『人魚姫』

一本二本三本四本。
魔女の眉間にこれでもか、これでもかと刻まれていく深いしわ。
さほど広くないそこと心はそろそろ限界を迎えていた。
「………それで。」
これ以上ないというほど不機嫌な声音に底冷えのする瞳をプラスしたのに、目の前のお姫様ときたら一向に怯む様子…どころか気づく様子もない。
「それでって、聞いてなかったんですかっ?んーと、んーっと、じゃあ最初からお話ししますから、今度はちゃんと聞いて下さいね!」
これがあの男の娘でなかったら。
そんなことを考えつつ、なんとか耐えて固く目を瞑る。
「…話は聞かされた。」
嫌というほど。
長さと勢いにもうんざりならその内容にもげっそりな、最低最悪の睡眠妨害だった。
性質の悪いことにいちいち相づちを求められ、返ってこなければ最初から繰り返しなのだから嫌々でも耳を向けないわけにいかない。
だから、この騒々しい姫君が一体どういった用件で自分を訪ねたのか、すでに見当はついていたのだが。
「私、人間になりたいんです!お願いします。お力を貸して下さい!」
魔女は深い深いため息をついた。
そう、これがあの男の娘でなければ、とうに海底深く沈めるか海面に力無く浮かべるかしていたろうに。
魔女は決意を込めて訴えてくる瞳を横目で一瞥し、ごろりと横になって背中を向けた。
「………無理。」
このまま昼寝をやり直せたらいいのだが、おそらく簡単にあきらめてくれるような相手ではないのだろう。
「ええっ!どうしてですか?魔女さんって、なんでもできるんじゃないんですかっ?」
案の定。
何を言ってもうるさく返ってくる姫君に、言葉少なに返してやる。
「………めんどい。」
「…めんどいって!…めんどいって!、えと、えーっと…」
「………オヤスミ。」
「お願いを聞いてくれないと、もっと、もーっと面倒なことになるかもですよ!んっと、す、すごいことしますよ私!」
まったく迫力のない脅迫に、それでも魔女は肩を揺らした。
今そこにいられるだけで十分すぎるほど苦痛だったからだ。
魔女が軽く人差し指で円を描くと、たちまち大渦が起こった。
「わきゃぁぁぁあああっっ!な、なにするんですかぁっ!」
「………面倒抹殺。」
渦はすぐに収まったが、ほんのちょっとだけ本気だったので、魔女は人差し指を立てたまま、さてどうしようかと考えた。
そんな思考を打ち破ろうとするように、切羽詰まった声が響く。
「どうしても…なりたいんです人間にっ!」
ため息もつき飽きて、呆れた空気だけを容赦なく放った。
「………生まれ変わり、信じる?」
「え?」
「………あったらそのうちなれるかも。」
「魔女さん〜〜お願いです!私にできることならなんだってしますから!絶対絶対人間になりたいんですっ!どうか………っ!お願いします!」
萎えるどころかますます勢いを増す姫君に、もう出せないと思っていたため息一つ。
ゆっくりと起きあがり、膝に頬杖をついて半眼で睨め付けると、真剣そのものといった双眸に、さらにため息が出た。
「………マリーン姫、あたしは天才。あんたは人魚。その事実は変えられない。あきらめるか、一生祈ってれば?」
「……無理…なんですか?どうしても……?」
メラメラと炎を燃やしていた瞳が途端にしょげかえる。
「………うるさい。」
魔女はつくづくうんざりした。
口もうるさければ目もうるさい。そこにいられるだけでこれ以上ないというほどとにかくうるさい。うるさくてたまらない。
この娘の父親にはできるだけ関わりたくなかったが、そんなものが消し飛ぶくらい、うんざりここに極まれりといううんざりさだったのだ。
だから、これは正当防衛でもある。
魔女は心の中で頷いた。
それに聞けば諦めるだろうとも思った。
「………人間にはなれない。だが、地上に行く方法はある。」
姫が目を大きくして拳を握る。
「………ただしそれはまやかしのようなもの。あんたが海の者であることに変わりはない。陸にいるだけで命はすり減り、やがてなくなる。哀れあんたは海の泡。…それも、一度陸へ出た者は二度と海には帰れない。死後泡となって帰る他は。」
小さな声が言った。
「…嫌です。」
魔女はゆっくりと頷いて、口の端だけで微かに笑った。
「………あっそ。」
ようやく寝直せると、体を倒そうとした…が。
「どうして海の泡なんですかっ!空気にはなれないんですかっ?海の泡なんて、そんなのになっちゃったら!………そばに…いられない……。」
「………バカ?」
魔女にはもうそれしか言えなかった。
その一言を口にするのさえ多大な労力を費やした。
恋は盲目とよく言うが、ここまで何も見えなくなるものか。
母なる海、本来あるべき自分の世界を捨てることがどういうことなのかわかっているのか?あるいは、わかろうとしたのか?
ただ一つの恋のためにどれだけのものを捨てることになるか。
自分の運命に望みがないことを突きつけられてなお、それを求めるのか。
「でも!地上には行けるんですよねっ?きっと…それだけで感謝しなきゃいけませんよね。魔女さん、どうか…お願いです。私を…。」
魔女の脳裏に、姫の父親、すなわち海の王が怒り狂う映像が浮かんだ。
魔女に可能で王に不可能なことも少なくないが、純粋に力と力を比べたならば叶うべくもない。
それ以前に奴とは顔を合わせたくない。
だが、魔女はこの愚かな姫君に灸を据えてやりたくなった。
泡になる寸前恐怖に青ざめて泣き叫び、激しく後悔する様を見てやりたくなった。
「………了解した。」
姫がぱぁっと顔を輝かせ、魔女の両手をとってぶんぶんと振る。
「ありがとう!ありがとうございます!ほんと、本当に…本当にありがとう!じゃあ私、早速父様たちに言ってきます!」
魔女は思わずぽかんと口を開いて間の抜けた顔をさらしてしまった。
どこまで馬鹿なのか。
あの男は牢に閉じこめてでも止めるだろう。わざわざ捕まりにいくなどと。
「………許されまい。」
うわごとのように出てしまった言葉に、姫はにっこりと、力強く笑った。
「わかってるから、行くんですよ。」


マリーンは海の王の末娘で、父母はもちろん、姉たちにも、海の民たちにも、誰からも愛されて育った娘だった。
ゆえに少々わがままなところがある…と、自分でも自覚している。
だがマリーンは与えられるままではなく、父も母も、姉たちも、海の民も、すべてを愛していた。

だからこそ、迷わなかった。

いつも美しい母が怒りに染まった顔を徐々に涙に濡らしていく様は見ているのがつらかった。
姉たちは次から次へともっともな意見を持ち出してなんとか説得しようとする。その声音には責めるような響きが含まれていて。
わかってはいたけれど、誰一人として快くマリーンを送り出そうとする者はいない。
けれどマリーンはまっすぐに前を向いて微笑んでみせた。
「母様、姉様たち、ありがとう。私を心配してくれて。そんなにも…。でも……ね。」
できればわかってほしいと、わかってくれなくても、認めてほしいと、そんな思いを込めて口を開く。
「止まらない。止められないの。理屈じゃない。私…あの人のそばにいたい。母様から見たら馬鹿馬鹿しいことかもしれない。姉様たちから見たらただの錯覚かもしれない。でも私には違う。今動かなかったら一生後悔する。…嫌なの。それに、一生重い心のまま生きていく私なんて、見せたくない。私の幸せを望んでくれるなら…どうか、…わかってくれなくても……認めて……くれなくても…。許して…ほしいの。」
姉たちが悲しそうな瞳で見つめ、小さく口を戦慄かせて、結局無言で顔を見合わせる。
マリーンは心の中でごめんなさいとつぶやいた。
母が嗚咽をこらえながらマリーンの頬をそっとなでる。
「…死んで…しまうのよ?マリーン。わかっているの?私が悲しくないと、思う……?行かないで…ここにいなさい。きっとこれから、とても楽しくてとても嬉しいことがたくさんあるわ。陸になんか行かなくても…あなたはここで…幸せに、してあげるから。」
マリーンは母にひどくつらそうな顔をさせてしまったことが悲しくて泣いてしまいそうになった。
でも心はもう、決まってしまっている。
「母様、私、幸せよ。父様、母様、姉様、みんな、みんな大好きで。すごく幸せよ。忘れない。忘れてない。でも…どうしても……どうしても…ダメ。悲しませてごめんなさい。でも私、不幸になりに行くんじゃない。幸せになりに行くのよ。」
「……後悔するわ。幸せになんて…。」
「母様、私の幸せは、私のもの。私が決めるわ。後悔も、私のもの。道を選ぶのも私だわ。」
マリーンはもう一度心の中で謝罪する。
頬をなぞる手をそっとつかんで、なんとか笑おうとした。
「だから…ありがとうって、心配かけてごめんなさいって、それだけ……思うだけ。」
不安がないわけでは決してない。
しかし、自分でも驚くほど心が揺らがなかった。
かの人とはただ一度会っただけ。
言葉もほとんど交わしていない。
なのに再会のために命をかけるなど、馬鹿げたことかもしれない。
でも心が止まらない。
何もかも形にできるほど確かではない中、一つだけハッキリしていた。
行かなければ、絶対に後悔すると。
気がついたら魔女のところに押しかけていた。

気がついたら、ずっとそばにいたかった。

マリーンは母たちを説得しに来たわけではない。
すでに決めたことを報告しに来たのだ。
笑おうとした顔が歪む。
きっと最後の別れになる。
もう会えない。
父とも。母とも。姉たちとも。みんなとも。
至るところに様々な思い出があるこの海とも。
それでも貫きたいと、そう思えることがある。
そのこと自体も嬉しいから、余計に。

ごめんなさい。
ありがとう。

マリーンは母に抱きついて、ずっと繰り返した。
「……いつまでも、仕方のない子。昔から…強情で。言うことを聞かなくて…。」
こらえていた涙が一つこぼれる。
「…私は…あなたが本当にどうしようもないから…呆れて…放り出すんですからね。」
一度流れてしまったらもう止まらないと危惧していた、その通りになった。
「……うん、…うん。ごめんなさい母様。ごめんなさい!…………ありがとう!」
「マリーン!いつでも思い直して…っ……戻ってきて…っ!あなたは海の娘。あなたは…私の娘なんですからね!」
マリーンはぎゅっとしがみついて、そっと離した。
「行ってきます。……父様にも、よろしく……。」
戻るつもりはなく、戻れるはずもないのだけれど。
「さよなら。」とは、言いたくなかった。


「魔女さん!お待たせしましたっ!さあ、お願いします。ばーんと!」
魔女は真っ赤な顔をして胸を張るその姿に呆れはてていた。
中でもひときわ赤い目鼻がまだまだ泣きたりないと訴えている。
ここまできてまだ目が覚めないのか。
「………あの男がよく許したものだ。」
それ以前に戻ってこないだろうと思っていたので、隠しきれない驚きを込めて疑問を口にした。
「……父様は…お仕事でしばらく戻ってこないらしくて…。直接言えなくて…一番言っておきたかったのに………それだけが心残りなんですけど……。」
なるほど、やはり。と頷く。
そして心の中でほくそ笑む。
「………さあ、陸地へ送る。海を出るとその尾ひれが人間の足に変わっている。だが忘れるな。それはまやかし。あんたは人魚。陸にいられるのはわずかな間。やがては泡になる運命。」
魔女は右腕を伸ばし、マリーンの額に恭しく指を置いた。
本当はそんなふうにする必要はないが、大げさにしてやれば少しは怯むかと思ったのだ。
だがマリーンは身動ぎ一つしない。
面白くない。
「あっ!魔女さん!そういえばお礼は、お礼はどうすればいいですかっ?私にできることなら…なんでも!遠慮せずどうぞ!」
魔女は思いきり眉をひそめた。
この姫は本当にうるさいったらない。
海の平穏のためにもさっさと陸地にたたき出した方がいいのではなかろうか。
などと考えて、ふと、妙案が浮かんだ。
「………では、その声を。」
「え!こんな声なんかでいいんですか?もっといいものって、私には用意できないかもしれ……、……っ!…………!…っ…っっ!」
恍惚。
途端に訪れた静寂に思わず体を打ち振るわせるほど感動。
魔女は数回うんうんと深く頷いて、自分はとても良いことをしてやったと思った。
姫の恋愛成就のためにも声はない方がいいに違いない。
つい先ほどまでは玉砕してボロボロになって泡と消えちゃえば?とまでちょっぴり思ったりしていた魔女だったが、人が変わったような優しい笑顔で「頑張って。」と言ってやる。
マリーンは晴れ晴れと微笑み、大きな声で元気よく「はい!」と返事するように、顔ごと口を動かした。
そういえば応援されたのは初めてだったのだろう。
なんとなく考えて、少しサービスしてやることにした。
心に余裕があるって素晴らしい。


かくて大地をその足で踏みしめたマリーンは、目の前に立つ人物にしばし呆然とすることとなる。
そこにいるのは。
あの日ただ一度会っただけの、それでももう一度会いたいと願い、それだけでは足りなくて、ついに海を捨てる決心をした、……。
マリーンは地上にいる感動も、海に戻れなくなった感慨も忘れてただ立ちつくしていた。
しばらくたって、ふと気がつく。
相手もピクリとも動かない。
もしや人形?
まさか、と思いつつ確かめようと一歩踏み出す。
使い慣れない足は歩き方がわからずにカクリと折れた。
マリーンは何が起こったのかわからずに思わず目を瞑ったが、次の瞬間さらにわけがわからなくなった。
「大丈夫かい?お嬢さん。」
声が近い。
近すぎる。
何故。
「それにしても…眼福、だね。女神か魔物か、人なればこそ腕に抱けるのだろうが…疑ってしまうよ。」
だから声が。
近くて。
幻聴?
「だが人ならば問題だ。…女性が裸で泳いではいけない。私のような男が見ている。それとも、もしかして…誘っているのかい?ならば問題ない…と言いたいところだが、非常に惜しいことに私は貧乏でね。君を買えるような金はない。」
え。
裸?
そういえば、人間は服を着るものだった。
どうしよう。
昆布じゃダメだろうか。
「……まさか、喋れないのかい?」
マリーンははっとして口を押さえた。
すっかり忘れていた。
「どうやらそのようだね。」
マリーンはとりあえず落ち着こうと魔女のところに押しかけたあたりからゆっくり記憶を再生して、真っ白になった。
自分が今抱きかかえられていることにやっと気がついたのだ。
人形じゃない!
幻聴じゃない!
では本物?
めまぐるしい勢いで頭の中をぐるぐる回る三つの思考。
体はカチコチに固まって動けなくなってしまった。
会いたい会いたいとは思っていたが、実際会えたらどうするか、いつのまにか考えることを忘れていたのだ。
とにかく会うことが先決で。
マリーンは胸の前で両手の指を組み合わせてうーんと、えーっと、と考え始めた。
「ああ、申し訳ない。私としたことが。見あたらないが…君の服はどこに置いてあるのかな?遠ければ運んで行こう。」
体を地面に下ろされ、肌触りの良いマントがかけられる。
マリーンはまた意識がどこかへ飛びかけたが、なんとか耐えてぶんぶんと首を横に振った。
服などない。
「……気持ちはわかるが、君は今体調が悪いのだろう?私はまともに歩けない女性を放っておくほど情のない男ではないよ。さあ、海風は体に毒だ。君の服はどこかな?指差してくれればいい。」
マリーンは再度ぶんぶんと、髪が顔を叩くのも気にせず力一杯首を振った。
「お嬢さん、私を困らせないでくれ。この辺りに民家はない。私も…今日は生憎供を連れていなくてね。」
本当に困り果てたような声が降りてきて、マリーンは勢いよく立ち上がった。
なんとかして伝えよう!
と、思いつつもバランスを崩してよたよたする体をどうすることもできない。
肩からマントがずり落ちて地面に被さろうとするのを必死に受け止め、汚れていないのを確かめてすぐに頭から被る。
大丈夫ですと、伝わりますようにと願いを込めて、にっこりと微笑んだ。
目の前の顔が僅かに強ばったが、マリーンは気づかずに頭の中の『自分にできそうなことリスト』を猛スピードでめくっていく。
はっと思いついて、男の右手を開かせた。
人差し指を走らせる。

『私はマリーンです。』

あなたは?

「これはレディ。私はアンソニーと申します。自己紹介まことに恐縮ですが、正直私はそれどころではないのですよ。眼福も過ぎると目の毒だ。私の平静のために、その魅力的な体を隠してはいただけませんか。」
困ったような顔はそれでも微笑みを浮かべてくれたので、マリーンは少しほっとした。
しかしすぐに途方に暮れる。
自分の名前くらいは書けるが、『服を持っていない。』と伝えるにはどう書けばいいのかわからない。
困らせてはいけないと思うのに、開かれたままの右手をじっと見つめて、不安な表情を隠すことができなかった。
「……お嬢さん、まさかとは思うが、服がないのかい?」
天からの助けのような言葉に体全体で頷く。
アンソニーは顔を曇らせて辺りを見回した。
広大な海、そして砂浜と岩場が見えるばかりで、人影も民家もない。
「…何者かに盗られたか、波がさらったか、はて、どうしたものか。」
そもそも若い女性がどうしてこんなところで裸で泳いでいたのか、かなり首を傾げずにはいられない状況ではあったが、ひとまずそれは置いておくとして。
「仕方がない。その姿でいるのはつらいだろうが、とにかく家までお送りしよう。」
マリーンはすぐさま首を左右に振った。
家。
背後に広がる海には、二度と帰れないのだ。
母はいつでも帰ってこいと言ったが、泡となって帰るしか方法はないのだと魔女が言った。
「……それは、家がないということかな?」
少し間をあけて、頷く。
ちらりと見上げれば、眉間にしわの寄った顔。
マリーンは思わずアンソニーの右手をぎゅっと握りしめた。
彼にとって自分はきっとどうでもいい娘だから。
このままあっさりと背中を向けられても何一つおかしくないのだ。
アンソニーはどこか何かに耐えるような顔をした。
「…ああ、悪いが……私は君をどうしてあげることもできやしないよ。もっとお節介な人間を探しなさい。」
マリーンは首を振る。
あなたでなければ意味がないのだと、なんとか伝えたかった。
一緒にいるにはどうすればいい。ずっとそばにいるには。
マリーンはひらめいた。
両手を軽く握って手のひらと指の間に隙間を作り、右手と左手を上下に少し間隔を開けて宙に固定、そのまま動かす。
アンソニーは怪訝に見つめるだけでよくわかっていないようだ。
マリーンはしばし考えて次は胸の前に左手で拳を作り、右手を指をそろえた状態で開いて左手に添えて上下させた。
「……料理?」
マリーンが必死に頷く。
「さっきのは…ほうきで掃除?」
マリーンが頭がもげそうなほど頷く。
「……働くから私の家に置いてくれということかい?」
マリーンは頷きすぎて前のめりに倒れた。
とっさに動いたアンソニーに支えられ、冷や汗をかきつつなんとか体勢を整えるが、怖くて顔を上げられない。
足は思った以上に扱いが難しい。
十分に動くこともできないのに、働くことなどできるのか。
きっとアンソニーもそう考えるだろう。
しかし。
「給料は安く、仕事はきつく。もしそうなっても、構わないのかな?」
マリーンは力一杯頷こうとしてアンソニーに止められた。
「わかったよ。先に言っておこう。私は一応王子というものをやっていてね。しかしこの国は小さくて貧乏なものだからあまり勝手ができないのだよ。だから君によくしてやることはできないが…君は私に拾われたのだから、自分の体は大事にするのだよ?」
王子?
確かに初めて出会ったとき豪華な船の上に立っていたけれど。
まさか王子様だとは思わなかった。
「わかったかい?」
マリーンはとにかく頷いておこうと思い、一時停止したあと控えめに頷いた。
アンソニーはそれを見届けて、気づかれないように息をつく。
身寄りのない娘が入水自殺を図ったが命が惜しくなってやめたという可能性もあると思ったからだ。
自殺をするのに服を脱ぐだろうか?と考えはしたものの、わざわざ理由を確かめるまで深入りする気にはなれない。
そしてもう一つ思いついた可能性は、それ以上考えないことにした。


様々な香りを運ぶ風。
次から次へと色を変える景色。
何よりも、そばにいる存在。
馬上で目と首をひっきりなしに動かしながら、マリーンの胸は魔女への感謝でいっぱいだった。
できれば父や母たちにもこの幸せを伝えたかったが、それは無理なのだと考えて、少し寂しくなる。
「お嬢さん、そんなに動いては危ないよ。抱きしめて私のことしか考えられなくしてしまおうか。」
マリーンは慌てて姿勢を正した。
小さく身を縮めて、手綱をさばくアンソニーの腕をちらりと見る。
今までは動揺しすぎてあまり気がつかなかったが、もしかしてアンソニーという人物、相当恥ずかしい人間なのではないだろうか。
人間のことはよく知らないけれど、これ以上ないというほど甘やかしてくれた海の仲間たちにもこんなことを言う者はいなかったし、第一言ってほしくない。
それでも体中の血液はずっと上りっぱなしだ。
やり場のない悔しさを感じながら、マリーンは赤い顔を俯かせる。
どんなに恥ずかしくてももっともっとアンソニーのことを知りたいと思う自分がいて、さらに顔を上げていられなくなった。
「そろそろだ。着いたらすぐに着替えを用意させよう。今日一日はゆっくり休むといい。」
マリーンは一瞬固まったが、ゆっくりと首を動かした。
具合が悪いわけではないのだが、まともに歩けないのは確かだ。
今日一日で足を使いこなしてみせると、密かに決意に燃えていた。

「王子!どこで何をしておられたのですか!今日がどういう日かおわかりになっていないわけではないでしょう!」
城に入った途端浴びせられた怒声に、マリーンは思わず身をすくめた。
抱きかかえているアンソニーが労るように少しだけ腕に力を込める。
「爺、このお嬢さんが怯えているよ。初対面の女性にいきなりそれとは、少々礼儀がなってないのではないかな?」
「私は王子に言っているのです!……!その女性は、一体…?王子、まさか…っ!」
「私の恋人……と言ったら、爺の心臓が止まりそうだから止めておこう。明日から私付きの女官として働いてくれるお嬢さんだよ。マリーン嬢だ。」
面白そうに微笑むアンソニーに、白髪を振り乱した老人が眉をつり上げた。
「誰であろうと、誤解を招きます!軽々しい行動はやめていただきたい!朝からどれだけの人間が顔を青くしたと!」
アンソニーは苦笑を浮かべながら歩き出す。
「ああ、悪かったよ爺。私も申し訳なく思ってはいるとも。だが逃げようとしたわけではないよ。私にも心の準備というものが必要だったようでね。」
「………そろそろクリスティーネ様がお越しになります。急いで衣装にお着替え下さい。」
扉が閉められたのを聞くと、アンソニーはマリーンを長イスに下ろしてその場にしゃがみ、目と目を合わせた。
「すまないね。すぐに人が来る。残念ながら私はこれから仕事の時間なので行かなければならないが、ちゃんと説明しておくから安心して休むのだよ。」
マリーンは顔を赤らめながらとにかく頷く。
散々頷いたり振り回した首は酷使しすぎてすでに痛くなっていたが、それでも力一杯頷いた。
アンソニーは曖昧に微笑んで、ゆっくりと背中を向けた。

初めて着る服になんだか肩が凝るような気がしてぐるぐると首を回す。
が、すぐに止めた。
これから何度首を振ることになるかわからないのだから温存しておかねばならない。
マリーンは着せられた夜着を脱ぎ、明日から制服となる女官服を着ていた。
用意された部屋のベッドを抜け出して、城中を歩き回る。
最初はこけたり倒れたりの連続だったが、壁に助けられながら進んでいるうちに危なっかしいながらもなんとか歩けるようになってきていた。
鼻は床と仲良くなりすぎて真っ赤になり、膝もじんじんと痛かったが、歩けるようになったのが嬉しくてどんどん突き進んでいく。
ふと、すれ違う人がみな急ぎ足なのに気がついた。
そういえばアンソニーを怒鳴りつけていた老人は今日何か大切なことがあるようなことを言っていた。
もしかして。
このままところ構わず歩いていてはまずいのでは。
マリーンは瞬時に青ざめて後ろを振り返る。
さらに血の気が引いた。
今までどこをどうやってここまで来たのかさっぱり覚えていない。
もしかして。
もしかしなくても、
迷った。
迷ったというのはどう書くのだろう。
どうやってジェスチャーで表せばいいだろう。
その場に立ちつくし、頭の中だけでてんてこまい。
とにかくこうしていても始まらない。
第六感に任せて来た道を戻ろうと踵を返した。
しかし。
マリーンは自分の第六感ほどあてにならないものはないということを知った。
辺りを見回せば。
よく手入れされた植木だとか美しい花だとかが目に入り。
どう見ても庭といった感じなのだが、庭を通ってきた覚えなどない。まったく。これっぽっちも。
途方に暮れていると、植え込みの向こうから人の声がした。
こうなったら文字がわからないとかジェスチャーが思いつかないとか言っている場合ではない。
アンソニーに取り返しのつかない迷惑をかけてしまう前に元の部屋に戻らなければならないのだ。
努力と根性をぶつければ言いたいことはフィーリングで伝わるはず!伝えてみせる!
しょぼくれてその場にしゃがみ込んでいた体を叱咤して立ち上がらせる。
即座に膝を折り曲げた。
そこにいるのはアンソニーと、なんだか豪華なドレスに身を包んだ女の人。
なんとなく、なんとなく、あまり見たくはない光景だったのだ。
アンソニーは誤解とはいえあれだけ自分の身を案じてくれたのだから、大人しく休んでいない姿を見せたくない。
そんなことを無理やり考えて、納得して、立ち去ろうとするのだけれど、どうしてか足が動かない。
「…クリスティーネ、あなたのように美しい方と婚約できて私は自分の幸運につくづく感謝していたのですよ。」
聞こえてくる言葉が、痛すぎて。
「まぁ、お上手ね、アンソニー様は。でも私は感謝はほどほどにして早く私だけを見ていただきたいのですけれど?」
「美しすぎるものを見つめるのには勇気がいるのです。捕らわれることがわかっているのだから。」
「あら、あなたは私のものではありませんの?」
「まさか。今日婚約を交わす前から、あの日顔を合わせる前から、私が生まれ出でたその日から、私はあなたのものですよ。」
マリーンは考えてもみなかったのだ。
彼にこんな言葉を交わす女性がいると。
会いたいと、ずっとそばにいることができたらと、それだけを願っていた。
きっとそれはもったいないくらいの奇跡だから、それだけでも良かった。
はずだった。
のに。
うずくまって、左の胸をわし掴む。
苦しくて息ができない。
心臓に太くて長い針を何本も刺されたような痛みが走る。
心からひび割れていくような気がした。
「愛しています。クリスティーネ。」
痛くて。
「私もですわ。アンソニー様。」
痛くて。
気が、遠くなった。


マリーンは鼻をひっぱってみた。
固くて冷たいのかと思ったら、予想に反して温かく、少しだけ伸びた。
「お嬢さん、触れるのならばせめてその唇で触れてくれると嬉しいのだけれどね?」
苦笑混じりの声に飛び起きる。
目の前の王子様は、人形ではなく本物だった。
「大丈夫かな?君は中庭で倒れていたんだよ。休みなさいと言ったのに、言うことを聞かなかったね?女官としては失格だ。」
きょろきょろと周りを見回して状況を悟ると、そばにアンソニーがいてくれることに嬉しさよりも奇妙さを感じる。
あの女の人はと、問いかけようとして口を動かしたが、声が出なかった。
それは当然の結果というよりも自分の心を表しているような気がして、マリーンは少し泣きそうになった。
自分は一体何をしにきたのだろう。
「だが、君は今日まで客人だ。頭ごなしに叱るわけにもいかない。ただし明日からは…わかっているね?」
マリーンは下を向いたまま何度も何度も頷いた。
働くことでそばにいられるのなら、一生懸命働く。
でも、そもそも何のためにそばにいたいと願ったのだろう。
そばにいることが目的で、他は何もなかった。
けれど、今もなおそれだけでは、この胸の痛みを抱えたままどこへも行けない気がした。
「では私は失礼しよう。レディの部屋にいつまでもいるわけにはいかないからね。」
あっさりと立ち去られる。
それは当然だ。当然のはずだ。
しかし体が言うことを聞かなかった。
親指と人差し指が、服の端を捕まえる。
「何かなお嬢さん?添い寝をご所望ならば喜んで務めさせていただくが。」
マリーンは首がねじ切れそうなほど左右に振った。
振りすぎて目が回った。
アンソニーは困ったように口元だけで微笑する。
「君はささいな応答にも力を込めすぎる。君の人柄が出ているようで微笑ましいが、それでは疲れてしまうだろう。文字が書けるのだから、伝えたいことがあればいつでもこの手を捕まえてくれればいい。」
開いた右手を差し出され、マリーンは逡巡した。
書けるのは自分の名前くらいだし、ついつい引き止めてしまっただけなので、特に伝えるべきこともない。
大きな手のひらにとりあえずのの字を書いてみる。
「お嬢さん?」
戸惑いに満ちた声に体をすくませて、下を向いたまま指を動かす。
『私はマリーンです。』
『私はマリーンです。』
『私はマリーンです。』
『私はマリーンです。』
手のひらにしずくが落ちた。
もっと色々学んでおくのだった。
今さら言っても遅いけれど、ただアンソニーを困らせることしかできないことがとても悲しかった。
自分の名前を書き続ける手を止められて、ますます涙がこぼれ落ちていく。

『私はアンソニーです。』

大きく目を見開くと、アンソニーがとんとんと手のひらに指を置き、さらに走らせた。
「さっきのはわかったかな?今のは『私に文字を習うかい?』と書いたのだよ。」
アンソニーはごしごしと目をこすってまたもや力の限り頷こうとするマリーンの顎を止めて笑う。
「『はい。』はこう書く。『いいえ。』はこうだよ。」
マリーンは差し出された右手に教えてもらったばかりの『はい。』を書こうとしたが、何か違う気がした。
思えば自分は出会ってから頷くか首を振るかしかしていない。
伝えたいことは『はい。』、『いいえ。』ではなくて、もっとふさわしい言葉があるはずだ。
例えば、
再び出会ってくれて。
頼みを聞いてくれて。
ここに連れてきてくれて。
そばにいることを許してくれて。
心配してくれて。
文字を教えてくれて。
アンソニーは動こうとしないマリーンの人差し指をどう解釈して良いものか迷ったが、自分の右手がじっと見つめられたままなのを感じて、もしやと思い至った。
「これが『ありがとう。』だよ。覚えておいて損はないが私はどちらかというとこちらの方を使ってほしいかもしれないね。こう、これが『嬉しい。』だ。」
マリーンはびっくりしてアンソニーを凝視した。
「もしかして『結構です。』を教えた方がよかったかい?」
大慌てで首を振ろうとして、瞬時に止めて、急いで『いいえ。』と書く。
そして、ゆっくり、ゆっくりと、『ありがとう。』『嬉しい。』と続けた。
『はい。』『いいえ。』より難しくて、ちゃんと書けたかどうかわからなかったが、伝えることはできたようだった。
ありがとう。
言いたいことをわかってくれて。
嬉しい。
「どういたしましてレディ。次からは紙とインクを用意しよう。さあ、もう今日はお休み。明日からこき使うよ?」
アンソニーはマリーンが顔が熱くて眠れなくなるくらい優しげな微笑みを見せた。

ベッドの上であっちを向いたりこっちを向いたりしながらマリーンはなんとか頬の温度を下げようと奮闘していた。
いつまでも下がる様子がないのがなんだか嬉しいような気もしたが、ぶんぶんと首を振って熱を追い払おうとする。
そんな端からアンソニーの笑顔を思い返して、また赤らめる。
やっぱり、笑っていた方がいい。
ずっとそばにいて、幸せそうな顔を見ていたい。
マリーンは枕に頬を寄せて抑えきれない微笑みをそっとこぼした。


マリーンはお姫様だったので働いたことなどなかった。
だから少々ヘマを繰り返したり散々に怒られたりしたが、働かなければそばにいられないのだし、少しでもアンソニーの役に立っているような気になれるのが嬉しかったので、精一杯頑張った。
一日のうちでアンソニーといられる時間はそう長くなかったけれど、仕事が終わると文字を教えてもらったり、他愛のない話が聞けたりして幸せだった。
心から。
アンソニーのそばにいることを選んでよかったと思った。
どんなに胸が痛くても、婚約者と一緒にいる姿を度々目にしなくてはならなくても。

しかし。

「クリスティーネ、また私に会いに来て下さったのですか?」
「あら、お嫌?」
「とんでもない。身に余る光栄です。」
「あなたが私に会いに来て下さらないから、私が恥を忍んで通うしかないのよ?」
「レディに恥をかかせてしまうとは。さぞかし情けない男とお思いでしょうね。」
「王子様はお忙しいのかしら?」
「あなたのためならば、国を滅ぼしても構わない…と、そのような男の方がお好きですか?」
そんな場面に何度か通りすがるうちに、マリーンにはわかってしまった。
クリスティーネとアンソニーの目は違う。
その色も、伝えるところも、見つめるものでさえ。
アンソニーは婚約者を想ってはいない。
わかってしまってからなおさら、二人が共にいる光景を見るのがつらくなった。
「そう言えば、あなたは私に会いに来て下さるのかしら?」
「美女は男を困らせるのもお上手だ。王子の身分ゆえにあなたを手に入れることのできた私が、国を滅ぼすわけがない。」
偽りを並べるアンソニーの表情が良くできた仮面のようで。
どうしてそこまでして嘘をつかなければならないのかわからなくて。
クリスティーネの気持ちがわかるような気がして。
「………私はあなたが王子でなくても心奪われましたのに。」
つらい。

マリーンは柱の影にずっと隠れていた。
引き返すかそしらぬ顔で通り過ぎるかすればいいのだが、どうしてもできない。
立ち聞きなんてしてはいけないと思っている。
しかし台本に書いてあるような愛を告げるアンソニーの顔を見てしまうと、どうしようもない衝動が押し寄せてきて、なんとかしたくて、なんともできなくて、結局その場に立ちつくしてしまうのだ。
もう何度もそんな気持ちをやり過ごしてきた。
今度、今度こそはと、マリーンはクリスティーネが去ったのを見てアンソニーの前に立ちはだかった。
「……感心しないね。恋人同士の語らいを隠れてずっと聞いていたのかい?」
マリーンは頷かなかった。
頷いてしまえば流されるのがわかっていたから。
アンソニーは柱にもたれて疲れたように首をのけぞらせた。
「そんな目で見ないでくれないか。君はいちいち正直だ。…わかりやすすぎて、かわすこともできない。」
だらりと垂れて、深いため息をつく。
「ご明察、と言えばいいのかい?それともすまない、と?なんでも言ってあげるよ。ただし彼女には言わない。彼女はあのまま…気づかないふりを続けた方が幸福だ。」
アンソニーの瞳は髪に隠れて見えなかったが、その口元は笑っていた。
マリーンはアンソニーが怒っているのだと思った。
おまえには何も言う権利などないと言われているようだった。
しかし、マリーンも怒っていた。
「……君に文字を教えながら、喋れないことは不便なものだと思っていたが…便利な面もあるようだ。」
アンソニーは額に手を置いて、もう一度ため息をついた。
「………実はね、私は王子などではない。男娼だよ。」
手を外してようやくマリーンを見た瞳は、確実に嘲っていた。
「この国は貧乏でね。王子様は生まれたときから身売りすることが決まっていたのだよ。クリスティーネの父親の、莫大な資産にね。国はただ、金が欲しかった。商人はただ、身分が欲しかった。しかし商人の娘には心があった。……それだけの話だ。」
マリーンはツカツカと詰めより、アンソニーの頬を思いきりぶっ叩いた。
潤んだ瞳と噛みしめられた唇を見て、アンソニーは笑った。
「…くくくっ…はははははっ!女性に本気で叩かれたのは久しぶりかな?クリスティーネと正式に婚約の話があってからは浮き名を流すわけにもいかなくてね。はははははっ!………ねぇお嬢さん、君はこの国に一体どれだけの人が生きているか知っている?国がなくなればその人たちはどうなるか、…知っているかな?あの女の心など、振り返られる余地もない。そして君の訴えなど、せいぜいが私を不快にさせるだけだ。」
マリーンは腹が立って仕方がなかった。
アンソニーにはマリーンがどうして怒っているのか、半分しか伝わっていないのだ。
アンソニーは嘘をついている。
自分は何も感じていないと嘘をついている。
話の中にクリスティーネだけを登場させて、その実自分について語っているのだということに、気がついていない。
マリーンが言いたいのは、アンソニーがクリスティーネを傷つけているということだけではなくて。
伝えたいと願うことは。
マリーンは初めて声を失ったことを後悔した。


あの日、何か祝いの宴が繰り広げられている船の上に、一人どこか寂しそうにたたずんでいる人を見た。
にぎやかな声に背中を向けて、ただ海を見つめていた。
なんとなく、気になった。
なんとなくだった。
なんとなく、目が離せなくて。
なんとなく、ずっと見ていた。
人間に近づいたら銛で刺されるかもしれないし、網を投げられるかもしれない。
耳にたこができるほど聞かされた忠告も忘れていた。
ふと、伏し目がちだった瞳が見開かれて、自分が映ったとわかったとき、何かもの凄いことを成し遂げたような気になって、嬉しかった。
穏やかに、笑ってくれたから。
笑うととても優しそうな人だった。
何かを投げられてやっと、人間に見つかると怖い目にあうということを思い出した。
けれど、投げられたものは銛でも網でもなかった。
赤い花束。
「ありがとう。」
目をぱちくりさせている間に聞こえてきた声。
振り向けばその人はもういなくて。
楽しそうな音楽にかき消されてしまったかのように。
ただ海水にはすぐに負けてしまいそうな花束と、疑問だけが残った。
どうして?
最初はそう聞きたいだけだと思った。
それから、花束なんてもらったのは初めてだったから、嬉しくて忘れられないのだと思った。
何をしていても頭の中から離れることはなかった。
そうするうちに、どうして?はどんな人?へと変わっていった。
会いたかった。
知りたかった。
段々、段々と、ただ、会いたかった。
気がついたら、それだけでは嫌だった。
気がついたら、ずっとそばにいたかった。
恋はいつから始まっていたのだろう。
わからない。
わからなくても、かまわない。
そばにいれば、ずっと笑っていてくれるような気がしていた。
なのに。


アンソニーはマリーンに対する態度を変えずに、何事もなかったふうにして接していた。
マリーンはそれが嫌でたまらなかった。
どうでもいいと、とるにたらないことだと、そう言われたようだ。
しかしマリーンは怒りや悲しみを露わにすることはできても、伝えたいことを伝えることはできない。
どうしても言いたいことがあるのに。
「お嬢さん、この布をあげよう。君はそれしか服を持っていないだろう?どういうデザインが好きかな?君を彩る権利をどうかこの私に与えてくれまいか。」
マリーンは異国の布を広げてみせるアンソニーをじろりとにらみ、その手に『いいえ。』と書いてやった。
マリーンは知っている。
その布は旅の商人がアンソニーとクリスティーネの婚約を祝って捧げたもの。
間違ってもアンソニーの気まぐれでマリーンに与えられて良いものではない。
ここのところ城を訪れる者たちはほとんどが祝いの品を置いていく。
アンソニーはどれも笑顔で受け取って、丁寧なお礼を述べる。
その度にマリーンは腹が立って腹が立って仕方ないのだ。
「…この布は私にと贈られたものなのだよ?その私が君に与えても誰も文句を言う者はいない。」
アンソニーに贈るということは、アンソニーが婚約者に贈ることを考えてだということをわかっていながらそんなことを言う。
もしかしたらアンソニーはマリーンに嫌がらせをしているのかもしれない。
それならと、マリーンは思う存分そっぽを向いてやった。
「悲しいね。嫌われてしまったよ。」
そんなことを言いながら顔は笑っているに違いないのだから、口を尖らせてますます違う方を向く。
マリーンは機嫌が悪いのだ。
言いたいことを言えないというのはストレスがたまるのだ。
どうにかしてなんとかできないか、マリーンは突然ひらめいてアンソニーの両手を両手で覆った。
そのままじーっと瞳を見つめる。
「何かな?それはこのまま唇を奪ってもいいということかな?」
マリーンはアンソニーに軽くアッパーを食らわせて憤然と歩いていった。
よく『目は口ほどに物を言う』というから試してみたのに、自分の目はそれほど饒舌ではなかったらしい。
徐々に歩くペースを落として、立ち止まる。
近頃アンソニーを殴ったり叩いたりばかりしている気がする。
つきたくもないため息ばかりつくようになってしまった。
いくらそばにいられても、意味がない。
柱にもたれかかった瞬間、マリーンの体が崩れ落ちた。
痛い。
息ができない。
苦しい。
心臓に杭を打たれ、そこから体がひび割れていくような。
初めてアンソニーとクリスティーネが二人でいる姿を見たとき感じた痛みと同じようでいて、その何倍も耐えられない。
マリーンは床に荒い呼吸を浴びせかけながら目の前が暗くなるのを感じた。
時が来たのだとわかった。
いつかは来ると、わかっていた。
最初からわかっていてそれでもアンソニーのそばにいることを選んだ。
後悔はなかった。
あのときは。
けれど今、このままで泡になりたくはない。

「マリーン!」

聞き覚えのある声がした。
ひどく懐かしい。
そんなはずはないのに、もう何年も前に聞いたような声。
「マリーン!しっかりしろ!マリーン!」
マリーンは重いまぶたをそっと持ち上げた。
何故だか急に痛みが消えて、それどころか体が軽くなったような気がする。
「……馬鹿な、馬鹿なことを…っ!おまえは……!」
懐かしすぎて涙しか出てこないような姿があった。
小さく口を動かして、出てくるはずのない声で確かめる。
「………父様?」
「…さぁ、帰るぞ。みながおまえの帰りを待っている。」
「……帰れ…ないわ。魔女さんが、一度海を捨てれば帰れないって…それに………」
海の王は激しく顔をしかめて声を荒げた。
「あのクソ女ァ…っ!くびり殺す!マリーン!おまえは海の娘。何があろうと海に帰れないわけがない!行こう。陸ではもはやおまえの命はない。」
そう言って抱きかかえようとするのを、マリーンは震えながら押し止めた。
「嫌っ!ダメ!帰らない!帰れない!………帰らないっ!」
「……父におまえを殺させる気か?」
マリーンは首を振る。
そんなつもりはない。
どうなろうと、自分にとっては絶対にそうはならない。
「……私、父様が好き。母様も、姉様たちも。海のみんなも、みんな、みんなとても好き。心配してくれるのも、とても嬉しい。」
だから。
「だから…私は絶対に不幸になっちゃいけないんだって、そう思えるの。みんなが、父様が…愛してくれた…愛してくれるから。」
だからこそ。
「後悔してない。……もしもこれから後悔するとしても、それだって、きっと、…嬉しい。あの人に会えてよかった。……この選択を、してよかった。選ばせてくれて、ありがとう。」
マリーンは微笑んで、涙を拭った。
次から次へとあふれてくるけれど、それはもう懐かしさも、ましてや悲しさなどは微塵も含んでいなかった。
「みんなが好きだから、わかって…認めてほしい…。私、幸せなの。…後悔したくないからこそ選んだの。だから私を哀れまないで。…どうか、誇りに思って。ちょっとだけ、怖い。でも迷わない。……父様、勝手なこと言うなって、怒る?」
海王はもちろん怒るつもりだった。
怒鳴りつけて、暴力をふるってでも連れ戻す気でいた。
娘の望みなど娘の命の前には意味があるはずもない。
海王は甘すぎる父親だったが、それゆえに大切なものを取り違えてはいないと思っていた。
だが。
「でも、父様が来てくれて、私、もっと、頑張らなきゃって…思ったよ。父様に…、みんなにみっともないって言われないように。もっと…幸せにならなきゃって、最後まで…あの人のそばにいなきゃって。……私、私ね、きっと、今までで一番の私なの。」
幸せそうに、嬉しそうに微笑まれて、強引に連れ帰る気がそがれた。
そんな場合ではない。説得する暇もない。娘の命はもはや風前の灯火だというのに。
「母様に…言ったわ。………一生後悔して生きる私なんて、見せたくない。この一瞬、心から幸せな私を見てほしい。心配かけるって、悲しませるってわかってたけど、……でも私、幸せで、……それはみんなのおかげでもあるんだって…。あ!みんなのせいじゃないよ…?おかげなの!………わがままだって、知ってる。だけど……私、……お願い………父様…!」
この後に及んで自分を曲げようとしない娘を、怒鳴りつけようと思うのに。
そうすることこそが息の根を止めることになるような気がするのは、何故なのか。
口から出かかる言葉はこちらにとっては選択を促すものでも、娘にとってはそうではないだろう。
しかし、悩む暇さえもない。
他に、言えそうなこともない。
「………いつでも、言え。……海に帰ると。その瞬間、……願いは叶えられる。」
無駄な言葉を紡いでいると知っていた。
何故なら選ばれることも、まして口にされることもないだろうから。
「……マリーン、魔女に一つ願いを叶えさせよう。……なんでも…叶う。……言え。」
マリーンは嬉しそうに笑って、
「じゃあ、あの人が、アンソニーが幸せになれますように!」
と言った。

「………バカ?」

魔女の声が聞こえたような気がして、それがいかにもあの魔女の言いそうなことだったので、マリーンは思わず吹き出した。
そしてやっと気がついた。
「私!…声が出てる!」
「………遅すぎるぞマリーン。声はあのクソ女から取り戻した。……さぁ、時間がない。……どうするのだ、おまえは。」
マリーンは頷いて、すぐさま走り出した。
「ありがとう!行ってきます!」
海王はその後ろ姿を見送りながら、どうせならばもう「さよなら。」と、そう言ってほしいと思った。


伝えたいことがある。
あなたに会うこと、それだけを選んだ私だから。
どうしても、伝えたい。


マリーンはアンソニーを見つけてその胸に飛び込んだ。
きつくきつくしがみついて、顔を上げる。
一番綺麗に笑えてますようにと、少しだけ考えて、悪戯に微笑んだ。
「あの、えーっと、えーっとね?私が私でいられるのは…みんなのおかげなんですっ!みんなが私を大事にしてくれたから、私も私を大事にすることができた。幸せになることを迷わなかった。……あなたを、選べたの。誰だって、幸せにならなきゃ、誰か一人でも…愛してくれる人がいるなら、ますます幸せにならなきゃ、なろうとしなきゃ、ダメなんです。…なって、ほしい。だからあなたは!絶対!」
アンソニーは驚いたまま反応を返してくれなかったが、そんな様子もおかしくてクスクスと笑う。
「だから、自分を殺さないで。…みんなを悲しませないで。んと、んーっと、…私はみんなを悲しませちゃったけど……でもね!私、今とても幸せだから。それをわかってもらえたなら…きっとみんなも私の幸せを喜んでくれると…思ってる。だから、あなたは……アンソニーは、嘘をついちゃダメっ。自分に嘘をついてみんなを幸せにしようとするのは、……侮辱だと思うのっ!」
マリーンは少し怒った顔をして、すぐに笑った。
「私は私のために生きたの。人は、自分のために生きるんじゃないかなぁ?誰かのために生きるのも…誰かを愛している自分のため。………だから、アンソニー、一番選びたい道を選んで。……みんなは、……………私は、それが一番嬉しい。もっと……、わがままになって。」
心の中で繰り返し、幸せになれますように、どうかこの人が幸せになれますようにと願いをかける。
マリーンはアンソニーに自分を見習ってほしいと思った。
最後まで決して自分に嘘をつかず、思うとおりにした。
それだけは、貫いた。
そう、最後まで。
泡になればもうそばにいることはできないから。
せめて祈らせてほしい。
あなたの幸せを。
私の願いであなたを幸せにする、それは一番傲慢な願い。
一番叶ってほしいわがまま。
指先からさらさらと砂になるように、少しずつ確実に自分が自分でなくなっていくのがわかった。
もう本当に時間がないのだ。
何をおいても伝えたかったことは伝えたが、他にはというとたくさんありすぎて困ってしまった。
たくさんの『ありがとう。』とか、たくさんの『嬉しい。』とか、もういっそ教えてもらった文字を全部書き出してしまいたい。
それから。
そういえば、まだ伝えてなかったかもしれなかった。
会いたくて、そばにいたくて、笑ってほしくて、幸せになってほしいと願う、この感情。
どう言えばいいのか、今はどんなふうにだって伝えることができるのに、それでも思いつかなかった。
心が温かくて、くすぐったくて、それをそのまま伝えたくて。
「えっとね、んーっとね、えと………」
マリーンは照れたように笑って、

いなくなった。

アンソニーは自分の両手をまるでこの世のものではないもののように見ていた。
その手はつい一瞬前まで華奢な腰を抱いていたから。
今は所在なげに下ろされるのを待っている。

最初に彼女を見たとき、不覚にも固まってしまったのを覚えている。
あまりにもよく似ていた。
以前出会った人魚と。
けれどその腰から下には確かに人間の足がついていた。
不可解なことは多かったが、まさかそんなはずはと、その一言で片づけた。
奇跡など起こってほしくはなかった。
そもそももう起こらない奇跡を見届けに行ったのだから。
あの日、婚約のための顔合わせが行われた船の上で、自分はただ、空虚だった。
呪うほどの人生ではない。祝うほどの情熱もない。
どうでもよかった。
自分以外の人間だけが喜び、楽しそうに笑う。
その中で笑顔を作り続けるのが煩わしくなって、まとわりついてくる人間を適当にごまかして一人顔を背けていた。
見ていて面倒でなかったものが海しかなかったから、海を見ていた。
そこに、現れた人魚。
初めて人魚というものを見た。
話に聞くよりも、絵で見るよりも、想像したよりも、比べようもなく美しかった。
だから思った。
何故自分の前に現れたのだ。
例えば背後で杯を交わす男たちが見たなら、その美しさを称えて詩を詠み楽を奏でただろう。
こんな、これからますます何も感じなくなるであろう男などに。
そんな姿を見せても、何にもなりはしないのに。
おかしかった。
おかしくて、笑えた。
心から笑えたのは久しぶりだった。
あるかないかも覚えていなかった本来の自分を少しだけ取り戻せたような気がした。
だから、それだけでよかったのだ。
共にこの国の生贄となる自分の相棒に笑顔を見せ続け、己をも笑ってやっていけそうだと、それが愉快だと、思えたから。
それ以上の奇跡などいらなかった。
自分は王子である前に一人の人間だと、叫びたくなるような奇跡など、いらなかった。
いらなかったのに。
否定し続けた奇跡は、それでもとるにたらない現実にはならずに自分を責め立てる。
素直な瞳が自分を映すたび痛みを感じた。
なのにそばに置いたのは、わかっていたからだ。
自分を責めているのは自分自身。
他の何の力も働いてはいない。
私は私の意志で逃げたがっている。
私の心は確かに国を愛し、王子として生きることを選びながら、逃げたいと願っている。
立ち止まっているふりをして、何よりもその事実から。
必死に、逃げ続けていた。

何も感じていないなんて嘘だ―――。

「これは……君が起こす三度目の奇跡なのかい?」
アンソニーは奇妙な形に持ち上がったままの両手を下ろさずに、腕の中に向かって語りかけた。
「………君は……余計なことばかりする。私は…生まれたときから王子だったのだよ…?覚悟など、しなくてもできていた……、はず、だったのだが、…ね。」
空間を、つかむ。
何の感触もない。

「……マリーンっ!」

さっきまでは、確かにあったのに。


次の日だった。
あまりに早急すぎて自分でも苦笑しながら、他にふさわしい日などないと確信する。
アンソニーは狼狽する家臣たちをかきわけながら城門へと突き進んでいた。
耳に入ってくる言葉はどうかお戯れはおやめくださいと、そんなものばかりで、それにいちいち「戯れなどではないよ。私は本気だとも。信じてくれないのかい?」などと返している自分に笑えてしまう。
馬鹿馬鹿しいくらいに心が身軽なものだから。
正直すぎる自分がひどくおかしくて。
だから、相変わらず白髪を振り乱している老人が両手を広げて行く手をふさいだとき、心に浮かんだのは迷いのない謝罪とくすぐったいような思いだった。
老人は無言でじっと見つめてくる。
真意を探ろうとしているのか、威圧しようとしているのか。
アンソニーは穏やかに微笑んだ。
「爺、今まで世話になったね。ありがとう。」
「……どういうことですか、王子!何故いきなり…城を出るなどと…あまつさえ、身分をお捨てになるなどと…!」
本当はありがとうと、それだけで別れたかったのだが、やはりそうもいかないか…。
そんなことを考えて、だが説明するのも悪くはなかった。
「実はね、いきなりではないよ…?爺、…この国では異国の商人が珍しいだろう。私はずっと昔から…彼らに憧れていたのだよ。まだ見ぬ地を…この身一つで渡り歩けたらと…思っていた。それを口に出したのは、今が初めてだがね。」
老人は瞬間瞠目し、すぐに怒りの表情を取り戻す。
「そのようなことを…アンソニー様、あなたは王子なのですよ?それがどういうことか、あなたが一番よくおわかりのはず。」
「……そうだね。だから王子をやめるのだと言っても、それだけではすまないこともわかっているよ。そう、それに私は世間知らずだから、旅立っても三日でのたれ死ぬかもしれないね。しかしね、……すまない、爺。私にも私を止められないのでね。まっとうな説得など、爺の血圧が無駄に上がるだけだからよした方がいい。」
「王子!王がなんとおっしゃるか!」
「すでに伝えたとも。当然だろう?随分と驚いておられたが、その後急に怒りだしてね。あれなら長年の仮病も全快することだろう。」
唖然とする老人の肩に手を置き、アンソニーは笑った。
「…周知の事実だよ。あの人は逃げた。…このうえ私も逃げ出すのかと、そう思うかい?……構わないよ。…構わない。だがね、爺、私は爺が好きだよ?いつも叱ってくれる爺を父のように思っているよ…?だから、もしも爺が私を息子のように思っていてくれたならば、どうか、これだけはわかってくれないか。……私は今、これから…幸せなのだと。」
何の含みもない、いっそ無邪気といってもいいような笑顔だった。
それがいっそう老人の心に爪を立てた。
「……認めません、私は。………あなたは!……王となり、やがて……この国を、……私たちの国を…っ!」
「…すまない。……私も、そうしたいと思っていたよ。そのつもりだったよ。……この国を愛しているよ。」
憎悪や憤怒に染まるわけでもなく、つらそうに歪みもせずに。
ただすまなさそうな顔で笑う。
「…それでも行かれるのですか!……お捨てになるのですかっ!」
「…じゃあね、爺。……元気で。」
力強く歩き出した足は、何よりも雄弁だった。
「……私は…あなたを息子のように………、恨みます、……アンソニー様……。」
アンソニーはわずかに眉根を寄せて、それでも足を止めなかった。
わかってもらえなくても仕方がない。
とんでもないわがままを言っていると知っている。
しかし。
「アンソニー様……」
「おや、これはクリスティーネ。いつものように私に会いに来て下さったのですか?それとも、すでに話を耳に?今あなたのところへ向かおうと思っていたのですよ。…お別れを告げに。」
クリスティーネは馬車を降りてからアンソニーの元まで走ってきたらしく、息が切れていた。
懸命に整えて、何故と問う。
「…私の幸せと、私を愛してくれる人の存在に気づいてしまったのですよ。後者は少々…自惚れかな。はっきりとは…聞かなかった…。だがその人が…私の幸せを望んでくれたから。私は私のために、その人に、己自身に恥じない私でありたいと願う。………クリスティーネ、私はあなたを愛してはいない。今まであなたのためにと…真実を告げてこなかった。その思い上がりと非礼をここにお詫びしたい。」
「……知っていましたわ。」
「…そう、あなたが私と同じように自分をだまそうとするのを放っておいた、そのことも申し訳なく思っています。」
クリスティーネは手をあげようとして、結局あげることができなかった。
何をしても穏やかに微笑まれてしまうような、何をしても自分がいたたまれなくなってしまうような、そんな気がした。
「……別れの時にすべてを謝罪する男は…ずるい男ですわ。」
「このような謝罪だけで許してしまうあなたは…優しすぎる女性ですね。では、そのことについて頭を下げるのはやめておきましょう。」
「違いますわ。そんなことで私を切り離せると思うあなたが甘い男なのですわ。……許すのは、お慕いしているからです。あなたをあきらめるつもりなどないからですわ。…お帰りを…お待ちしています。」
アンソニーはクリスティーネの手を取り、その甲に口づけた。
「…あなたを相棒のように思っていました……。私は戻りません。あなたはあなたにふさわしい方と幸せになるべきだ。そう思っています。そうとだけ、言っておきましょう。では。」
アンソニーは一度も振り返らなかった。
家族のような人々を、同志のような人々を、思い出ある景色を、故郷を、すべてのものを置いていく。
だがみんな愛している。心から消えることはない。
だから、前へ進むことができる。
誰がわかってくれなくとも、誰が認めてくれなくとも、許してくれなくとも。
自分が自分の幸せに気づいている限り。
「……君は、私の門出を祝ってくれるのだろう?」
アンソニーは空に呼びかけ、風の中に返事を聞いて微笑んだ。
その日の空は海のように深い青だった。


「おい、クソ女、あの男は幸せになれるのか。」
尊大な声にため息で返す。
「………バカ?」
明らかに人を馬鹿にするためのため息を再度繰り返して、魔女は軽く手首を振った。
「………あたしは天才。あんたは馬鹿王。神ならぬ身なら限界はある。天才といえど誰かに幸せをもたらすことはできない。」
暴力か魔力かなんらかの攻撃が襲ってくるかと思ったが、こない。
魔女は怪訝に思って海王の様子を窺った。
何かをたくらんでいるのか、それとも、溺愛していた娘の死を悼んでいるのか。
それにしても、自分に攻撃を仕掛けてこないのは妙だった。
「……そうか。………それでいい。…娘も、用意された幸せを宛いたかったわけではあるまい。あれは自ら海を捨てたのだから。男は今、城を捨てた。……きっとそれが娘の望みだったのだろう。」
珍しくまともなことを言うのをますます奇妙に思いながら、これは本格的にしょげているのか?と、思わず横目でじっと見る。
まぶたに覆われていた目が、ぎょろりとこちらを見た。
「…クソ女、俺がどうして大人しいのか、気になるか?」
魔女は頷きもせず、首を振ることもなく、沈黙で返した。
「おまえに罰を与えるべきか礼を言うべきか決めかねているからだ。……おまえは娘に偽りを述べた。…だが、例え真実を告げていたとしても何も変わらなかったろう。……おまえは娘を地上にやった。…だが、俺は救おうと思えば救えた娘を救わなかった。」
海王は自分の手をじっと見つめる。
大津波を起こすことも、大渦を起こすことも容易い。
マリーンの命を救うことも容易かった。
結果的にマリーンを殺したと責めるなら、責められるべきは魔女ではなく自分だろう。
「………あんたの娘は途方もないバカだった。自分から命を捨てた輩のために罰を受ける謂われはない。」
魔女は至極当然のように言ってのけた。
「…俺もな、育て方を間違えたのかと今さらに思いもする。……俺の決断も、愚かだったのではないかと悔いる。……だから、おまえへの対処を決めかねるのだ。」
海王は心持ち人の悪い笑みを浮かべた。
「……おまえは娘の願いを叶えたのだろう?」
途端に魔女は渋面になり、膝に頬杖をつく。
視線をそらして不機嫌そうに息を吐くが、耳につく笑い声にイライラがたまって吐き捨てるように言った。
「………あんたの娘は戻らない方が海のため。そう思っただけ。」
予想を遙かに超えてあまりにも馬鹿だったものだから、呆れすぎて思わず手を加えてしまったのだ。
死後その体が、海の泡になるのではなく地上の大気に溶けるようにと。
魔女は海王をさっさと追い払い、もう二度と奴周辺とは関わるまい、何があっても絶対に地上へは行くまいと決心しながら、久方ぶりに何も気にしなくてすむ静かな眠りへとついた。
END.
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