も何も考えずに頼むんです。……断るのに遠慮はいりません」
「いいえ、この命に代えましても静香様のお望みをかなえさせていただきます」
 決意のこもった草太の言葉に、静香は自嘲の笑みをもらさずにはいられなかった。


 「――地球は憎しみなど抱いてはおりません。人の犯した罪も、あやまちも、すべてを受け止め、赦しているのです。なぜならば人もまた――大地の恵みなのですから。……命は連なりゆくもの。どこまでも果てしなく、続くもの。あなた方は誰もみな、けして一人ではございません。土はすべてを愛しています。赦しています。あなた方は赦されているのです。どうか――この愛を思い出してください。生命はみな、この地で育まれ、この地へと還ってゆくのだと」
 静香は今日も祭壇の上に立ち、繰り返し学んできた教えを人々の前で説く。こうして語りかけることが静香に与えられた斎女としてのたった一つの仕事だった。

「未来をさしあげます」

 集会の終わりには必ず予言を言い残す。それはほとんどが宇宙に関する未来で、暗い内容ばかりだった。人々は大地の愛に救いを求めながら、宇宙への道を断つ予言に、毎回落胆して帰っていく――。
 静香はその様子を見る度に自分の言葉が伝わっていないと実感する。
 人は何を求めて話を聞きに来るのだろう。
 救いを――?
 困っている人がいれば助けてあげたい。手を差し伸べることを迷わない。だからミコトに斎女として立つことを求められたときにも、「私でいいのだろうか?」と思いはしたが、人々に教えを説くこと自体には何の躊躇もなかった。
 しかし、自分が与えているものと人々が求めているものは違うのではなかろうか?
 預言、予言、占い、巫女としての力――。人々が求めているのはただそれだけなのではなかろうか。
 土はこれほどに尊い愛情を抱いているのに。……届かない。

 集会を終えると静香は必ず鏡子に髪を梳いてもらう。それだけで何もかもが癒されていく感じがするのだ。
 しかし今日、静香はどんなに丁寧に髪を扱われてもうっとりと感じ入ることができなかった。
 そわそわと時を待つ。障子の向こうに影が現れる瞬間を。そして――

「静香様、どうぞお果たしくださいませ」

 草太の声が聞こえたと同時に立ち上がる。

「――人払いを命じます。わたくしが呼ぶまで何人もこの階に立ち入ることは許しません」

 鏡子を見下ろして道破した。
 鏡子は静香をまんじりと見つめて動かなかったが、やがてゆっくりと両手をついて頭を下げる。
「――かしこまりました」

 しんと静まりかえってしばらくたった宮の中、物音がずかずかと近づいてくる。
 ああ――『外』から来た音だ。自分の周りにこんな音を立てる人間はいなかった。
 この音がたどり着くのが審判のとき。さっきまでは恐れていたような気もするのに、今は不思議と落ち着いている。
 静香はまぶたを閉ざして足音を聞く。そして障子は開けられた。

「あー……久しぶり?」

 静香は思わず笑いたくなってしまった。
「お久しぶりです……大地様。今日は無理を言って来ていただいて……申し訳、ございません」
 深々とお辞儀をする。本当に無理を言った。特に草太には。草太は同じ手を二度使うわけにはいかないと、以前鏡子が言っていたことを実行し、大地を信者の中に紛れ込ませてここまで手引きしてくれたのだ。
 久しぶりに見る大地は相変わらず面倒そうな顔をしている。
「……猫なら元気だけど」
 さっさと切り上げるようなことを言いながら、静香の話を聞くために座ってくれる。
「それは、よかったです。今日は……」
 静香はどうしても伏し目がちになってしまう瞳を精いっぱい大地に向けた。
「……草太さんが、心配しています。草太さんは大地様の安全を守るための占いを、私に……頼んできました」
 大地はわずかに顔をしかめた。まさか静香にまで話が及んでいるとは思わなかったのだろう。静香はまぶたを震わせる。
「私は斎女として……、未来を予言したり、様々なことを占ったりできる……ということに、なっています」
 怪訝な眼差しに、静香はゆっくりと首肯する。
「……そう。本当はできないんです。さっきの集会での予言もあらかじめ用意されている原稿を読んだだけ。……何故か外れたことはないみたいですけど。……内緒ですよ? このことは草太さんも誰も……お兄様以外は、誰一人知りませんから」
 ミコトには決して誰にも言ってはならないと言われている。
 だがもはや――耐えられない。
「私は巫女としての力が使えると偽って人々にあがめられているんです。草太さんたちにかしずかれているんです。……本当は何もできない。何の力も持ってない。ただの女にすぎないのにっ! ……みんな私のことを『素晴らしい御方』って言うんです。私は……私は……ただの、嘘つきです。多くの人々を神の力をかたってあざむいているのに、お兄様に嫌われるのが怖い、ただそれだけで。……平気で嘘をつき通してしまえるんです。『素晴らしい方』なんかじゃない……っ」
 こんな人間に多くの人々が『救い』を求めてやってくる。知っていて偽りの予言を述べている。自分にできることはただ教えを説く、それだけなのに。他に何もできないのにそれさえも満足に果たせないのは――、きっと、この心が穢れているからだ。もっと清らかな心を持っていれば、言葉はちゃんと人々の耳へと届いたのではないだろうか。そう思わずにいられない。
「ごめんなさい。……大地様にはどうしても知っていてもらいたかったんです。どうしても……本当のことを。……ごめんなさい。私はあなたの行く手を占えない……」
 静香の頬を涙が伝う。例え軽蔑されようと、どうしても知ってほしかった。
 視界が歪む。耐えきれずに閉ざしたまぶたから、ぽろり、ぽろりと滴が落ちる。
「お話は、それだけです。聞いてくださってありがとうございます。……どうか、……ご無事で」
 静香は懸命に声を振り絞る。長い沈黙の後、大地が言った。
「……普通人間は予言も占いもできねーと思うけど?」
 静香はぱちくりと目を動かす。
「信じるヤツが……いや、んなこた言えねーか。……あー、……けどなんていうか」
 大地は眉間に指の間接を押し当ててぐりぐりとしわを混ぜる。息を吐きながら腕を止め、おもむろに静香の方を見た。
「さっきの集まり見る限りでは、……別に、予言とかいらないだろ」
 真っ黒な瞳はまっすぐに静香を映している。
「……おまえが言ったんだ。――救いは、人の心にこそ、あるんだろう?」
 静香は自分の呼吸が止まるのをどこか遠くで感じていた。
 大地は自分の頭をかき混ぜながら、ため息をつくように声を出す。
「救いたいと感じる心のまま動けば救える命だってある。『大地』はおまえが救ったんだ。ただ話を聞いてもらえるだけで……軽くなる、心もある。……俺に語らせたのは――あー、おまえだ。……で。今俺は……あー、なんで俺がこんなことしゃべってるか、わかるか?」
 静香は半ば無意識的に首を振る。大地は苦虫を噛み潰したような顔になり、うつむいて投げやりな口調でつぶやいた。
「……思ったからだ」
 静香にはよく聞き取れない。大地は怒ったように声を荒げた。
「おまえの心を軽くしてやりたいと思ったからだ! だから全部正直に言ってやってんだ! 俺がどうしておまえに家の話をしたと思ってんだ! ……おまえが……っ、俺の心を、動かしたからだ」
 一転、小さな声になる。
「……だから、そういうことだろう」

 ――救いは人の心にこそあるんだろう?

 大地の言葉は奔流となり、静香の胸に押し寄せた。
「うん。……なった、なったよ軽く……ありが、とう……っ」
 ここにすべてを知る人がいる。知っていてこんな言葉をくれるのだ。――なんて温かな許しだろう。なんて力強い救いだろう。
 熱い涙が次から次とあふれだす。大地が不機嫌な声音で「なんで余計泣くんだ」と言ったので、静香は泣きながらつい、笑ってしまった。
「……だいたい神懸かりな力なんざ人を堕落させるためにあるもんだ。頼るとろくなことがねー。占いなんか必要ない」
 静香ははっとして大地の袖にすがりついた。
「でも、心配なの! 草太さんも本当に心配しているの! ……お願い! 危ないことはしないで! 死んじゃうなんて嫌っ! ……ごめんなさいっ、私に力があれば……っ」
 大地はどこまでも続いていきそうなため息を吐く。
「……だから別に力なんてなくていいって。今納得したんじゃなかったのか。……あー、心配されたら、普通、気をつけるだろ? 占いなんかよりそっちの方がためになるしう……今のなしだ」
「え……?」
 静香はきょとんとして首を傾げる。見開いた目尻から滴が一つこぼれて落ちた。
「……だからっ! そっちの方が……うれしい」
 大地は深くうつむいていて、静香からはつむじしか映らない。静香は思わず吐息で笑う。
「じゃあ私が、毎日すごくすごくすごくすごく心配してるってこと、絶対に忘れないで」
 大地は頭の位置をさらに低くした。

 大地が地の宮を一歩出た途端、その目の前に鋭利な刃物が立ちはだかった。
「――客人。命が惜しくば静香様のことは忘れるがよい」
 凍り付くような眼差しに、大地は眉を寄せて片目を眇める。
「いい大人に見えるんスけど。交渉の手順間違えてますケド」
「……頭が弱いと見える」
 鏡子は大地の首に小太刀を押しつけ、赤い線をうっすらと引く。あまりの切れ味に痛みもない。大地は唇の端をつり上げた。
「――常識がないと見える。もしかしてここって治外法権? けど今俺が大声出したらたぶん飛んでくると思うんですケド」
 静香が。
 まだこの階には誰もいてはいけないはずだ。それが主の客に刃を突きつけているなどと、悟られては困るに違いない。ましてや主はあの静香だ。
 半分かまをかけるようなものだったが、どうやらビンゴだったらしい。
 首の前で小太刀が翻る。
「……宮の前で血を流すわけにはいかぬ。元より脅し。だが次はない。静香様を穢すものはけして許さぬ」
 威厳に満ちた響きのせいでまったくそれっぽく聞こえなかったが、たぶんこれは負け惜しみだろうと大地は思った。それにしても『穢す』とか言われるのは心外だ。
「――キスさえしてませんケド。……ていうか、オネエサンずっとこん中にいんの?」
「……それがどうした」
「……別に」
 刃物の扱いに慣れているように見えたから。もしや――と、思っただけだ。だが景子を殺すような理由がない。
「それってずっと一緒にいるってこったろ。もしその脅しが本気だったら、さぞかし心を痛めるだろうなぁと思っただけデスヨ」
 もちろん、静香が。
 見つけた弱点を存分にほじくってから、大地は鏡子の横をすり抜けた。「今のはまぁわざとだな。また草太がうるせーな」と思いながら。

 鏡子は大地が去ったのを見届けると、すぐに草太を捕まえた。
「――何度仕置きをすればよい?」
「姉上……っ、静香様は人形ではありません。成長されるのです。姉上のためにいらっしゃるのではない……っ」
 草太の訴えに鏡子は壮絶な笑みを浮かべる。
「――静香様をお守りする。それが私のすべて。奪うというのなら――後に何が残るのか、おまえは知っているだろう? 弟よ」
「……その危うさが……心配なのではありませんか」
 草太は姉から顔を背けた。


第七章 救済


 学校に来る度に草太がその後の進展を聞いてくる。そこには好奇の色はまったくなく、ただただ心配してくれているのだと実感する。しかし――
 大地は「大丈夫だ」と返す代わりにため息で答えてしまいそうになる。
 ないのだ。何も。心配の深さに見合うようなことは。
 がむしゃらに走り回ればなんとかなるなどといったことはない。大地が始めたのは地味な聞き込み捜査だった。景子の両親、景子の友達、クラスの女子、現場を通る人々。それから念のため、亜美と優希の周辺も。そうしてかぎ回るうちに犯人の方から接触してくれないかとも思ったが、大地の身辺はまったく静かなものだった。これで聞き込みの方に重要な証言でもあればまだ気は収まったかもしれない。しかしこれまた……全然成果が上がらなかった。
 女の口は意外に固い、と大地は思う。背後で何かひそひそやっているのに、いざ尋ねてみるとはっきりとは口を開かない。一対一だと警戒される。向こうが多人数だと伝言ゲームのようにささやきを回して結局こちらに届かない。攪乱させるための連係プレーなのか? と疑ってしまうくらいだ。もしかしたら自分の態度が悪いからか? と無理矢理顔をひきつらせてみたが、余計に怖がられてしまった。
 英美だけは普通に会話をやりとりしてくれたが、彼女の証言はまったく役に立たなかった。
「……あのね、松本さんが亡くなって、景子、沈んでたでしょ? そっとしておこうと思って……しばらく話してなかったの。その間景子は大地君のところに行ってたから……私なんかより大地君の方がずっと……わかること、多いんじゃないかなぁ?」
 殺される前までの景子。大地はじっと回想する。幼なじみはいつもと変わらず自分に笑いかけていて、特に変わった様子はない。
「そうか……通り魔って可能性も……ある、のか?」
 大地は知らずつぶやいていた。亜美と優希のことがあるので犯人がクラスの人間だったとしてもおかしくない、という感覚があったのだが、景子は以前国家血盟神教の信者に襲われている。そっちの線で考えた方がよほど自然なのかもしれない。
「……大地君、自分のせいで大地君が危険な目に遭ったら景子、すごく悲しむと思う。……あまり首つっこまない方がいいと思うよ……?」
 英美の心配には曖昧な微笑で答えておいた。
 さて通り魔の線で考えるとなると、大地にできそうなことはますます何もなさそうだった。通りすがりの狂信者を引っ捕らえて景子を殺したかどうか聞き出す、なんてことをやるほど命知らずでもない。
 それでも何もせずにはいられない。例え見当はずれなことをしているかもしれなくとも。大地は毎日聞き込みを続ける。
 草太は注意を呼びかけるだけでなく、大地が調べた事柄の内容をしきりに聞きたがった。大地も集めた材料を自分一人で分析するのは心許なかったので、その点だけは草太の協力を仰ぐことにした。
「……どうしても腑に落ちないのはその日なんで景子が夜遅く外に出て、わざわざあんな場所を通ったか、ってことだ。それも、制服を着て。いぶかしむ母親に景子は何も言わずに出て行ったらしい。――誰かに呼び出しを受けたと考えるのが自然じゃねーか?」
 言外に同意を求める。この線で考えなければ通り魔説を浮上させるしかなくなってしまう。
「問題は呼び出しの伝達方法。母親の証言では家の電話に景子あてのものはなかったそうだ。景子の携帯は今警察。パソコンのメールも……あー、頼んで見させてもらったけど、それらしいものはなかった。今のところお手上げだ。……ところが。母親の証言に一つ引っかかるものがある」
 大地が人差し指を立てると、草太が眉を寄せて続きを促す。

「差出人名のない手紙」

 大地はわずかに声をひそめた。
「……その日景子は学校から帰ってすぐ部屋に閉じこもり、夕飯も食べなかったらしい。母親は心配した。そんなとき娘あてに一通の手紙が届いていた。真っ白な封筒に差出人の名前はなく、あまりいい感じはしなかったが、それを持って娘の部屋にむかったそうだ。……出てきた景子は憔悴しきっていた。どう見ても泣いた後という感じだったらしい。その手紙を受け取って、朝まで出てこなかった――」
 今のところ他に手がかりはない。このことを突き詰めてみるしかない。
「……これまた部屋を探させてもらったけど、どこを探しても手紙はなかった。気になるだろ? その手紙を受け取った週のうちに景子は死んだんだ」
 ふうと一呼吸おいて草太を見ると、草太ははっきりと青ざめていた。
「草太……?」
 大地は怪訝にのぞき込む。草太は苦悶の表情だ。
「……大地、どうあっても警察に任せる気にはなれないのか?」
 大地は心の中で謝罪する。これほどに心配してくれる友人の意に添えないことを。
「……警察はあきらめがよすぎるからな」
 草太は固くまぶたを閉じた。
「……大地、私は卑怯な人間だ。守りたいものが多すぎる。どれか一つを選ばなければ何もかもなくしてしまうと知っていて――それでも、どれ一つ選び取ることができない。一つを守り抜くのに命を賭けることができないのだ……」
 憤りをこらえるように握られた拳は今にも血がにじみそうで。
「……命賭けるっておまえ、そーゆうこと言うなよ。『全力を尽くす』くらいにしとけ」
 草太が何のことを話しているのかよくわからなかったが、大地はその点だけは訂正せずにいられなかった。
 草太は反応を返さず、幽鬼のように立っている。大地はためらいながらも問いかけた。
「……もしかして何か知ってるのか?」
 草太の首は縦にも横にも動かなかった。

 情報の量は日に日に増えていく。取捨選択する気にもなれないほどどうでもよさげなものばかり。だがその中の何かが突然化けるかもしれないと、大地は懸命にかき集める。

 そして手がかりへとたどり着く。

 『ワイルド・パラサイト』――。
 事件の前後だけではなく被害者の人となりから洗い直すことにした大地は、何度かその名前を耳にした。主に景子と優希の両親からだ。
 最近はやりのオンラインゲームらしい。最初はただそれだけの認識だった。だがゲームの内容を知るやいなや、気にせずにはいられない名前となっていった。
 そうして景子のパソコンを起動して、頭の中で積み重なった予感が確信へとすり替わる。
 差出人の名前がない真っ白な封筒。プレイヤーであるKは、常に制服を身にまとっている。
 ――冗談のような話だ。これはただの偶然の一致だ。極めて奇妙ではあるが。
 しかし大地はうめかずにはいられない。

 松本優希は高田亜美を殺害した前日、真っ白な封筒を受け取っている。

「……考えたくねーが、その日景子は誰かを殺しに外に出たってことか? ……そして逆に殺された?」

 一体誰に。

 問題の封筒はどこを探しても見つからない。今は景子が燃やしたのだと知っている。それさえあればすべてがわかるというのに!
 犯人までの距離は一気に縮んだはずだったが、大地はすべてがふりだしにもどったような気がした。

 パソコンのキーボードをカチャカチャと鳴らす。
 こんな、たかがゲームで三人の死者が出た。知らないところで他にも人が殺されているかもしれない。
 幼なじみの命を奪った相手が憎い。こんなゲームに踊らされた二人に憤りを感じる。だが何よりも許せないのは封筒の送り主だ。
 その正体は誰なのか。景子と優希が『ワイルド・パラサイト』のプレイヤーだと知る人物。
 大地はぴたりと思考を止める。今何かとんでもない考えが頭をよぎったのだ。

 ――正体は同じクラスの人間の、しかも女か――

 だが生前の松本優希と親しかった者はいない。元々無口でほとんどしゃべらなかったと聞いている。ゲームの話をする相手などいないだろう。

 ――そうでなければ――、

 このゲーム自体、だ。

 回線を調べて身元を割り出し、ゲームの中とまったく同じな指令書を送りつける。やろうと思えば簡単なことだ。だが、目的は? とるにたらない女子高生を三人殺してメリットが生まれるなんて思えない。一体何が目的でこんなことを?

 まるで人と人との殺し合いを楽しむかのような。

 血が逆流する。そんな馬鹿なことがあるものか。そんな、人としての心の欠けた、そんな馬鹿なことがあってたまるものか!
 だが実際に人は死んでいる。
 事態は冗談のようで――冗談では、なかった。
「人間の所行の方が神の所行よりもよほど残酷で、よっぽどふざけてるのかもな……」

 大地は早速警察署に乗り込んだ。しかし取り合ってはもらえなかった。ならば、と新聞社に電話をかける。しかしまったく反応は同じだった。「ゲームが現実になって人を殺している」などと言い出す男子高校生を、哀れんだ眼差しで、あるいは馬鹿にしきった目で、はたまた怒りに満ちた瞳で見ておしまい。「もう来ないでね」、だ。
 だが大地は相手が態度を変えるのも時間の問題だと考えた。自分の推理が正しければ、ゲームを模した惨劇は全国各地で行われているはずだからだ。けれどこのままでは世間がそれに気づくまでの間にどれだけの人間が死ぬことか。その間、自分にできるようなことは。
 大地は首を横に振る。
 自分がただの高校生であることを忘れてはならない。正義の味方なんかじゃないのだ。身の程を知らなければ。それに、心配してくれる人もいる。
 とっさに静香の顔が思い浮かんだ。力があれば嘘をつくこともなく――人々を救えるのにと、泣いていた顔。
 そんなものはいらないのに。
 例えば心のこもった言葉。例えば素直な思いを映す瞳。それらすべてが自分の身を案じていたならば、それ以上のものなど他にない。真摯な想いというものは、これほどに人の心を溶かすものなのだ。
 他人の痛みを感じ、幸せを願う力。例え、助けることができなくても。神のおわさぬ社に救いを求める人々を、救えたらいいのにと願うこの心に、いつだってその光はあったに違いない。

 ――どうする?

 動くのか。見過ごすのか。
 猫はもう、拾ってしまった。

 「……『ワイルド・パラサイト』をしようと思う。そのうち封筒が届くかもしれない。それか、俺を殺しに他のプレイヤーが来るかもしれない。その間のことをずっと記録していく。……そうすればそれがきっと、後で警察のためになる。封筒が届けば話が早いが、狙われる側になった場合、相手を生け捕りにしなきゃならねー。あんまり自信がねーんだよな。……もしかしたら死ぬかもしれない」
 大地が言う。草太は言葉をなくす。
「あいつには絶対言うなよ」
 大地が片目を眇める。草太は表情も作れない。
「……馬鹿な。……何故大地がそこまでする必要がある。……命を捨てるようなものだ。まったく正気とは思えない。考えなしの愚行だ。犬死にする気なのかっ」
 段々と激しさを増していく口調に、大地は呆れて肩をすくめた。
「人が死ぬのを前提で話すなよ」
「死ぬに決まっている!」
 草太が大地をねめつける。
「何故だ。何故こんなことに……。いや、すべては時間の問題だ。だが――、どうあっても、選べというのか」
 こみ上げる感情を抑えられないというようにつぶやき続ける。大地はその肩にそっと触れた。
「草太? おまえこの前からおかしいぞ。何を知ってるってんだ?」
 草太はゆっくりと大地を見た。
「……大地、目的は……ゲームの正体を明るみに出すことだな?」
 大地は静かにうなずきを返す。今となっては景子の仇は『ワイルド・パラサイト』それ自体だ。
「……ならば待つことだ。遅かれ早かれいずれは終わる。そういうものだからだ」
 草太の双眸はまっすぐに大地へと向かっているが、どこかうつろな色を浮かべている。大地は口の端をつり上げる。
「その間に大勢が死ぬってわかってて何もするなって? すでに景子が死んでいるのに?」
 自分の心配をしてくれるのは嬉しい。だが見て見ぬふりをしろと言われるのは納得できない。今まで何度そうして悔いてきたか。
 草太の眉間にしわが寄る。
「これはゲームだ。遊びの一つにすぎない。ただ掛け金が命なのだ。……大地、どうあってもやめる気がないというのなら、絶対に襲ってきた他のプレイヤーを捕獲することだ。運が悪ければ早々に出会うだろう。そして決して一年以上続けてはならない」
 そのまま背中を向けて立ち去ろうとする肩を大地がつかむ。
「……全部話せよ。……もしかしておまえが……」
 草太は静かにまぶたを伏せた。
「……私の手が人を殺したことはない」


 D、A、I、C、H、I。『ワイルド・パラサイト』の世界にDAICHIが出現してから数日。DAICHIはひたすら虫を殺し続けた。それが黒幕を引きずり出すことにつながると信じて。
 一匹殺すごとに大地の胸が悪くなる。このゲームはまったく最悪だ。まるで現実と見まごわんばかりのリアリティー。はなから現実で凶行に及ぶことを想定して作ってある世界観。吐き気を抑えながら『虫』という名の人間をかっさばく。
 しかし封筒は未だ届かない。
 夜深くなると大地は必ず外を一人で出歩いた。いつ他のプレイヤーが襲ってきてもいいよう人気のないところを中心にぶらぶらと散歩する。
 もしかしたらすべては自分の考えすぎで、ゲームはただのゲームなのだろうかと思うときもある。そんなときは必ず草太のことを考えた。
 ヤツは何かを知っている。核心に迫る重要な何かを。
 そして静香のことを考える。静香はきっと何も知らない。彼女には『何も知らない』という言葉がよく似合う。信号を知らない、ハンバーガーを知らない、『外』のことを何も知らない。きっと『中』のことも何も知らない。
 知っているのは『救い』と『赦し』。
 最初は『知らない』から『知っている』のだと思った。だが現実を突きつけても彼女は揺らがなかった。数多の『知らない』を乗り越えていける『知っている』なのだ。
 ずっと知らないままでいてほしいとも、知っていて乗り越えて変わらずにいてほしいとも思う。できることなら自分が教えてやりたい、とも思う。

「……今日も心配、してんのかな」

 大地は蒼い月を仰ぐ。

 ある夜だった。
 街灯の下で見慣れた姿を発見し、大地は思わず眉をひそめた。
 英美だ。
 英美は少しうつむいて、所在なげに立っている。通り道という様子でもない。
 大地はとんとんと靴を鳴らし、暫時逡巡したが結局声をかけることにした。
「……襲われたいのか」
 英美は特に驚いた様子もなくぎこちない笑みを返してきた。大地はため息をついて言い直す。
「何してんだ?」
「……ちょっと、考え事かな」
 こんなところでするものじゃない。もう少し安全な場所を選べないのか。そう怒鳴りたくなったが、なんとか抑えてやり過ごす。
「死にたくなければさっさと帰れ」
 景子が死んだ場所がここから近い。
「じゃあ、大地君、悩み事聞いて?」
 英美はまるで小さな子どもが駄々をこねるような眼差しを向けてきた。大地はじろりとにらんだが、ちっとも怯む様子がない。ため息をつきながらうなずいた。
 英美はにこりと微笑んだかと思うと、ゆっくりとうつむいてか細い声を出す。
「……人間が、神様の言うことを聞かなきゃいけないのって、なんでなのかな?」
 大地は片目を眇める。はっきり言って聞かれても困る内容だ。しかしここで英美を怒らせるとどんな危険な場所へと入っていくかわかったものではない。大地は面倒そうに息を吐いた。
「……別に聞かなくてもいいのに勝手に聞いてんだろ」
 英美はうつむいたまま首を振る。
「嘘。だって、神様の教えには従わなきゃ。それが人の正しいあり方、だから……だと、思ってたんだけど」
「正しいねー……? 面倒なんだろ。考えんのが。だから天のカミサマの言う通りーってするんだろ?」
 英美は目を細めて唇をたゆませた。
「……大地君って面白いこと言うよね。じゃあ神様の言う通りにしたのに後悔するのって、自分が未熟だからじゃなくて……本当は、間違えたからなのかな? 最近ずっと思っちゃうの。私は神様の教えをお守りしたのにどうしてこんな気持ちにならなきゃいけないのーって」
 冗談めかして言う英美に、大地はなんとなく皮肉な気分になる。
「……可哀想なカミサマだな」
「え?」
「選ぶのを任せておいて、間違ったら責めるって、責任全部かつがせてねーか?」
 大地は元々『カミサマ』とやらが嫌いなのだ。そして神の言葉を盲目的に信じる人間の姿勢はもっと嫌いだ。神の存在を支えとし、日々の苦しみを耐えて生き抜く、というのならわかる。だがひれ伏して従属してべったりもたれて頼りきる、というのはまったくもって理解できない。
「だって神様が間違えるなんて――」
 英美が呆然とつぶやく。大地は面倒そうに首を傾ける。
「間違えないから、自分で考えるのをやめるのか?」
 それが正しいあり方だというのなら、脳味噌の代わりに豆腐を詰め込んだって一緒だろう。
「……そう、だね。じゃあ……全部全部私のせい、私の罪、なんだ。私が迷わずに『神様の言う通り』を選んだから……」
 英美の声に抑揚はない。大地はこれで話が終わったのだと思った。英美はしばらくうつむいて何も言わなかったが、やがて
「一番最初に大地君に相談してればよかった。……でもね、決めたよ?」
とつぶやくと、にっこりと笑って肩に提げていた鞄の中に手を入れた。
「はい、これ持ってね」
 取り出したアーミーナイフを大地の右手に握らせる。
「おい……っ?」
 大地は何がなんだかわからない。英美はますます微笑を深めた。
「私の命、大地君にあげる。大地君を殺したくないし、正体もわからない人に殺されたくないし、どうせ死ぬんだったら好きな人に殺されたいもんね♪ 大丈夫、絶対恨んだりしないから」
 そうして大地の右手を両手で覆い、ナイフを自らの胸へと導いた。
「よせ……っ」
 大地はすんでのところで手を払いのける。ナイフがかつんと地面に落ちる。混乱して呼吸の整わない大地の前で、英美がすっとそれを拾い上げた。
「ごめん。そうだよね、無抵抗の人間を殺すのって嫌だよね。わかった。じゃあ大地君、絶対死なないで早く私を殺してね?」
「な……っ」

 なんだ、これは一体なんなのだ。

 英美が腕を振り上げる。曇りのない刃が街の光を反射する。そしてそのまま、降り注ぐ――。
「やめろっ」
 大地は大声を張り上げたが、英美の意識に届かない。細い腕をさっとかわして向き合って、ふいをついてナイフの光る手首を捕らえる。英美は頭を突き出してきた。自分で喉笛をやぶる気だ。大地がすぐさま手を離すと、残念そうにこちらを見た。
 大地はただ、信じられない。英美の思考がまるで読めない。何度も会話を交わしたクラスメイトなのに。
 焦りが胸をかき乱す。再び英美が向かってくる。大地は足を踏み換えてそれをかわし、とっさに手刀をたたき落とした。
 やわらかな重みが腕に沈む。からんとナイフが地に落ちる。
 頭の中を何かが駆けめぐっている。これから一体どうすればいい。英美は何故、こんなことを。
 ひらめきのように降りてくるのは『ワイルド・パラサイト』の名前一つだ。しかし普段よく知るクラスメイトが、まさか自分にこんな――。亜美と優希のような理由もなく。
 だが景子もまた、『虫退治』をするため外に出たのだ。
 すっとよぎった考えを、力の限り否定する。まさかまさかまさかまさか――そんなことはない。
 大地は英美の体を地面に横たわらせると、そばに転がっていたナイフを拾い上げた。
 警察に行かなくてはならない。信じたくはないが、英美は指令書を受け取って、自分を殺す……いや、殺されるつもりだった。彼女の証言から『ワイルド・パラサイト』の正体を明らかにすることができるだろう。だが気分は晴れなかった。
 大地は手の中のアーミーナイフをぼんやりと見る。
 そのとき、背中を何かが打ち付けた。
 大地は瞬時に振り返る。そこには黒子のような男がいた。男の手には刃が光る。渾身の一撃が通らなかったことに動揺を隠せずにいるようだ。
 大地の制服には鉄の板が仕込んである。一つの社の名を背負い、様々な危険に出会ってきたゆえの対処が、今ほど役に立ったことはない。
 大地はポケットに手を突っ込み、防犯ベルのピンを抜き取った。耳をつんざく音が鳴り渡る。
 普段ならばこのまま一目散に逃げるのだが、今は気絶したままの英美がいる。それに目の前の男から少しでも意識をそらせばやられてしまいそうだった。
 男は目にもとまらぬ速さで突っ込んでくる。しかし心臓を破れないことを確かめた後だ、狙ってくるのは首だと簡単に予想がつく。大地はぎりぎりのところで攻撃を避けた。かまいたちのような音が耳をかすめる。
 早く。早く早く早く早く。
 聞きたいのはそんな音じゃない。パトカーだ。職務怠慢め!
 大地は自分の体が脱ぎ捨てられて意識だけが駆けめぐっているような感覚に陥る。雷のような一撃をどうやって避けているのか、自分でもわからない。きらりとした光に反射的に体が動く。息つく間もなく次が来る。
 ふいに男が動きを止めた。刃の柄を握り直し、音もなく体を進ませる――。
 大地は攻撃に備えて身構えた。しかし、男は大地をすり抜ける。その行く手には意識がないままの英美がいる。

「やめろ――っ!」

 大地は男の首に手刀を落とした。

 つもり、だったのだ。

 見たこともないような赤い色。真っ赤に。どこまでも、呪われた、ように。びちゃびちゃと音を立ててあふれ出す。
 男は無骨な指を押し当てたが、その勢いは止まることなく。やがて、ゆっくりと崩れ落ちた。
 大地はその光景を呆然と見つめていた。一面の赤。倒れてもう、動かない男。ゆっくりと首を横にずらす。英美は無事でいる。少しずつ視線を下ろしていく。
 自分の右手にはアーミーナイフが握られていた。
 あまりにも軽い音を立てて手からこぼれ落ちたそれは、はっきりと、血にぬれていて。指先からがたがたと震え出す。脳細胞がひんやりと一つずつ死んでいく。防犯ベルの音に心臓を引きちぎられてしまいそうで、振り切るように逃げ出した。


 夜が明ける。
 東の空から次第に世界が塗り替えられていくその様は、こんな時代にあっても変わらぬ神聖さを感じさせる。神はどこかにいるのやもしれない。自分たちを見守っているのやもしれない。そんな錯覚を起こさせる。
 海も山も川もとうに死に果てた。雑草一つ自然には芽吹かない。神の社の御前でさえ。大いなる自然の素晴らしき神秘は、矮小な人間の欲望で根こそぎ冒された。なのに人は何故、生きている。何故自らの手で殺めた神の名を呼ぶのか。

 何故――。


 草太は朝早く、学校へ行くためにビルを出て、すぐに物陰へと引きずり込まれた。
「何者……っ、……大地――?」
 背後から自分の首に腕を回す暴漢を仰ぎ見れば、それは他でもない、友人、大地だった。
 大地は憔悴しきった面持ちで、熱のかたまりを吐き出すようにして言った。
「……草太、俺、人を殺した」
 本当なのだと、微塵の疑いさえ抱けなかった。
「罪は認める。すぐに自首する。……でもその前に、あいつに会っていきたいんだ。会って何を言いたいのかはわからない。――けど、会いたくて、ここまで来た」
「大地……」
 草太は名を呼ぶ以外何も言えない。大地は力無く微笑んで、
「大丈夫。おまえの女に何もしねーよ」
おどけるようにそう言った。そこには目を背けたくなるような痛々しさだけが漂っている。
「……その言い方は誤解を招く。静香様は私のお仕えすべき御方であって、恋情を抱いたことは一度もない」
 事の次第を聞くこともできず、そんな言葉を返すしかない。
「……そう、か」
 大地の顔に表情が浮かばない。先ほどの微笑のように、無理矢理作らなければ筋肉を動かすことができないのだ。
 これは自分の罪だ――。草太は思う。一歩動けば一つ失うと知っていた。時が来ればすべて失うと知っていた。見えない猶予を永遠だと信じていたくて、何もしようとしなかった。
「……大地、おまえは私の唯一の友だ。……この命に賭けて、おまえを静香様の元へとつれていく」
「……ああ、『全力を尽くして』くれ」
 草太は自分の心が静まりかえっていくのを感じる。
「――いや、決めたのだ。今こそ選ぶと」
 すべてを守るのに命を賭けると、決めたのだ。例え、何もかなわずとも。
 草太は大地を伴い、正面から堂々と地の宮へと入っていった。

 静香の手から数冊の本がなだれ落ちた。鏡子は脇の小太刀に手をかけた。草太は静香に目礼すると、姉の前に歩み寄って膝をつく。
「姉上、退席願います。そしてこの私と話をしていただきたい。否、とおっしゃるなら、どうぞこの首斬り落とされますように。私はここから動きませぬ」
 鏡子は静香を一瞥する。そして大地をねめつける。
「――先日の忠告、覚えておろうな」
「……最後だ」
 大地はこぼすようにつぶやいた。
 鏡子はわずかに眉を寄せると、疎ましげな視線で草太を見た。
「応、と、申そう。静香様の御為。――しかしその首、覚悟はよかろうな?」
「……は。ありがとうございます」
 草太は深々と頭を下げる。
 静香は大地から目を離せずにいたが、端から聞こえる会話が極めて不穏だったため、思わず鏡子の袖をつかんだ。
「鏡子さん、姉弟喧嘩はやめて。大地様にお会いしたいのは私のわがままなんだから……っ」
 鏡子は悠然とした笑みを浮かべ、答えずに草太と出て行った。

 残された大地と静香は、しばらく見つめ合ったままでいた。互いに、何を言えばいいのかわからなくて。いざとなれば言葉は一つも出てこなくて。
 その空間を破ったのは大地だった。
「昨日、人一人、殺してきた」
 見開かれた目に口の端を歪め、両目を細めて微笑を作る。
「……案外簡単なもんだな。……人殺しって意外と面白いぞ。血がどばーっと噴き出すのが爽快で、凶器から伝わる感触が気持ちいい。簡単すぎて罪悪感なんて感じないしな。捕まる前にもう数人殺しておくのもいいかなと思うくらいだ」
 顎を震わせながら、肩を揺らしながら。ゆっくりとまぶたを伏せていく大地の顔を、静香の両手が包み込む。
「どうしてそんな嘘を言うの?」
 大地はかさついた唇をそっと開いた。
「……嘘じゃねぇ。本当に殺した」
 静香はこくりとうなずき、強く、しっかりと目を合わせる。
「……うん。それは、嘘じゃない。……でもその後のはみんな嘘」
 こんなに強い静香の顔は初めて見る――。
 大地は思った。何もかも見透かされるような目だ。先日泣いていたのと同じ少女だとは思えない。
「……嘘じゃ、ねぇ」
 居心地が悪くて目をそらす。手を振り払うこともできなくて。静香はまっすぐに見つめたまま、大地のいらえを待っている。大地はとても耐えきれずに、ぐっと瞑目してから静香をにらんだ。
 視線がぶつかり合う。どちらも目をそらさない。しかし大地の右目はぶるぶると震え、徐々にまぶたの間が狭まってくる。大地は無理に口の端をつり上げると、両手で静香の首を覆った。
 白くて細い首。少し力を入れたらあっという間に息の根が絶えそうな。
 大地はゆるゆると力を込めた。頬に触れている静香の指が震え出す。細い眉がきゅっと寄り、桜色の唇が小刻みにわなないた。
 それでも――変わらぬ瞳で、見つめている。
 大地は両手を離してぐっと握る。顔を背けて細い指から逃れ、眉間に拳を押し当てうつむいた。
「……悪かった。怒らせようと、思ったんだ」
 人を殺したというのがどういうことか。それを知っても、変わらずにいるかを試したのだ――。

「――赦します」

 静香ははっきりと言った。
「心から悔いている、責めている、あなたの心を赦します。あなたの罪が赦されずとも、あなたの心を赦します。――いいえ、私の心がすでに赦しています」
 真っ白だった首にはうっすらと赤いまだらができている。
「……本気で言ってんのか?」
 大地は聞かずにいられない。静香はうなずきもせず、そらさない瞳で肯定した。
 まるで二人の間に一本の道が通ったかのように。すんなりと心に心が流れ込む。
 大地はくしゃりと顔を歪め、ゆっくりと片手で目元を覆い隠す。たぶん自分は、泣きたいのだ。しかし口元は勝手にゆるんできてしまう。

「……きっと俺は――おまえにそう言ってほしくて会いに来た……」

 これほど不格好な微笑を浮かべたのは初めてだろうと大地は思った。

 途切れ途切れの言葉で事の次第を語るうち、一つ一つ何かが解き放たれていく感じがする。静香が口を挟まないのをいいことに、するすると言葉が紡がれる。
 大地はやわらかく微笑んだ。
「なぁ、きっと……神にすがるのは、神を恨むのは、こんなときなんだろう。運命の悪戯としか表現できない偶然に、ずったずたにもてあそばれて。脳味噌をゴミ箱に投げ捨てて豆腐を祭り上げたい気分になる。……逃げ出したくてたまらない。現に俺はここに逃げてきた」
 静香はじっと聞き入っている。
「自首はするつもりだったんだ。……ちゃんと償おうと思ってる。どんな偶然だろうと、確かに俺のしたことで。……俺の、罪だ。当然だ。ずっと背負っていくんだろう。けど……」
 朝を迎えるまで繰り返しそう考えていた。しかし、冷静を取り戻したと思っていた心が、実はひどく荒んでいたと。今ならわかる。
「おまえに赦されたことで――救われた、気がするんだ」
 今なら――ただ穏やかに。何もかもを受け止めていけるだろう。
「……忘れないでほしい。人の心がすごく弱くて、簡単に揺るがされて打ちのめされて。心一つで救われること。……おまえが、俺を、救ったこと。たぶん二度と会えねーけど、俺がおまえを忘れられないように、おまえも俺を、忘れないでほしい」
 それは、たった一つの願い。
 自分のいない世界でどれほどの時がたとうとも。何があろうと、どんな目に遭おうとも。
 それだけは。
「……忘れられ、ません。私だって、救われたから。『救い』を、強く強く信じられるようになったのは、……大地、の、おかげだから」
 静香の表情がふにゃりとゆるんだ。泣いていいのか笑っていいのかわからないといった様子だ。
 大地はこみ上げる衝動を、とてもこらえていられなかった。
「……静香」
 顎をとらえて口付ける。食むように、唇を愛でる。かすかな吐息も逃さぬように。すべてを分かち合うように。甘やかな熱が生まれていく。何度も息を交わし合って。何度も想いを送り込んで。
 名残惜しげに離れると、静香は焦点の合わない瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「な、何を……っ」
 真っ赤な顔で。潤んだ瞳でにらみつける。口をはくはくと動かして、とても言葉が出てこないといった感じだ。
「……あー、草太の女じゃねーんならさっさと色々しとけばよかった」
 大地は天井を見上げて言った。静香の方を見つめ直すと、悪戯好きの子どものような笑みを浮かべる。
「……にしても、やっと怒ったな。一番最初のとき以来、おまえには俺の方が怒らされてばかりいたからな。……嫌だったなら、殴っていい」
 かと思ったら神妙な面持ちになり、静香の胸はいつまでたっても落ち着けない。
「あ、あれは……っ、大地様が私にだけ意地悪してると思ったからっ、緊張もしてたし……っ! 私だって怒るときは怒りますっ。……でも、あの後すぐに私が悪かったって思ったし、大地様は言葉が不器用なだけってわかったから……」
 静香は自分で自分が何を言っているのかわからなくなった。
 最初はずっとへの字口でほとんど表情も変わらないような。変わっても怒るとか呆れるとか面倒そうにするとか、そんな顔ばかりだったくせに。
 卑怯だ。
 こんなのは――こんなに鮮やかな姿を見せてくれるのは――卑怯だ。

 嫌なんかじゃ、絶対なかった。

 大地は再び静香の顎をとらえる。
「……『大地』」
 そう呼べと、いうのだろう。
 静香は唇をぎこちなく動かしたが、声は出てこなかった。大地の顔が近づいてくる。真っ黒な瞳には自分だけが映っている。目を離すことができない。吸い込まれてしまう。
「だ、い、ち……」
 唇が、重なった。
 この時間ははかなく短い。今度こそ、二度とは会えない人だから。少しでも多くのことを伝えるために。忘れないようにと。微笑んでいても泣きそうになる心を癒すように――。
 静香は大地の肩にすがりつく。大地は静香の髪に指を入れる。
 己の鼓動も聞こえない。互いの瞳以外何も見えない。

 二人は気づかない。部屋の障子が動いたことに。

「――間男め」

 そして一発の銃声が響く。


第八章 真実


 対峙する姉と弟。
 静香の愛でる畑の脇で足を止め、草太は美貌の姉をじっと見据えた。
「……姉上、静香様を無知の檻に閉じこめるのはおやめください」
 鏡子は小太刀に手をかけたまま、いつでも抜刀できる姿勢でいる。草太はやんわりと首を振った。
「姉上が心酔される静香様の素晴らしさは、この宮の中で、私たち以外との接触を断たれて培われたもの。はたしてそれは、静香様にとって本来の御姿と言えますのでしょうか?」
 鏡子の眉がぴくりと動く。
「……静香様は強い御方です。世の中を知っても変わらずにいればよいのだろうとおっしゃった。……私たちがなすべきことは、静香様をゆっくりと世に触れさせていく、その中でその御心をお護りする。そうしたことなのではないでしょうか」
 いつになく強い光をたたえる草太の眼差しに、鏡子はいらだちを抑えるように目を細めた。
「……『純粋』というものが、どれほどに壊れやすいか知っておろう」
 草太は明言する。
「『無知』は『純粋』とは言いません」
「……愚弄する気か?」
「そうではありません。姉上が手段を誤っていると申しておるのです」
 草太が微塵の揺らぎもなくそう言うと、鏡子は白い額をすっと狭め、しばらく考えてから、厳かにまぶたを閉じていった。
「……私は人を殺さずにはいられない性。臓物を見たくてならぬ」
 神に告白するように口に出す。
 一週間に一度。静香が寝静まった後、鏡子は草太に後を任せ、小太刀を持って外に出る。そうして狩ることを許された獲物を手にかける。それは与えられた拝命だったが、鏡子自身の歓楽でもあった。
 赤黒い内臓を見ると心がわく。熱い血を浴びると官能がざわめく。愛憎も使命も何もなく。命の火を消し愉悦に笑う。発作のようにわき起こる衝動を、止めることなどできはしない。
 自分はそういった本能が根付いた生き物なのだ。
 鏡子は信じて疑わない。
「……私にとって静香様は人ならぬ方。あの御方に対してだけは、そのような気持ちになれぬのだ。外見も中身も、御心もお美しくて、……私はあの方をそのままに保つためならどのようなことでもするだろう。万に一つの可能性も、――許さぬ」
「ならば何故大地を二度も見逃したのです。姉上は静香様の御為とおっしゃった。静香様のお美しさを保つ以上に、何よりその御幸せを願っているからではないのですか!」
 草太は声を荒げた。本来鏡子は忠告などする気性ではないのだ。一度抜いた刀を命令もなく鞘に収めるようなことはない。しかし静香がそばにいる場合、静香が嘆く場合だけ、その切っ先は非常に慎重なものとなる。
「……姉上、私たちの主はミコト様です。ですが私がお仕えしたい方は静香様です。姉上は? どちらをお選びになるのです」
「決まっておろう」
 鏡子の答に迷いはない。草太は矢のように忠言を浴びせる。
「ならば何故ミコト様に従われるっ? ミコト様のおそばで静香様の純粋が守られるとでもっ?」
 鏡子の顔がさっと歪む。
「黙れっ! おまえなどに言われるまでもない。やがてはミコトを殺すつもりよ。だが――静香様の御命は、この宮でしか保たれぬ!」
 静香以上に大事なものなど何もない。
 鏡子と草太は静香とともに育ってきた。斎姫を護る者として。静香と同じように、ミコトに逆らうことを許されぬ者として育てられた。しかし二人は『外』との接触を許されていたし、ミコトが何を考えているかも知っている。
「姉上、それは違う。姉上はいつまでもこのままでいたいのです。ここにいる限り静香様はあらゆるものから遮断される。ここが姉上のどこよりも安心していられる空間だからです。しかし、時は進みます。静香様はやがて穢される……」
「黙れっ!」
「いいえ、黙りません。姉上がそのようなことでどうされるのです。ミコト様が静香様を殺められるようなことはないでしょう。なれど静香様は永遠にここを出られない。ならば、姉上と私がお護りせずに、一体どうやって静香様の御心が護られるというのですか!」
 鏡子は草太の口をふさぐと同時に小太刀を抜き、飛びかかって地面に押し倒した。草太の首の薄皮に、研ぎすまされた刃が入り込む。
 鮮やかな赤がしたたり落ちる。そのままわずかに刃を押せば、いともたやすく命が散るだろう。
 草太は静かな瞳で見つめている。鏡子の肘から上ががくがくと震え出す。しかし刀は動かない。
 鏡子は己の血のざわめきを聞く。殺せ、と、何かが告げる。その悦楽を知っている。狂気を呼び起こす赤い色。舌をなめずるほど甘い血潮。普段抑えている衝動が、一気に脳を侵していく。
 鏡子は唇をにいと歪めた。腹の底から笑いがこみ上げる。
「く……くく、見ろ! 私は穢れている! 私は穢れているっ! 今までおまえを生かしておいたは、他に護り役を務める者がおらぬから。それだけよっ! ……弟よ、私と違い、呪われた性を持たぬ弟よ! おまえでさえも、私は殺めることをいとわぬのだ! ……その私から静香様という救いを奪うというか! ……許さぬ」
 鏡子はなぶるように刀をゆらめかす。なまめかしい微笑の広がるその顔を、草太はまっすぐ見つめている。
「……私が穢れていないと仰せになるか。姉上、あなたは知らぬ」
 低くかすれた、一音ごとに声帯を引きちぎるような声。
「……心より、お慕いいたしております」
 鏡子は目を見開いて弟を見る。
「幼少の頃、姉上はどこまでもお優しかった。よく私にかまってくだされて。二人、仲良く遊んだりもしましたね。それが……あのときから……少しずつ、変わっていかれて……人を手にかけるが至上の享楽とあなたはおっしゃる。同時にそのことを激しく嫌悪しておられる。その危うさを、見ていられずに――」
 草太はぐっと目を瞑り、涙をにじませてじわじわと開く。
「私は実の姉を。あなたを――、恋い慕って、おるのです。その私が穢れていないなどとっ、そのようなことがあるはずがない……っ!」
 恋に泣く。罪にあえぐ。愛しい人のために淡く微笑む。
「……この首を差し上げます。どうか、何があなたにとって真に大切なものなのか、ようくお考えください。……そして我らが主を護られますよう――」
 草太はまぶたを閉じた。最期の瞬間まで鏡子を見つめていたかったが、死に際の瞳を覚えさせたくはない。鏡子はああ言ったけれど、首に付けられた刀が今止まっているのは、自分が弟だからなのだ。狂気を制する情はその胸にちゃんと根付いている。心残りはそのことをしっかりと気づかせてやれなかったこと。だが、自分の死がきっかけになってくれれば――それでいい。
 かなわぬ想いはここに散る。願わくば、幸せでいてくれますように。
 穏やかに死を迎えようとする草太の胸に、鏡子のつぶやきが落とされた。
「……臓物はみな醜いが、おまえのものはただれていよう。わざわざ開くこともない」
 草太は驚いてまぶたを開く。鏡子はゆっくりと体を起こし、流れるような動作で小太刀を収めた。その顔に表情は浮かんでいない。草太は呆然としながら起きあがる。
「我ら姉弟、呪われておるな。……おまえは私の弟だ。もしも静香様を失うようなことがあり、……この身が地獄に堕ちるとき――おまえもともに来るがよい」
 背を向けて歩き出す鏡子の言葉に、草太は息ができなくなる。胸にこみ上げる想いをぐっと拳で押し殺し、固くうなずいて。すぐには顔を上げることができなかった。
 ようやく呼吸を取り戻し、姉の背を追うべく動き出した頃。建物の中から銃声がした。


 唇がゆっくりと離れていく。頬を鼻がかすめていって、肩に重みがのしかかる。
 それは穴のあいた頭の重み。
 静香は大地の体を抱いたまま、甘い口付けを待っている。

 大地はもう、息をしない。

「だい、ち……?」
 呼びかけた声に返ってきたのは聞き慣れた優しい声。
「ああ、彼がお友達の大地君でしたか」
 おずおずと見上げた先にはミコトの姿。
 ミコトは銃を懐に収め、大地の頭をぐいっと引きはがして言った。
「ごらん静香。かって彼だったモノですよ」
 大地のまぶたは閉じていて、こめかみからは血が流れている。静香はその流れにそっと触れた。
「大地……?」

 返事はない。

 指が震える。腕に、肩に、胸に伝わる。静香は声にならないうめきをもらし、もう一度名を呼ぼうとして――悲鳴を上げた。
 すぐに鏡子と草太が駆けつけてくる。鏡子は狂乱する静香をきつく抱きしめ、草太は信じられない思いで大地を見た。
「ミコト様……何故……」
 ミコトは穏やかに微笑んでいる。
「静香は以前部屋の非常口を使って外に出たのでしょう? あれは勝手に動かせば鏡子の元に信号が送られるようになってるんです。静香に害なすものを排除する者として、鏡子以上に信用できる者はいませんでしたから。しかし鏡子はそのことを私に報告しませんでした。ですから、今後護り役の二人が不審な行動を起こした場合、ただちに報告するよう他の者たちに言っておいたんです」
 草太は姉に視線を向ける。鏡子は不覚を取られた表情だ。姉はすべて知ったうえで泳がせてくれていた。そして自分はまんまとミコトの罠にひっかかり、大地が――。
「草太、このゴミを早くかたしてください」
 ミコトはにっこりと笑って大地の体を放り投げた。草太の腹で炎が燃え上がる。
「――草太」
 背後から姉に名前を呼ばれ、奥歯の軋む音を聞いた。
「……かしこまり、ました」
 かろうじてそうつぶやいたが、憎悪に染まる瞳はとても隠せそうになかった。
 たった一人の友人が殺されたのだ。外の世界に溶け込めず『浮いていた』自分と普通に話してくれた初めての人。こんな男にこんなところで殺されていい人間ではなかったのに。
「あ、ああ……あ。いやっ、嫌! やめてっ! ……大地っ!」
 静香は鏡子の腕を振り払って畳の上を四つ這いで進む。すがりついた大地はすでに冷たくなっていて、さらに大きな悲鳴を張り上げた。
 ミコトは深々と息を吐く。
「……静香、それはもう壊れちゃったんですよ。ほら、離しなさい。泣きたいなら私の胸を貸してあげますから」
 静香は差し伸ばされたミコトの腕を見ようともしない。ただただ大地に呼びかける。ミコトは肩をすくめて静香の体を抱き上げた。
「やっ! 嫌ぁっ! 離してっ! 大地が……っ! 大地がっ! 大地!」
 静香は手足を振り上げて必死にもがく。右手の甲がミコトの頬にぶつかって、眼鏡が無理に弾かれた。
「――もう二、三発撃ち込んでおきましょうか? それなら君にも彼が二度と動かないことがわかるでしょう」
 静香は眦が切れそうなほど目を見開く。ミコトは変わらず微笑を浮かべている。

 ――この人が大地を殺したのだ。

 静香は今頃その事実に思い当たる。
「……ひと、ごろ、し……」
 ミコトはおやおや、とでも言いたげに、両の眉を持ち上げた。
「どうして……どうしてこんな……」
 震えて途切れて問う声に、躊躇のかけらもなくこう答える。
「ちょっと腹が立ったものですから」

 これは一体誰だろう。

 静香はミコトの顔を凝視する。幼い頃からあこがれてきた義理の従兄はいつも優しくて。穏やかで。常に微笑を浮かべていて。自分を怒るようなことは絶対になく。
 今目の前にいる人物と、姿形はまったく同じ――。だが、違う。こんな人は知らない。知らない。知らない。
「……お兄様はどこ?」
 静香は言う。
「ここにいますよ」
 ミコトが笑う。
「離して! 触らないで! お兄様はどこっ? お兄様はどこにいるのよっ!」
 静香はなりふり構わずがむしゃらにもがく。やっとの思いでミコトの腕から抜け出すと、大地の方に飛びついた。そして燃やし尽くすような瞳でミコトを見た。
「ああ……、もう――。なんということでしょうね。私は着々と準備を進めていたというのに。こんなゴキブリ一匹が持ち込んだアクシデントのせいで、まさかこんなことになってしまうなんて……」
 ミコトは息を吐き出しながら首を振る。
「人殺し! 大地を返してっ! 返してよ!」
 静香の激昂に、あくまで笑顔を崩さない。
「……いいかげんにしないと……次は草太の番ですよ?」
 静香はびくりと体をすくめた。
「……ねぇ、君は私の妻になる人だと言っておいたでしょう。君に関する楽しみは、すべて私のものなんです。それが……こんな理由で、そんな目で私を見るようになってしまって。残念です。……ですが仕方ありません、楽しみが早まったのだと思いましょう」
 ミコトがゆっくりと近づいてくる。静香は背中がひくつくのがわかったが、後ずさるようなことはしたくなかった。今にも音を立てそうな歯を固く噛みしめ、身の内を焦がす怒りをもっと、もっとと視線に込める。
 ミコトが静香の唇を奪う。静香はすぐさま噛みついた。
「……私、あなたを愛してないっ! お兄様のことは父のように、兄のように、師であるように思ってた! でもあなたは許せない! 大地を殺した……っ! 絶対に許さないっ!」
 ミコトは指で血を拭い、くすりとした笑みをもらす。
「もしかして、今頃気づいたんですか?」
 静香は怪訝に眉を寄せた。
「静香は昔から人の気持ちに鈍いところがありましたね。大丈夫です。私は君の愛など求めていませんから」
 ミコトは静香の首に手を這わせ、すっとその髪を指でとく。
「……可愛い静香。何も知らない。……やっと君に、すべてを告げることができる」
「やめろ……っ!」
 鏡子が声を張り上げる。
「鏡子、君は知っていたでしょう。私がこのときをどれほどに楽しみにしていたか」
 ミコトはさらに笑みを深めた。鏡子は小太刀の柄に指をかけたが、草太の視線が制止を呼びかけていることに気づく。
 静香は大地を失った。ここで真実を隠してのけたとしても、静香の心はすでに岐路に立たされている。
 鏡子は眉根を寄せて静香を見る。静香の顔には憎しみ以外浮かんでいない。
「少々予定は早まってしまいましたが。今私はとても興奮しています。……静香。何も知らないおまえに、全部、全部、教えてあげる……」
 ミコトは鷹揚に腰を折り曲げて眼鏡を拾い上げると、慣れた仕草でそれを掛けた。静香に向き直り、軽く手をたたいてから話し出す。
「人類が宇宙に拒まれているというのは教えておきましたよね。人は地球を破壊して、それでも数を増やしている。もはや宇宙にしか逃げ場はないのに、宇宙は決して受け入れてはくれない」
 静香はわずかに眉を上げる。
「話は変わりますが、私は薬屋の息子です。よく効く薬を作ってすべての人を助けなければならないんですよ。でもね、段々馬鹿馬鹿しくなってきたんです。人が多ければ多いほど破滅が迫るというのに、どうして薬を使ってまで人を生かさなければならないんです?」
 ミコトは口の端をつり上げて首を傾ける。
「宇宙に逃げ場はありません。人が生きていくためには、人の数を減らさなければならないはずなんです。それで私は色々なことに手を出しました。毒薬をばらまこうかとも思いましたが、それでは無差別大量殺人になってしまうでしょう?」
 一つ間をおいて、考えるように顎を触る。伏し目がちな瞳を横にずらした。
「……人類には外敵がいません。一部のウィルスが猛威をふるってはいますがどれもみなじきに駆除されています。私はね、人は人によって淘汰されるべきだと思うんですよ。生物らしく、生きることに貪欲な。自らの生のためならば同じ人間を屠ることすらいとわない――。そういった人々こそが、生き残るにふさわしいとは思いませんか?」
 ミコトの完璧な微笑みが、みるみる嘲りに歪んでいく。
「ねぇ、地球はすでに死んでいるのに。宇宙に救いなどありはしないのに。人は未だに生活の中に快楽を求め、様々な娯楽にいそしんでいる――。大部分の人間は今日が楽しければ明日などどうでもいいと思っているんです。私はそんな人たちに極限の選択を突きつけてやりたい。そうして勝ち残った人間だけが地球上に残ればいい。……そのための計画はゆっくりと進行しています」
 『ワイルド・パラサイト』もその実験の一つにすぎない。大地が乗り出すまでもなく、やがては破綻し、切り捨てられる予定だった。
「……その完成形が、十二月二十五日には、できあがりそうだったんですけどね――。キリスト教では神の子が生まれた日だ。そんな日に、君を妻に迎え、すべての真実を突きつけて。君に選択を迫りたかった……」
 ミコトは再び穏やかな表情を取り戻し、静香の頬に両手を這わせた。
「人を救うためには人を殺す他にない。私という人間が、実はこういった人間で。鏡子も草太も知っていて君に黙っていました。そして鏡子は快楽殺人者です」
 静香は顔をこわばらせて鏡子を見る。鏡子は痛みに耐える面持ちでそっとうなずく。
 まさか。優しくて上品で、いつも自分の側にいてくれた、実の姉のような存在が。
「彼女は夜な夜な外を出歩いては人を殺していましたよ? 仕方ないんです。彼女にとっては食事のようなものですから。……それから、静香。君は斎姫としての言葉を伝えていただけだから知りませんよね? あの集会の前後で信者たちが様々な実験に使われていたことを。薬を投与したり、マインドコントロールを施したり――ね」
 静香は次に草太を見る。嘘だ。だって大地は集会に紛れ込んで来たではないか。
 草太は痛ましげに首を振った。
「……大地は私の手引きで招き入れましたので……」
 静香にはとても信じられない。ならば鏡子も草太もそんな非人道的な行いを黙って見ていたということなのか。
「……大地君、ね」
 ミコトはふうと息をつく。静香がにらむと、そっと笑った。
「君は私を許さないでしょう?」
 許さない。許せない。
 大地の躯は畳の上に倒れたまま、二度と動くことはない。
「しかし君は十年間ここで生きてきました。もはや他では生きられない。さあ、どうします? 静香。私に君の答を聞かせてください」
 ミコトは心からの微笑を浮かべる。
 ずっとこのときを待っていた。真っ白な静香を穢すとき。幼児に性行為を見せるように。何も知らない静香の心にあらゆる真をつきつけて。絶望にたたき落とす瞬間を。
 純白の千早に緋の袴。その姿を見るたび欲情した。その昔、自然界においては白子は弱者と決まっていた。ならばその弱き者が、自身を守るために牙をむき、狩られる側から狩る側へと変貌する。真っ白なものが赤く染まりゆく姿が見たい――。

 さあ、白うさぎよ。その後ろ足で狼の鼻を蹴るがいい。

 静香はぎらぎらとした双眸を向けたまま、ゆっくりと口を開いていく。
「……私は、斎女として、いつも話をするだけだった……。でも、その内容は誰が考えたの? お兄様、じゃないの?」
 ミコトは眉を寄せる。
「確かに私ですが……それが何か?」
 静香は胸の前で両手の指を組み合わせる。厳かにまぶたを下ろし、繰り返し説いてきた教えを唱える。
「……土を、愛してください。あなた方を生み育てたこの大地を忘れないで。逃げないで。立ち向かうことは、できるはずです。すべては移りゆく。過ちは赦される。地球はまだ死んではいない。あなた方を――赦しているのだから。……私が斎女として立てたのは、この教えを信じているから。……お兄様は、本当は、もっと優しい方法で人々と地球を救いたかった。だから私を大勢の人々の前に立たせた。……でしょう?」
 ミコトは顔をしかめずにいられない。そんなことはどうだっていいことだ。
「……静香、早く答を。君は私が憎いのでしょう……っ?」
「憎いわよ! 絶対に許さない!」
 静香は髪を振り乱してミコトに詰め寄ると、その胸元にたたきつけるように拳を置く。肩が震える。口が引きつる。わき上がる怒りに際限はない。

 ――なのに。

「……どうすればいいの。鏡子さんも草太さんも、今さら嫌いになんかなれないように、今までのお兄様が、全部嘘だなんて思えない! ……だってっ! 十年間私にはみんなしかいなかったんだから……っ!」
「な……っ」
 ミコトが絶句する。静香はミコトをにらみつける。
 悔しい。悔しくてたまらない。大地はもういないのに。死んでしまったのに。

 殺されたのに!

 殺した相手を、憎みきることもできないなんて!
「お兄様は間違えてる。きっと本当に、お兄様ほど人々を救いたいと思って、その通りに頑張ってる人っていなかったのに、……方法を、間違えたの。そして私は……お兄様を助けられたらと、今でもそう、思ってしまう……っ」
 躊躇もなく人を撃った。こんな男の良心を疑えないなんてどうかしている! 十年間の優しい記憶にだまされている! そう思っても、あらがえない。
 悔しい。悔しい。悔しい! 心が、張り裂けそうなほど。
「静香様……」
 鏡子が呼んだ。思わずもらしてしまったようなつぶやきだった。静香は鏡子に向き直る。
「私、鏡子さんが快楽殺人者だなんてとても思えない。でも、本当なんでしょう?」
 鏡子の眉間が張りつめる。
「……静香様にだけは、知られとう、ございませんでした……」
 鏡子は脇の刀に意識をやる。静香に蔑まれたときにはいつでも胸を突く覚悟ができていた。
「だけど、私に優しくしてくれた鏡子さんも、本当、でしょう……?」
 鏡子は目を瞠った。静香は泣きそうな顔で笑っている。
「私が無知なことを教えてくれた草太さんが……、色んなことを見て見ぬふりしてたなんて、信じられない……」
 草太ははっとして顔を歪め、重々しくうつむいた。
「……返す言葉もございません」
 ミコトのやり方に異を唱えるなら、はっきりと抵抗すればよかったのだ。それがこの心の有り様ならば。例え命を捨てることになろうとも。そう――、大地のように。そんなふうに、今なら思う。
「でも草太さんは、大地と……会わせてくれた。きっとこのままじゃ駄目だって、思ってたんでしょう……?」
 静香の眦から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「そして私は……巫女としての力なんて何も持ってない。予言も占術もできないの」
 鏡子と草太がそろって大きく目を見開く。静香は片方の頬の肉を歪めた。
「それに自分からは何一つ知ろうとしなかった……」
 そう育てられたのだから仕方がないというのは言い訳だ。自分を取り巻く環境は何かが歪んでいると気づいていた。そしてそれは確かに不安にさいなまれる日々ではあったが、同時に安穏とした暮らしでもあったのだ。
「……どうしてこんなことになったんだろう。みんなどうして間違えてしまったんだろう。憎いの。あやまちは元に戻らない。今さらこんなことを言っても何にもならない。何もかも、悔しい。色んなことが、とても憎い……」
 静香の頬に次から次へと熱い流れができていく。歪む視界で今はもう動かない大地をじっと見る。思い出す、鮮やかな笑顔。二度と見れない。

「でも……ずっと、悲しい……」

 悲しい。

 二度と会えなくてもいいから。どこかで生きていてほしかった。
 人々も地球も何もかも、おとぎ話のように救えたらよかった。
 鏡子がどんなときにも優しい姿でいられれば。草太がありたいと願う心のままにあれればよかった。

 かなわなかった一つ一つが、とても、悲しい。

「君は私たちを許す気ですか?」
 ミコトがいらだちを抑えて言う。
「……そう、なのかな?」
 静香にはよくわからなかった。
これは許すということなのだろうか? 憎みきることは、できない。
「例えどれほど重い罪を負っていようとも、土はすべてを赦していて。包み、癒し、浄めてくださる。すべての人には救いが差し伸べられていて――人は、それに、気づくだけ……」
 十年間教えられてきた神の愛が、勝手に口をついて出る。忍び笑いが聞こえてきた。
「く、くくく……真っ白な静香。何も知らない静香。まだそんなもの信じているの? この世に神なんかいないんだよ? 神の愛などありはしない」
 ミコトは肩を震わせてこらえきれないといった様子で笑っている。鏡子と草太がいぶかしげな目で見やる。ミコトの笑いは止まらない。
「まったく。カルトな宗教集団でさえ金を出せば走狗に変わるというのに、どうして君はそうなんです。……どうしてそうも穢しがいがあるのでしょう。私のでっちあげた神の愛を、それほどに信じているのですか?」
 つり上がる口の端を手で隠す。
 『ワイルド・パラサイト』の世界を現実にする際、死刑執行人が鏡子一人では成り立たなかった。ミコトは様々なところから、『神』の名を出せば簡単に口車に乗り、かつ金で思想が湾曲しうる集団をかき集めた。その中の一つが国家血盟神教だ。神の名の下に他宗教を排除していながら、その思考の柔軟さは呆れてしまうほどで、ひどくたわいなかった。
「……おいで。おまえの救いを壊してあげよう」

 壊すものは強固でなければ、面白くない。


第九章 言霊


 ミコトが最初に静香を見たのはバラックの建ち並ぶ公園の隅。まともな家を持てない人間が、様々なゴミをかき集めてなんとか身を守っている。彼らの後にはゾンビのような崩れた肉のかたまりしかない。貧しいというだけで人間の境界に立たされた人々の、最後の砦。そんな場所だった。
 当時まだ六歳だった静香はそこに住む男たちのおもちゃと言っていい存在だった。ある男は殴るためだけに静香を呼び、ある男はこき使うために静香を呼び、どの男たちもみな彼女を美しく保つよう努力していた。
 女は美しい方がより楽しめるものだから。
 男たちは静香の他に娯楽らしい娯楽を持たなかったので、それはそれは丹念に美しさを育てていた。白く輝くような肌を味わうのが何よりの楽しみだったのだ。しかし自分たちよりも人らしさを保っている姿に、時折ひどく腹を立てた。
 ゴミの山から甲高い悲鳴がする。
 ミコトはベンチに座ったままその声を聞いていた。公園に来たのは人間を観察するためだ。はたして自分が家業を継いでまで守る価値のある存在なのかどうか、はなはだ疑問でならなかった。
 吹き溜まりのような場所。ここで暮らす人間は薬を買う金など持っていない。日々の糧にも困る状況だ。稼げない人間に生きる価値などないというのもうなずける話ではある。しかし裕福な人間は、稼いだ金を愚かしい遊びに費やすのだ。どちらが選ばれるべきなのだろう。ミコトは思索にふけり続ける。
 長らく鼓膜を破っていた悲鳴がふいに止まった。しばらくして、小さな布のかたまりが這い出してきた。
 浮浪者はみなぼろぼろの布を包帯のように巻き付けて肌を守っている。他に手段を持たないのだ。薄汚れたかたまりはげほげほと咳をすると、血を吐くように口元を手で覆う。ガスマスクも壊れかけのに違いない。
 哀れな姿だ。だが弱者は死ぬ。それが理だ。
 ミコトは足を組み替えて、最期を看取るようにじっと見つめる。
 ぼろ布は蛇口までたどり着くと、命を補充するかのごとく水を飲んだ。そしてそのままゴミの山へと戻ろうとする。
 ミコトには理解できなかった。それが生きるための選択であったとしても、ここで暮らしていく限りやがては死んでしまうだろう。土台子どもが育っていくのは不可能と言っていい場所なのだ。何故男たちの手を逃れない。生き抜くためにあがかない。
 興味がわいた。
 ミコトは少女を捕まえて、
「大丈夫ですか? ひどいことをされましたね。ここから逃げないのですか?」
と尋ねた。
 少女は不思議そうな顔をしていたが、こくりとうなずくとこう言った。
「おじちゃんたち、寂しいから私をつれてきたんだって。私がいると楽しいって、私がいなくなったら何の楽しみもないって言うの。ここにいるの、つらい。おうちに帰ってパパとママに会いたい。……でもおじちゃんたちが、逃げたらひどいことするぞって。それって、いなくなっちゃ嫌ってことでしょ……?」
 実に不可解な少女だった。泣きながら自分を誘拐した相手のことを案じている。
「君は彼らのことを憎まないのですか?」
 ミコトは問わずにいられない。少女はまぶたを擦りながら言う。
「憎む……? わかんない。おじちゃんたち、怖い。嫌い。でも……悲しい」
 馬鹿な子どもだ。これほど弱い存在は見たことがない。人を憎むことさえできずにそのまま息絶えていくのだろう。それは、理だ。
 しかしミコトは、嫌だと思った。
 この奇妙な存在がここで失われるのは嫌だ。
 そのときふと、一つの考えが頭をよぎる。
 むさぼられていくだけのこの子どもを、野生の頂点に立つ者へと変えてやろう。生きるために命を屠り、生き抜くために情を捨て、それこそが正しいと信じる者に変えてやろう。
 『生きる』、それ以外、何も見えないように。
 人は元々命を殺して生きている。動物は他の命を奪わずには生きられない。ならばそれこそが、人間の本来あるべき姿なのではないか――?
 ぞくぞくとした震えが背中を駆け抜ける。あどけない瞳がきょとんと見つめている。ミコトは穏やかな笑みを差し向ける。
「……では私のところに来てください。私もとても寂しいんです。ここの人たちと違って怖くはないですよ? 君を大事にしてあげます。君に好かれるよう最大限努力しますから――。さあ、おいで」
 変化は一瞬が鮮やかで美しい。
 大事に大事にしてあげる。いつか壊す日のため、大切に大切にしてあげる。綺麗なものだけ差し与えて、一つの傷もつかないように。そして粉々にしてあげよう。

 そのときこそ君が目覚めるとき。

 ミコトは浮浪者たちから静香を無理矢理奪い去り、家を継ぐと決めると同時に建設中だったビルの設計に口を出した。
 最上階には今や寺社仏閣でしか残っていない日本古来の建築物。
 宗教の力を借りて人心を操ることは前々から考えの内にはあった。煽動者として立たせるにふさわしい人物が思い当たらなかったために断念していたのだが、この少女こそふさわしいに違いない。
 そして中庭には畑を作らせた。
 世界有数の製薬会社は、苗を、土を、水を、できうる限り自然に近づけることはできやしないかと、莫大な資金を費やして研究を進めていた。
 誰もみな、それらの本来の有り様を知らなかった。数世紀前、かろうじて命を育んでいた土の様子はどうだった? 数字では計り知れないその神秘。水は? 大気は。最も難航したのは種の研究だ。植物の改良を巻き戻してもうまくいかない。土に合わない。水に合わない。そして偶然が奇跡となる。
 大気と土と水と植物と。すべては相互に影響し合っていて、どれ一つ欠けても自然の姿は損なわれた。それらを大量に作り出す資金はどこからも生まれやしない。そして――おそらく、人はもはや、とうの昔から許されざる存在だった。


 ミコトが静香たちをつれてきたのは同じビルの三十九階。地の宮の真下だった。白衣を着た職員たちを人払いし、巨大なガラスケースの前に立ってにこりと微笑む。ガラスケースにはブラインドが降りていて、中の様子はうかがえない。
 ミコトはブラインドごしにガラスをこつんとたたいた。
「みんなあまり見ていたくないようで。普段から降ろしてあるんです」
 困ったように首をすくめる。一つ一つの仕草がまるでもったいぶるようで、静香は思わず眉を寄せた。
 もうこれ以上何があっても驚いたりできやしないだろう。
 そう思い、背筋にぞくりと悪寒が走る。撃ち抜かれた大地の映像が脳裏をかすめる。固く拳を握りしめた。
 その光景以上に自分を揺るがすものなど、ありえない。
 右隣にいた鏡子が静香の手をすくい上げる。
「……静香様、どうか、何をご覧になっても、……どうか」
 静香の震えを恐怖ゆえと思っている様子だったが、鏡子の指こそ震えていた。顔色が悪い。左隣を見れば草太も不安げな瞳で見つめている。
「……静香様、先ほど予言も占術もできぬとおっしゃいましたが」
 静香はうなずく。
「……きっと、私たちはそのことを――存じておりました。いえ、おそらくわかっていて……考えようとせずにいたのだと、思います。……静香様の御言葉には常に御心がこもっていて。私たちは、ただ、信じていたかったのです……」
 草太は唇を無理に歪ませると、ガラスケースの方をそっと見つめ、つらそうに視線を降ろしていく。
 一体何があるというのだろう。静香の胸に不安がわき起こる。
「鏡子、草太、それ以上の楽しみは私のものですからね?」
 ミコトはショーを始めるかのごとく両手を打った。
「静香、このケースの真上には何があると思います?」
 楽しげな声音で問いかける。
 静香は天井とガラスケースの境を目でなぞった。
 ここは地の宮のすぐ真下。ケースは階を突き抜けて上に続いているように見える。この部屋の中には様々な機械が置いてある。何かのデータを取っているようだ。思いつくのは一つだけ。
「……中庭の、畑?」
 ミコトが満足そうにうなずく。
「ご名答。このガラスケースは畑の中の様子を見るためのもの。では、何のために地中を観察するのでしょう?」
「……根菜のできばえを探る、とか……」
 静香のつぶやきに、ミコトはおかしくてたまらないといった笑いをもらす。
「まったく、君は可愛らしい。……違いますよ。この畑の土は地球上で最も自然に近いと思われる土。……私はこの土でどうしても調べてみたいことがありました。そのために、中が見える作りにしたんです。はい、最後の問題ですよ? 私が調べたこととはなんでしょうか?」
 クイズ番組の司会よろしく人差し指を立ててみせる。静香は当惑の面持ちを隠せない。
 自然に近い土を選んで調べなければならないこと。ミコトが興味を抱くようなこと。
 思いつかなかった。
 静香の答が読めたのか、ミコトはにっこりと首を傾ける。
「はい、タイムオーバーです。実際に見せてあげましょう」
 ミコトがリモコンのボタンを押す。ピッという電子音が鳴り、徐々にブラインドが上がっていく。
 静香はひっと息を呑んだ。

 真っ黒な土の中。
 干からびたような人間が埋まっている。

「ご挨拶しなさい。君のお義父さんですよ?」
 ミコトがうっすらとした笑みを浮かべる。静香は弾かれたようにミコトを見た。
「……といっても、成長するにつれ君が保護者という存在を気にしだしたものだから、ちょっとお名前を拝借させていただいただけですが。彼は十年前から行方不明ということになっています」
 静香は目を鋭くする。ミコトは心外そうに眉を上げた。
「鏡子が殺したんですよ? 実の父親をね」
 静香は目を見開いていく。鏡子は何も語らない。ただ重々しくまぶたを閉じていた。代わりにミコトが説明する。
「安心してください。事故のようなものでしたから。ですが母親は狂乱しまして、鏡子と草太は捨てられたんです。それを私が拾って君につけたんですね。……それよりも、私が注目してほしいところは『十年前』というキーワードなんですが」
 静香ははっとした。十年前。自分がここに来たとき。畑はすでにそこにあり、いっぱいに土で埋められていた。一度も入れ替えられたことなどない。

「――そう、彼は十年間この中にいる」

 ミコトの言葉を、しかし瞬時に否定する。
 馬鹿な。そんなことがあるはずはない。十年前の死体が、腐らずに干からびているなどと――!
 ミコトは笑う。
「保存料、って、知っていますか? 食品を長く保存するために使われる添加物です。化学の力は様々な保存料を作り出しました。特に食品が貴重なものになってからは、その開発は著しく盛んになったんです。今ちまたに出回っている加工食品で、保存料の入っていないものなど一つもないと言っても過言ではありません」
 穏やかに、鮮やかに笑う。
「それに限らず、人は自然からかけ離れた食品を口にしている。バクテリアも避けて通る食べ物をね。……さあ、わかったでしょう? 静香。保存料は人間でさえ保存しました」

 ――笑う。嘲笑う。

「人はもう、土に還らない」

 神が、裁くように。

 馬鹿な。馬鹿な。そんな馬鹿な――。あり得ない。そんなことはあり得ない! 人が死して土に還らないなんて! 土はすべてを包み込み、癒し、浄めて。どれほど重い罪を負っていようとも、すべてを!

 もはや人は赦されない。

「――っ!」
 静香は声もなく絶叫する。
 十年間斎女として育てられた。毎日神の教えを聞かされ、何度もそれを暗唱し。自らの心に染み入るまでそう時間はかからなかった。
 いつだってどんなときだってそれを信じた。偽りの予言を述べていながら、教えを説くときだけは迷いが消えた。胸に痛い現実を、突きつけられたときだって。心のよりどころは神の愛。けして揺るぎはしなかった。
 人は誰もみな赦されていて、救いは常にそこにあって。後はただ、気づくだけ――。

 乾く。ひび割れる。崩れる。こぼれ落ちて、消え失せる。

 ミコトは静香が壊れていく様子を悦びとともに見つめていた。
 すべてを費やして磨き上げた至上の宝。完璧なまでに美しい最高の愛玩動物。最も自然に近い環境で育まれた、――『人間』。
「……君ならば、土に還ることができるかもしれませんね」
 ミコトは満足げに微笑む。
「最も人らしく育った君よ。さあ、さらに本来の姿を目指すのです。絶望は終わりです。立ち向かいなさい。憎しみの牙を磨くのです。ともに人を殺しましょう。生き残る資格を勝ち得ましょう。神などいない。人が救われる方法は他にない。……さあ、血に、まみれましょう」
 静香は反応を返さない。返せない。
 鏡子は沈痛に冒される。草太の視界がにじんでいく。

 静香は。

 助けを呼ぶ。答える神はどこにもいない。今こそその手を得たいのに。気づくべき救いもどこにもない。
 何にすがればいい? どうすればこの心を保っていられる?
 一体何故こんな試練が与えられる。
 逃げ出したい。何も考えたくない。心を丸裸にされて。薄皮一枚さえ引きはがされて。そんなに強くなんかない。耐えられない。壊れてしまう!
 手を伸ばして。誰か助けて。教えて。どうすればいいのかを――。

 神は何処に。


 「……忘れないでほしい」


 どこからか声が聞こえる。優しい声。二度とは、聞けない声。


 「……おまえが、俺を、救ったこと」

 「人の心が、ひどく弱くて。簡単に揺るがされて打ちのめされて」


 「――心一つで、救われること」


 「――忘れないでほしい」


 何かが生まれる。
 形などない。けれど、あたたかいもの。
 言葉にならない。けれど、揺るぎないもの。
 芽吹いた若葉がやがて大樹へと育つように。
 ゆっくり、ゆっくりと、葉を広げ、枝を伸ばす。
 網目のように広がりゆく根は血に混じり、天を目指して進む新芽は心を打つ。
 葉擦れの音色はただひそかに、穏やかな風をひきつれて。
 何もかも、慈しむように。
 降りる影さえ、ただ温かく。


「救いは、人の心にこそ、あるのです」


 天を仰ぎ、まぶたを閉じる。静香は両手の指を組み合わせる。
「……与う神、奪う神。育む神、滅す神。裁く神、……赦す神。――神は人の心におわします。それは人に都合の良い神ばかりではなく。時に人を惑わせて。傷つけて。けれど、救いの光も必ずある。……人はそれに気づかなくては。与えられるのを待つのではなく。己の内の輝きを、選び取る努力をせねばならない」
 ゆっくりと腕を下ろし、目を開いて、まっすぐに前を見据える。
「私は人間です。誰もみな、人間です。不安定なこの心がある限り。それこそが人が人である証です。――私はあなたが言うような生き物にはならない」
 静香の瞳は穏やかな光をたたえている。
「私は人に救われた。私も人を救いたい。……例え神がおわさずとも、この心がある限り、人はきっと、愛されている。そう思う心さえも、救いなのです。どんな理由でも、死ぬべき命など一つもない。……お兄様、私はあなたに敵対します」
 ミコトは笑わずにはいられなかった。
 心から、嬉しくて。
 なんということだろう。この十年間のすべてが意図せぬ方向へ持って行かれた。なのに、少しの失望も感じない。落胆さえも寄りつかない。
 静香は美しい。
 思えば十年前のあの瞬間、何故自分はこの存在を失いたくないと感じたのか。その答がたった今わかった気がする。
 愚かしいまでに美しい人の側面を、顕著に持ち得た少女だからだ。
 その美しさがはかなく踏みにじられるのが許せなかった。しかし、今、静香は強かに美しい。刃こそ持たないものの、はっきりと牙をむいている。
 天にも地にも神はおわさぬ。裁くも赦すも人なれば。絶対の正義などどこを探してもありはしない。
 この十年のすべてをかけて。

 私は自らの最高の敵を作り上げることに成功した――。

「……ねぇ、ここは小さな島国で、私はただの薬屋の息子で、君は私の囲われ者だ。……それでも君は、人々を、人類を、救おうというのですか?」
 静香は答える。
「私の生涯をかけて」
「静香様は私たちがお助けいたします」
 草太が一歩前に出る。
「力など持たずとも、静香様の気高い御心のある限り。わたくしたちの主は静香様の他にございません」
 鏡子が静香にそっと寄り添う。
「……楽しい。とても、楽しいですね。君たちの綺麗事は、とても、面白い。私が戯れに口にした詭弁を信じ込んで。――救いが人の心にあるなどと」
 この自分が。物心つくと同時にあっさりと切り捨てた選択肢に、こうも頑なにしがみつく。ひどく愚かな人間たち。
 それもまた、一つの有り様なのだろう。
 理想で物事は進まない。結果だけでは正義は語れない。どこまでもいってもただの現実しかない。人の心が様々に正誤を作るだけ。
「……いいでしょう。地の宮とガイア教を君たちに与えます。それで何ができるかやってごらんなさい」
 ミコトは嬉しくてたまらない。
 真っ白な獲物。美しい敵。
 自らの手で磨き上げた至上の宝は素晴らしい輝きを放っている。

 おまえはどこまでも私のものだ――。

「頑張って手応えのある敵に育ってくださいね?」


 戦いが、始まる。


 「大地、大地はどこに行ったか知らない? どこにもいないの!」
「いいえ、こちらでは見ておりません。静香様、そろそろお時間です。御支度されねば」
 肩で息をする静香に、鏡子は淡く微笑みかける。
「……でも。もう少しだけ待って。もう少しだけ探してくる。すぐに戻るから!」
 静香はぱたぱたと駆けていった。
 鏡子はその間に静香のための用意を整えておく。
 あれから人は殺していない。発作を抑えるのは苦しかったが、次に人を斬るときには自身を斬ると決めている。草太はどうあっても止めてみせると言い張るが、呪われた性にあらがい抜いて死ぬのは悪くないと思っている。静香が自分の助けを必要としなくなったときには世に出て裁きを受けるつもりだ。償いきれるとは、とても思えないが。今はただ、人々のために尽力する。
 中庭までやってきた静香は、作物の茂みにじっと目をこらした。大地の耳が見えないか。大地のしっぽが見えないか。するとガサガサという音がして、大地の方から駆け寄ってきた。
「もう。探したのよ。おまえがいないとすっごく困るんだから!」
 静香は人差し指を立ててその鼻に当て、「めっ!」と軽く弾く。大地が顔をのけぞらせ、静香はふっと笑みをこぼした。
 小さなぬくもりを腕に抱え込み、畑の様子を一望する。
 あれから草太がこの中庭に関するすべての技術を世間に発表した。争いの種をまくだけだとミコトは言ったそうだが、可能性をばらまくことにもなるはずだと、そちらに賭けることにした。今のところ目立った結果は出ていないが――。
 草太はあらゆる方面で精力的に動き回っている。ミコトが進める計画を崩すべく。それから、人々を救う現実的な手段を探るために。あまりに自身の健康を後回しにして、あまりに度々命を危険にさらしてくるので、最近では鏡子までもが心配に顔を曇らせている。なかなか宮に戻らなくなったが、それでも一週間に一度は必ず顔を出す。先週は『ワイルド・パラサイト』をやっとつぶせたと喜んでいた。父親の墓参りにも度々行っているようだ。
 そして。
 静香は大地を抱きしめる。そうするだけで温かな思いに満たされていく。
 それは儀式。心のうちの救いを、もっともっと確かなものにする儀式。
 ふいに悲しくてならなくなるときがある。どうすれば大地は死なずにすんだのか。きっといつまでも、そう考えずにいられない。出会ったことまで後悔してしまうときもある。自分を責めてどうにもならなくなるときもある。
 そんなときは鏡子がこの身を抱きしめて、許しの言葉をかけてくれる。それが嘘で、ただの気休めだとしても、心は癒されるはずなのに。
 赦されるのがつらいこともあるのだ。
 初めて知った。
 大地は本当に色々なことを教えてくれた。どれも大切なものばかり。
 静香は大地を抱きしめて、一つ一つを噛みしめる。
 ミコトは何の罪に問われることもなく日々を過ごしている。静香にはそれが許せない。ミコトの一部には悲しみだけを覚えるが、大部分は絶対に許したくない。法で裁くことのできる罪なのかは知らない。だが、罪は償われるべきだ。しかしミコトは多くの力に守られていて、今の静香たちには何もできない。
 静香は少しずつ外の世界に慣れていくことにした。外気に触れることもままならない今のままでは、できることはあまりにも少なすぎる。大地の墓参りでさえ、心のままに飛び出しては行けないのだ。
 食べ物も徐々に外のものを取り入れている。
 義父の姿が頭をよぎるが、恐怖はなかった。生物は環境に適応するものだから。地球が元の姿を取り戻していったなら、人間だって元に戻るだろう。一人綺麗な身でいるのはやめて、人々ともに歩みたかった。
 努力が報われる日は来ないかもしれない。
 宇宙は未だ人類を拒んだまま。地球の息吹は聞こえない。人はこのまま死に絶えるのか。あるいはミコトの考えたように、選び抜かれたごく少数の者たちだけが生き残るのか。一人の生涯の内では、答はまだ出ないかもしれない。

 それでも。

 生きることは、あがくこと。毎日を迷いながら進むこと。

 そして静香は祭壇に立つ。

「どうか――お願いです。……忘れないでください。あなた方が、人間であるということを。……人は弱いもの。そして強いもの。その心に、あらゆる可能性を秘めたもの。……神にすがってはなりません。悩んで、迷って、選んで、誤っても。……負けないで。逃げないで、ください。例えどれほどの絶望に呑み込まれようと、救いは常にそこにあります。気づいてください。あなたの心に。あなたを想う、人の心に。そしてすべての人々を、この地球を、心から愛してください。……理は、情を読んではくれません。人は打ちのめされます。けれどそれを越えていく力も、確かにそこにあるのだと。信じてください。そして、生きて。生き抜いて。……人らしく、どこまでも、人として」


 ――天地神明。

 人々は今日も、生きている。
END.
        

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