『舞華〜まうはな〜』

その林は果てがないように思われた。
妙はのどが裂け心臓が破けそうになりながらそれでも走っていた。
考えてとっている行動ではない。無我夢中だった。
頭の中に浮かぶのは母のことばかり。
母。
この殺伐とした世の中で女ながらに忍びの術を使い裏の稼業をしていた母。女手一つで自分を育ててくれた母。何度もそんな危険な仕事は辞めてと泣いたけれど悲しげに笑うだけだった母。
仕事のために、自害して果てた母。
妙は口を固く結んだ。チラリと背後を見て表情を固くする。
(追っ手は1、2、3、……7人か。)
まったく忍びの最期などこんなものだ。忍びの娘の最期など、こんなものだ。
仕方ないのだ。この時代に忍びとして生まれたからには。
妙は走っているうちに意識的に冷静を取り戻し、そう思った。
しかし反面その考えをひどく憎んだ。
(そんなことで………っ。)
妙は意を決したように足を止め、素早く振り返った。
7人の忍びが瞬時に周りを取り囲む。
妙は母親から多少の忍術指南を受けていたが、それはとても目の前の追っ手を倒せるようなものではない。
妙はそのことを十分承知だった。
それでも。無駄だとわかっていても。一度も試さずにあきらめることができるものか。
7人の忍びたちはいっせいに飛びかかった。
妙は跳躍でそれをかわし、後ろに着地する。しかしその後ろにはすでに忍びが待ちかまえていた。
空を切る音がすぐ側まで聞こえたが、首を切り落とされる瞬間妙は地面にふせ、片手で重心を支えて足払いをくらわせた。忍びが倒れ込む。その手の武器を奪おうとしたとき、妙の肩口を痛みが走った。千本が突き刺さっている。妙はとっさにそれを抜き、正面にいた忍びに投げた。だが忍びはやすやすと受け止め、そのまま投げ返す。よけるとそこにまた忍びがいる。今度は二人に前と後ろを取られた。妙は後ろ蹴りを繰り出して後ろの忍びを退け、頭突きでもって前の忍びを退けた。そうしている間にも鎖鎌が向かってくる。
終わりがない。
武器を持たず、年若い女の身ゆえ腕力もない妙には追っ手を殺す術がない。
肩の傷は次第に熱くなりあちこちに細かな傷が増える。一瞬たりとも気を抜けない。
今はなんとか持ちこたえているが、7人対1人。そのうえ向こうは屈強な男でこちらは少女。
妙の死は決まっていた。

「おう、見てみろ忠臣。オレの行く手を阻むうつけどもがこんなにいるぞ。」

妙は声がした方に振り向いた。
身なりのいい男が二人、嘲笑するような視線と冷ややかな視線で立っている。
妙は助けを求めようとした。
が、その一瞬の隙をついて妙の側にいた忍びが刃を振りかざした。
次の瞬間妙は……
その忍びが首から血を吹き出させて地面に倒れ込んだのを見た。
妙はつい1秒前まで忍びが立っていたはずの空間を凝視した。
忍びの姿はもちろん無い。
代わりに男が立っている。
赤く染まっていく忍びを見つめて嘲るように笑うその男の刀は、やはり赤い。
妙は改めて目を見開いた。
(なんて速さなの……。)
他の忍びも驚いたように固まっている。
「殊勝な心がけだな。オレに自ら命を差し出そうというのか。だがそれでは面白くないだろう。もっと動け。」
男は鼻で笑った。
忍びたちが我に返ったように男に飛びかかる。
妙は叫んだ。
6対1。いかに男が速く強いといえども手練れの忍び6人相手に勝てるわけがない。
だが忠臣と呼ばれたもう1人の男は動こうともしなかった。
そうしている間に、
すばやい突きで1人が倒れた。
小太刀で斬りかかる忍びの攻撃を横にかわしてそのまま腕を振る。2人目の胴と足が真っ二つになった。飛んでくる千本を鍔ではじき飛ばし、その先にいる忍びの心の臓に命中させる。これで3人目。4人目と5人目は2人がかりで来た。1人が飛び出していき、もう1人がその影から攻撃する。が、一振りで片づける。
妙は目を離すことができなかった。
強すぎる。
鬼神のごとき強さとはまさにこういうのを言うのだろう。
妙は助けられているということも忘れてなんだか恐ろしくなった。
しかし目を離すことはできないのだった。
そして6人目も地面に転がっている死体の上に重なった。
「あーあ。よろしかったのですか誠士郎様。生かしておけば前後関係を掴めたやもしれませんのに。」
忠臣が言った。
「ふん。ほざけ。前後関係などわかりきっているだろうが。それに相手は忍びだ。例え尋問しても舌を噛まれるのがおちよ。」
誠士郎が返り血を拭う。
「おい、女。この辺に椿という名の女が住んでいるだろう。案内しろ。」
「ついさっき死んだよ。あんたの言うとおり、舌を噛んでね。」
妙は肩の傷に止血をしながら誠士郎の顔を見た。
誠士郎はさほど動揺する様子もなく腕を組んだ。
「ほう。おまえ、椿の娘だな。どうりで。普通の農民娘にはあの動きはできまい。」
「そんなことどうでもいいだろう!なんだいあんた!おっかあになんの用だったんだい。」
妙はカッとしてつい怒鳴った。
母に会いにきた身でありながらその死をどうでもいいことのように受け止めた誠士郎が許せなかった。
「椿に似て気の強い娘だな。おれは椿に仕事を頼んでいたものだ。約束の刻になっても現れなかったのでこちらから来たんだ。だがまさか死んでいたとはな。」
まさか、と言っておきながら、その口調に少しも驚きはない。
「おまえ椿から何か預かってないか?」
「何も。」
妙は間髪入れず答えた。
そんな物は何もない。もし預かっていても渡す気はさらさらなかった。
「仕方ない。家を探すか。女、案内しろ。」
「誠士郎様、それはやめておいた方が得策です。この娘を殺すための追撃が来ることはもちろん、椿が多少探せば見つかるところなどに隠すとは思えない。死体を持ち去っても奴等はまだ見つけていないでしょう。だからこそ奴等もまた我々と同じ事を考えるはず。」
誠士郎は忠告をした忠臣をにらみつけた。
「よいではないか。それでこそ面白くなると言うものだろう。オレは早く奴の首をはねたくてウズウズしておるのだ。これ以上は待てん!忠臣、おまえは固すぎて時折肩がこるわ。」
忠臣は冷ややかな瞳で受け止める。
「性分ですゆえ。」
妙は複雑な気持ちを抱きながらも今まで走ってきた道を引き返した。

「ほら。案の定。」
忠臣がなんの抑揚もない声で言った。
「ええい、うるさいわっ!」
誠士郎が忠臣に噛みつかんばかりの勢いで怒鳴る。
結局、家を取り囲んでいた忍びたちに妙を人質に取られアッサリ捕まってしまったのであった。
「だいたい女、貴様が簡単に捕まるからいかんのだ。忠臣も忠臣だ。あんな女斬ってしまえばいいだろうが。椿の娘といえど椿本人であるはずもない。あの女になんの価値がある?」
妙は首に刀を添えられた状態で震えた。
恐怖からの震えではない。怒りからの震え。
誠士郎の言葉が悔しい。だが現に自分はこうして捕まり彼らの重荷になっている。
何一つ言い返せない自分がまた腹立たしいのだ。
妙は低くかすれる声で忍びに問いかけた。
「いつまでこうしているつもりだい。」
忍びたちは誰も答えなかった。
代わりに馬のいななきが聞こえた。
見事な毛並みのその馬に乗った人物は馬から下りるとゆっくりとこちらに向かってきた。
全身を黒い布で覆っている。だが忍びではない。歩き方からなかなかの権力者だということが見て取れる。
黒ずくめは誠士郎と忠臣の顔を見ると思わず声をあげた。
「何っ!」
誠士郎と忠臣が唇の両端を少しつり上げる。
「ふん。椿の置き土産を探す手間が省けたわ。この身をもって証拠を得るとはな。なぁ?氏子元家。これで貴様の首をはねることができる。この反逆者が!」
黒ずくめ、もとい、氏子元家は先ほどの失態を取り消すように咳払いし、ニヤリと笑みを浮かべた。
「馬鹿なことを。この状況がまたとない好機なのは誰よりも拙者。ここであなた方を殺れば誰にも気づかれますまい。供を1人しか連れてこないとはなんと不用心なんでしょうねぇ。」
誠士郎は内心舌打ちをした。
以前から反逆の影が見え隠れしていた氏子元家を討つ絶好の機会だというのに。
どうしてあの女なんぞのためにこんな屈辱を受けねばならないのか。
そう思って妙を見た。
「ねぇちょっとそこの氏子とかいうお武家様、私だけはなんとか生かしておいてくれないかしら?」
「なんって女だ、性悪のあばずれめが。」
誠士郎はつくづく憤慨した。
妙はつんとしたすまし顔で続ける。
「私は生きていたいだけなの。だから口封じのために一生どこぞの屋敷から出られなくてもかまわないわ。」
そう聞くと、それまでは全然取り合う気がなかった元家もいやらしい目つきで妙をじろじろと見回した。
「ふ……ん、磨けば光る……か?いいだろう。考えておいてやろう。だがその前に、まずは拙者の足に接吻などしてもらいたいねぇ。」
ゲスな言葉の前に妙はおとなしく従う素振りを見せた。
「ハッ!これだから平民は嫌いなんだっ!」
誠士郎が吐き捨てるように言う。
その言葉に妙は動きを止めた。
「貴族も武士も嫌いでしょう。」
忠臣がいつもと変わらない口調で口をはさんだ。
こんな時でも平静を保っている。
「おう。オレより偉そうな奴はいけすかん。弱すぎる奴もいけすかん。」
「誠士郎様はいつも身勝手ですよね。」
「違うっ!ちゃんと理由があるのだっ!」
忠臣の言葉に誠士郎はムキになって否定した。
もはや完全に自分の置かれた状況を忘れている。
「平民はどいつもこいつも死んだような目をしているだろう!何もかもあきらめたような顔をしてそのくせ内に色々な思いをため込んでおるのだ!ああくそっ。胸くそが悪い!何故だ。何故戦わん。たちむかおうとせん。死んだまま生を終えるよりは戦って果てた方がよほど楽しいはずだ!どうしてそれがわからんのだっ!まったくイライラする!」
元家も周りの忍者たちも思わず2人のペースに巻きこまれて目を白黒させていた。
命の危険にさらされているのだ。それどころではなかろうに。
この場にいる人間が全員唖然としている中で、妙だけが拳を固く握りしめていた。
「さっきからうるさいよあんたは!あんたたち支配する人間から見たら平民なんざ虫けら同然だ。だからそんなことが言えるんだよ。あたしらのひ弱さを知らないから。虫けらがはいつくばって生きて、それでも生きようとして、何が悪いんだいっ!」
妙は誠士郎をにらみつけた。
強い眼差しでまっすぐ、にらみ殺すかのように。
元家は高笑いした。
「ハッハッハ。誠にその通りよ。平民は支配を受けて生きるべきなのだ。さ、接吻せよ。」
妙は今度こそ腰をかがませていった。
誠士郎はその様子を黙って見つめていた。
「でもね。」
四つん這いの体制で動きを止めて言う。
「あたしにだって誇りはあるさ。頭を下げただけで生きながらえるのならそうするけどね!あんたみたいな奴に殺されてなんかやらない、大事な物を曲げられたりなんかしない、あたしらしく生をまっとうしてみせる!それだけは譲らない!」
妙はそのまますばやく逆立ちをし、元家のあごを蹴り上げた。
ひっくり返った元家の刀を奪い、誠士郎に投げ渡す。
「受け取りな!」
「でかした女!」
縄を解いた誠士郎と忠臣は無敵だった。
誠士郎は縄を切った途端妙を片手に抱え込み、一太刀で3人の忍者を斬った。
忠臣もまた誠士郎に上から下から襲いかかろうとしている忍者たちを斬り払っていった。
白刃がきらめいては赤い血の中に消えていく。
妙はその光景を何度も何度も目に焼きつけた。
気が遠くなるまで……

気がつくと妙は見知らぬ部屋の中に寝ていた。
上等なふとんが体を包む。妙は体を横たえたままきょろきょろと辺りを見回した。
うろたえながらも名前を呼んでみる。
天涯孤独の身になった妙には、もはや呼べる名前は二つしかない。
「誠士郎?忠臣?」
そのうちの1人、誠士郎が妙の頭の上に顔を出した。
「おう。起きたか女。」
妙はほっと息を吐き出した。
「ここはどこ?」
「オレの城だ。」
「は?」
「は?とはなんだ。オレの城だ。」
そこに忠臣が顔を出してつけくわえる。
「誠士郎様とは前のお名前。この方の今のお名前は成政様でございます。」
成政。
聞いたことがあった。
この藩の藩主の名だ。
妙は口を開いたまま固まった。
驚きのあまり声も出ない。
育ちのよい傲慢ぼっちゃまだと思っていたらまさか藩主だったとは。
「氏子元家には前々から謀反の疑いがあり我々はその証拠をつかむ必要があったのです。そこで元々我が藩のお抱え忍者であった椿に任せた。というわけです。」
忠臣は淡々と説明した。
「で、どうしてあたしはここに?}
「それは………」
「女、オレはおまえが気に入ったぞ。」
誠士郎、いや、成政は思う様ふんぞり返った。
「は?」
「は?とはなんだ。とにかくおまえは城に置くことにする。」
「どうしてそうなるんだいっ!そもそもあんた平民は嫌いじゃなかったのか。」
妙は事態が飲み込めなかった。
頭の上から忠臣のため息が聞こえてくる。
「いつものことです。成政様は気に入ったものを城に置きたがるのです。そして手に負えないことに気まぐれです。」
「黙れ忠臣。とにかく女、オレは平民は嫌いだがおまえは他の平民とは目が違う。オレはそういう目をした奴は好きだ。椿も見事な奴だった。椿のように忍者となりオレの役に立て。」
誠士郎の言葉の前に、妙は神妙な顔になった。
「あたしはおっかあに忍者にはなるなと言われてるんだ。言われなくたってなるもんかと思ってたけど今日改めてそう思ったよ。あたしは人を殺さない。おっかあがたくさん殺した分、せめてあたしぐらいは手を汚さずに生きていきたいんだよ。どこまでできるかわからないけどね。」
妙は穏やかに微笑んだ。
その笑顔が決意の証明だった。
「そうか。じゃあ仕方がないな。おまえオレの妻になるか?」
妙は容赦なく成政の顔を殴った。

翌日妙は城を後にした。
これからどうやって生きていくのか、成政の誘いを断りはしたものの、自分でもまるで見当がつかなかった。
それでも、なんとかなるだろう。
生きている限り―――。
妙は力強い足どりで城門を出ていった。
その後ろ姿を見つめながら忠臣はつぶやいた。
「お気に入りを手放すとは珍しいですね。」
成政は不機嫌そうに言った。
「ふん。オレにだってわかっているんだ。あの女は土にまみれて生きるからこそ見事な奴なのだ。」
忠臣は成政の横顔を見て微笑し、手をたたいた。
「それでは中へ戻りましょう。責務が待っていますよ。」
「おいっ!そういえばあの女の名はなんだっ。」
「逃げようとしても駄目です。」

空には雲一つなく、澄み渡った青の真ん中で太陽がまぶしく輝いていた。
END.
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