『未完成』

シューベルト作曲、交響曲第8番『未完成』。
この曲がなぜ第二楽章までしか作られなかったのか、その謎は未だ解けていない―――。


 奏はヴァイオリンを弾きながらいつも遠くを見ていた。
気が抜けているといってそのたびに父親に殴られたが、それでも遠くを見るのをやめなかった。
外に、出たかった。
奏はほとんど外に出たことがない。
幼少の頃から部屋に閉じこめられ来る日も来る日もヴァイオリンを弾かされてきた。
学校さえもまったくと言っていいほど行かなかった。
ヴァイオリンを弾くのは好きだったが弾かされるのは苦痛だった。
だがやめるわけにはいかない。
父と姉の夢を、自分が継がなければならないのだから。
そのことを自覚させられた幼い日から、奏は何も考えず父親に言われたとおりに弾くようになった。
そうしていれば父親に満足してもらえると思ったのだ。
父親以外の人間は奏をもてはやした。
音楽界の期待の新星として名声を得、雑誌や新聞にも掲載された。
しかし殴られる回数は減るどころか極端に増えた。
奏は今まで自分がどうやって弾いていたのか、これからどうやって弾けばいいのか、何もかもがわからなくなってしまった。

 父親のいない日曜日の昼下がり。
奏は薄暗い部屋の中で一人うずくまった。
音楽のことを考えていたが答は一つとして浮かんでこない。
そうして残った思いはただ一つ。
外に出たい。
ただそれだけである。
窓を覆う分厚いカーテンを、奏は少しつまんでみた。
光が透け温かいそれは、そのまま外の世界を象徴していた。
奏はカーテンを少しめくろうとしたがやはりやめておいた。
そろそろ父親が帰ってくる頃だ。
ヴァイオリンを弾かなければ。

そのとき、窓の外から何かをこづくような音が聞こえた。
ここは二階だ。
鳥か何かだろうと思いつつ、奏はそっとカーテンをめくり、半分だけ窓を開けてみた。
その瞬間飛び込んできたのは、一羽の白い……

紙飛行機。

折り込まれた内側に何か字が書いてある。
奏は多くのとまどいとほんの少しの期待をもって紙飛行機を開いた。
そこにはこう書いてあった。

『初めまして。オレは音楽学校に通うピアノ科の男です。毎日あなたの演奏を聴いてとても素晴らしいと思いぜひ一緒に演奏してみたいと思いました。よければ……』

奏はそっと窓の外を眺めてみた。
下にはもう誰もいない。
体を乗り出して辺りを見回していると、姉の神楽が部屋に入ってきた。
「奏?何をしているの?」
神楽は窓から入る微風を感じて眉をひそめた。
奏が慌てて窓を閉める。
「外の空気を吸ってたんだ。もうすぐ父さんも帰ってくるしすぐ弾くよ。」
「外に出たいのね。」
奏は体をひるませた。
「奏、嫌ならやめていいのよ。私も父さんを説得する覚悟はできてる。私達のためにあなたが犠牲になる必要なんてないんだから。」
奏は複雑な思いを笑顔に塗りかえるとそっと神楽の肩に手を置いた。
「父さんと姉さんの夢はオレがはたすよ。でもそれだけじゃない。ヴァイオリン、好きだよ。オレ……。」
神楽は目を閉じ、困ったように微笑んだ。
「そうね。でも最近のあなたの音を聞くのはつらいわ。」
奏はうつむき、ふと先ほどの紙飛行機に目をやった。
「奏?」
神楽には紙飛行機が見えていない。
いや、紙飛行機どころか何も見えてはいなかった。
奏の顔さえも。
神楽は幼い頃演奏中にヴァイオリンの弦が切れて目に当たり、失明してしまったのだ。
それ以来見えない生活を何年もしてきたが、未だにヴァイオリンを持つと恐怖を感じまともな演奏ができないのであった。
神楽は目を、そして父は交通事故で腕一本をなくし、もう片方の腕の神経も少しやられていた。
日常生活には支障はなかったが、ヴァイオリニストとしては致命的である。
なまじ二人とも才能に恵まれすぎていたのがいけなかった。
父親はこれからの期待を一身に背負い、世界を股に掛けて活躍していた最中の事故で、神楽もまた音楽界に現れた神童として騒がれていたさなかのことだった。特に自分の夢を託していた神楽が演奏できなくなったときの父親の落胆ぶりはすさまじく、その分ちょうどそのとき生まれた奏にかけられる期待も重かった。
母は父についていけず何年か前に出ていった。
そんな音楽狂の一家に生まれ、今まで一度も恨んだことがないと言えば嘘になるが、奏は音楽を嫌いになることはなかった。
父親も姉も嫌いにはならなかった。
むしろ二人の夢を叶えてあげたいと心から思ったし、そのつもりだった。
しかし弾けば弾くほど肩にかかるヴァイオリンの重みが増していく。
もう何年も前から、ヴァイオリンは苦しいくらい重かった。

外はこんなにも明るいのに。
外はこんなにも優しい風が吹いているのに。
紙飛行機だって高く飛ぶのに。

奏は紙飛行機をじっと見つめたまま息を飲み込んだ。

「姉さん、ごめん。一つだけわがままを言ってもいいかな?オレ、外に出て人に会ってくるよ。必ず帰ってくるから父さんにそう言ってほしいんだ。」

神楽は少しとまどったが、何も言わずに承知した。

 久しぶりの外は風が心地よく、太陽がまぶしかった。
奏は開放感に任せて胸いっぱい空気を吸いこみ、歩きながら手で日光をさえぎった。
何しろ演奏会の時くらいしか外に出たことがないのだ。
それも実際外にいたのは車に乗るまでのほんの数秒である。
奏は笑顔で空を仰いだが、透けるような白い肌をした奏には日差しが少し厳しかった。
奏はカバンからあの紙飛行機を取り出した。

響。

それが手紙の主の名前だった。
書いてある住所に近づくにつれピアノの音が聞こえてきた。
奏は歩きながら聞き入った。
優しい音だ。
奏は思った。
まるで母親が子供を優しく抱きしめるような、そんな音だ。
一歩歩くごとにワクワクした。
そしてその家についたとき、奏は大きく目を見開いた。
洗濯物が干してある庭の真ん中にピアノがあった。その周りを子供たちが取り囲み、遊んだり、寝転がったりしている。ピアノを弾いている人物は奏と同じくらいの年頃の少年で、音楽よりもスポーツが得意といった方がうなずけるくらいよく日に焼けていた。実際スポーツも好きなのだろう。庭の隅のロッカーからサッカーボールや野球のバットが顔をのぞかせている。
奏は入っていけない雰囲気を感じた。
ほとんど外に出たことがなかったせいか人見知りが激しいのだ。
が、奏が帰ろうと思ってきびすを返した瞬間ピアノの音が止まり、少年が声をかけた。
「あんた、ヴァイオリンの人だろ?その手に持ってるの、ヴァイオリンだよな?」
にこにこと満面の笑みを浮かべながら手招きしている。
奏は内心深いため息をつきながら庭に入っていった。
少年、響は、ずいぶんと気さくだった。
「ようこそようこそ!一度会ってみたいと思ってたんだよな。オレヴァイオリンのことはさっぱりわかんないけどうちの学校の奴等と明らかに音が違ってたしさ。あの家の前通って音聴くたびに『コイツ天才じゃん!』って思ってたんだよ。会えて嬉しいぜ!」
どうやら紙飛行機の文面は猫をかぶっていたらしい。
奏の肩をバシバシとたたいて大声で笑う。
「でもちょっと残念だったな。おまえ見るまではてっきり女の子が弾いてると思ってたからさ。」
奏は響の勢いに飲み込まれろくに返事もできなかった。
本当にこれがさっきの音の主なんだろうか?
疑いの眼を向けてみたが、反面妙に納得できるものも感じていた。

ああ、あれはきっと太陽の音だ…。
この風と太陽に育まれてきた自然の音なんだ。
オレにはない…あたたかい音。

奏は響に気づかれないよう微苦笑した。
「よっしゃ!じゃあ早速あわせてみようぜ!」
響はまぶしいくらいの笑顔で言った。
「ここで弾くのか?」
今まで外で弾いたことなど一度もない奏はとまどった。
「大丈夫だって!近所の人は苦情言うどころか喜んでくれてるし!」
「いや、そうじゃなくて、」
「それにここなら何にも邪魔されず自分の音が見つかるんじゃないのか?おまえの家の前で聴いたおまえの音、すごく押さえつけられてる感じがした。もっと楽に弾いてみろよ。風の音や日差しの音を聞いてみろ。」
奏は目を丸くした。
響はかげりのない笑顔で
「じゃ、いっちょモーツァルトでもいってみっか。」
と言って最初の音を鳴らした。
奏もすぐに続く。

芝生が風になびき、その上で戯れていた子供たちはくすくすと微笑み合った。
厳しい日差しは木漏れ日に溶け、風が通るたびに光が揺らめいた。
奏はすべての音を体で感じ、全身で音を描いた。
何も考えなかった。
ただ音を受け止めまた生みだすだけ。

そして、ピアノとヴァイオリンは同時に音を止めた。

奏は弦を持つ腕をだらりとさせ呆然とした。
失ったものを思い出したような、何かが体を駆け抜けたような、そんな感覚。
ホールで喝采を浴びるよりももっと熱い感覚だ。
奏の体は小刻みに震えていた。
そこに響が勢いよく飛びつく。
「すげーっ!おまえやっぱすげーよ!びりびりきたぁっ!びりびり!おまえこれからもそんな風に弾けよ。前よりもっと絶対すげーよ!」
「今のは君に引き出されたんだ。君の音があたたかくて………」
奏は声をあげて笑った。
今のが今までで最高の演奏であることはすぐにわかった。
どうやって弾いたのかはよくわからなかったが、それよりも何よりも
風が、太陽が、人とのふれあいが、心地よかった。
そんな風に笑うのが久しぶりであることに気づいて、奏はおかしくてたまらなくなった。
今までの自分が、とても馬鹿馬鹿しかった。

奏と響はたくさんの話をし、思いきり笑いあった。
疲れて倒れ込むほど遊んだ。
芝生の上に寝転がり、西の空が赤く染まるまで話し続けた。
辺りが薄暗くなってきても話はやまなかった。
奏は家に帰らなければと思ったが、体が言うことを聞かなかった。
それほど楽しい時間だった。

が、どんなに楽しい時間にも必ず終わりはやってくる。
奏の父が……迎えに来たのだった。

父親は奏を見るなり無言で殴り飛ばした。
うずくまる奏の前で目を細くし低くつぶやく。
「この馬鹿が。遊び呆けていてまともな演奏ができるのか!すぐ家に戻れ。今日は眠らず夜通し弾き続けろ。」
それを見た響が思わずつかみかかろうとしたが、奏は片手で制した。
「なんだこいつは。こいつがおまえをたぶらかしたのか。」
「違います父さん。彼はオレの大切な友人です。今日だってただ遊んでいたわけではありません。彼は大切なことを教えてくれたんです。」
奏は父に面と向かって反論した。
父に口答えしたのはこれが初めてだった。
父が少し驚いて言葉に詰まったところに神楽が追いついてきた。
「父さん。お願い。奏のことも考えてあげて。気づいているんでしょう?昔あんなに楽しそうにヴァイオリンを弾いていた子が疲れた音を出して訴えているのよ!」
「姉さん……」
奏は神楽に近づこうとした。
が、それを阻むように父親が奏の前に進み出た。
「我が子に夢を託して何が悪い。私は奏に素晴らしい音楽家になってほしいと思っているだけだ。奏、おまえもヴァイオリンは好きだろう。」
そう言って弦を差し出す。
奏は無言で受けとったが、同時に首を横に振った。
「ヴァイオリンは好きです。素晴らしい演奏が出来たらどんなにいいだろうと思います。でも父さん、オレは『素晴らしい音楽家』になりたいとは思いません。素晴らしい演奏をしたいだけです。」
「?同じ事だろう。」
「いいえ。父さん、あなたはオレに素晴らしい『音』の出し方を教えてくれた。それは大事なことだと思います。でもオレがしたかったのは素晴らしい『音楽』を作ることです。父さんもオレの音楽は音だけだと気づいていたからあれほど注意したのではないのですか?オレは何も気づかなくて、今日やっと響にそのことを教えてもらったんです。」
響は真摯な表情で奏を見つめた。
「おう!おまえの父ちゃんに聴かせてやれよ。」
奏はにこりと微笑んで応えた。
「聴いてください。オレはやっとオレの音楽を見つけました。」

澄み渡り冴え渡り、優しげな、それでいて寂しげなその音色は、夕方でもない夜でもない不思議な時間によく似合った。
奏の演奏は草木のざわめきをも吸収し、薄月の輝きさえ吸い取った。
響は奏の周りを取り巻く音楽という名の美しい流れをかいま見、奏の父と姉の反応を見ようと二人の方を向いた。
「あれが本来のあいつの音だ。普通に暮らしてたらとっくに身につけてたもんだと思うけどな。」
神楽は目尻に涙をにじませた。
「父さん、私たち今までずっともう何年も奏を縛りつけていたのよ。」
奏の父は眉間にしわを刻んだ。
「……ひどい演奏だ。荒削りで何もかもなってない。」
「確かに。素晴らしい演奏ではあるけれどまだまだ磨かれていない。でもそれは奏にもわかってるんだわ。だからこの曲を選んだのよ。」
響はその曲の名を口にした。
「……未完成。」
父親は馬鹿にするように笑う。
「このまま放っておいて完成すると思うのか。」
「これは奏の心の問題だわ。人間が年を重ねるごとに顔にしわとその人生を刻むように、この音楽もそうやって完成されていくの。」
神楽は穏やかな顔で微笑んだ。
その横で父親がますます眉間にしわを寄せ、渋い顔をする。
「だったらなぜ放っておく。ここでこんなことをさせる時間がもったいないとは思わないのか。完成したら奏は一流の音楽家になるんだぞ。」
響は頭にきて奏の父をにらみつけた。
「それしか頭にないのかおっさん!あいつの幸せがなんなのか、父親なら一番に理解してやれよ!」
「そうよ父さん。それに奏は私達の夢をもう継いでくれてるわ。こんなにも素晴らしい演奏をしてくれてるじゃない。私の夢は音楽家として名をあげることじゃなかった。素晴らしい演奏をすることだった。父さんだってそうでしょう?」
「………」
「それにオレは思うぜ。人間の心なんて完成しなくてもいいじゃんか。未完成だからこそ頑張るんだ。頑張って生きてるんだ。奏の演奏だって、未完成だからこそ魅力があるんじゃないのか?完成した人間なんてつまんねーうえに気持ち悪いもんだと思うね。この曲だってきっと、未完成だから素晴らしいんだ。」
響は微笑し、再び奏の方を見た。
「誰だって自分が間違ってたなんて言われたくないけどいいかげん認めろよ。今の奏の演奏は今までのどれよりも素晴らしいって。」
奏の父はうつむき、わずかに苦笑してすぐに顔をあげた。
「……ああ。」

奏は第二楽章までしかないその曲を何度も何度も繰り返し弾き続けた。



奏と響が音楽家として世界的に大成功をおさめるのはこの数年後のことである。
END.
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