『幼恋』

恋人まで何メートル?友達まで何センチ?


 今までそんなこと考えたこともなかったのに近頃急に気にするようになった。

「晴。」

初めて呼び捨てにしたらビックリした顔で振り向いた。

「呼んでみただけ。」

そう言うと、呆れたように笑ってまた背中を向けた。

この気持ちを―――なんて言うのかわからない。


 晴兄は私にとって一番近い他人だ。
私が幼稚園児の頃からすでに側にいて、もう本当の兄貴同然。
なまじその辺の兄妹よりも仲がいいくらいだった。
その晴兄が、最近遠い。
何が変わったというわけでもないのに……遠くてたまらない。

気付いていた。

私が変わってしまったんだ―――。


 教科書をつめこんだカバンが重い帰り道で、私は西の空を染める夕焼けに魅入っていた。
夕焼けと言うよりは夕焼けを背景にしたその景色と言った方が正しい。
秋を彩る紅葉が舞い散る並木道。
見上げても見下ろしてもまぶしすぎない秋色が夕日でさらに燃え上がり、このままかき消されてしまえるような気さえした。
それが至上の幸福と思えるほどの美しい光景。
私は立ち止まったまま動こうとしなかった。
普段通い慣れたこの道の、どこにこんな美しさが潜んでいたのだろう。
いつのまにこんなに素晴らしい顔ができるようになっていたのだろう。
「うわ〜。キレイ!あーあ、こんな景色は彼氏と見たかったなぁ〜。」
私の様子に気がついて、友達も足を止めた。
私は多少ムッとした。
彼女に悪気は全然ないのだが、雰囲気を台無しにされた感は否めない。
紅葉幻想から叩き出された私は少し当てつけるつもりでため息をついた。
「あのねー。この景色を見てそんなことしか言えないの?」
しかし友達は意にも介さず、
「あら〜、そんなこととは何よ。恋愛は素晴らしいわよ?」
とにやつく。
私はしまったと思った。
「あんたいいかげん好きな人教えなさいよ。初恋もまだって絶対嘘でしょ?ずるいわよ、そんなこと言って。」
いつもこうだ。
恋愛関係の話になるとやれ誰が好きだのなんたら君がどーしただのこれだけ話したからそっちも教えろだの、私はこういう話が苦手なのだ。
恋愛自体には興味もあるし将来素敵な人と結ばれたいと切に願っているが、恋愛話をするのは嫌いだ。
どうにもうざったくて仕方がない。
なぜなら世の乙女たちが持つ恋愛に対する熱い情熱に押されてしまうからだ。
「好きな人なんていないし初恋もまだ。」
もう言い飽きてしまったその言葉を、彼女たちは誰も信じようとはしない。まぎれもない事実であるにもかかわらず、だ。
眉間にしわを寄せて黙り込んだ私に友達が白い歯を噛み合わせてみせた。
「そんなんじゃ宮崎君がかわいそうでしょ〜。」
私はますます不機嫌になった。
「だからあいつ迷惑なだけだっつーに。」
宮崎とは私のクラスメイトの名前である。
あろうことかこの男、私に惚れている。
いつぞやは随分と情熱的な告白をされたものだ。恋愛につまはじきにされている私にとって彼の気持ちはとても嬉しかったが、好きでもないのに受け入れるわけにはいかないので丁重に断った。が、「それでもあきらめきれない。」とかなんとか言って未だにつきまとってくる。ここまで来ると行為も迷惑としか思えない。
そして私はますます恋愛が苦手になるのだ。
すっかり嫌な気分になってしまった私はすたすたと歩き出した。
友達も恋愛話を続けながら足を動かす。
夕日に照らし出された秋の奇跡は段々と遠くなっていった。


 「お、茜。今からそっち行こうと思ってたんだ。」
玄関を開けようとしたところで晴兄が隣りの家から顔を出した。
私達はお隣りさんなうえに親同士の仲も良い。お互いの家を行き来するなどしょっちゅうだ。
「え、ホント?やった!数学当たったんだ。」
いつものやりとりいつもの言葉。いつもの表情。
子供の頃からほとんど何も変わらない。
晴兄の背がすごく伸びて、私がセーラー服を着るようになっても。

晴兄は私の部屋に入るなりあぐらをかき、私は何も言わずにカバンからノートを取り出した。
そのまま勉強モード。
これも、もう「いつものこと」だ。

「茜チョーップ!」

突然私がくり出したチョップを晴兄は驚いた顔をして受け止めた。
「あ〜か〜ね〜、何しやがるおまえ。」
晴兄が私の頭にチョップを見舞う。
私はごろんと寝転んで勉強を放り出した。
「おい、本来ならおれ様に教えてもらうのは100万の授業料を必要とするんだぞ。」
少し腹を立てたような口調にも動じず私は寝転んだまま返した。
「晴兄のチョップで再起不能。」
「さいですか。じゃ、先生は忙しいんでな。」
晴兄が無雑作にノートを閉じ立ち上がる。
私は思わず慌ててその手をつかんだ。
晴兄はいぶかしげに私を見つめ、やれやれと座り込む。
私はほっとして床にうなだれた。
「で、何かあったのか。」
晴兄がぶっきらぼうに言う。
私は答えることができない。
自分でもよくわからないのだ。
ふいに「いつものこと」が嫌になった。
なんて、なんだか変だ。
私は晴兄の手を握りしめたままずっとうずくまっていた。
晴兄は何も言わなかった。
何も言ってくれないのか何も言わずにいてくれるのか、そう考えると涙がにじんできた。
どうしてだろう。
自分で自分がわからない。
晴兄はもっとわからないだろう。
これ以上わけのわからないことをして困らせてしまう前に「何でもない。」と笑うべきなのかもしれない。
でもどうしてか、この手を離したくない。
狂おしいほどの情緒不安定。
私は悲しくもないのに声を出さず泣いた。
いつのまにか晴兄の手が優しく頭をなでてくれていた。
そのぎこちない動きが優しすぎて、また涙が出た。


 次の日は憂鬱だった。
昨日のことを思い出すと赤面してうつむいてしまう。
晴兄はどう思っただろう。
こういうときは家が隣りなことが憎い。
私は朝晴兄を避けて学校へ行き、ひたすら机とにらめっこしていた。

「どうしたんだ茜!暗いぞ今日。」

放っておいてほしいときを見計らったかのようにやってきた間の悪い声。
持ち主は今一番カンに障る男、宮崎である。
「おれでよければ相談のるって!な!な!」
私は黙れとばかりににらめつけ、一言で斬り払った。
「あんたじゃダメ!」
そして机に沈んでいった。
しかし宮崎はしつこい。しつこすぎる。
放課後になっても同じ事を言い、あまつさえ一緒に帰るなどとほざくのだ。
いつも一緒に帰っている友達は私を好奇心に売った。
「いやほら、沈んでる茜が気になって。」
私はピンときた。
こいつ……私の家をつきとめる気だ。
憶測と言われればそれまでだが、こいつならばやりかねない。それに何よりも一緒に帰りたくない。
しかしなんつー男だ。
いくら私に惚れているからってそれは理由にならない。
これではストーカーだ。
私は早足でふりきろうとした。
それにしても恋愛ってなんだろう。
憧れと興味とときめきと……うざったさと迷惑と怒りと恐怖と憤慨と!
ああ腹が立つ。
宮崎はまだついてきている。
私はぴたっと足を止めた。
この先は絶対に宮崎となんて歩きたくはなかった。
この先……そう、あの紅葉並木である。

「ちょっといいかげんにして!」

本気で凄んでいるのに宮崎はへらへらしている。
「だから茜が心配なだけだって。送りたいんだよ。」
その言葉に何故か無性に腹が立つ。
「頼んでないし私は一人で帰りたいんで。だからハイ、バイバイ!」
三分の一は計算して厳しく言った。
この先どう転んでも私がこの男に恋をするとは思えない。だったら早いうちに冷たく突き放しておいた方が相手にも親切というものだ。
「こんなふうに言われたら気になるに決まってるだろ!朝おまえの目が赤かったのも知ってる!」
私は驚いた。
内心「ここまで言ったらあきらめるだろう。」と思っていたのだ。
私は仕方なしにとどめを刺した。
「私はあんたなんか好きじゃない。」
宮崎の顔が痛く歪むのがわかって私の胸も重くなったが、他に言ってやれる言葉などない。
しかしそれでも宮崎は正面きって私を見つめた。
「知ってる。だから何だ?オレの気持ちを止める権利は茜にだってない。」
私は一瞬ひるんだ。
危ういところで踏みとどまり、首を横に振る。
「じゃああんた好きなら何をしてもいいって言うの?私は迷惑!そんな相手のことを考えずに押しつけられる恋愛感情なんて迷惑なだけ!」
すると宮崎は私の肩をすごい力でつかんできた。
「おれは片思いで満足なんかできないんだよ!抑えてたら茜は違う方向ばかり見てるだろ!」
くいこむ指が痛い。
私は顔をしかめた。
「違う方向?」
「前言ってた茜の幼なじみの兄ちゃんだよ!あいつのこと好きなんだろ!」
私は打ち上げられた魚のように口をパクパクさせ、やっとの思いでつぶやいた。
「違う……。晴兄はそんな『好き』なんかじゃ……」
「嘘だろ。見てたらわかる。」
宮崎の腕にどんどん力がこめられていく。
真剣な顔。本気の力。むき出しにされた……恋心。
私は怖くてたまらなくなった。
震えながら、それでも頭の中で考えていた。
晴兄へのこの気持ちの正体を。
『好き』ってなんだろう。
わからない。
晴兄は好き。
もちろんそんなこと当たり前。
でも宮崎の言う『好き』は違う。
わかっている。
なのに宮崎の気持ちはわからない。
私は泣きたくなるのを歯を食いしばって耐えた。
宮崎はいっそう腕に力を込める。
「おれは、おまえがっ」
私は聞きたくなくてせめて目を閉じた。

「嫌がる女にしつこいぞ。」

晴兄の声。
慌てて目を見開くと、同時に肩をつかんでいた痛みが消えた。
さっきまで私の肩にくいこんでいた手は今晴兄の手にがっしりとつかまれている。
「好きになるのは勝手だが相手のことも考えろよ。」
晴兄にそう言われた宮崎は怒りと羞恥に顔を真っ赤にして去っていった。
私は思わず地面にへたりこみ、すぐに晴兄に引っ張り起こされた。
その腕に、しがみつく。
昨日とは違い声を出して泣いた私を晴兄はしっかりと抱きしめてくれた。
晴兄のことを好きかどうかなんてまだわからない。
わかりたくないのかもしれない。
でももっときつく抱きしめられたい。
もっとずっと。
そう思ったのは確かだった。

「晴兄、いつから聞いてたの?」
私はハッとして尋ねた。
「あの男が片思いで満足できないとかなんとか言ったところらへんから。」
晴兄は至極淡々と答える。
私は気が気ではなかった。
ということはバッチリ聞かれていたということではないか。
「おれと茜の仲を誤解されるなんてな。」
晴兄はため息混じりに言った。
『誤解』。
確かにそうではあるのだが妙に胸が痛い。

「晴兄は好きな人いる?」

気がついたら口に出していた。
晴兄は少し考え、言葉を確かめながら答えた。
「今のところはいないと思う。」
「今のところは?」
「気になるやつはいる。でもそれが恋になるかどうかはわからない。」
「そっ…かぁ……。」
私は複雑な気持ちになった。
ほっとしたような、ガッカリしたような、くしくも晴兄と私が同じような気持ちを持っていることが嬉しいような、複雑な気持ち。
私はもっと抱きしめられていたい自分の心をあきらめさせるためにぎゅっと抱きつく腕に力を込めて、
「ありがとう。晴兄大好き。」
思ったことをそのまま素直に口に出してから手を離した。
が、晴兄は私の頭をつかんで再び胸に顔を埋めさせた。
うろたえる私を諭すように言う。
「なんて顔して泣いてんだおまえ。もう怖くないから泣きやめ。」
そんなこと言ったら、ますます涙が出てくるのに。
私は思わず大泣きしながら笑ってしまった。


 朱色の夕日に染められた雲がそのまま地上に降り立ったような紅葉の嵐。
見事な秋色の並木道を見て、晴兄は感心したように言った。
「すごいな。わざわざ歩かせるからなんだと思ったら……。」
私は誇らしげに胸を張る。
「でしょ?晴兄と一緒に見に来ようと思ったんだ。」
「ああ、さんきゅ。」
晴兄は優しく微笑んで、舞い降りてくる紅葉の一枚を受け止めた。
「毎日ここ通るけど意外に見えてないもんだな。気がついたらこんなに綺麗な光景を作り出してたなんて。」
「うん。私もビックリした。いつのまにかこうなってたことにある日突然ふと気がついたんだ。」
「しかしこうまですごいと飲み込まれそうじゃないか?」
「あはは。それは私も思ったけど、大丈夫だよ。二人でいれば。」
「二人で綺麗って言い合ってれば大丈夫。か。」
木々のざわめきとともに地上の紅葉も舞い上がる。
雲が天空の一点に還っていく。
私と晴兄は足を止め、空が色を変えていく様をずっと見ていた。

「晴兄、帰ろっか。」

言い出したのは、私。
晴兄はうなずいて私を自転車の後ろに乗せてくれた。
「紅葉もまだ完全には赤くなりきってないし……明日も見れるよね。」
「ああ。そんなに焦らなくてもそのうちもっと綺麗に染まるだろ。そしたらまた見に来ればいいだろ?」
「うん。」
私は満面の笑顔で言った。


今は、これでいい。
答を出すのを焦ることはない。
この気持ちがなんであろうと晴兄が私にとって大切な人であることに変わりはないから。
今はただ、ゆっくりと、この気持ちを育てていよう。



そのうち見事に咲くように。
END.
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