『桜の咲く場所へ』

 白という色をこれほど残酷に思ったことはない。

 痛みさえ通り越して感覚のなくなった体をきしませながら、きつく眉根を寄せて前をにらむ。
もはや顔の筋肉で自由に動かせる場所はそこだけだった。
狭い眉間は目の前に広がる一面の白に対してあまりにもちっぽけだが、鼻の奥は凍り、唇は戦慄き、歯はガチガチとうるさく音を立ててすでに己の意志を完全に裏切っている。
唯一未だ蝕まれていないその部分に力の限り深く深くしわを刻み込み、前方の風に目を凝らした。

「見えたか?」

すぐ隣からうめくような声がかろうじて聞こえてくる。
桜は即答した。
「ええ。しっかりと見えまする。」
うまく動かない口を無理矢理動かして、舌を噛みそうになりながらも迷わない。
康征は目の端だけで微笑し、桜の肩をそっと抱き寄せた。
「嘘をつかずともよい…。」
毛皮をかぶったその頭をなでようと手を伸ばすが思うように腕が動かず背中に手を押し当てる形になった。
ぎこちない腕に確かにぬくもりを感じて、桜は少し目を細めた。
「偽りではございません。桜の目にははっきりあの山が見えております。殿が目を悪くされるほどお年を召しておられたとは存じませんでしたぞ?」
ニヤリと口を歪ませるはずがうまく表情を作ることができず顔をこわばらせる。
康征は笑みを深くしてのどの奥で笑った。
「このようなときでさえ生意気な口よ。」
「殿も見習われませ。」
桜も緊張を解き目元を綻ばせた。


 下克上が常の時代。
彼の第六天魔王から名もなき雑兵までもが天下取りの野望に燃える中弱肉強食の争いに敗れた者は容赦なく追い落とされる。
血のつながりや名の重みなどたいした意味を持たず、家臣に裏切られた主がみちのくまで落ちのびることなどさして珍しくもないことであった。


 行く手と視界を阻み身を裂く風が勢いを増す。
康征は肩越しにそっと桜の顔をのぞき見た。
朱唇皓歯、羞月閉花とまで謳われたその美貌は見るからにやつれ、顔は赤く唇は紫に染まっている。
ぼろぼろの毛皮をまとい不慣れなかんじきで体勢を崩しながら歩を進めるその姿は痛ましいとしか言いようがなかった。
康征は足を止めた。
「殿?どうされました。後少しのところに山が見えておりますのに。」
桜は前方を指さして言った。
その先には白い風がごうごうと渦巻いているだけで何も見えはしない。
それでも桜はまっすぐ前を見据えた。
康征は桜の顔を自分に向け目を合わせた。
「もうよい。……桜、もうそのような偽りを申さずともよいのだ。」
桜はまた否定しようとしたが、康征は構わず前々から胸の内に押し込めていた言葉を告げた。
「これまでよく尽くしてくれた。わしはここを死に場所とする。悔いは…ない。このようなことにはなったが……わしはよう生きた。」
そして、桜にそっと微笑む。
桜は怒りを顕わにして叫んだ。
「そのようなことは許しませぬ!殿には存分に悔いてこの世にしがみついていただきますぞ!九郎判官義経とて北方へ落ちのび蒙古になったではございませぬか、弱気になられますな。必ず生き延びるのです!」

弟が裏切り、家臣達がねがえり、側室が国元へと戻り、誰もかもが離れていく中ただひとりどこまでも自分についてきた妻。
儚げな美貌に似合わぬ荒い気性をもった愛しい女。

康征は静かに首を振った。
もう解放してやりたかった。
「あれは伝説じゃ。真実ではない。」
されば……と続けようとすると桜が間髪入れず返してきた。
「では殿が成し遂げられませ。」
不遜な笑みを浮かべて挑発するように目を細くする。
どれだけやつれていようとも桜は変わらず美しかった。
「そなたは強い女じゃ……。」
康征は腹を弾ませて笑い、すぐに低くうめいた。
「殿!傷に響いたのですか?」
身を寄せてくる桜を片手で制す。
その手は大きく震え一点にとどまることはない。
「桜、人は独りで生まれ育ち独りで生き抜いて独りで死に逝くもの。だがそなたと出会ったことでわしは長らくそのことを忘れておったぞ。そなたと出会えたことを感謝する。……けして、後を追うな。」
桜は首を振った。
「馬鹿なことをおっしゃりますな。桜は後を追うような女ではございません。最期まで、殿と共に生き抜く女にございます。」
前を向き、そこに山が見えているのだと、全身で示すように眼差しを強くしてゆっくりと康征に向き直る。
「殿、春になれば何もかも忘れて新しい暮らしをいたしましょう。土を耕し種を育て子を産み育てましょう。そして幾たびもの冬を越え春を迎えて共に豊かな土地に眠りましょう。栄華を極めずとも生きてさえいれば幸せなど幾度も訪れるもの…。さあ、まずはこの冬を越えましょうぞ。」
穏やかに微笑んで康征の手を引く。
決して無理矢理ではなく、強く優しく促すように。

肩の傷は軽くはない。
巻き付けた布はすでに血がしみ出しところどころ赤く染まっている。
体の感覚はほとんど麻痺しているというのにときおり肉の奥深いところがひどく痛んだ。
痛みに耐えきれずあてる手も大きく震えてとうに感覚がなく、凍傷になりかけているのかもしれなかった。
まともに動くことも困難で供もない現状。
残酷な白に阻まれて少しずつ歩幅が狭くなっていく間にも追っ手は迫っている。
今見つかれば死は避けられないだろう。

どのみちもう、長くはなかった。
それでも、康征は微笑まずにはいられない。

桜がまっすぐ前を見つめているだけで希望がわいた。
その言葉の一つ一つに力強い生命力が満ちあふれていて、前へと進む一歩に迷いがなくなった。
桜がいなければ自分はとうに果てていたと思う。
悔いがないというのは嘘ではない。
桜と共に生き桜の姿を見ながら死んでいける。

それはとても幸福なことであるように思われた。

「見ればわかろう。わしはもうもたぬ。花の命とて短いのだ。時を無駄にするでない。」
何度めかの説得。
桜はそのたびに首を振り、決してうなずかない。
「例えここで果てるのが殿の天命であったとしても私は許しませぬ。命はいつか必ず絶えるもの。されど終わりと思うから先がないのです。桜は死に逝く共に未練ですがりついているのではございません。殿と生き延びるためにここまで来たのです。」
康征は困ったような顔をして目を閉じた。

そのとき、風の中に聞き慣れた音を聞いた。

「桜!伏せい!」

言葉と同時に桜に覆い被さり身を低くする。
爆音が響き、桜は瞬時に状況を理解した。
自分の背中を包むように覆い被さっている体が不自然に振動する。
地面の冷たさに比べて燃えるように熱い。
背中と頬が熱くてたまらない。

音がやんでも、康征は動かなかった。

「殿!殿!死んではなりませぬぞ!そのようなことは許しませぬ!」
桜は必死に呼びかけて康征の顔を見た。
鮮血を流しながら、康征はやはり微笑んでいた。
「そなたを守れてよかった。」
桜はあふれる涙もそのままに声なく口を動かした。
何かを言いたいのに言葉にならない。
視界をにじませる涙をぬぐいたいのに体が動かない。
康征は片目を眇めて桜の顔を引き寄せた。

「辞世じゃ……。」

かするような、口吻。

離れた唇から漏れ出た吐息は短く、二度と続くことはなかった。


 白い風が吹きつける。
騒がしいその音が心をかき回す。
桜が動けずにじっとその場にうずくまっている間にも、康征の亡骸は白に蝕まれていく。
清らかで美しい純白が血に染まった体を覆い隠す。

白という色をこれほど残酷に思ったことはない。

桜は白い世界の中で慟哭した。


 「どうした桜、気丈なそなたが。泣いておるのか。」

桜は背後から近づいてきた声に振り返り、涙に濡れる目できつく睨め付けた。
「迅貞、殿の首は取らせぬぞ。」
腰の刀を抜いて凛と構える。
「相変わらずじゃじゃ馬よのう。いかにそなたといえど女の剣でこのわしにかなうと思うてか。兄上の首は取らせてもらうぞ。そのためにわざわざ来たのだからな。」
迅貞も刀を抜きしばし対峙する。
風の音がいっそう強くなったとき、桜が動いた。
地面を蹴って前へ飛び、そのまま斬りかかると見せかけて右から薙ぐ。
いつ見ても流れるようなその動きに今はどこか精彩が欠けているのを迅貞は見逃さなかった。
桜の刀を受け止め力ずくで鍔迫り合いにもちこむとそのまま押し倒した。
「どうした、そなたらしくもない。あまりに弱すぎるぞ。」
嘲笑する迅貞に桜は奥歯を噛む。
刀を握る手を急に捻られて小さく声を上げた。
迅貞が何かに気付いて桜の手甲をはいだ。
「ぬっ。そなた凍傷になりかけておるではないか。この手でよく刀を握れたな。いかん。すぐに温めねば指を切り落とすことになるぞ。」
そう言って供の者を呼ぶ迅貞にわずかに隙が生じた。
桜は素早く迅貞の腹を蹴り上げて立ち上がり、刀を突きつけた。
「ふん、弱ってもじゃじゃ馬か。」
迅貞は慌てる様子もなく言う。
「貴様に殿の首は取らせぬ。」
桜は刀を突き刺そうと振り下ろした。
が、刀は桜の手を放れて地面に転がった。
迅貞は桜の腕を捉えて引き倒し、暴れる体をしっかりと押さえつけた。
「その指では無理じゃ。」

しばらくして足軽が温かい湯を運んできた。
迅貞は無言で桜の手を取りその中につけた。
「私を何に使う気じゃ?」
冷めた目で桜が問う。
「連れ帰ってどこぞへ嫁に出すか?使い道はそれしかなかろうな。例えじゃじゃ馬でもこの身は正しき血筋。良い同盟が結べよう。」
迅貞は桜の指を固く握って黙らせ、正面から目を合わせた。
「そなたはわしの妻にする。」
桜が握られた指を取り戻そうと腕を引くが、迅貞は離す素振りもない。
「たわけたことを!」
憤慨して怒鳴る桜をおかしそうに笑って口の端をつり上げた。
「兄上を殺したのはそなたを手に入れるためでもあるのだ。嫌とは言わせぬ。美しい着物を着せ思いのままの贅沢をさせてやろうぞ。」
桜は鼻で笑う。
「貴様ごときに叶う女と思うてか?どのような餌をぶらさげても私は貴様の妻になどならぬ。離せ。私は殿と共に山を越える。」
「山向こうの土地で兄上の菩提を弔うと?よせ、女の身ではこの先の山は越えられん。それに兄上の首はわしが持ち帰る。よう考えてみよ。死人のために余生を使って何になる?そなたは賢い女じゃろうが。」
迅貞は真摯な面持ちで桜の肩をつかんだ。
桜はその顔を見ず、前方にあるはずの山を見ようと目を細める。
「私は山の向こうで土と共に生きる。殿のおらぬ城に未練などない。人は良くも悪くも忘れるものなれば、生涯の伴侶は殿のみとは言わぬ。されどあの山を越えるまで、私の心は殿のものじゃ。命を絶つことなどせぬ。時を無駄になどせぬ。されどあの山を越えるまでは……私の魂が殿から離れることを許さぬのだ。」
弱った者のたわ言ではない。
桜はしっかりとそこにある山を見据えている。
迅貞は至近距離にある自分の顔を見ようとしない桜に苛立ちを感じた。
「愛していると言うてもか。」
「そのような言葉で私をとめることなどできぬ。」
桜は決して迅貞の顔を見なかった。
「……よかろう。山を越えるがいい。だが兄上の首は譲らぬぞ。」
迅貞は桜の腕を離し、刀を構えた。
欲しければ勝ってみせよと。
だが桜の手はまだ完全には回復していない。
勝負は始まる前から明らかだった。
桜は静かに刀を取り、その身に羽織っていた毛皮を脱ぎ捨てた。
豊かな黒髪が風に舞う。
真っ白な景色の中でその黒はよく映えた。
迅貞は桜が刀を構えるのを待ったが、桜は握った刀を己に向けた。

「何を……!」

思わず駆け寄った迅貞の前で長い黒髪がばっさりと切り落とされた。
細く黒い筋が前を流れる。
散切り頭を上げて桜が告げた。
「殿の首の代わりにこれをやろう。持っていくがいい。」
迅貞は瞠目ししばし唖然とする。
「足りぬか?」
桜は髪を握った手を迅貞の目前に差し出し、薄く笑った。
「いや、兄上の首ごときには高すぎるくらいだ。」
迅貞は刀を収めてそれを受け取る。
わずかに苦笑しながらため息をついた。
「惚れた弱みにつけ込むとは…まったくしたたかな女じゃ。」
「女はみな強くしたたかなものよ。男などよりよほど…な。」
桜はそう言って康征の遺体を担ごうとひざまずく。
「人の骸は重かろう。とりあえずはここに埋めておけ。心配せずとももう手は出さぬ。代わりをもらったからな。」
迅貞はその証とでも言うようにすぐに背を向けて歩き出した。
数歩進んで立ち止まり、前を向いたまま言った。

「桜、山の向こうに何がある?」

桜は振り向かずやはり前を見つめて答える。

「春が――。」

迅貞は目を閉じ、手の中にある滑らかな髪に愛おしそうに頬を寄せた。
「死ぬなよ。桜…」
「貴様などに言われるまでもない。」
迅貞は苦笑した。
しばらく歩いたところでようやく後ろを振り返ると、桜の姿は風に阻まれて小さくうっすらとしか見えなかった。
空気さえも白く染まる、圧倒的な白の中の小さな黒い点。
その姿は儚く、そして強い。
「けして…死ぬな。」
迅貞はもう一度つぶやき、その世界を後にした。


 桜は康征を埋めるための穴を作ろうと刀を振り上げた。
しかしすぐに刀を置いて素手で康征の骸の側を掘った。
赤く染まった地面は他の場所よりも少し温かい。
少し掘っただけで、それはたやすく姿を現した。
春の到来を告げる若い花茎。

「蕗の薹……」

桜は自然と笑い、目尻に涙を滲ませた。
「殿、春はすぐそこですぞ。あの山を越えた頃には…桜も咲くやもしれませぬ。そうしたら必ずまたここへ参ります。美しい春の色をした桜の枝を手向けましょうぞ。」
そう言って山のある方向を見るといつの間にか吹雪はやんでその姿ははっきりと目に映るようになっていた。
山のすぐ後ろには太陽が今はまだぼんやりと薄く光っている。
桜は康征の遺体を埋め、ゆっくりと歩き出した。

白い雪は太陽の光を浴びて銀色に輝き、桜の周りを明るく照らしていた。
END.
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