『潮音が聞こえる』

世に美しきもの数あれど、人の欲にて輝き失せたり。
宝石の嘆きを聞きつけこのジャン・ジャックロード。
今晩『ヴィーナスの涙』をいただきにうかがいます。


「おーのーれー、怪盗めっ!何をしているおまえたち!早く追え!追わんか!」
ロドリーグ隊長が顔を真っ赤にして予告状を引きちぎる。
部下たちはみな走り出そうと構えたが、足を踏み出したところでぴたりと止まった。
「あの……どこへ追いに行けばいいんでしょーか……」
すでに現場は犯人の影も形もなく。
持ち主の公爵がしっかりと抱きしめていたはずの『ヴィーナスの涙』は薔薇一輪へと姿を変えていた。
ロドリーグは細切れになった予告状をさらに踏みつけながらうなった。
「う、うう……うううううー!公爵!その薔薇をお貸しいただきたいっ!おい、急いでこの薔薇の出所を……」
「そこの花瓶」
「何っ?」
「そこの花瓶ですよ。出所」
部下に指差された方を見れば、確かにそこには大輪の薔薇が詰まった花瓶がでんと置かれていて。
ロドリーグは雷のように怒鳴った。
「追えー!どこでもいい!とにかく追え!奴を捜せーっ!」
そんな無茶な、と思いつつ、逆らえない部下たちは四方八方に散らばった。
ジョルジュは走りながらため息をつく。
(すぐそばの花瓶の中身も見てないような隊長でジャン・ジャックロードが捕まえられるものか)
口には出せないが、心の中は
(なんであんなヘボが隊長なんだ。他の奴らはともかくオレは馬鹿じゃない。いい迷惑だ)
だの、
(いいかげん遊ばれてることに気づけ。隊長がジャン・ジャックロードにこだわるせいで他の犯罪の取り締まりがおろそかになってるんだぞっ?)
だの、
(腹の出っぱった豚貴族がよだれで磨いたような宝石の百や二百、盗られたからって何の問題がある!)
といった考えで暴風雨が起きている。
しかし口には出さずとも顔には出るもので、子どもが見たら引きつけを起こしそうな表情のジョルジュを誰もがよけて走っていた。
右折左折を数回繰り返した頃には同じ道を走っているのはたった一人だけだった。
「あーあー、嫌になるよなぁ。オレらに走らせといて隊長はキーキー鳴いてるだけでさぁ……」
そのたった一人から話しかけられ、ジョルジュはちらりと一瞥してから頷いた。
「……そうだな。無駄に走ってる連中も多いからな」
「あら?おたく何か目的持ってんの?ダイエット?」
軽い笑い声につられたように口元だけで微笑してみせる。
「オレはあんたを他の連中に捕まえさせないために走っている」
そう言った途端笑い声が止まり、路地には二人が走る音だけが響いた。
「……公爵の館から逃げるには川沿いの道が一番適している。狭い路地が多く、浮浪者がたまっているため隠れやすい。だがジャン・ジャックロードなら逃走ルートには選ばない。オレたちは……浮浪者など、ぼろ雑巾のように扱うからな。彼なら何よりも人気のない道を選ぶ。万が一の場合にも巻き添えの出ない道。……ここだ」
ジョルジュは喉を鳴らして笑う。
「ついでに、オレは『鬼のジョルジュ』というありがたくもないあだ名を頂戴している。仕事中にそんな口をきいてくるような奴はいない」
警官隊の服装をした男はにやりと白い歯を見せた。
「なるほどねー。『鬼のジョルジュ』か。鬼は欲深いのかな?手柄を独り占めするために頑張っちゃうタイプ?」
「欲はあるが、豚ほどじゃない。オレはあんたを無事に逃がすために走っている。今日奪ったダイヤモンドは金に換えた後また分け与えるんだろう?民衆の間ではあんたの名は崇め奉られるほどだ。……救ってくれ。できるだけ多くの人々を。あんたにしかできない方法で」
男は楽しそうに口笛を吹き、急に口調を変えた。
「ふむ、『鬼のジョルジュ』殿。オレは貴殿に見逃してもらった恩ができたというわけだな」
「……いちいち『鬼の』をつけないでくれ。それに、あんたが恩に感じることはない。オレが勝手にやっているだけだからな。怪盗のプライドを傷つけたというのならわかるが……」
ジョルジュはなんだか疲れを感じてまぶたを伏せた。

「そして覚えておくといい。誰にでもできることがある」

はっとまぶたを開いたときには、怪盗の姿は消え失せていた。
(誰にでもできることがあるって……?それは、他力本願するなってことか?)
ぽかんと開いた口を引き締めて、崩す。
本人には告げなかった憧れを顔いっぱいににじませて苦笑した。
「あんたに言われちゃあ……な。いいさ。コンスターンスは泣くかもしれないが、オレが嬉し涙に変えてやる。……くそう、やってやるぞ!」
ジョルジュは拳を振り上げ、回れ右してから再び走り出した。


国は富裕と貧困との二色に塗り分けられていた。
贅沢の限りを尽くして繁栄を貪る貴族たちと、絞るだけ絞り尽くされて何も残っていないような民衆たち。
まるで吸血鬼とその獲物のように、貴婦人がきらびやかに飾り立てれば立てるほど民衆は生気を奪われ、紳士が豪勢な住居を整えれば整えるほど街は廃れていった。
民は怒りを疲労に押し潰され、哀しみに塗り込められ、どうしようもないあきらめの中でかろうじて生きていた。
口を開けば「つらい」、「苦しい」、「ひもじい」。
誰もが次第に無口になっていく中、ただ一つ黄金のように輝く噂は、『怪盗ジャン・ジャックロード』。
私腹を肥やした貴族のみを狙う大胆不敵な怪盗である。
犯行前に必ず送られる予告状。人間業とは思えない鮮やかな手口。そして未だに前科なし。
それだけでも民衆の心をわかせるのに、さらに彼は盗んだものを貧しい人々に分け与えるのだ。
今や予告状が送られたという噂が流れるだけで歓声が上がる人気ぶり。
彼を捕らえようとする警官隊に石が投げられることも珍しくはなかった。
そして……彼が『ヴィーナスの涙』という宝石を盗んでから二ヶ月後。
もう一つ、小さな声ではあるが、民の間を頻繁に行き交っている噂があった。


クリスは入ってくるなり声を弾ませてガッツポーズを作った。
「はっはぁ!街に早速私たちの噂が流れているぞ!聞いたかっ?」
「聞いたとも!反乱軍ばんざーい!私たちの名が英雄としてジャン・ジャックロードと肩を並べる日も近い!」
アナトールがさらに大きな声を出して手を叩く。
仲間たちは全員興奮して手と手を鳴らし合った。
小さな部屋の中にほこりが舞い上がり、げほげほと咳き込みながら、それでも笑うのをやめない。
「いいかげんにしろ!……おまえらなぁ、オレたちは反乱軍で、ここは隠れ家だってこと、忘れてるんじゃないだろうな!」
ジョルジュは声を潜めつつ激しい怒気をほとばしらせた。
途端に全員口を閉じる。
「とっつかまりたいのなら一人でとっつかまってくれ。一網打尽なんて目もあてられない」
「悪かったよリーダー。はしゃぎすぎた。以後気を付ける」
クリスは眉を八の字にして素早く頭を下げた。
「だからそう怒らないでくれ。君が怒っていると室温が五度は下がる」
こそこそと頷き合う仲間たちを見やり、ジョルジュは深いため息をつく。
「だったら怒らせるな。この程度で大騒ぎして発見されて投獄?冗談じゃないぞ。オレたちは……これからだ」
静かに浮かんだ不敵な笑みに、再び部屋が揺れた。
「反乱軍ばんざーい!」
「ジョルジュばんざーい!」
「オレたちはー、これから、だぁーっ!」
「だからそれをやめろって言ってんだろうがー!」
ジョルジュは大声で怒鳴り散らしてから慌てて両手で口を押さえた。

反乱軍結成から二ヶ月。小さな活動を秘密裏に繰り返し徐々に人数を増やして、人々の噂に上るまでになった。
仲間の中には「やがてジャン・ジャックロードと肩を並べる」と言い出す者もいる。
しかしジョルジュの目的はさらに先にあった。
まだ誰にも打ち明けたことはないが、そのことを考えるだけで闘志が燃え、力がわき上がる。

いつか国王を打ち倒し、革命を起こす。
新しい時代、市民こそが主役の時代を打ち立ててやる――。

(できるかできないかじゃない。やってやる。オレのすべてをかけて成し遂げてやる)

そんなジョルジュの力強い姿に惹かれる者は多く、今や反乱軍には民衆だけでなく心ある貴族も加わっていた。
しかし、そのために小さな軋轢が生じているのも確かだった。

「『怒らせるな』だと、ジョルジュは私たちを家来だと思っているのではないか」
ジョルジュのそばから離れたところでアナトールはクリスにそっと耳打ちした。
クリスは苦笑して肩をすくめた。
「私たちは仲間で、ジョルジュはリーダーだ。家来と主とはまた違う。反乱軍のリーダーならあれくらいがちょうどいいのでは?」
「……しかし、……そうだ、いつまでもジョルジュにリーダーをやらせておくことはないのではないか。私や君がいるのだし。ある程度の身分があった方が動きやすかろう」
ジョルジュは市民のように振る舞っているが、伯爵の位を持っている。アナトールとクリスは大分落ちぶれてはいるものの侯爵である。名ばかりの爵位ではあるが、だからこそアナトールはそれが気にかかっていた。
(ジョルジュは私たちを顎で使い、指導者然として……。奴め、貴族として栄光が得られないからといって反乱軍でうさを晴らすつもりではあるまいな)
「アナトール、君は何のために反乱軍に?」
問われてアナトールは首を傾げた。
「もちろん、真の貴族として民衆を苦しみから解放してやるためだ」
何を今さらといった感じである。
クリスは俯きがちに首を振った。
「私は違う。ジョルジュとならばそこへ向かう大きな流れになれるのではないかと思ったからだ。……革命への」
「革命?革命だとっ?馬鹿な!君も奴も貴族ではないか!」
「名ばかりのな。……時代の流れが見える。すぐに身分など糞の役にも立たなくなる日が来るぞ」
アナトールは狂人を見るようにクリスを見た。
クリスは堂々と微笑んで踵を返した。
「そうそう、ジョルジュに提案しようと思っていたことがあったんだ。失礼」
アナトールは一人残され、口からこぼれようとする苛立ちを押し潰しては唇を噛みしめていた。
(革命?時代の流れ……?そんなものが、仮にやってくるとして、ジョルジュに何ができる?奴はここまでで精一杯だクリス。コンスターンスも、じきにわかる)

「ジョールジュ、そろそろ名前を変えないか?いつまでも『反乱軍』でいてやることはない。何かカッコイイ名前を考えようじゃないか」
「それはいい!ジョルジュ、そうしようぜ?な?」
「ふむ、名前か。どういうのがカッコイイ?」
「なんたら党ってのがいいな。ちょっと強そうな感じだろ」
クリスを中心に盛り上がる話題に入れず、ジョルジュは内心で困り果てていた。
格好が良いとか悪いとか、そういうことを考えるのは苦手なのだ。何をすべきかすべきでないかを考える方がよほど楽だ。
好きにしてくれ、と苦笑したとき、聞き捨てならない台詞が聞こえた。
「よーし、決まり!私たちは今日からジョルジュ党だ!」
ちょっと待て。
(こいつら反乱軍がどういうものかって本当にわかってるのか?どうしてこんなにお気楽なんだ!オレはまだ警官隊に所属している身なんだぞっ?反乱軍に自分の名を掲げるなど冗談じゃない。第一、恥ずかしい……)
口をぱくぱくさせている間にも話は進んでいく。
「じゃあ次はエムブレムとか?どういうデザインがいい?これもジョルジュにちなむか?」
「……よせ」
ジョルジュは提案したクリスの頭をがしっとつかんだ。
室温が五度下がる。
「ジョルジュ党も却下だ」
寒さに震えながらのブーイングが響くが、ひとにらみで霧散した。
クリスは頭をつかまれたまま人差し指を立てて言った。
「いいじゃないか。これから警官隊は民衆の憎悪が向かう最初の標的になるぞ」
「もうなってる」
石を投げられるのはいつものこと。暗い殺気を感じるのもしょっちゅうだ。
「上からは暴動の鎮圧を命ぜられるようになる。民衆を殺す気か?」
確かに、このままでは大規模な暴動が起こるのもそう遠い話ではない。そのとき一番に駆り出されるのは警官隊だ。
「ジャン・ジャックロードはそれ以来君にも尻尾をつかませてないんだろ?」
ジョルジュは不意打ちに思わず頬を赤くした。
「……ち、違う。警官隊の動きは把握しておいた方がいい。その方が策も練りやすい!」
「それもあるんだろうが……ジャン・ジャックロードも気になってるんだろ?大丈夫さ彼は。ロドリーグ侯に捕まるなんて考えられない」
クリスの言葉がもっともであることを知りながら、ジョルジュは何も言うことができない。
「ジョルジュとジャン・ジャックロードは何か繋がりがあるのか?」
仲間たちがざわめく。
クリスは人の悪い笑みを浮かべた。
「憧れのヒーローというやつだ」
「クリス!」
ジョルジュは顔を真っ赤にして怒鳴ったが、部屋は失った五度を取り戻していた。

夜も半ばを過ぎた頃、ジョルジュとクリスは辺りに人影がないことを確認してから隠れ家を出た。
一歩外に出れば視界のどこかに死が映る。
右手の突き当たりには餓死した親子が寄り添い合って倒れていた。まだ死んで間もないのだろうに、すでに白骨死体のようになっている。
二人は十字を切り、それ以上は何もできないことを心の底で嘆いた。
巷には灯りが一つもなかった。
しんと静まりかえった暗い世界。
本来の姿が月の光に照らし出されたかのように。
街は死んでいた。
「……日に日に静かになる」
ジョルジュは極力小さな声でつぶやいた。
聞こえるか聞こえないかくらいのつもりだったが、息づかいまでもが夜に響いた。
「ここは市街地だ。まだマシさ。……農村は地獄だよ」
クリスが前方をにらみつける。
闇に閉じこめられた世界の中でただ一つ月にも対抗できる光を発するところ。
黄金に溺れる人々が窓の外も見ずに欲深さを競い合う場所。
「あそこでは今日も乱痴気騒ぎが行われてるんだ」
外は食べるものがなくて死んでいく人々であふれているというのに。
「世界が終わる日まで気づかないんだろう」
ジョルジュは光を見つめて目を眇めた。
金銀財宝というものは感覚を鈍くさせるらしい。
あそこにいる人々の多くは、未だにまったく気が付いていないのだ。
時が、すぐそこまで迫っているということに。
「……ジョルジュ、この街にありながら反乱軍の連中がああも明るいのは君がいるからだ。君が夢を目指しているから、みんなも夢を見る。反乱軍だけじゃない。夢が現実になり得るのだと気づきさえすれば、すべての民衆は今すぐにでも当然あって然るべき権利を奪還することができるんだ。……私たちの使命は人々にそれを気づかせること。夢は、夢じゃない。現実だ。……だろう?」
クリスの瞳がまっすぐにジョルジュを射抜く。
ジョルジュはクリスが何を聞き出そうとしているのかはっきりとわかっていた。
反乱軍を結成した当初にはとても口に出せなかったが、今は違う。
「……ああ、そうだ。オレたちで突破口を開く」
ジョルジュは右手を差し出した。
クリスはその手をがっちりと握りしめ、口の端を持ち上げた。
あと少し。
あと少しで、時が満ちる。
流れを感じる。
全身の血が加速し、力がみなぎるのがわかる。
時代が呼んでいる。
「民衆に栄光あれ」
二人は声をそろえ、握った手に力をこめた。

「そうだ、君は反乱軍の中の貴族をどう扱うつもりだ?我々と志を同じくする者もいれば、歪んだ者もいる。例えば……ジョルジュ?聞いているか?」
クリスはジョルジュの顔をまじまじと見つめた。
しかし視線が合わない。
「ジョルジュ?」
「……馬車の音がする。こっちに来るぞ」
こんな時間に?と思ったが、耳を澄ませば確かに蹄と車輪の音が聞こえる。
クリスはジョルジュの見つめている方向の反対側を見やった。
先の見えない暗い道はかなり薄汚れていて、ぼろ布のかたまりがでんと転がっている。
遙か向こうの方には闇夜を照らす輝きが。
「宮殿に向かっているのか?」
(こんな時間にあの方角に馬車とは、貴族のお忍びかはたまた何かが起こったか……)
クリスが考えを巡らせている間にも音はぐんぐん距離を詰めてくる。
「隠れよう。姿をさらしていていいことはなさそうだ」
ジョルジュはクリスを狭い路地に引っ張り込んだ。
壁に背中をつけ、身動きせず、息を潜め、目だけを動かして、馬車が来るであろう方向と行くであろう方向を見つめる。
ジョルジュは凝らしていた目を瞬かせた。
道に転がっていたぼろ布のかたまりが、わずかに動いた気がしたのだ。
(風は吹かなかったぞ……)
もう一度目を凝らす。
やはりもがくように揺れている。
「クリス、見てくれ。あれ、人かっ?……子ども?生きてるかっ?」
「えっ?あ、あ。あーっ!」
そのとき、荒々しい風が目の前を走り抜けた。
黒塗りの馬車を引いた濃栗毛の馬が二頭、まるで命を攫いに来たかのように駆けていく。
ジョルジュとクリスは慌てて飛び出したが、とても間に合いそうになかった。
哀れな命の哀れな結末を思い浮かべ、思わずまぶたを閉じそうになる。
が、次の瞬間ジョルジュは眦が切れそうなほど目を丸くした。
踏みつぶされると思ったかたまりがすんでのところでふわりと宙に浮いたのだ。
馬が驚いて前足を高く上げるのを、信じられない思いで見た。
そしてすぐに息を呑んだ。
馬の前に黒いマントに身を包んだ男が横たわっている。
(さっきまであんな男はどこにもいなかったぞ。どこかから一瞬で現れて助けたっていうのか――?)
しかし男はぐったりとしたまま動かない。
(まさか、代わりに……?くそっ、馬車め。豚を乗せたままさっさと地獄にでも駆けてしまえ!)
ジョルジュは気づかれないよう再び体を隠しながら心の中で悪態をついた。
(こんな時間まで遊び歩きやがって放蕩貴族め!民衆の命はゴミ同然か)
と、思ったとき、小さな音を立てて馬車の扉が開いた。
中から出てきたのは頭からすっぽりマントを被った人物。
ドレスの裾がのぞいていないことからして男性だろう。背はあまり高くなく、体型は小太りといったところだ。歩き方がちょこまかとしている。
御者が止めるのも聞かず、ぐったりとしたままの男ともがくようにしか動けないかたまりを馬車に積み込んで去っていった。
ジョルジュとクリスは呆然としてその後ろ姿を見送っていた。
クリスの方が一瞬早く我に返ったが、
「……あれ、国王陛下だ」
ぽつりと爆弾発言をかましてまた正気をどこかにやってしまったので、二人は随分長い間狭い路地に立ちつくしていた。

「……本当に国王だったのか?」
「……間違いない、はずだ。私もそんなにお会いしたことはないが、国王というにはあまりにも……その、印象的な方だったものだから、つい一挙手一投足を見つめてしまい……あの動作は、確かに陛下だった」
「遠慮をするな。言いたいことはわかる。国王というにはあまりにも威厳がない。……言われてみれば、そうだな。あれは国王か……オレは一度しか見たことがない」
二人はその後結論を出しては打ち消し合い、何度も繰り返してようやく「あれは国王だったのだ」という結論を認めるに至った。
「しかし、意外だったな。貴族の頂点に君臨する国王なら馬車で人を轢き殺そうが捨て置くんじゃないかと思っていたぞ」
クリスは長い息を吐き、自分の頭をぽんぽんと叩いた。
「そういえば王妃の散財は有名だが国王のそれは聞いたことがない。王はそう悪い人間じゃあないのかもしれないな」
どう思う?と問うようにジョルジュの方を向いたなら、
「王という立場にありながら何もしようとしないのはそれだけで罪だろう」
答は一刀両断だった。
クリスは「ふむ」と一つ頷き、
「ああ、王にあるまじき御方だな」
と肩をすくめた。
「おっと、もう夜が明けてしまう。予定外に遅くなってしまった。お互い急いで帰らないとな。明日はコンスターンスに会いに行くんだろ?隈など作っていては誤解されるぞ」
クリスが手を振って、
「理解ある恋人なんでね」
ジョルジュも手を振る。
「もっとも、他に恋人を作るなんて器用な真似、君にできるはずがないと知ってるだろうけど」
二人は微笑と眉間のしわをそれぞれテイクアウトして帰途についた。

昼の街には夜とはまた違った死が蔓延している。
這うようにしか歩けない人々。倒れたきり動かない人々。
みな皮のはりついた骸骨のようだ。
物価はどんどん上がっている。一日に買えるパンの大きさはもはや人の体を支えきらない。
ジョルジュは少し早足になった。
死を見るたびに焦りを感じる。
時は来ているが、急がなければ。少しでも犠牲のないうちに。
二つ先の角を曲がればコンスターンスの家に着く。
コンスターンスは元印刷屋の娘だ。父親が亡くなってからは廃業せざるを得ない状況だったようだが、機材はそろっている。
反乱軍は彼女に新聞の発行を頼んでいた。
早足から駆け足へと切り替え、角を曲がる。
ふと、見覚えのある顔を見た。
「クリス?」
「ジョルジュ?ああ、……そうか。これからコンスターンスのところへ……」
普段と変わらない口調に、ひどく沈痛な面持ち。
「クリス、何があった……?」
「……いや、君は一刻も早くコンスターンスのところへ行ってくれ。……そうだ。やるべきことをやるんだ!」
ジョルジュはクリスの肩をつかんで目と目を合わせた。
「クリス、何があった」
クリスは濁った瞳を伏せ、唇を噛んで、息を吐き出した。
「……友人がね、死んだよ。……自殺だ」
深呼吸するように吸ったり吐いたりを繰り返したが、次第に顔を赤くして黙り込んだ。
もう一度、吸って、吐いて。
震える唇を開く。
「……医者だった。身分も金もなかったが腕と心はあった。……いつも言っていたよ。薬代をとらないと新しい薬が買えない!薬代をとればその人は飢えて死ぬ!……実際に死んでしまった人が何人かいたらしい。悩んで……苦しんで……とうとう自分が死んでしまった。優しすぎたんだな」
クリスは握った拳を自身の腹に叩きつけた。
「……私は違う……。この世の中を憎む。憎んで……憎んで……変えてみせる。絶対に」
「……ああ、絶対だ」
ジョルジュも拳を握りしめる。
「……そうだ。君がいる。……夢は、現実なのだから」
クリスは奥歯を噛みしめ、一筋の涙を流した。


反乱軍の活動が活発になればなるほど街は殺伐としていった。
人々は怒りを取り戻し、あきらめや哀しみを振り払って憎しみの炎にくべた。
疲れ切った表情の中でも瞳だけはぎらぎらとした光を放ち、導火線に灯った火を思わせた。
近いうちに何かが起こる。
そしてそれは自分たちこそが主役となるのだと、すべての民衆が漠然と悟っていた。
時は刻一刻と迫っている。
人々の思惑など関係ないとでも言いたげに、少しずつ。
呼ぶ声に応えるように、確実に。


活動はすべてが上手くいっていると言ってよかった。
王制に反対していた政治犯の解放。人頭税の廃止。ありとあらゆる馬鹿馬鹿しいものにかけられた税金の廃止を法律で認めさせ、貴族にもほんの少しではあるが納税の義務を負わせた。砦も一つ落とした。
それらすべては反乱軍の動きがきっかけとなり、中心となったものだ。
今や似たような団体がいくつもできていたが、みな自分たちの子団体として動いており、反乱軍の主体はあくまでも自分たちだった。
そしてそのリーダーとは――、
(オレだ――)
ジョルジュは固く目を閉じた。
「……クリス様、ジョルジュ様は何を悩んでおられるのですか……?」
小さなつぶやきが耳に障る。
クリスの返す沈黙さえも重苦しい。
「リーダー、オレたちはあなたの名の下に動くことを誇りと思っている!」
「そうです。ジョルジュ様は私たちのリーダーとして顔をさらすことがお嫌なのですかっ?」
「おまえたち、黙っていろ!ジョルジュ様にはジョルジュ様の考えがおありなのだ!」
勝手に盛り上がって勝手に収束する会話に頭痛がする。
ため息をつきたい気分だったが、仲間たちの前でそんな姿を見せるわけにもいかず、ジョルジュはますます固く目を閉じた。
「クリス、少しの間でいい。一人にさせてくれ。よく考えたい」
しばしの静寂の後、クリスは口元だけで微笑した。
「……かまわないが、わかってるだろ?その時間は君が君を納得させるための時間だ」
クリスの後ろに並ぶ顔はみな一様に怪訝な表情を浮かべている。
「……ああ。そのための時間がほしい」
ジョルジュはうっすらと目を開き、それらを見て苦々しく笑った。

扉一枚。
与えられた猶予を守る盾はただそれだけ。
外で誰かが喋ればそのまま伝わる薄さだったが、ジョルジュは肩の力を抜き、やっとため息をつくことができた。
椅子にもたれかかり、首をのけぞらせる。
今こうしていることがただのわがままだということはよくわかっていた。
リーダーとして、すべきでない。
だがもう少しだけ誰の声も聞かずに考え込んでいたかった。
(……いや、駄々をこねてるだけだ、オレは)
何をすべきか。
悩むまでもなく、答はとうに出ていた。
今まで度々「貴族としての己を捨てて警官隊を除隊しろ」と言われてきたが、「警官隊の動きを把握することは反乱軍にとってプラスとなる」と拒否してきた。
事実その通りだったが、反乱軍がこれだけ大きくなった今、もはや『反乱軍』ではいられない事態になってきている。それに応じて団体の顔としての己をさらさなければならなくなっている。
『他の連中は今はまだこっちを親と見ているが、そろそろ分裂して言うことを聞かなくなってくるだろう。実際そういう動きを見せているところがある。一刻も早く、すぐにでも、だ。指針となる考え方をはっきりと示し、君という存在を公表しなければならない。でなければ――呑まれるぞ』
遅すぎるほどだと、脅しをかけるようにクリスが言う。
しかし警官隊を除隊する覚悟ならとっくの昔にできていた。貴族としての己など元々あってないようなものだし、そうした方がスムーズに動きやすいのもわかっている。
何も問題はない。
それで物事が上手く進むなら、すぐにでも警官隊を除隊し『反乱軍のリーダー』として民衆の前に立ってかまわない。
だが。
(オレは……歴史に名を残すつもりなどなかった。……ただ革命を起こしたかっただけだ)
反乱軍は巨大な組織となり、自分はその最重要人物であり。
歩けば周囲に輪ができ背後に列ができる。今や仲間の中にはリーダーたる自分が顔さえ覚えていない人間がいる。その人間は、自分が一言命じただけで命を投げ出す覚悟を決めるのだ。
まるで、信仰のように。
そんなことがしたかったわけではない。
他の集団に呑まれるならそれはそれでいいではないか。
目指すところは同じだ。
それとも違うのか。
仲間たちは誰もそれを望まない。
自分の名を高らかに呼び、他の団体の指導者よりも優れていると信じ、足下も確かめずについてくる。
(『ジョルジュ様』だとっ?オレがそんな柄か。オレは……)
時代の流れは自分を導いてくれるものだと信じていた。
しかし段々と流れに呑み込まれていくのを感じる。
このまま進めば、どこへ着くのか。
(オレは……いつからあいつらの前でため息をつけなくなったんだ)
自分が今どちらを向いているのかもわからない。
疲労のにじむため息がこぼれ落ちたとき、呼ぶまで開けないという約束だったはずの扉が開いた。
「誰だ」
ジョルジュは苛立ちを極力抑えて言った。
「私よ」
届いた声にふいをつかれて振り向く。
「コンスターンス!どうしてここにいる。ここは危険だ。すぐ……」
「危険じゃないところなんてもうないわ。だからあなたのそばに来たのよ」
勝ち気な瞳がすっと細められる。
台詞に合わない口調と表情のコンスターンスはジョルジュの前までずかずかと音を立てて近づくと、
「一人になりたがってると聞いたわ」
と言いながら両手でジョルジュの頬を覆った。
「わかってるならそうしてくれ」
「わかったから入ってきたんじゃないの。あなたが一人で苦しんでいるときに私にできることは?」
「何もない」
「なら作って」
ジョルジュは眉間のしわに手を当て、押し潰されたように下を向いた。
音を立てて息を吐く。
あてつけのつもりだったが、まったく効果のない様子に苦笑して顔を上げた。
「……反乱軍のリーダーを恋人に持って後悔したことはあるのか?」
コンスターンスは長いまつげを揺らしてジョルジュの瞳をのぞきこんだ。
「嫌になったの?」
「……質問に答えてくれ」
「ないわ。あなたは私の誇り。勇気あるあなたが好き。止めても走っていくようなあなたが好き。人々のためにと、立ち上がることを躊躇わないあなたが好きよ。あなたの活躍の話を聞く度に胸が震えたわ。いつまでもそんなあなたを見ていたい。……私は、あなたが好き」
コンスターンスは瞳をそらさない。
「嫌になったの?」
正面から問いかけられ、ジョルジュは答を返さなかった。
「生きているんだもの。そんな日も訪れるわ。そして去っていくのよ。あなたはあなた、人々を見捨てられない。元気を出して……負けないで立ち上がって」
コンスターンスは唇を寄せようとしたが、ジョルジュに顎を押しとどめられた。
「……見ているだけの君にはわからない」
そして部屋にはコンスターンスだけが残された。

後ろ手に扉を閉めれば、すぐにクリスが駆け寄ってきた。
「決意は?」
「……固まった」
低く掠れた声が出て、しまったと思ったが、案の定。
片眉をひょいとつり上げられる。
「機嫌が悪いな。私は君の……友人のつもりだ。できるだけ君の意志を尊重したいが、友人だからこそ強行することもある」
「……違う。これは自分のせいだ。コンスターンスに……」
コンスターンスはコンスターンスなりに気を遣っての言葉だったのに、簡単に贈られる慰めに腹を立てた。
(……ほとんど八つ当たりのようなもんだ。ひどいことをしたとわかってるが……今は顔を見たくない。くそっ、どこのガキだオレは)
ジョルジュはクリスの肩に腕を置いて俯いた。
「友人として頼まれてくれ。コンスターンスに、本意ではなかったと……いや、ここにいてほしいと伝えてほしい」
「……ここというのは君のそばかな?」
ジョルジュはうっすらと笑みを浮かべるクリスを見てなんて嫌な奴なんだと思った。
「冗談だ。了解。了ー解。ちゃんと伝えておくから、そんな顔をしないでくれ。地獄の業火に焼かれている気分だ。それより名前はどうしようか。ジョルジュ党でいいか?」
ジョルジュは一瞬固まった。
眉をひそめて鋭い視線を浴びせる。
「……頼むから、言いたいことがあるなら口で言ってくれ」
クリスは思わず後ずさり、怒声に備えて体を強ばらせた。
が。
「……いや、……それでいい」
ジョルジュは穏やかに微笑んでいた。

こうして『反乱軍』はジョルジュ党とその名を換え、ジョルジュを党首に掲げてよりいっそう激しく活動することとなる。


同じ建物の中にいながら顔を合わせることのない日々が続いていた。
コンスターンスは自分が告げた言葉を何度も反芻した。
(おかしなことを言った覚えはないわ。早く元気なジョルジュになってほしいと言ったのよ。なのにどうしてこんな対応をされなきゃいけないのかしら)
その度にイライラするが、どうしても思考がそっちへ行ってしまう。
小さな窓から外を見ながらもう一度反芻する。
一つだけ、嘘をついた。
(……馬鹿ね。後悔したことがないわけないじゃないの。いつだって胸が高鳴るのと同じくらい心配で気が狂いそうだったわよ)
ジョルジュとの関係を知る全員からジョルジュを褒め称える声を聞き、誇らしいのと同時に複雑な気分だった。
どれだけ危険なことを成し遂げたのかがわかるから。
嬉しくて。心配で。やっぱり嬉しくて。どうしても心配で。
(……そんなことを、私があなたに言えるはずがないじゃない。……あなたは私に背中を押してほしかったのよ。私だって、足を引きずるよりはそうしていたかった。……同じくらい、引きとめてもほしかったのかもしれないけれど。……同じくらい、引きとめたかったけれど。……馬鹿ね。ジョルジュ、進む勇気と退く勇気、踏みとどまる勇気というのもあるのよ。私にあなたの邪魔をさせないで……)
首をのけぞらせて、息を吐いて。
思い出すのにも疲れたら、今度はたった一つの想いしか出てこなくなった。
(会いたい……)
反乱軍からジョルジュ党になっても隠れ家住まいは変わることがない。
むしろさらに見つかりにくい場所を選ぶようになった。
小さな家の、小さな一室。
下を見ればほこりが固まり、上を見れば蜘蛛の巣がかかっている部屋では、どこを見てもため息しか出てこなくて。
(会いたいのよ。何をしてるのよ!私が何のために来たと思ってるの!どこもかしこも危険なんだから、これからますます激しくなる争いなんだから!一番心配でたまらない顔を見に来たに決まってるじゃないのっ!どうしてわからないのよ!あの朴念仁!)
「あああー!イライラするっ!ここにいろって言ったのはあなたでしょうっ!さっさと会いに来なさいよ!」
コンスターンスは渾身の力をこめて壁を蹴り飛ばした。
大きな音と共に扉が開いた。
「え」
ぎこちなく振り向けば、
「お姫様はご機嫌斜めのようだ」
笑いをこらえきれないといった様子のアナトールが立っていた。
コンスターンスはひきつった顔と乱れたスカートの裾をさっと整えた。
「どうしたの?ジョルジュから何か伝言かしら」
アナトールはあからさまに不機嫌な顔をしたが、コンスターンスは原因がわからずに首を傾げた。
「まだジョルジュに未練がおありか。もう何週間も会っていないのでは?危険を顧みず訪れてくれた恋人にこのような仕打ちをする男のどこがいいのです」
初めて見せられた激情に、目を見開いたのは一瞬のこと。
「……ええ、未練があるわ。だって私たち終わってなどいないのだから。私は彼を愛しているし、彼も私を愛しているわ。今は会えないだけ。愛してもいない女を個人的に引き止めておけるほど器用な人じゃないもの」
コンスターンスはアナトールに向き合い、正面から不敵な微笑みを浴びせた。
「ご用件は何かしら?」
その表情はアナトールにジョルジュを思い起こさせた。
容姿は似ても似つかないが、ジョルジュもしょっちゅうこういった微笑みを浮かべる。
そしてその度に多くの人間が歓声を上げるのだ。
そして自分は……
「失礼する」
アナトールは足早に部屋を立ち去った。

『爵位ならば自分の方が上だ』
『奴はここまでがせいぜいだ』
そう口にするたびに追いつめられていく心がある。
(爵位しか勝るものが浮かばないのだ)
(奴はこんなところまでたどりついたのだ)
そう感じるたびに明らかになっていく事実がある。
(私には、できない)
(私は――奴に、かなわない)
(すべてのものは私をすり抜けて奴の方へ行く)
(革命だと。時代の流れだと!)
(仲間たちの信頼も。コンスターンスの愛も!)
許せない。
(このうえ私の信愛までも手に入れるのか!)
アナトールはジョルジュの浮かべる不敵な微笑が何よりも嫌いだった。
それが何より人々を惹きつけたものだったから。
それが何より自分を揺るがせたものだったから。
相反する心に必死に逆らいながら今日まできた。
ジョルジュはもはや手の届かない場所に立ち……そして己は集団の中で命令を待つ一人。
内心で蔑む権利さえ奪われつつある。
彼はそうと気づかぬままに。
(限界だ)
(もはや、これ以上は)
(この心までも跪かされるくらいなら――)

ジョルジュが潜んでいた隠れ家が襲撃されたのは、コンスターンスがアナトールと話をした、その翌日だった。
火をかけられ、銃弾を撃ち込まれて、ジョルジュはひたすら逃げ回っていた。
(クリスと潜伏場所を別にしていたことが幸いしたな)
もしもクリスがいたならこんな振る舞いはどうあっても許してくれなかっただろう。
ジョルジュはコンスターンスらを逃がすために自分を囮に使ったのだ。
どうにか火の中から脱出し、路地に出て、かっての仲間たちを切り裂きながらジョルジュは走った。怒りを感じるほど乱れている呼吸音をなんとか落ち着かせようと思っても、次から次へと追っ手が襲ってくる。
(考えろ。警官隊のやり口は知っている。ロドリーグごときヘボ隊長にオレが捕まるかっ!)
「見つけたぞ!こっちだ!」
(考えろ。コンスターンスらを発見させずに無事逃げおおせるような方法を。隠し通路の情報も漏れている可能性が高い。待ち伏せされていたら終わりだ)
「隊長、こっちです!」
(考えろ。ああ、くそっ!酸素がたりない。馬鹿かこいつら、ぞろぞろぞろぞろ来やがってっ!)
「手を挙げろ。おまえを捕らえる。おとなしくしていれば発砲しない」
(いきなり火をつけやがった奴の言うことか。牢に入れて嬲るだけ嬲ってから公開処刑だろうが……)
ジョルジュは両手をゆっくりと挙げて手近な壁にもたれかかった。
首がだらりと垂れて持ち上がらない。
息をするたび喉が痛くて声も出ない。
情けなかったが、見栄を張る気も失せていた。
「壁から体を離せ!」
肩に警棒を突きつけられる。
痛みにうめきながらよろける体を引き上げた。
(アナトールめ……オレはそんなに指導者として不適格だったか)
そうなのかもしれない。
実際反乱軍を結成した当初に比べ、最近の自分は熱意に欠けていた。
アナトールから見れば不甲斐ないと、または、裏切りのように感じられても当然だったろう。
頭が漂白されていくような感覚の中、ジョルジュはただ両手を上に挙げていた。
何も考える気になれなくなっていった。
もうどうでもいいとさえ、感じている自分がそこにいた。
(オレのやったことはそこそこ軌道に乗った。一部乗りすぎたほどだ。もういいのかもしれない。クリスはオレを党の指導者から市民の指導者にまで引き上げようとしているみたいだが……オレは……ここまでだ)
次第に呼吸が落ち着く音を聞きながら、ジョルジュは自分を縛る縄の感触を待った。

(何だ?)
何をぐずぐずしているのか、何も起こらない。
いや、おかしい。
おかしな音がする。
別の獲物でも現れたのか、はたまた何らかの理由で同士討ちしているのか。それにしては一方的な音だ。
鮮やかに人を倒していく音。
ジョルジュはゆっくりと首を起こした。
視界に映ったのは倒れて山積みになっている警官隊と、たった一人残っているロドリーグ。
それから。

「ごきげんようだ。『鬼のジョルジュ』殿。いつぞやの恩を返しに来た」

そこには前に一度だけ言葉を交わしたきりの、噂の怪盗が立っていた。
「一応全員峰打ちにしておいたが、これに何か言いたいことはあるか?」
ロドリーグを指差して言う。
ジョルジュはこくこくと頷いて、うわごとのように語った。
「……時代は貴族を見捨てた。振り返ることはない。先を考えて動いた方が身のためです。命が惜しければ」
「だそうだが、返事は?」
ロドリーグはこくこくと頷いて、口を開く間もなく殴り倒された。
ジョルジュは両手を挙げた状態のまま目を見開いていた。
「そうしているのが趣味なのか?」
ぶんぶんと首を振る。
「恩は返した。じゃあな」
「待ってくれ!」
駆け寄って、腕をつかんだ。
ほぼ無意識だったが、そうしてから自分がどうしたいのかを知った。
英雄ジャン・ジャックロードなら党の中でも自分と同等、いや、それ以上の立場に立ってくれる。
大人数を峰打ちで倒して無傷でいられる腕があったなら、命令一つで命を投げ出すような連中に危険な指示を出さずにすむかもしれない。
彼がいてくれれば何が起ころうとどうにかなるのではと思う自分がいる。
その存在は人々の支えとなり、大きな力となって革命を早めてくれるだろう。
いわば切り札のジョーカーだ。
(その力を、貸してくれと……)
言えばいい。
言うだけならタダだ。
(本当にか……?本当にオレは、何も失わないのか……?)
例えば。
ここまで自分たちの力で歩いてきた、誇りとか、プライドとか。
これからも歩いていくための力とか。
「さて、告白ならごめんなさい。礼ならいらん。道を尋ねるなら教えてやるが、どれだ……?」
ジョルジュははっと我に返って、呆れた。
「……待て。どうして告白が最初に来るんだ」
以前も感じたが、どうもこの怪盗は噂の英雄像と実物とに耐え難い差異がある気がする。
それはともかく、と、気を取り直してその姿を見て、ジョルジュは思わず手を離した。
「怪我をしているのか?」
腕には白い包帯が巻かれていた。よく見ると首の辺りまで続いている。
「古傷だ。問題はない。それよりオレを二回も待たせて何の用だ?」
「ああ……」
ジョルジュは逡巡し、結局言葉をすり替えた。
「どうしてここに?」
「恩があったから」
「いや、違う。どうしてここがわかったんだ」
そう、それは重要なことだ。
(アナトールはどの程度の情報をどれだけにばらまいたんだ)
ようやく頭が回り始めた気がした。
しかし、
「次に盗むものの運送ルートを下調べしていたら通りすがった」
返った返事に唖然とした。
「……あんた、そりゃもうオレは警官じゃないが、仮にも泥棒がそんなことをあっさりと白状してもいいのか?」
「捕まらなきゃいい。それにそういった嘘はつかないことにしている。オレの美学に反する」
ジョルジュは脱力して、なんだかおかしくなって笑い出した。
「ジャン・ジャックロード」
「ジャンでいい」
「……ジャン、ありがとう。助けてくれて、感謝している」
力を貸してくれとは、言えない。
彼の力だけは借りてしまいたくない。
いっそ恨み言を言ってやりたい気もするが、きっかけは彼でも、道を歩んできたのは自分自身。これから歩んでいくのも自分自身だ。
「恩は返すことにしている」
一言残して、怪盗は去った。
圧倒的な存在感をどうやって隠したのか、雑踏の中にするりと紛れたと思ったら、次の瞬間にはどれが彼だかわからなくなっていた。

ジョルジュはその場にずるずるとしゃがみこんだ。
今自分がどれだけ無防備な顔をしているか、痛いくらいよくわかる。
党首として決して見せてはならない顔だ。
(はっきりした。オレはここまでだ。集団の利益より個人の意地をとる人間に指導者たる資格はない。突発事態に弱いこともわかったしな。クリスには悪いが……潮時だ)
全身を弛緩させ、目を閉じる。
自分にできることは何かと考え奮起したあの日からどれだけの時が過ぎ去ったろう。まだ一年もたっていないはずなのに何十年もたってしまったような気がする。たったの数人で始めた反乱軍は数えきれないくらい多くの人間に影響を及ぼす組織になった。
自分一人でまとめきれる範囲ではなくなってしまった。
アナトールは、クリスと並ぶ組織の要だったのに。
(……もう疲れた)
だらしなく投げ出された四肢はこの体さえ支えきらない。
立ち上がることを放棄する心が感覚を遮断していく。
だが、時の流れは血液のように体内を駆け巡る。
全身で感じる。
近づいてくる。
(あと少しだ。あと少しで時が来る。あと少しだけ……せめて、見届けるまでは)
ジョルジュは決意した。
王を打ち倒したら姿を消そう。表舞台から消え、ただの一市民として時代に呑まれようと。
(……ジャン、あんたに救われた命を振り絞ろう。あと……少し。これで最後だ)


国王は追いつめられていた。
怒りに満ちた民衆はすでに足下まで迫り、己を守るはずの名や財や制度はもはや何の意味も成さない。次々と捕らえられる貴族たちが命の秒読みのように、一歩、また一歩と未来が途絶えていく。
即位のとき大地を揺らさんばかりに上がった歓声は、今も胸に残っているのに。
時はいつ加速したのか。
一体どこでどうしてこうなってしまったのか。
長い春眠から目覚めたら冬が訪れていたように、すべては遅すぎた。
かって王の持ち物であった民衆は武器を持ち声を上げて王を断罪していた。


時は来た。

「車輪のついた荷台を持て!何でもいいから積み上げろ!せーのでぶつけるんだ!破れ!門を破れーっ!」
人々の声が一つになる。
自らの手で時代を打ち開く音が響く。
ジョルジュは党員と共に力の限り声を張り上げ、ひたすらにそこを目指していた。
王宮へ。王の間へ。王の目前へ。

悪趣味な飾りがごてごてとあしらわれた繭の中から国王を引きずり出す。
民衆の前で裁判にかけあるべき裁きを下す。

革命の時は今――。

ついに宮殿の扉が破れ、人々は一斉に中へと雪崩れ込んだ。
ジョルジュは先頭を走りながら王の名を冒涜する言葉を叫び続けた。
花瓶が割れ、像が倒れ、カーテンが破れ、壁が崩れる。
凄まじい熱気が背中を押す。
「こっちが王の間だ!」
残り少なくなった扉を乱暴に蹴破れば、ずらりと横に並んだ近衛兵が行く手をふさいだ。
「この先は通さぬ」
すらっと剣を構え、一瞬の隙も見せない。
ジョルジュは背後の人々を制し、武器を持たない両手を開いてみせてから一歩踏み出した。
「そこをどけ。でなければ時代がおまえたちを殺す」
「……我々は陛下をお守りするのが使命。この先は、通さぬ!」
こうしている間にも背後で凄まじい殺気が募っている。
ここまできてなお余計な犠牲を出すのは御免だというのに。
「国王にどういう義理があるのかは知らないが、潮時を見誤るなっ!」
兵たちは微動だにしない。
(どうしてわからないんだっ?誰が見たってどうしようもないだろうがっ!)
内心で舌を打ったのがわかってか、近衛兵の中心にいた男は唇で緩やかな弧を描いた。

「それは、オレにとっては言い訳だ」

突然変わる口調。聞き覚えのあるそのトーン。
行き交う雑音の中、その声だけが浮かび上がって聞こえる。
ジョルジュはうっすら口を開き、名を呼ぼうとしたが、呼べなかった。
しかし、背後から声が上がる。
「ジャン・ジャックロードだ!」
かっての警官隊長。ジョルジュの忠告を聞いてから市民の側についたロドリーグが、裏返った声で叫んだ。
途端に激しい渦のようなざわめきが生まれる。
ジョルジュは呑み込まれそうになるのをかろうじて耐えてジャンを見据えた。
「近衛兵だったのか?」
「まさか。変装が趣味なんだ」
「……あんたが立つべき場所はそっちじゃないはずだ」
「いや、こっちであってる」
ジャンは飄々と答えていく。
「国王には命を助けてもらった恩があってな」
状況に合わない微笑みに、ひどく彼らしい台詞。
何を言っていいのかわからなくなって、斜め後ろにクリスの視線を感じながら、
(嫌だ……っ、あんたと敵対するのは嫌だっ!)
心だけが叫んでいた。
ジョルジュは拳を握りしめ、乾いた口の中で必死に舌を動かした。
「あんたならわかっているはずだ……王の命運は尽きてる。そこに立ち続ける人間は死ぬしかない。あんたの立つ場所は、……そこじゃないっ!」
みっともないほど声が震える。
頼むから聞き入れてくれと祈りつつ、頭ではわかっている。
聞き入れられはしない。
「恩は返すことにしている」
ジャンは口の端を上げた。
「悪人が一つくらい善行をしたからといってそれまでの罪が帳消しになると思うかっ?」
ジョルジュの訴えも、
「あれは王でさえなければそう悪い人間じゃあないが」
などとかわし、面白がるように笑っている。
(何故だ。王を捕らえるだけだったはずなのに。それで終わるはずだったのに。この道を選んだのは……こんなことのためじゃないっ)
ジョルジュは奥歯を噛みしめた。
クリスの視線が痛い。
わかっている。
できること。できないこと。
すべきこと。すべきでないこと。
本来この時間は許されないもののはずだ。
指導者として自分がすべきは一刻も早くジャンを排して王の間に討ち入ることだろう。
こんな口論は、すべきでない。
ジャンは助けられない。
だがジョルジュは、どうしてもせずにはいられないのだ。
「……死ぬ気か?」
ジョルジュはジャンの心を読みとろうとして瞳の奥をのぞきこんだ。
「その気はないが」
緊張感のかけらもない仕草でジャンが首を傾げた。
「そのままだと死ぬと言っている!いくらあんたが王に恩義があろうと、もう終わりなんだ!」
現に背後の民衆はざわめきを抑えてこちらの様子をじっとうかがっている。
今にもいっせいに飛びかかりそうだ。
ロドリーグはしきりに「殺せ」だの「捕らえろ」だのとわめいている。
時の流れが聞こえないか。
人々の熱気を感じないのか。
時代の終わりが読めないか。
ジャンは微笑みを称えたままジョルジュに近づいた。
「もう嫌だとか、もう駄目だとか、絶望しながらでも歩いていれば前には進むものだ、『鬼のジョルジュ』殿。目に見えない潮流とその一歩とではどちらが確かだ?オレは、流されるままは好まない。オレの美学に反する」
一歩、さらに一歩、奥の扉との間に距離ができる。
民衆が息を呑む。
「覚えておくといい。こういうときはこう言った方が映える。……時は満ちたり!」
ジャンは自らが守っていた最後の扉を開け放った。

真っ正面に据えられた巨大な椅子には、誰も座ってはいなかった。
部屋の中、どこを見ても誰もいない。
ただ、椅子の上に一枚。


名と台座に汚されて、砕かれようとする宝石の。
あるべき処を知るこのジャン・ジャックロード。
本日『国王陛下』をいただきにうかがいます。


(やられた……っ、まんまと時間を稼がれた――!)
「……あんたは自分が何をしたかわかっているのかっ?最後の最後で本当に盗んではならないものを盗んだんだ!王が逃げた?罪だ!これ以上とない。この借りを誰に返す気だ!」
ジョルジュはジャンの胸ぐらをわしづかんだ。
「ふむ。貴殿にとっては罪というわけだ」
「違う!全国民にとってだ!」
「わかった。撤回しよう。貴殿と国民にとっては」
これでどうあっても逃がすわけにはいかなくなったというのに、ジャンはまったく堪えた様子がない。
「あんたの美学にとっては罪じゃないとでも言う気か!」
「その通りだ。心配しなくても、あれがこの国に戻ることはない」
ジョルジュはもう呆れ果てて、それでも怒りを抑えることができず、ジャンの胸に何度も拳を打ちつけた。
「……人々はあんたの頬に唾を吐き、あんたの名を呪うだろう。あんたは民衆のヒーローじゃなかったのか……?」
「英雄になろうと思った覚えはない。やったことがそう呼ばれただけだ。オレは結果を求めない。やりたいように生きる。しかしただ一つだけ、オレにも守るべき決まりというものがある」
「……美学か?」
「美学だ」
ジョルジュは深く長いため息をついた。
部屋を探し続けている人々に大声で告げる。
「王はもう捜しても無駄だ。王妃を捜せ。王妃は必ずこの王宮のどこかにいる」
額に手を当てて腰をかがめた。
「ジャン・ジャックロードの処罰はどうするね?大罪人だ。いずれは断頭台に立つことになるだろうが、な」
背中を叩いてくるロドリーグに、何も言う気になれなかった。
「革命はこれからだ。これからが本番と言ってもいい。どうする?『鬼のジョルジュ』殿。誰にでも、できることがある」
ジャンが頭の上からそんなことを告げてくる。
(ここで……終わろうと思っていた。国王を捕らえれば一段落し、オレがいなくてもどうにでもなるだろうと)
ジョルジュは息を吐きながら腰を戻した。

できること。
できないこと。

(オレは……この状況で逃げ出すことも、本当はできるはずだ。蔑まれ、石で追われようと、そんなことは関係ないと言ってしまうこともできるはずだ。そしてその逆も……できる。結果を求めなければ、できないことなど自分次第だ)

すべきこと。
すべきでないこと。

(目に見えない潮流と、絶望しながらの一歩ではどちらが確かかと言ったな。馬鹿な。絶望しながら一体どれだけ進めるというんだ。時間を無駄にするだけだ。……だが)

やりたいこと。

(……オレは疲れたんだ。一つの目的は達成した。限界も見えた。キリも、まぁいい。……もう、いいだろう。誰に責められようと、ただのジョルジュに戻りたい。……だが、ただのジョルジュとは、どういう人間なのか。今のオレは何だ?今のオレは……)
「……色々あって、ここまできた。今のオレは、オレだ。少し疲れたが、何をやりたいかははっきりしている。……まだ、これからだ。どこまでできるかわからないが……いつものことだ。ここでリタイアする気はない。オレの美学に反する」
ジョルジュは微苦笑してジャンの肩をつかんだ。
「革命の第一歩としてやっておきたいことがある。ジャン、あんたはすぐさま断頭台送りだ」
ジャンは肩をすくめ、ロドリーグは手を叩いて跳び上がった。


広場はほんの少しの隙間もないほど人が詰め込まれていた。
英雄ジャン・ジャックロードが国王を亡命させたという罪で裁判もなしに裁かれる。
その報せを聞いておびただしい数の民衆が集まったのだ。
「ジャン・ジャックロードはどんな面構えをしているのか」という声から「まさかそんな、信じられない」という声まで。
様々なざわめきが街を包む。
やがて現れたジャンの姿に、広場はさらに騒がしくなった。
「ジョルジュ、今からでも遅くない!やめるんだ。裁判もなしに処罰など、絶対にこれからのためにならない!」
クリスがジョルジュの腕を力まかせにつかんだが、ジョルジュはそれを振り払った。
「……これからのためだとかを考えるのはもうやめた。オレはオレのしたいようにすることにしたんだ。おまえがオレを裁くというのならそれでもいい。……そうだ、コンスターンスを呼んできておいてくれ」
ジョルジュは振り返らずに歩いていき、断頭台に立つジャンとロドリーグの横に並んだ。
ロドリーグは喜色満面。ジャンの手を縛る縄を犬の散歩のように揺らしている。鼻歌でも歌い出しそうな勢いだ。
ジョルジュの読み上げるジャンの罪状を聞きながら、
「おまえの人生もここが潮時だ」
心底楽しそうにそう言った。
ジャンは首をこきこきと鳴らして肩を回した。
「知らないのか?潮は引けばやがて満ちるものだ」
ロドリーグの両眉がきゅっと寄る。
自分の首を断ち切る刃を前に怯え、嘆き、失禁でもすればいいものを、つくづくかわいげがない。だがいくら小憎たらしい態度を取ろうと、死神はすでに鎌を振り上げている。
「ふん、……海が枯れない限りはな」
おまえはここで死ぬのだ。
もう返す言葉もなかろうと、ロドリーグは存分に嘲った。
しかし。

「そうだ。海は枯れない!」

声を上げたのは、ジョルジュだった。
「この刑は取り止めだ」
ロドリーグは何が何だかわからないうちに殴られ、台上から蹴り落とされた。
ジョルジュは腰の剣を抜き、ジャンの縄を切ろうとしたが、
「……どうやって解いた?」
「絶望しながらも一歩進んでいただけだ」
ジャンはにやりと笑ってみせた。
ジョルジュも負けじと不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど。あんたには色々教わったよ。こういうときはこうなんだろ?……『時は満ちたり!』」
「ふむ。オレは貴殿に命を助けてもらった恩ができたというわけだな」
二人は群衆の中に飛び込み、広場を混乱に叩き落とし、市民を騒然とさせ、ロドリーグをもみくちゃにさせ、クリスに頭を抱えさせ、コンスターンスの心臓を止めかけ、人々が気が付いたときには……
ジャンの姿はどこにもなく、断頭台の前にただ一人、ジョルジュだけが立っていた。

「オレの名はジョルジュ。たった今ジョルジュ党の党首をやめて犯罪者になったジョルジュだ。お集まりの皆様方にはジャンの代わりにオレを裁いていただきたい」

ジョルジュは人々に向かって優雅にお辞儀した。
「……オレの罪は、党首なんてものに成り上がったことだ。この行動をした場合民衆がどう受け取るか。党員はどう思うか。そんなことを考えすぎてどうにもならなくなった。オレはどうも自分のしたいようにすることを我慢できないらしい。器も小さい。いつだって限界と戦っている。この前はついに負けて……王を倒したら、逃げようと決めていた。そんな人間だ。党首なんてものには、向いていない」
クリスは口を大きく開いたままあっけにとられていた。
「党首の役目を今ここで勝手に放棄したことも罪だ。だがオレは、……今やっと自分の望みと向き合うことができた。オレはオレが正しいと思い、そうしたいと願うことを、正直にやっていたい」
コンスターンスは人々の間を割って入り、ジョルジュのそばへと急いでいた。
「だからジャンを逃がした。彼は、彼が正しいと思い、そうしたいと願ったことを……正直にやったんだ。貧しい人々に施しを与えたのもそうだ。……馬車にひかれようとしていた子どもを……命がけで助けたりもした。そして、国王を亡命させた。……彼がしたことは、許されることじゃない」
アナトールは建物の影からジョルジュの演説に耳を澄ませた。
「しかしだ。オレがジャンを裁判なしに処刑すると言ったとき、反対したのは一人二人だけだった。裁判は当然あって然るべきだ。処刑は刑であって、報復じゃない。革命という大きな流れの中で見失っているものはないか。憎悪を満足させるために正義を振りかざしてはいないか。この革命の目的は貴族を根絶やしにすることじゃない。もっと大いなるものだったはずだ!忘れるな。思い出せ、流されるな!オレたちは何をしたかった?何のためにここまで来た……?そして、何のために進んでいく……?」
ジョルジュは振り上げた手をぐっと握りしめた。
「もちろん、罪を見逃していいというわけじゃない。……だから、ジャンを逃がしたオレを裁いてくれ」
もう一度、深くお辞儀する。
広場はしんと静まりかえっていた。
その沈黙が何を意味するのか。期待することも、不安に思うこともやめ、まっすぐに前を見据えて待ち続ける。
この断頭台の露と消えることになったとしても、大罪人として後世まで語り継がれることになったとしても。
今の自分を悔いはしない。
足下にクリスとコンスターンスの姿が見えた。
二人とも何か言いたそうにしていたが、視線が合うと泣きそうに顔を歪めた。
(悪いなクリス、どうなるか見えていてもこうせずにはいられないんだ。コンスターンス、……オレは、君の言葉が嬉しかった)
ジョルジュはただ立っていた。
やがて、人々の中に小さなささやきが生まれた。
「……裁けと言われても、どうすればいいんだ」
少しずつ広がり、大きくなる。
「ジャンは私たちを助けてくれた……」
「ジャン・ジャックロードは本当に国王を逃がしたのか……?」
「僕が大人だったら……僕だってジャンを助けたさ!」
波のように押し寄せてくる。
「王の罪は誰が贖うんだ」
「ジャン・ジャックロードにだって贖えはせんだろうよ」
「裁判を続けるより大事なことがある。革命が起こったんだぞ?」
「ようするに、こういうことか?ジャン・ジャックロードは以前オレたちを救ってくれた。……だから、見逃すのは今回限り、と」
広場の中央に立つジョルジュを中心に、緩慢に、急速に。
「……そんなこと私たちが決めていいのか?」
「これからは、オレたちの時代だ!」
次第に一つにまとまり、激しい流れとなる。

「革命万歳!」

「新時代万歳!」

誰もが拳を掲げて跳び上がった。
大地が歓喜に揺らぐ。
それでもなお、土よ踊れ、空よ歌えよと。

『時は満ちたり!』

ジョルジュはそう叫びたかった。
ジャンがここにいたなら絶対に叫んでいただろう。
「いつまでそんなとこに立ってるんだ兄ちゃん、早く降りな!」
多くの手で断頭台が引き倒され、ジョルジュは人の海に飛び込んだ。
いっぱいに腕を伸ばして近づこうとする恋人を引き寄せれば、コンスターンスは胸にしがみついて泣き叫んだ。
「愛してるわ。愛してる!愛してる!」
顔は涙でぐちゃぐちゃ。髪もぼろぼろで、見られたものではない。
「リーダーでも党首でもない犯罪者を?」
それでも、
「あなただもの!」
愛しくて。
ジョルジュはコンスターンスを抱きしめ、その唇を……啄もうとしたところで邪魔が入った。
「あー、そこでラブシーンを繰り広げているおふたりさん、……の中の一人。ジョールジュー。これからどうしてくれる気だ?」
人に押しのけられのしかかられ、ようやくジョルジュのそばにたどり着いたクリスは、恨めしい目を向けながら笑っていた。
あまりの歓声に耳を押さえ、顎をしゃくって返事を促している。
「党首にはおまえがなればいい。オレはオレのやり方で革命に協力しようと思ってる。色々考えたが、オレのやりたいことはやっぱりそれだからな」
ジョルジュはあっけらかんと言ったが、クリスは肩をすくめて首を振った。
「冗談だろう。勘弁してくれ。私はサポート向きなんだ。リーダーとは君のように自分勝手だからこそ務まる面もあるんだよ。君は君の好きなようにやればいい。だから私に君をサポートさせてくれないか」
「得はないぞ」
「色々考えたーが。……私の楽しみはやっぱりそれなのさ。できれば君の名と共に歴史に残りたかったが、あくまでもののついでだったことを思い出したよ」
コンスターンスは苦笑しているクリスの頬にキスを贈った。
ジョルジュの眉間にしわが寄る。
周囲の気温が五度下がるかと思われた……が、三人は同時に声を立てて笑い出した。
耳が馬鹿になりそうな音の中、仲間たちにもみくちゃにされ、多くの人々と共に。
ひとしきり笑ったあと、ジョルジュは例の不敵な笑みを作った。
「これから大変だぞ?何せ、引いている潮を呼び戻さなきゃならない」
クリスは瞠目し、ふっと息を吐いて、ジョルジュの耳を引っ張った。
聞こえないのか?とでもいうように片目を瞑る。

「もう満ち始めてるよ」
END.
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