『繋ぐ未来』

すべてのしがらみから解き放たれた大地。
何一つ縛るものはない自由の世界。
かっておぼろげに描いていた楽園。

そして、毎日増えていく傷痕。


クレインは目を眇めた。
扉を開けただけで強引に視界を占領する地平線はいつ見ても真っ平らでなんの面白みもない。
高い空には白い雲が穏やかに流れていたが、一つ一つに色を付けていく趣味も想像力もない。
小さな柵の中から家畜が呼ぶ。
クレインは一つ息を吐いて、扉の枠にもたれかかった。
しばらくぼーっとしているとまた鳴き声がした。
腹が減っているのだろう。今日はまだ餌をやっていない。
そう思いつつ何を見るでもなく空を仰いでいた。
どれくらいたったのか、太陽を遮っていた大きな雲が出し惜しむかのようにゆるゆると光を解放し出した。
照らされた瞳を閉じてから、随分と時間を無駄に過ごしてしまったとこめかみに指を置く。
鳴き声も心なしか哀しそうだ。
クレインは柵の中にライ麦をほいと投げ込むと家の中から銃を持ち出した。
火薬を無駄使いするわけにはいかないが、たまには触らないと腕が鈍る。
鳥を一、二羽打ち落として食べれば気分も変わるだろう。
ひょいと肩に担いだ途端になじむ懐かしい重さに苦笑する。
これだけで腕が鈍ってなどいないと確信できてしまう。
それでもいつも通りの時間を繰り返したくなくて、散歩も兼ねて外を歩き回ることにした。

さてどの鳥を狙おうかと考えながら目を彷徨わせるが、下ばかりを向いてしまう。空は見飽きてしまったのだ。
しかし上も下も映る景色は大差なく、大空の代わりに果てのない大地が、雲の代わりに背の低い草が風に遊ばれて揺れているだけ。
気分転換をするはずだったのにますますため息をつきたくなる。
どこまでも自由な風に嬲られ、なんとなく肩から銃を下ろした。
このまま、すべてを脱ぎ捨ててしまえば。
風に溶け、空と大地の隔たりさえも越えて駆け巡ることができるのではないか。
手の中の慣れきった重み。
けれどこの銃は、この服は、この体は、なんて重たいのだろう。
クレインは銃から一つ、二つ、指を外そうとして、やはり握りしめた。
風になりたいと、なりたくないと願う。
銃を担いでまた歩き出した。
どこまで行っても変わらない景色の中を同じ歩調で歩いていると、眼球がまるで磁石のように吸い寄せられた。
ところどころ草が生えているだけの、なんの変哲もないはずの大地に一つ。
穴だ。
直径二メートル程の穴がありったけの怪奇を漂わせている。
クレインは訝しげに顔を歪めたが、口の端が自然と持ち上がるのがわかった。
しっかりと銃を構えて音を立てずに近づいていく。
少しずつ見えてくる内部の様子に、脳みそにこびりついていた錆がパラパラと落ちていく。
穴の端には小枝と枯れ草がたまっていた。
それはおかしなことではなかったはずなのに、ふと、気が付いてしまった。
あれは被せておいた小枝と枯れ草。
これは以前掘ったまま忘れていた落とし穴。
獣の一匹でもかかってくれればと思って仕掛けておいたが、いつ見ても何もかかっていなかったのでそのうち点検をやめてしまったのだ。
ひどくつまらない真相に失望…しかけたところに取って代わる期待。
穴が見えているということは、何かがかかったのでは。
棚から落ちてきたものがどんなに小さなぼた餅であっても、例え豆粒だって大歓迎だった。
そっとのぞき込む。
そこには小さな……人間がいた。
泥の固まりと見間違えそうになるくらい汚れているが、確かに人間の、子供だった。
クレインは銃口を翻し、少しだけ考えてから笑った。
しかし泥の固まりは身動き一つしていない。すぐさま口元を引き締める。
「……大丈夫かい?」
死にはせずとも足の骨は折るかもしれない。いや、飢え死にや衰弱死ということもあり得る。かつて自分がこの地にたどり着いたとき、一体どれくらいの月日がかかっただろうか。幼い身に耐えられなくても当然だろう。まさか人間がかかるとは思わずに悪いことをしてしまった。せめてこのまま埋めてやるべきか。
そう思って返らない返事に頷きかけるが、しつこくしがみついたまま手を離そうとしない期待が体を突き動かした。
滑り降りて子供を抱き上げる。
泥を払い落とした体には確かに温度があり、胸が小さく上下していた。
クレインは今度こそ心おきなく微笑んだ。
足も触ってみるが異常はない。疲れ果てて寝ているか気絶しているのだろう。体つきから少年であることがわかるが、男であれ女であれここまでたどり着くのは困難なはずだから。まして子供の身では。
顔を青くしているのではないかと首を支えてみれば、危うく手を離してしまうところだった。
昔毎日見ていた顔だ。
やがて髭に覆われる顎はまだあどけなく、岩のようにごつごつした体も小さく華奢だったが。
知らないうちに自分以外のものの時計が逆に回っていたのか、幼い頃の親友がそこにいた。
「デイビッド……」
親友と、今もそう呼んでいいのかどうか。
クレインは少年に問いかけるべきか地面に置いた武器に問いかけるべきか逡巡した。
すぐにここよりは寝心地がいいはずの床の上に連れて行ってやろうと思うのに、ゆっくりと膝を折り曲げて少年を下ろす。
羽のように軽い体はするりとすり抜けて、その身を覆っていたぼろ布がめくれた。
小さな背中に、無数の傷では隠しきれない刻印が。
少年の身分と親友ではない証がはっきりと記されていた。


何を捨てても逃れられないものはある。
今ここに生きている限り。
いつも、どこでも、既に追いついている鎖。


「……起きな。安らかな眠りをお望みならこんな場所まで来ることないだろう?さっさと起きろって言ってるんだよ!」
クレインは体を丸くしている少年の腹を蹴り飛ばした。
容赦はしてやったつもりだが、小さな体は壁にぶつかって家を揺らし、ずるずると床に落ちた。
少年は激しく咳き込みながら焼き付くような双眸を向ける。
「初めまして奴隷くん。遠い地からはるばるアタシの王国へようこそ。」
二つの炎が勢いを増した。
少年は床に尻をついたまま動かなかったが、全身の毛を逆立てて武装していた。
野良猫のようだ。
クレインは思った。
ちっぽけな力しか持たないくせに生意気な瞳をまっすぐに向け、決して思い通りにはならないと全部で伝えてくる。力の前に屈しても下げた頭の裏では嘲笑しているだろう。そういう目だ。
クレインはにっこりと笑ってみせた。
「アタシの名前はクレイン。今日からあんたのご主人様だよ。」
まるで聞こえていないかのようにわずかな反応さえ見せない少年に、なおも微笑みかける。
「あんたの名前は今決めたよ。キティでどうだい?子猫ちゃん。」
近づいて顔をつきあわせれば、少年は唾を吐いて笑った。
「…たいしたネーミングセンスだな、アバズレ。」
クレインはにこにこと笑ったまま少年の頭を引き倒し、踏みつけた。
「そうだろ?ぴったりの名前で嬉しいだろキティ。犬と!呼んでやってもいいんだがなぁっ!……あんたの目は性悪な猫がお似合いだ。爪の研ぎ方も知らないくせに豹のつもりで獲物に向かい、ネズミに耳をかじられるような…子猫ちゃんさ。」
頬を拭いながら頭蓋骨が軋むくらい体重をかけていく。
少年は許しを請いもしなければ無駄な抵抗もしないだろう。
ただただ憎しみを募らせていつしか主人の寝首をかくのだ。
音が響くように強く踏みつけて足を外す。
「スープとミルクを用意してある。腹が落ち着いたら肉も食わせてやるよ。早く立ちな。」
少年の表情は確かめなくてもわかっていた。


草原というわけでもない。荒野というわけでもない。
少し歩けば小さな森と、どこからか流れている川もある。
それでも、何もない世界。
吹きさらしの土の上、ぽつんと立っている小さな掘っ立て小屋以外は。

クレインはキティがスープとミルクを飲み終わったのを見るとまず家の外を案内してやった。
捕らえた牛を繋いでいる小さな柵と、作物を育てている荒れた畑。それから水を汲みに行く川。果物を採りに行く森。
クレインは手頃な大きさの木を切り倒すと手際よく枝を落とし、背丈と同じくらいの長さにして肩に担いだ。
しばらく歩いたところに一本の柱が立っていた。
その隣りの地面をほぐして切ったばかりの木を突き立てる。先端を削り直したり、何度も岩で叩いたりしてようやく突き刺さった。
キティは怪訝な顔を隠さずにじっと見ていた。
「こっちはあんたのだよ。」
すでに立っていたものと比べると幾分低く、細めの柱。
クレインはズボンのポケットからナイフを取り出し、太い方の柱を軽く削る。
「…こうして……一日一回傷をつけるのさ。……日にちを、忘れないように。」
クレインは無造作に手を差し伸べた。
開いた手のひらには刃こぼれのひどいナイフが乗っている。
キティは逡巡した。
案内されるまでもなく、この地にクレインしか住んでいないのは明らかだ。
殺すことはできずとも致命傷を与えられれば助かる術はない。
ここにいるのは自分だけになる。
今度こそ自由が手に入る。
今、ナイフをその胸に突き立てるべきか否か。
クレインの表情を窺おうとして顔を上げれば、背後の柱に目を奪われた。
そこには長く、短く、深く、浅く、様々な傷が、無数に刻まれている。
「…………何年だ?」
声がかすれたのがわかったが、クレインは気にとめた様子もなくあっさりと言った。
「八年だ。」
八年。こんな場所で、一人。
その年月は実際にはどのくらいの長さなのか。
最初は何もわからなかったに違いない。誰一人住まない土地でどう生きていくのか。
そう考えて、キティはナイフを手に取った。
体が弱っているせいかもしれないが、クレインは女とは思えないくらい力が強い。今まで自分を殴った誰よりも強い気がする。正面から立ち向かうのは得策ではない。
殺すのは八年分の知識を手に入れてからだ。
キティは低い方の柱にはっきりとした印を刻んだ。


仕事は家畜の世話や畑の整備、水汲み、果物の採集、薪割り、籠編み、縄編み、ろうそく作り、などなど、ありとあらゆることだった。
だがここに来る前にやらされていたことに比べれば随分と楽な仕事だ。
それどころかすべて生活に密着していて、自分のためにやっているようなものだった。
いや、実際自分のためにやっているのだ。
部屋の隅に貯えられていた穀物は二人で暮らすには乏しかった。
キティは畑を耕しながらちらりとクレインの方を見る。
クレインは手慣れた様子で軽々と薪を割っている。
今まで自分を使ってきた主人はみな命令を下すだけで自らが動くことなど無かった。
せいぜいが鞭をふるったり、怒鳴りつけるくらいだ。
クレインは鞭こそ使わないが、ひどく殴る。
他には………それだけだった。
キティは愕然とした。
他には。
他にもあるはずだ。
この女をマシな人間だと思ってはならない。最初に奴隷と蔑まれたのを忘れたのか。
だがクレインは自分と同じ物を食べ、同じだけ働き、同じだけ眠る。
キティはすっかり手を止めて立ちつくしてしまった。
「……どうしたんだい?まさか鍬を壊したとか言うんじゃないだろうね。」
クレインが斧を肩に置いて眉をつり上げる。
キティははっとして、再び畑を耕し始めた。
農具はすべて固い木でできていて、下手に使うとすぐにダメになってしまう。クレインが作ったものだ。
畑に育つ小麦、ライ麦、豆、米は、携帯していた食料をわずかに残し、苦労して育てたものだと聞いた。
自分もここにたどり着くまでの間、豆を食べて凌いでいた。前の主人から逃げるときに蔵に忍び込んで盗んできたのだ。何日も何日も山越え谷越え歩き続け、誰も行ったことのない最果てまでたどり着けば自由になれると思ったのに。
人に侵されていない大地など存在しないのか。
太陽がじわじわと背中を焦がす。
キティは歯を食いしばった。
どんな布をどれだけ被っても決して消えることのない背中の焼き印。
物心つく前からすでにあり、いつだって自分をがんじがらめにしてきた。
誰もいない。空と大地しかない。こんなところに来てさえ奴隷と呼ばれる。
人間として扱われず屈辱だけを与えられる。
キティはまた手を止めてしまった。
屈辱。
果たして、今は。
確かに偉そうに命令され、失敗したり機嫌を損ねれば容赦なく殴られるが。
薪を割る音は高らかに響いている。
「…なんだいさっきから。どきな。働けない人間にぼーっと立たれてちゃ邪魔だよ。果物でも採って来な。」
クレインに鍬を奪われて、ますます呆然とする。
採集は耕作よりも力を使わない。
まさか。
奴隷が気遣われるはずもないのに。
キティはなんとなくその場を立ち去れずクレインの背中にぽつりとつぶやいた。
「……あんたは…?……なんで…、…こんなところに……」
怒鳴られるかと思ったが、意外にもあっさりと返ってきた。
「こんなところでしか生きられないからさ。」
クレインは額の汗を拭って鍬を柵に立てかける。
「あんたが詮索しようとするとはね。いいさ。アタシは日々の糧を得るために忙しいが…退屈だ。誰かと話すのはあんたが最後になるだろうから…話しておくのもいいかもしれない。」
キティは少々カンに障るものがあったが、どうしてか興味があったので聞くことにした。
クレインは地平線の彼方を見つめる。
「アタシはこれでもいいとこのお嬢だったのさ。…お嬢がたどらされる運命ってのは一つ、いい縁談ってやつだ。当然まっぴらだったから家を出た。…でもお嬢ってのは役立たずなのさ。世間のことを知らなくてね。アタシにできるのはダンスとケンカくらいだった。」
キティは突然出てきた『いいとこのお嬢』にそぐわない単語に眉を寄せた。
クレインは小さく笑って目を眇める。
「昔からケンカっぱやくてね。……軍人の友達と…よくつるんでたのさ。嘆いた親が部屋に閉じこめて無理やりダンスのステップを叩き込んだがしょっちゅう窓から抜け出したもんだ。アタシはドレスとダンスよりも軍服と銃剣が好きだった。だから世間で何もできないと知ったとき、軍人になろうと思ったのさ。」
重々しい扉に閉ざされた部屋で教えられるステップはつまらないうえ何に役立つのかわからなかった。
母がよく口にした『素晴らしい貴婦人』とは一体どういう人間だったのか。
軽やかなステップと『素晴らしい紳士』を喜ばせるための社交辞令をゼンマイ人形のようにこなせればよかったのか。
かつて何の隔たりもなく遊んだ友達がどんどん遠くなっていく。
泥にまみれるのではなく、花の香りにまみれろと。どう考えても似合うものではないのに。
女に生まれたというだけで決められていた人生。
それから逃れるために手を貸してくれたのはただ一人だった。
「…友人のつてでなんとか軍に入れた。やらされたのは飯炊きと看護。慰み者にはならずにすんだがな。でもアタシは銃を持ちたかった。幸か不幸かアタシには才能があってね、すぐにのしあがったよ。それなりに武勲も立てたさ……でも、そのうち嫌になって…やめちまった……。」
ゆっくりと閉じたクレインのまぶたはその重みに耐えるように少し震え、そっと開いた。
「アタシは軍に入らずに世間で揉まれるべきだったのさ。何も知らないなら知っていくべきだった。…でもね、ようやく気が付いて町へ入ろうとしても、無理だった。アタシは有名人になってたのさ。人殺しのね。…家に帰っても縁談は一つも残ってなかった。ダンスのステップは覚えていても、アタシと踊る奴はいない。……とうとう何もできることがなくなったのさ。世間はアタシをやんわりと隔離しながら…聞こえてくるのはアタシを縛る言葉ばかりだ。」
女のくせに。できそこない。人殺し…、と。
家族の苦痛を少しでも和らげるために、何よりも自分のために家を出ようと思った。
他人が紡ぐ言葉などたいした重みもなかったが、それでもそのくだらないざわめきに殺されてしまいそうだった。
心が錠にはめられてしまいそうだった。
「…アタシはどこまでもアタシでいたかった。……だからここに来たのさ。」
キティは奥歯を噛みしめていた。
「……あんたは甘ったれのお嬢だ。」
震える拳も、睨みつける瞳も隠さない。
かすれて途切れそうになる声をしっかりと音にした。
「…結局逃げただけのくせにっ!……その背中には、印なんかないんだろう……っ!」
「……そうさ。でもあんたにそんなことが言えるのかい?逃亡奴隷くん。それに…逃げるのには代償がいるのさ。あんたはアタシと同じだけのものを捨てたかい?何も…持っちゃいないだろう?子猫ちゃん。」
声にならない呻きを出してはならない。一つでももらせば負けてしまう気がする。
だが、全身が、うちひしがれたように戦慄く。
キティはうつむいたままクレインに背中を向けて走り出した。
とにかくそこから離れたかった。
それは耐え難い屈辱だったが、今の自分を誰にも見られたくなかった。
小さな背中が見えなくなるのを確かめてから、クレインは消えそうな声でつぶやいた。
「……悪かったよ。…あんたには逃げるしかなくて…何も、持てない。…アタシはアタシの意志で捨てたんだ…。」
だがあの顔に図星を指されるのは思った以上に苦痛だったのだ。
「…………確かに甘ったれだね……。」
クレインは手のひらで目元を覆った。
後悔の中の情けなさややりきれなさがそれぞれに切りつける。自業自得だと知っているからなおさら痛い。
しかしそこには小さな喜びが隠れている。
生きていなければ痛くなどないからだ。
苦笑どころではない。
キティのため、そして自分のために、謝るべきか否か。
「…下手に懐かれてもね……心配するだけ無駄かもしれないが。」
ふと、急に寒くなった気がした。
さっきまで晴れていた青空がにわかに曇りだしていた。

奴隷には名前がない。
主人が替わるたびに名前も変わる。名前を付けない主人も多い。番号で呼ばれたこともあれば、豚と呼ばれたこともある。なんと呼ばれようとされることは一緒だった。
扱う側にとって重要なのはそれが誰かということではない。誰であろうととにかく奴隷でありさえすればいい。背中に奴隷の焼き印があれば、それだけでいいのだ。
いつだってどこからだって逃げてきた。
屋敷に火を放つことも、見張りを刺し殺すことも、迷いも躊躇いもしなかった。
自由になれるのならば、人の皮を被った獣たちを何匹殺そうがかまいはしない。
そう思っていくつもの鎖を断ち切ってきた。
「………代償って………なんだ………?」
キティは川の水面に顔を映して問いかけた。
流れの中で揺らぎ、曇り、いびつに歪む。
「……自由になれるなら、この背中の皮をやる………」
しかしそれではクレインの言う代償にはならないのだろう。
今までだって、断ち切るのに痛みを伴った鎖など一つとしてなかった。
「………何も、ない………」
自分以外に大切なものを、何一つ持っていない。
親はいたのだろうが、記憶にない。自分のことだけで精一杯だから仲間もない。女とは働く場所が違うから恋もしない。物を持たないから財産もない。
今まで自分のことを人間だと思ってきたが、やはり奴隷だったのかもしれない。
何もない。
背中の焼き印以外は。
キティは勢いよく頭を水に叩きつけた。
限界まで冷やし、顔を上げてせわしなく息をつく。
「…ち…がうっ!………自由に、なるんだ……ここには誰もいない……あの女さえ殺せば……自由に、なれる。」
自由になればそれこそが大切なものだ。
奴隷の身から解放されたとき、人間になれるのだ。
川岸の土で泥まみれになった体を洗い流すように冷たい雨が降る。
キティは両手を高く上げて空を仰ぎ、笑った。
雨が気配を消してくれる。闇を待ちクレインが寝静まるのを見計らえば目的は達成できるだろう。
今夜、王様と奴隷しかいない王国を奪う。

降りしきる雨の中、キティはやおら動き出した。
鳥も虫も静まりかえり、雨を邪魔するものはいない。
クレインもとうに眠りについているだろう。
一歩一歩ゆっくりと向かっていく。
ぬかるみを踏みしめる靴は、クレインが獣の皮で作ったものだ。奴隷に靴を与える主人などいなかったのでキティは未だに履き慣れていない。
すっかり水を含んで重くなった服は、キティが纏っていた布をクレインが改良したのだ。奴隷はたいてい上半身をあらわにされているのでキティはまともな服を着たことがなかった。
雨と雨の隙間にぼんやりと二本の柱が見えてくる。
少し低い方の柱はクレインが立てたキティのための柱。あれから毎日傷を刻んできた柱だ。
すっと横をすり抜けて、まっすぐ家に向かっていく。
刻んだ傷の数だけクレインと暮らした小さな家。
今から自分のものになる。
キティは足音を潜めた。
雨は激しく地面を打ち鳴らし雷鳴さえも轟いたが、音を立てないようにそっと扉を開く。
途端、暖かい炎が照らし出した。
岩で囲んだ暖炉の前でクレインが薪を動かしている。
どうして起きているんだと、心の中で叫んだ。
あれだけ時を待ったのに。あれだけ音に気をつけたのに。
「……さっさと入りな。」
扉を開け放ったまま立ちつくしているキティを見ようともせずにクレインが言う。
びくりと体が動いて、貼り付いて重くなった服から雨が滝になって落ちる。
しばらく動けずにいた。
このまま入れば床が水浸しになってしまうとか、どうでもいいことばかりが頭を通り過ぎる。
こんなはずではなかったのに。何故かそんなこと以外考えられない。
そのうち雨が浸食してきて仕方なしに扉を閉めると、小さな声がはっきりと聞こえた。
「…おかえり。」
「………た…だ、い…ま……」
口が勝手に動いていた。
クレインは他に何も言わなかった。
キティは何も言えなかった。
水を滴らせながらまたもや動けなくなったキティに、クレインが呆れ顔でため息をつく。
「……キティ、あんた馬鹿かい?できるだけ絞って早く火の側に来な。風邪ひいても薬なんかないよ。」
キティはぎこちなく体を動かして言われたとおりに水を落とし、クレインの側に少し間をあけて座った。
暖かかった。
奪われた体温が体中に満ちていく。
ただいまなんて、初めて言った。

いつのまにかすやすやと寝息を立てだしたキティに布を被せ、その頭をそっとなでる。
忘れようにも忘れられない、忘れたくない、忘れてはいけない名前を呼んだ。
「……デイビッド…」
どんなに激しい雨でも決して洗い流せるはずのない記憶。
目を伏せればありとあらゆる表情が生き生きと蘇る。
だが自分は知っている。
クレインはもう一度、できるだけそっと、起こさないように頭をなでる。
「………キティ…」
似合いの名だと今でも思っているが、いっそ親友の名をやればよかったとも思う。
そうすれば。
迷わずにすんだか、余計苦しむはめになったか。
眉間にしわを寄せながら、口の端だけをわずかに持ち上げ、ぬくもりを味わうようになで続ける。
心地よい眠りにつけるように、というよりは、感触が手放せないのだ。
子供の体温は高いというが、人間はこんなにも気持ちの良いものだっただろうか。
それともぬくもりや手触りまで猫に似ているのか。
クレインは手を離し、拳を握った。
猫は自由な生き物だ。
長年飼われた家でも餌がもらえなくなれば帰ってこなくなる。犬のようにいつまでも家を覚えていたりしない。
彼らは縛られることもなく、自分を見失うこともない。
だがキティは戻ってきた。
屋根を求めてか、暖を求めてか、食料を求めてかは知らないが。
「……おかえり。」
小さく微笑んで、拳を眉間に押し当てた。
おかえりなんて、ずっと忘れていた。


次の日も雨だったので二人はずっと家の中にいた。
クレインは暖炉の前から離れなかったが、薪を無駄使いすることもできず少しずつ火を小さくする。
キティはぬくもりの届かないところで膝を抱えていた。
薄い壁にもたれ、寒いはずなのにつらくはない。奇妙な居心地の悪さに逃げ出したくなる。
だが取り囲む激しい雨。耳と心を蝕まれながらこの小さな空間に居続けるしかない。
ついに火が消えて、クレインが立ち上がった。
キティは目を向けることも耳をそばだてることもなかったが、扉が開く音が届いて目を見開いた。
空から地面に向けて容赦なく降る槍の中をどこへ行くというのか。
しかしクレインは振り返らずに身を投げ出して、ぱたんと、簡単に扉を閉めた。
風邪をひいても薬はないと言ったのは誰だ。
キティは膝を抱えたまま動かない。
きっと家畜か畑の様子を見に行っただけですぐに戻ってくるのだろう。
そう納得させるが、大きく開いた目が扉から離れようとしない。
銃弾を浴びているかのように絶え間なく鳴り続ける屋根はそれでも水を防いでいるのに、ひどく震えた。
キティは自分の腕をなでさすりながら頭の中で数を数えた。
百…いや、十も数えれば戻ってくるだろう。

いち、にぃ、………さん…

立ち上がって、ゆっくりと扉に手をかけて。
外気に触れた瞬間走り出した。

牛たちはみな屋根の下でうずくまっていた。一応溝が掘ってあり草も敷き詰めてあるが、防ぎきれない寒さに震えている。
畑は打ちのめされ、普段群がっていた鳥たちにも見捨てられたようだった。
キティは一寸先が見えない世界を闇雲に走り回った。
いつのまにか森に入り木にすがりついて、激しく息をつく。
肩が大きく上下する。
肘が、膝が、指が小刻みに震える。
全身の肉を削り落とされて直接骨を凍らされているようだった。
落ち着いて息をするように努めつつ、完全に整う前に走り出さなければ動けなくなると本能が告げている。
しかし頭は次第に冷やされて、次々と疑問を浮かび上がらせた。
どこへ行ったか知らないが、どうなろうと知ったことじゃない。むしろ死んでくれると楽で助かる。
なのに、考えている部分とは違うところから早く走れと声がする。
昨夜はこの雨の中、殺しに行くために歩いたというのに。
キティは短く息を吸い込んで走り出した。
重い足が泥に捕まって倒れそうになるが、必死に蹴りつけて前に進む。
まつげから落ちる大粒のしずくに邪魔されながら、三本の柱を見た。
太くて高い柱と、少し低い柱が一本、そして……
「……クレインっ!」
声は雨にかき消されてしまったのか、こちらに気づく様子もない。
クレインは柱に深々と傷を刻んでいた。
キティは駆け寄り乱暴に腕をつかんだが、クレインは抵抗する様子もなくナイフを握った手をだらりと垂れた。
「…ああ、キティ。何してるんだい?風邪ひきたいのかい?」
今気が付いたように言う。
抑揚のない声はわずかに呆れが混じっていて、凍りつこうとしていた血が一気に沸いた。
「……っ…馬鹿かあんた!こんなもの明日まとめて刻めばいいだけだろ!狂人め…っ!……どれだけ…っ……ど…れだ…け……」
寒さに震えていた指は…やはり震えていたけれど、つかんだ腕を決して離さなかった。
罵声を浴びせるために開いた唇の戦慄きを抑えるために噛みしめて、力が抜けないようにうつむいた。
そんな様を見られたくなくて。
ただそれだけの理由で背後に立ったはずなのに、濡れそぼった背中を見た途端膝が折れそうになる。
覆い被さるようにしがみついた。
引きはがそうと勢いを増す雨に負けないように、しっかりと。
クレインは腰に重みを感じながら呆然と無数の傷を見つめていた。
「……雨の日は…嫌いなのさ。………笑うかい?こんな小さな傷がアタシ…。…アタシは、自由だ……もう、…何もない……何にも…縛られや…しない…。なのに…」
クレインは柱の樹皮に爪を食い込ませてしっかりと抱きついた。
「毎日刻まないと…忘れちまうのさ……今はもう、この傷だけが…アタシを繋ぎ止めてくれる………」
泣いたら雨に混ざってしまうから、小さく笑う。
「デイビッド…アタシはもう…あんたさえも忘れてしまいそうなんだ………。…キティ、怒るかい?アタシはあんたに刻まれた印が、羨ましくて…憎たらしい。」
「……こんなもの、オレじゃない……」
キティは腕に力を込めてただそれだけ言った。
「…ああ、そうだね…。」
クレインは柱を抱きしめたまま、キティの姿を見ようとはしなかった。
かつての親友の幼い頃によく似た、けれど親友でない子猫。
誰だと問うまでもなくわかっているのに、わかっているからこそわからなくなる。
デイビッドは幼少の頃から一癖も二癖もある男だった。
人当たりの良い笑顔の裏側で誰も信じはしないというように嘲った。
そんなところも嫌いではないと言えば、少し寂しそうに笑った。
親友だった。
苦しみを理解し、力を貸してくれたのは彼だけだった。
自ら飛び込んだ戦場で迷いを感じたとき、あまりの身勝手さに自分でさえ呆れはてたのに受け止めてくれた。
戦局が変われば退役しようと決め、手と手を叩いて別れ、それぞれの部隊の作戦を忠実に遂行した。
情報部に裏切り者がいるとも知らず。
同士討ち。
罠だと気づいたとき既に親友は撃ち抜かれていた。
誰の弾が当たったのかなど、問題ではない。
撃ったという事実と、目の前の死体。
今まで何人もの人間を葬ってきた身に許されるのかわからなかったけれど、我を忘れて叫んだ。
途端に思い知ったこの手の汚らわしさ。
仲間殺しの罪を隠れて非難する声に抗う資格もない。
なのに心を絞め殺される感覚に耐えられなかった。
自分以外のすべてを切り捨てて逃げてきた。
それでも生きている限り離れることのない過去という名の鎖に、苦しみながらも安堵した。
風に溶けることも雨に混ざることもない。
何もないこの大地でそれこそが自分を縛り、守るもの。
だからキティが現れたとき、クレインは喜んだのだ。
デイビッドという鎖に。
その背中を見るまでは。

うり二つと言ってもいいほど似ているのは顔だけ。
呼ぶ名前も、答える声も違うのに向ける顔は親友のもの。
キティだ。デイビッドではない。だがデイビッドだ。キティ以外の何者でもないのに。
鋼の鎖が糸になる。
溶ける前に、混ざる前に、どうか判決を。


雨の音はもうしない。
代わりに炎の揺らめきと薪を燃やす音が小さく聞こえてくる。
熱い吐息と虚ろな瞳に、キティは顔をしかめることしかできなかった。
クレインの顔は真っ赤で、思わず暖炉の火を消したくなる。
だが炎を消しすべての音がなくなれば、命も連れて行かれるような気がした。
牛の乳でも搾って飲ませてやるべきだろうかと思う。
でも目を離すのが怖い。
キティはクレインの額に置いた布を再度水に浸して絞り、額に戻す。
火の音はあまりにも静かで、腹が立った。
うっすら開かれた唇は苦しげな息を漏らすだけで何も言わない。
一度も名を呼ばない。
だまされている、と、思う。
この女は自分に何をしたろう。ちょっとくらい待遇がよかったからといって、奴隷として扱われたことに変わりはない。頭を踏まれたときの頭蓋骨が軋む音を忘れたわけではない。
なのにどうして看病などしているのだろう。
この女さえ死ねばここら一帯は自分のものになる。
ところどころ草が生えているだけの広大な土地だが、鞭を鳴らす者は誰もいない。外から人間がやってくることもめったにない。途中険しい山を越えなければならないし、自分が暮らしていた場所では世界の果てには巨大な崖があり、その底に亡者がひしめいているのだとほとんどの人間が信じていた。
森は小さいが一人で暮らすなら薪を得ようと果物を採ろうと問題はない。川も多少の雨なら危険はない。
家は掘っ立て小屋だがちゃんと雨風をしのげ暖炉もある。家畜を繋いでいる柵はぼろぼろでも逃げられるほどひどくなければそれでいいし、落とし穴など掘ればそのうち何かかかるだろう。畑も雑草が生えていたり鳥に狙われやすかったり不満はあるがこれからどうとでもできる。
今なら簡単に自由と生きていくための家が手に入るのに。

「……ただい、…ま。」

どうしてももう一度口にしてみたくて、聞こえないくらいの声にした。
当然返事は返ってこなかった。

おかえり、と。

そんなことを言われたのは初めてだったから。
優しくされたような気がした。

「……キ…ティ、……なん…にちだい…?アタシは、どのくらい寝ている……?」
途切れ途切れのかすれた声に目を細めて、「あんたが熱を出したのは昨日だ。」とだけ返してやる。
高熱のため動くのは無理だろうと思っていても、もしかしたら傷をつけに行くのではないかと怖かった。
クレインの気持ちはよくわからない。
あんなものはただの切り込みだ。ここに暮らして何日たったかの意味しかない。
日にちを忘れても自分を忘れるはずがないのに。
「………あんたは…そこにいる……」
「…アタシはまだ……アタシかい…?……」
うっすらと開かれたまぶたはキティが返事を返す前に閉じてしまった。
穏やかとは言い難い寝息が聞こえてくる。
キティはなんだかイライラして火の中に適当に薪を投げ込んだ。
いつ途切れるかわからない息づかいを聞くよりは火の音を聞いている方が気も収まるように思えた。
だがクレインの額の布をとり、その温度に触れるたびに舌を打つ。
何度か繰り返して、我に返ったように拳を握った。
看病などする必要はない。この女だって、高熱に苦しんだ末死ぬよりは今死なせてほしいと思うかもしれない。
帰りを迎える声などいらない。名前も呼ばれなくていい。呼ばれたって、子猫だ。
自分じゃない。
猫がペットとして可愛がられていただけだ。
子猫子猫と呼ばれ、優しくされたような気になって。
殺してやるのに、何一つ迷わない。
キティはさて何で殺してやろうかと、まずナイフを手に取った。
刃こぼれがひどい。柱に傷をつけるのには使えるが、人を殺すのには手間取るかもしれない。
あんまり血を流して床が汚れても困る。となると刃物はまずい。しかし弱っているとはいえクレインを押さえつけられるかどうか自信がない。
ならば銃だ。
反動でひっくり返るかもしれない大きさだが何発か撃てば当たるだろう。
キティは銃身をしっかりと支えて、狙いを定める。
胸か頭か。
胸は狙いやすいが心臓をそれて肺に当たれば苦しむかもしれない。頭は即死させられる可能性が高いが外す確率も高い。体に押し当てて撃ってしまえば問題ないが、目を開けて死なれたくない。
銃口が彷徨う。
どんどん重くなっていく気がして、手を離した。
どうして。
どうして死んでほしくないなんて思うのだろう。
べとついた手を床につければ、まっすぐな目が見つめていた。
「……なんだい。やめるのかい?」
何を言えばいいかわからなくて小さく奥歯を鳴らす。
なんとか唾を飲み込んで口を動かした。
「………わかってるのか?……それとも、…死にたいのか?」
クレインは熱に潤んだ瞳を伏せて熱い息を吐き出した。
「……あんたはアタシが殺した奴に似ている…。」
死にたいと思ったことがあるとすれば、冷たくなった親友に触れたあのときだけだ。
裁かれて死にたいと。
だが裏切り者が捕らえられ、部隊長が降格しただけでクレインに処罰はなかった。
自分から命を捨てる気にもなれず、これ以上手を汚す気にもなれずに一人戦場を去り、噂話にじわじわと首を絞められてもそのまま死んでやる気などなかった。
けれど、大空と大地以外何もない、誰もいない世界で、生きるためだけに毎日を暮らし、それ以外にすることなどなく、語るものもなく、やがて来たる死以外の未来もない。次第に心が鈍くなっていく日々を八年繰り返して、もう、疲れてしまった。
「………過去に殺されるのなら…いいかと思ったのさ……。」
逃亡奴隷が自分を殺そうとすることくらい簡単に予想がついた。
でもその顔は幼い頃の親友にそっくりだったから。
死にたいとは思わなかったが、殺されてもいいかと思ったのだ。
いや、殺してくれと思っていたのかもしれない。
憎しみを抱かせるような真似ばかりした。
「………でもあんたは……デイビッドじゃない…」
クレインの表情が歪んだのが熱のせいなのか、キティにはわからなかった。
ただそのまま目を閉じていてくれればいいと思った。
自分を殴った拳はひどく弱々しく握られ、容易く嬲った口は苦しげに息をしている。
もう殺してやろうと思った。
だが自分はデイビッドという人間ではないから、そのまま目を閉じていてくれればと、そう思った。
銃を持つ手が震えるが、狙いをつけてしまえば今度は迷わないだろう。
なのに、迷いはないのに。
一つだけ、どうしても欲しいものがある。
言えば目を開けてしまうかもしれない。でも今でなければ手に入らない。

「………もう一度だけ………と、…言って……」

目は…開いてしまった。
かすかな声はおかしいくらいに震えていたのに、はっきりと聞き取ったのか、クレインの双眸に驚きが見える。
キティはうつむいて、例え聞き入れられなくても、待っていた。
声の代わりに手が伸ばされる。
手招きされるまま側に寄ると、熱い手が頬を、頭をなでた。
クレインは笑った。
涙こそ流れていないが眉間にたくさんしわを寄せ、唇を噛みしめているキティの顔がおかしかった。
デイビッドはそんな顔をしたことがない。デイビッドはあんなことを言ったことがない。
デイビッドは、もういない。
例えば一年後、キティは今よりも少したくましくなっているだろう。もう何年かたてば青年と呼ばれる年になるだろう。少しずつ心を開いてくれれば、もっともっと表情豊かになるだろう。
これは過去ではない。未来なのだ。
ずっと見ていたい。
「…何度でも、言ってやるよ。……だから、…アタシを解放してくれないかい?」
キティは体を起こして銃を構えようとしたが、クレインが頭を引っ張ったので体勢を崩した。
熱い体の上に倒れ込む。
「…犬は馬鹿だから嫌いなのさ。……あんたはアタシが十回手を差し出せば十回お手をするのかい?餌が欲しいなら工夫が必要さ。……これから…何度でも言ってやるから……頼むよ…あんたがアタシを繋ぎ止めてくれ。殺さないでくれと、言っているのさ。…毎日を共に生きる……家族に、なってくれと。」
もう捨てるものもないと思っていたが、どうやらまだ残っていたらしいから。
今度こそ逃げずに立ち向かう。
「……アタシも甘ったれを卒業してもいい頃だろう?」
クレインがキティを抱きしめると、キティの頭が小刻みに震えているのがわかった。
どうしても見ておきたかった。
母親にすがりつく子供のように泣きじゃくる顔。
「…ああ、なんて顔だい…。……キティなんて名前が似合わないじゃないか。……子猫から人間になっちまったのかい?」
そう言いながら笑ったが、なんとか形になったのは口元だけだった。
そこから上は流し慣れない涙に負けてくしゃくしゃになってしまっていた。
嬉しくて泣くなんて、ずっと忘れていた。

クレインの腕に力がこもるのを感じながら、キティはキティで、自分がどうして泣いているのかわからなくて。
ただ殺してしまう前にもう一度聞いておきたいと思っただけなのに。
クレインはもう死にたくないのだ。これから何度でも望みが叶えられるのだと。
失いたくないものを失わずにすんだことが嬉しかった。
背中の印は消えずとも、自由を得られずとも、自分は人間だ。
失いたくない。
帰る家。迎える人。抱きしめてくれるぬくもりを。
やっと、やっと手に入れた。
嬉しくて泣くなんて、初めてだった。


クレインは熱が下がってすぐに別の名前をつけてやろうかと提案したが、「犬や猫じゃあるまいしそう簡単に名前を変えられてたまるか。」と一蹴された。
思わず黙ってしまったクレインに、キティはざまあみろとでもいうように笑った。
もう雨が降る日に外に出ることはない。
「キティ。」と呼べば「クレイン。」と返ってくる声。
それだけで雨にも風にもさらわれることなくこの大地に繋がれる。
日々成長していくキティに未来を見ながら今日という日を生きることができる。
「そのうちあんたを婿に出してあんたの子供の顔を見るのさ。頑張って今から男を磨くんだよ。嫌なら止めやしないけどね。」
クレインは籠を編んでいた手を止め、人差し指を立てて左右に振った。
キティは憮然としてクレインを睨む。
「こんなところに女なんか来るわけないだろ。」
「………ぷっ…はははっ…あはははははは!…まぁ、そうだけどねぇ……」
呆れたように返ってきた言葉に、クレインは大声で笑ってしまった。
婿に出すと言ったのだ。嫁をもらうとは言っていないのに。
もしかしたら背中の印を気にしてなのかもしれないが、それでも。
「せいぜい可愛い子が来ますようにと祈ってな。じゃないと苦労するよ。アタシは理想が高いのさ。」
「…なんの話だ…?」
「そういえばアタシも女だったと思い出したのさ。」
むきになって怒鳴るキティにけらけらと笑うクレイン。
時にはそんなふうに、時にはまた違った様子で、一日一日を歩いていく。
例え柱に傷を刻み忘れても、けして揺らぐことなく。

「…おかえり。」
「…ただいま。」

吹きさらしの土の上、ぽつんと立っている小さな掘っ立て小屋で。
昨日も、今日も、明日も、過去と未来を繋げていく対の言葉。
END.
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