『転ばぬ先のゼロ』

 教室にいた面々は一様に苦笑を浮かべた。
「ミッキー! 聞いて聞いて聞いてーっ! さっき先生に『どうしても第一志望考え直す気はないのか? 自殺だぞ?』って言われたぁーっ! 超超超超ちょぉーっショックだよぉーっ!」
扉を壊す勢いで飛び込んできた朝子が今日も今日とて絶叫する。
「あたしの頭が悪いのはよーくわかってるけどぉーっ、でもでもでもでもやっぱり何回言われたってショックなものはショックなんだぁーっ! うわぁーん、ミッキーの脳細胞あたしに分けてーっ」
 朝子は感情の動きが激しく、少しのことでもショックに震え、小さなことにも感動する。そのたびに胸に渦巻く思いのたけを、こうして吐き出しにくるのだった。
「あたしだって勉強してるのにぃーっ、頑張ってるのにぃーっ、塾の先生にも同じこと言われたのーっ! うー。かーなーしーいーっ」
 廊下まで響く大声に、答える声は聞こえてこない。
それもまたいつものことで、クラスの人間たちはつくづく二人の関係を不思議に思う。
 拳を打ち付けて訴える朝子の前で、三木善一は静かに本のページをめくった。
つまらない本だった。男と女が恋に落ちるが、男は妻帯者で、二人は当然のごとく引き裂かれる。そうしてあれやこれやでとうとう主人公の女が自殺する。
善一は眼鏡の奥の目を眇めた。
様々なリスクを知りながら不倫を続ける二人の気持ちもわからないし、恋に破れたくらいで自殺に走る女の気持ちもまったくもって理解不能だ。こんな恋愛は実際にありえるのだろうか。
しかし、もしもこの主人公が目の前の彼女であったなら、ありえないとは言いきれないかもしれない、と彼は思った。
 「あっ、ミッキーやっとこっち見てくれたー! あたしの話ちゃんと聞いてた? ミッキーがクールなのはわかってるけど、聞いてくれないのはやだーっ!」
 加藤朝子。通称、馬鹿騒ぎ女。馬鹿っぽい口調で馬鹿みたいに感情をむき出しにする馬鹿だ。「演技してんでしょ? 天然っぽく」という意見もあるが、善一は知っている。
奴は素だ。
 「……いいかげんネズミみたいに呼ぶのはやめてくれないかな」
善一は眼鏡の位置を直しながらページに目を戻した。
「えー? ミッキー不愛想だから、名前くらい愛想あった方がいいと思うなー。あたしの心遣いってやつデスヨ。そー、れー、よー、りぃー。あたしってそんなに、どぉーしよぉーもないくらい頭悪いのかなぁ? 頑張ってもしょうがないくらい? ねぇミッキー、どう思う?」
「そんな面倒な質問は先生にしてくれないかな」
気休めを言うのも面倒なら、正直に答えていざ決断を下すときに理由として持ち上げられるのも面倒だ。
「それに、何言ったって第一志望を変える気なんかないくせに。無駄なことをさせるのはやめてほしいな」
そう言うと、ページの端を持つ善一の手を、朝子が両手でしめつけてきた。
「ありがとうっ! ミッキーってばあたしのことよくわかってくれてる! それって訳すと『気にせず頑張れ』ってことだよねっ? そうだよねっ? あたし、絶対頑張るからっ!」
ピンクの爪が赤い三日月を描く。
「異世界の言葉で訳さないでくれないか」と、言おうとして顔を上げ、善一は眉をひそめて息をついた。
「泣くなら人のいないところで泣いてくれないか」
朝子は猿のように赤い顔をしている。
「だってぇ……先生の前では我慢したし、さっきだって我慢してたのに、ミッキーが不意ついて嬉しいこと言っちゃうからぁ……っ」
言った覚えはない。
だがそんなことでいちいち反論を返すほど善一は几帳面な性格をしていない。
「……授業が始まる。自分のクラスで泣いたら?」
聞き耳を立てていた生徒たちが「おいおい、そりゃないだろ」と、思わず裏拳でツッコミを入れてしまうようなセリフを吐きながら、善一はパタンと本を閉じた。
「……ん。ミッキーは、第一志望、変えないの? 勉強しなくてあれだけ頭いいんだから、勉強したら東大にだって受かっちゃうかもしれないよ?」
朝子が涙を拭いて頷く。
教師陣からも両親からもことあるごとに聞かされてきた言葉に、善一は何度も使い倒した言葉でもって返答した。
「そこまでする価値を見出せない」

 五時間目は数学だった。
 遠くにチョークの音を聞きながら、善一は最初の一ページをめくる。
巷で感動的だと評判になっている小説だ。極限状態においても変わることのない信頼関係が泣けるらしい。
あくびを噛み殺しながら目次を見た。
『死闘』、『限界』、『再開』。それなりにドラマを感じさせる単語が並んでいる。目次だけで一冊読み終えた気分になれそうだ。
右手で頬杖を突き、左手ではらりとページを落とす。

 「三木」

低い声が降りてきた。
見上げると、細い目をした数学教師が眼鏡を光らせて立っている。
善一は左手に持つ小説をそのままに、「なんですか?」と目で尋ねた。
授業内容は理解しているし、うるさくしているわけではないのだから他に迷惑はかけていない。先生さえ見て見ぬふりをすれば滞りなく進むはずである、というのがいつも掲げている善一の理屈だ。それでも「気が散る」とか、「TPOをわきまえろ」とか言われた場合には従ってもいいと思っている。が、たいていの教師はにらみをきかせるだけで、特に何も言おうとしない。面白くなさそうに黙認する。
さて本日の数学教師はどのような対処に出るのか。
静寂の中待ち続けると、教師はこれみよがしなため息をついた。
「三木、おまえは本当に、……情けない。情けなくて……涙が出る」
そのまま背中を向けて再びチョークを鳴らし始める。もちろん目元は乾燥しきっている。
善一は元々抱いていなかったはずの期待を冷ややかな落胆で塗りつぶした。
新しく読み始めた小説は、やはり、つまらなかった。

 「ミッキー聞いて! ニュースニュース大ニュース!」
 チャイムが鳴り、朝子がハト時計のハトのように飛び出してくる。
ちょうど扉を開けようとしていた数学教師の横をすり抜け、善一の机にタックルをかます。善一は小説を持っていた手をひょいっと持ち上げて避けた。
 「さっきの時間体育だったクラスってどこかわかるっ? ねーねーっ、わかるっ? わかったら教えてお願い!」
常時上り坂のハイテンションが天井破りを繰り返す勢いで朝子が迫る。
善一は慣れ親しんだ嫌な予感に眉を寄せ、

「なんとこの加藤朝子、体育の時間頑張るあの人に一目惚れ、だぁーっ!」

見事的中した脱力感に息をついた。
 「またかよ加藤ー。どうせまた振られっからやめとけよー」
「そうそう、おまえに合わせられるようなヤツなんかいねぇって」
「なぁぬぅおぉー? 乙女が恋して何が悪いっ! 今度の今度の今度こそはラブラブカップル誕生するかもしれないっしょ!」
 周囲の男たちのからかいに本気で怒鳴っている朝子はついこの間も一目惚れと失恋を繰り返したばかり。今回を入れると今年十三回目の失恋ということになる。とにかく惚れっぽい。
しかしいいかげんな気持ちではないようで、失恋直後は毎度毎度泣くわ叫ぶわボロボロで、被害をこうむるのはいつも善一だったりする。朝子は善一に聞かせることで悲しみの発散を図るのだ。
 善一はすぐそこにある先を見越して本を閉じた。とても読む気にはなれない。
ちらりと見た朝子は頬を淡く染め、ひどく浮かれた顔をしている。
頭が重くなった気がして眼鏡を取った。
「ああ〜っ、名前なんていうのかなぁ〜? 近くで見たらどんな感じだろ〜? きっとカッコイイんだろうなぁ〜っ。いかん、こうしている場合じゃない! さっき体育だったってことは今着替えてるってことだよね、よっしゃあ〜、教室巡りしてくる! ミッキー、報告お楽しみにぃ〜っ!」
レンズを磨いている間に、朝子はロケットのように飛んでいってしまった。
 眼鏡をかけ直すとクラスメイトがにやにや笑いながら話しかけてくる。
「よぉミッキー、おまえ妬いたりしねぇの?」
馬鹿馬鹿しい。
あまりに馬鹿馬鹿しかったので、善一は閉じたページを再び開いた。
つまらない内容だが、少なくとも書物は何も言わない。
しつこく絡んでくる暇人をひたすらに無視し続け、ようやく飽きたかと思ったら、
「ミッキーってばぁ〜」
おぞましい響きが耳を襲った。
朝子の口調をまねただみ声。
「……俺は三木だ」
思わず一言返してしまった後で、善一はふと、自分をからかう男の名前を知らないことに気がついた。
クラスメイトだ。顔はわかる。よく突っかかってくる相手だ。
さて名前は何といったか。
三秒ほど考えて、「知らなくても問題はない」と結論づけた。
とりあえず小説の主人公の名前はマイケルといった。

 放課後、ほうきで教室の床を掃く善一に、朝子はやはりうるさかった。
「でねー、サッカー部なんだー。レギュラーらしいよ! 近くで見たら惚れ直しちゃったー! へへへー。えっとね、えっとね、名前は……木村正勝クン! 『キム』って呼ばれてたぁー! あぁ〜、一緒のクラスだったら『加藤』と『木村』で出席番号近かったかもしれないのになぁ〜。進路はどうするんだろう……。くそお、情報たりなさすぎっ!」
そんなことを自分に告げて何がしたいのか、以前聞いてみたところ、「誰かに聞いてもらえるだけで嬉しい」らしい。
「ミッキーは木村クンのこと何か知らない? ミッキーと同じ中学出身らしいよ?」
「……初めて聞く」
今のクラスメイトの名前だって知らないのに、中学の頃のことなど知るわけがない。
「ちぇ〜っ、そうなんだぁ〜?」
朝子は本当に残念そうに眉を八の字にした。
「もっと知りたいな、木村クンのこと。あたしみたいな子、好きかなぁ? 好きだったらどうしよぉ〜、きゃーきゃーきゃーっ!」
内心「これまでの失恋経験から何を得ているのだろう?」と頭を押さえつつ、すでに結果が見えている善一は、「ほこりが舞うから、浮かれるのはやめてくれないかな」と言うだけにとどめておいた。

 騒ぐだけ騒いだら、泣きたいだけ泣けばいい。
いつものように。

 と、思ったのに。

 「は?」
善一は思わず間の抜けた顔を晒してしまった。
「だから、だからねっ! そのぉ〜、木村クンが、『付き合ってもいい』って言ってくれたのー! きゃーっ、恥ずかしいー! 嬉しいけど恥ずかしいよぉーっ! あはははは、顔真っ赤だよね、えへへ」
 あれから一週間後。
昼休みののどかな空気に満ちていた教室が、突如一時停止を余儀なくされた。
「嬉しいよ〜、初めてー。初めてなんだー、そんなこと言ってもらえたの。うわー、どうしよう。どうしよう、ミッキー。照れて照れて照れまくりー!」
朝子は自分で言う通り、顔を真っ赤にして善一の肩をばしばし叩く。
善一は眉間を指で押さえ、世の中にあふれる不思議について考えていた。
が、次の瞬間朝子が言った言葉に目を見開く。

 「今度の試験で上位十位以内にくいこむだけで付き合ってもらえるんだよーっ!」

「……それは」
遠回しに断られたんじゃないのか?
教室の中の一人がつぶやき、誰もがそろって同意する。
 朝子の頭の悪さは本人が吹聴していることもあって有名である。はっきり言って下から数えて十指に入る。勉強していないわけではない。どんなテキスト、どんな先生にすがろうと、どれだけくまを作ろうとも駄目なのだ。周りが投げた匙でエベレストができる。どうしようもない頭の悪さ。本当にどうしようもない。
 なのに、
「頭の悪い女は嫌いなんだってー。だから、頑張るんだっ! 恋愛にうつつを抜かして受験がおろそかになっても駄目だしね、……なんか、木村クンって優しいー! ふっふっふ。俄然やる気でちゃったー!」
未だ一つの匙も投げたことのない本人は、どう考えても勘違いしているとしか思えないセリフを叫んで拳を掲げる。
「というわけで、ミッキーお願い、勉強教えて! 先生にも頼んできたけど、ミッキーも! 現国古典漢文数学生物日本史倫理保健、全部全部わけわかんないんだよぉーっ!」
 善一は深い息を吐きながら、努めて冷静に朝子に聞いた。
「告白した相手がどう答えたのか、覚えている限りで一字一句そのままに言ってみて」
朝子は上気した顔をうつむかせ、もじもじしながら頭を掻いた。
「え、んー。んとね、『ありがとう。でも頭悪い女嫌いなんだよなー。だからおまえが次の試験上位十位以内に入ったら付き合ってもいいけどー? んじゃ、頑張ってねー』って! へへ、すっごく優しい笑顔だったんだー!」
「……それで」
「え? だから、頑張るぞーっ! って」
「上位十位以内に入れると思うんだ?」
「は? だから、頑張るぞーっ! って」
朝子は何もわかっていない。
善一は目を閉じて息を吐き、ほんの少し、口元を緩めた。
 「……何から教えてほしい?」
教室のあちこちで息を呑む気配がする中、朝子が晴れ晴れとした笑顔になる。
「数学ー! 全部苦手だけど一番わけわかんない気ぃするんだよねー」
「わかった、じゃあ放課後」
「あっ、駄目。今日は美術部だからー。あー、でも明日は写真部だー。……終わるまで待ってて……って、ちょっとわがまますぎだよね、うーん……」
「いいよ、待ってる」
「ほんとっ? ありがとうミッキー! 優しいーっ! ミッキーみたいな友達を持って加藤朝子は本当に幸せですっ! うえーん。どうしよう、涙出てきた……っ」
「……授業が始まるまでまだ間がある。さっさと顔洗ってきたら?」
「そうするー。ほんとに、ほんとぉーに、ありがと……ありがとね、ミッキー」
 制服の袖で顔を拭いながら朝子が出て行く。
扉の閉まる音を聞き、善一は机の上の小説を手に取ろうとした。
 「ミーッ、キー。どういうつもりだよ?」
聞き慣れた声がかかる。
ことあるごとにちょっかいをかけてくるこの男の名前が何なのか。善一は未だにわからないのだが、未だに会話に支障があったことはなかった。
「俺は三木だ」
ページをめくろうとした小説を取り上げられる。
善一は怪訝に男を見上げた。
「あれアイツどう考えてもだまされてるだろーが! なんでおまえが教えてやらないんだよ!」
男はまるで自分のことのように怒りをあらわにしている。
善一は片眉をつり上げた。
「だまされているかどうかはまだわからない。実際に上位十位以内に入った後、相手の男が約束を反故にして初めてだまされたことになるんじゃないか」
「なっ、加藤が十位以内に入るわけないだろーっ? しかも試験は二週間後だぞっ?」
「二週間後のことなんて誰もわからない」
「……それは、わかるだろっ、加藤の場合!」
段々と語気を荒くしていく男に対し、善一は終始淡々とした口調で。
「もしも大方の予想通り努力の成果が表れなかったとしても、加藤が泣くだけの話だ」
とうとう男の拳を食らった。
 教室が騒然とする。
「おまえと加藤は友達なんだろっ? 何か? やっぱりおまえはアイツに惚れてて、自分に振り向かない腹いせにこっぴどく振られちまえとか思ってるわけかっ?」
殴られた頭を押さえ、善一は眼鏡を外してフレームが歪んでいないことを確認した。
「……俺は加藤を友達だとは思っていないし、もちろん恋愛対象として見たこともない。ところで、どうしておたくがそんなに怒って、どうして俺が殴られたのかがよくわからない。おたくが加藤に惚れてでもいない限り、他人事だ」
目の前の男が再び怒りをきらめかせたのがわかった。
善一は眼鏡をケースに収め、何気ない視線で、しかし、目をそらさなかった。

 「ミッキー、ケンカしたって本当っ?」
「してない」
「でもみんな言ってるよっ? ミッキーがケンカしたって! クラスの子が先生呼びに行ったっていうし、ミッキー保健室にも行ったんでしょ?」
「……転んで頭をぶつけただけだって、先生にちゃんと言ったんだけど」
「転んで?」
「色々とタイミングが悪くて」
「うわぁー、災難ー。でもそうかー、そうだよねー。ミッキーがケンカするほど怒るって想像できなかったもんー。でもでもでもでも大丈夫っ? 頭痛い? 今日無理しなくてもいいよっ? 脳みそ悲鳴上げるかもっ! あたしなら、一人だってぇ……なんとか、頑張るしっ!」
「……大丈夫」


 三木善一が加藤朝子の名前を知ったのは、本人が名乗ったことによる。
善一が朝子の名前を覚えたのはそのときだった。
 高校一年の秋。文化祭を翌日に控え、学校全体が慌ただしい雰囲気に包まれていた頃。
 廊下のあちこちに散らばる折り紙や絵の具やガムテープなどを避けながら進んでいると、鼓膜が破れんばかりの悲鳴が美術室から聞こえてきた。
「かーなーしーいーっ! どうしてぇ〜っ? どうしてあたしの最高傑作になるはずだったティラノサウルスがガチャピンみたいになってるのぉ〜っ? 昨日見たときは完璧だったのにー。どうしよう〜、もう乾いちゃってるぅ〜っ」
周囲の時が一瞬止まる。
しばらくしてクスクスという笑い声と、
「また加藤だよー、今度は一体何があったんだー?」
「なんか困ってるみたいだけど……」
「どうせまたオーバーに言ってるんだと思うよ。あの子いちいち大袈裟でうるさいから」
ひそひそとした囁きがわき上がった。
善一は耳を按摩してそのまま通り過ぎようとした。
しかしタイミング悪くすぐ横で美術室の扉が開く。
なんとなしに目を向けた善一の前で、赤絵の具で塗りつぶしたような顔が涙に濡れそぼっていた。
ひっきりなしに目元を擦り、ひっきりなしにしゃくり上げ、まるで幼児のような泣き方をしている。
善一は思わず足を止めた。
女はもう少し見映えを気にした泣き方をするものだと思っていた。
小学生ならともかく、高校生なのだ。こんなにも感情をむき出しにできるものなのか。
「どいてください〜」
言われてやっと、進路をふさいでしまっていたことに気づく。
善一が道を開けると、女は小走りで廊下を進む途中で、「いいかげんにしろよ泣き虫」だの、「また泣いてんのかぁ〜?」だのといった声をかけられ、それらに対していちいち「うるさいなぁっ! 絶対絶対明日までにはなんとかしてみせるーっ!」と、いまいち噛み合っていない絶叫を返していた。
 翌日、なんとなく、美術室に向かった。
展示されている紙粘土の像の中にガチャピンはいなかった。代わりに、細い二本足の、うまく支えるのはさぞ難しかったであろうティラノサウルス像があった。綺麗に着色されて、子どもたちの人気と大人たちの関心を一身に集めている。
「う〜れ〜し〜い〜。よかったー、よかったぁ、よかったよぉー! 本当ぉーにうーれーしーいー!」
どこからか響く絶叫には聞こえなかったふりをして、善一はそっと美術室を後にした。
 それから度々騒がしい声に振り向くようになった。とらえた姿は動作も騒がしく、せわしない。
少しのことでもショックに震え、小さなことにも感動し、鬱陶しいほど、いちいち大袈裟に、いちいち……全身全霊で。

 「どこにそんなに喜んだり悲しんだりすることがあるんだ」

もれ出た言葉は無意識だった。
善一は耳に届いた自分の声が信じられずに瞬きした。
そのつぶやきが、相手の耳にも届いていたのは、まったくもって、運が悪かった。
 「今のあたしのことっ? あたしのことだよねっ? 三木クンの声初めて聞いたーっ! 三木クン超クール・超無口で有名なのにーっ! うわぁー、うわぁー、レアだ。レア声! なんか嬉しいーっ! もっとしゃべってー!」
それからはまるで坂を転がるように。
「すごい! すごいぞ三木クン。初対面であたしに動じないでいてくれる人初めてだー! 友達っ! 友達になろうっ! あたしの名前は加藤朝子! よろしくー!」
有無を言わさず、強引に。
「やっぱりミッキーと友達になれてよかったー! ミッキーあたしの話最後まで聞いてくれるんだもんー。途中で疲れてあたしのこと嫌いになる人多いのに。ていうか男子が話聞いてくれるなんて思わなかったよ。うう……また涙出てきたーっ。ありがとう。ホントありがとねーっ!」
どうしようも、なく。
三木善一は、加藤朝子の、一番の親友というものにされてしまった。
三木善一にとっての、加藤朝子は――


 「そういえばいつもあたしばっかり力になってもらって、ミッキーの恋愛話聞いたことない」
勉強を教え、「今日はこのくらいで」と立ち上がった途端、朝子がそんなことを言い出した。
「ミッキー好きな人いるっ? 片思い中なら絶対協力するよっ?」
善一は取り合わずに教科書やプリントを鞄にしまう。
「そっかー、やっぱりいないかー。だよねー、ミッキーあんまり他人に興味抱かないもんねー」
勝手に解釈した朝子は勝手に残念がって、
「こんなにドキドキうきうきワクワク、甘く切なくほろ苦い気分を味わえないなんてちょっともったいない気がするけどなー」
恋しい男を想像したのだろう、頬をピンク色に染め上げた。
「そうだ! ミッキーの女友達ってあたしくらいでしょっ? ならばあたしがミッキーに可愛い女の子を紹介せねばなりませんなっ!」
突如拳を握りしめて決意に燃えだす朝子に、善一は呆れたため息をつく。
「……いらない。そこまでする意味を見出せない」
「んー。なんかミッキーいっつもそれだなぁ。ミッキーがいいならいいけど……楽しいのになー、恋愛」
朝子は机に突っ伏し、クスクスと笑い出した。
「あのねあのね、木村クンね、体育の時間、高跳びの記録とってたんだけど、跳び方が違ってたんだ。両足そろえて跳んじゃってた。だから、先生に練習するよう言われたんじゃないかなぁ? 少し離れた場所で一人でずっと練習してたよ。きっとすごく恥ずかしかったのに、練習して……授業が終わる頃にはちゃんとした跳び方ができるようになってた。頑張ってるところが、カッコイイなぁー、好きだなぁーって思ったんだ〜。その後あたし先生に『窓の外に何かあるのかね』って怒られてすっごく恥ずかしかったけどね」
善一はわずかに眉を上げた。
「あっ、今『たったそれだけで?』って思ったでしょ! いいんだってば、きっかけだから。一つ知って、どきどきする。たくさん知って、もっと好きになる。もっともっと好きになって、好きだなぁー、嬉しいなぁー、って思うんだよ。へへへー、あー、照れるー。照れるよぉー」
朝子は顔を腕に擦り付け、自分で自分の頭を掻いた。
「あたし、頑張ってる人が好きだな。ミッキーはどういった人がタイプ?」
「……考えたことがないからわからない」
「ミッキーに好きな人ができたら、あたし絶対協力するから! 覚えといてね!」
善一はかすかに苦笑して、曖昧に頷いた。

 友達でもない。恋愛にはならない。
三木善一にとっての加藤朝子は、観察対象、ということになる。

 試験の日。
出席番号順に並び直して席に着いた善一の肩を、ぐいっと引き寄せる腕があった。
「で、成果はどうなんだよ」
自分を殴った男だ。どうやらすぐ次の出席番号だったらしい。絡む回数が多いのは絡む機会が多いからかと、そんなことを思いながら腕を払う。
「『加藤』らしい成果だ」
善一は前を向いて言った。
「それって……」
男の声が怒気を孕むが、気づかなかったふりをした。
 しばらくしてから配られた答案用紙に名前を書き、上から順に解いていく。
自分が朝子に教えたのは問題の解き方の『ノウハウ』だけで、一問一問丁寧に解説したりヤマをかけたりはしていない。その辺りは本人の努力や先生方に任せていた。
今朝会った朝子の目の下にはひどいくまがあった。
それでも、問題を見なくてもわかる。
朝子の結果は前回とほぼ変わらないだろう。
そしてそれは――自分の望みでもある。
 善一はシャーペンを置き、チャイムが鳴るまでの長い時間をどうやってつぶそうかと考えた。
以前問題用紙の裏に試験監督の似顔絵を描き、見回り中にそれを見た試験監督がカンカンに怒ったことがある。「真面目に取り組め!」と。真面目か不真面目かといったら自分は不真面目だが、どちらにしろ終わった後は暇だろう。まさか似顔絵が似ていた、あるいは似ていなかったから怒ったというわけではあるまい。
心底真面目な連中は、頭の中で次の教科の復習でも始めるのだろうか。
善一はあくびを噛み殺した。
こころなしか試験監督の目が鋭くなっている気がする。この時間の試験監督は、そういえばあの時の試験監督も、例の数学教師だ。
気が合う相手ではないが、嫌いではない。単に真面目なのだろうと善一は思った。
真面目な人間が不真面目な自分に期待をかける。自分は不真面目ゆえに期待に背く。
繰り返されてきたことだ。
変わらない。
そうこう考えている間にチャイムが鳴った。
 しばらくして飛び込んできた朝子は「どうしよう」と泣きじゃくっていて、善一は背後から刺すような視線を受けながら、いつもとまるで変わらない対処をした。


 その記憶は小学生の頃に始まる。
教師が聞いた。
「みんな、勉強は何のためにすると思う?」
斜め前に座っていた生徒が手を挙げて答えた。
「将来のためにだと思います」
「そう、その通りだよ。君たちはこれから様々な夢に向かっていく。勉強はそんな君たちを助けてくれるんだ」
満足そうに頷いて高説たれる先生を、善一は不可思議なものを見る目で見てしまった。
勉強は現代日本社会から与えられた課題の一つにすぎない。社会の中で煩わしい思いをしないためにこなすべきもの。
このクラスの誰も、『夢』なんてもののために勉強してはいない、はずだ。
少なくとも善一はただ与えられた課題をこなすだけだった。

 『夢』のある人間は違うんだろうか?

 卒業文集。「善一くんはきっとえらくなると思います」とか、「善一は将来社長になると思う」とか書かれながら、当の本人は「ぼくは将来ふつうのサラリーマンになると思います」と書いていた。
他のページには「スチュワーデス」「医者」「小説家」、そうそうたるメンツが並ぶ。

 自分にはこんな『夢』はない。『目標』もない。

 多くの能力をもてはやされながら、かけがえのない夢を見つけることができずに、高校生にまでなってしまった。
頑張れば、この上なく良い大学に入ってこの上なく良い会社に勤めることはできるかもしれない。
けれどそこに情熱はない。
すべての価値観はただ一点にのみ集約される。
それに適わないのに、やればできそうなことをわざわざやる意味はどこにあるのか。
 人生はくだらない小説よりもつまらないものだ。
しゃにむに突き進みたい道も、なんとしてでも乗り越えるべき苦難も、どうあがいてもどうにもならない壁も、何もない。
いつのまにか一生懸命やるということを忘れた。喜びを見出せなくなった。何もかも虚しくて、少しの楽しみもない。
無味乾燥。――うつろな人生。

 どこにそんなに喜んだり悲しんだりすることがある?

 ……あるのだ。
しゃにむに突き進みたい道が、なんとしてでも乗り越えるべき苦難が、どうあがいてもどうにもならない壁が、すべてそこにある人間には。
教師の言うところの『自殺』を。数々の失恋を。数多の嘆きを繰り返し、泣くわ叫ぶわボロボロになっても、懲りもせず再び立ち上がる朝子。
 ずっと思っていた。
叩きのめしてやりたい。
二度と立ち上がれないくらいに。
その時の朝子を、観てみたい。

 こんな人間を『友達』とは言わない。


 はたして朝子の結果は散々たるものだった。
試験終了直後の確信通りに、返された答案に並んだペケの数は代わり映えがない。
善一の机に突っ伏して、わんわん声を上げて泣いている。
あと数枚返ってない答案があるようだが、現段階ですでに十位以内は雲の彼方だ。
善一は何も言わずに、ただ机を貸して泣きたいだけ泣かせておいた。
泣くだけ泣いて、どうしようもないものはどうしようもないのだと、悟りが染み入った後が観たいのだ。
 朝子は弁当も口にせずしこたましゃくり上げた後、突然すっくと立ち上がって言った。
「あたし、木村クンのとこ行って頼んでくる! また今度の試験まで待ってくださいって。木村クン優しいから、待ってくれるかもしれない。待ってくれないかもしれないけど、頼むだけ頼んでみる!」
未だ止まることのない涙を懸命に拭い落とし、鼻の付け根にしわを寄せて鼻水をすする。
善一はうっすらと口を開いたまましかし何も言えずに、相変わらず汚い泣き顔だと、そう思った。
 「早速行ってくるね!」
止めるのも待たずに飛び出して行く。
結局――朝子が打ちひしがれるだけ打ちひしがれていたのは、自分の前では……昼休みが始まってから今までの三十分間のみだ。
少しのショックにも震えるくせに。本気で泣き喚いて、心の底から傷つくくせに。
同じくらい容易いことだとでもいうように、すぐに顔を上げてみせる。いつも、いつでも。
 善一は内心で歯噛みした。
同時に肩の力が抜けた。
頻繁に絡んでくる男に顔を見られることがないように、眼鏡の位置を繰り返し整えた。

 五時間目が終わった休み時間、朝子は来なかった。
ホームルームの終わった放課後、朝子は来なかった。
口さがないクラスメイトたちのざわめきに耳を澄ませてみても、『加藤』の名前は聞こえてこない。
と思ったら、
「ミッキー、珍しく加藤来ないけど、あれからどうなったんだろうなぁ?」
いつもの男が肩に腕を乗せてきた。
「承諾されるわけはないよな? 元々断り文句だったんだろうし。だったら今ごろ加藤は泣いてるに決まってるよな? どうしておまえんとこ来ないんだろうなぁ?」
「俺は知らない」
「気にならないって?」
「そうでもない」
男は不快そうに顔をしかめながら、口元だけをにやつかせた。
「気になるんならどうしておまえは大人しく机運んでんのかなぁ?」
「来なければおかしいということもない」
むしろ毎回来ていたことの方がおかしいのだ。普通なら。
「加藤なんだから来なけりゃおかしいだろーが!」
男の言うことはもっともだった。
「おまえ、アイツ慰めようとか相手殴ってやろうとか全っ然思わないのか?」
「加藤の恋愛問題に俺が口を挟むことはない」
「だったらオトモダチとして力づけてやろうとか……っ」
「友達だと思っていない」
「あーっ、ったく、俺がおまえを殴りてぇーっ!」
「もう殴った」
「もう一度だ、もう一度!」
 男の言葉を適当に捌きながら、善一はひどく落ち着かない気分になる。
朝子が今どこで泣いているのか、何故自分のところへは来ないのか、まったくわからない。

 相手の男は何と言った。
断りの言葉を、どんなに手ひどく加工した。
どうやって、おまえを打ちのめした。

 「相手の、男の――名前は?」
善一はうわごとのようにつぶやいた。
「へ?」
間の抜けた声と共に肩に置かれた腕がずり落ちる。
「おまえ、あれだけ間近で連呼されて覚えてないのかっ? 『木村』だ『木村』! 『木村正勝』! サッカー部で、レギュラーで、『キム』って呼ばれてて、えーっと、あとなんだっけか……毎日のように聞かされたろーっ? ああああーーーっ、あれ! アイツ! あの男が『木村』だぁーっ!」
 勢いよく指差された先に、薄ら笑いを浮かべた長身の男がいた。
見た目に合わない、少し高めの声。
騒がしい掃除の時間。廊下から、教室に、まるで投げ入れるかのように響かせる。

「だからハッキリと言ってやったんだよ。『何勘違いしてんのー? 俺はもうきっぱり断っただろ? どれだけ頑張ろうが、おまえが十位以内に入るわけないだろ?』って。そしたら呆然としててさー、普通なら最初に言われた時にわかりそうなもんだろ? なのにマジで勉強したらしいんだよ。聞いてた以上に、ほんっと馬鹿なヤツー」

 善一の足が動く。
善一の腕が動く。
左手が『木村』の胸ぐらをつかみ、口が問いかけた。
「……加藤に告白された相手はみんな苦笑しながら断るのが普通だ。それを……加藤が馬鹿だと知った上で、もてあそぶような断り方をした理由は?」
「な、んだよ、おまえ、離せよっ!」
『木村』が怒鳴る。
善一の心も静かに怒鳴っている。
何故自分が。この男に問い詰める必要があるのか。
「答えないと殴る。理由は?」
殴ればやり返され、サッカー部の相手と自分とでは勝ち目はないだろうに、何故わざわざ、疲れるだけのことを。
「……あ、い、つ、俺に惚れたのは……っ、高跳びができなくて頑張ってるところを見たからだとか言ったんだぞっ? それで、好きだとか……どうとか……っ、あいつが先に馬鹿にしたんだ! 俺はちょっと嫌味を言ってやっただけで、あいつが馬鹿すぎただけだろ……っ!」
ようやく吐いた『木村』の理由は意味が不明だ。
高跳びができなくて頑張っているところを見て惚れたから馬鹿にしている……?
高跳びが上手いところを見て惚れていたらよかったとでもいうのか。
善一は嘲笑を浮かべた。
拳を握りしめる。
 結果は目に見えている。
この一発をぶち込んだら後はひたすらにやられるだけだ。
相手のプライドは身長以上に無駄に伸びていそうだ。一方的にやった後は駆けつけた先生に「仕掛けたのは向こうだ」とでも言うのだろう。先生は喧嘩両成敗の雰囲気を醸し出しながら鬱陶しく理由を聞き、鬱陶しくなだめ、鬱陶しい決まり文句をよこすのだ。次の日はさぞかしクラスメイトの視線と囁きがうざったいことだろう。
この一発を、ぶち込んだら。

 たくましい想像力のストッパーを、外さなければならない。

 きっと、今。壁はここにある。

 「頑張っている人が、好きだと、言っていた。……たぶん、自分がそうありたいからだろう」
善一は奥歯を噛みしめた。
すべての怒りを掘り起こすかのように肩を持ち上げる。
威力は思いのままにならなくてもいい。
当たれ。ただ、当たれと。
日ごろ小説のページをめくる手を、岩のようにして、相手の顔面にめりこませた。
 その後は――まったく、善一の想像した通りだった。
唯一想像と違っていたことは、未だに名前のわからない、おそらくはマ行で始まる名字の男が善一の味方として参戦したことだ。
先生の小言もどこ吹く風、にやにやと笑っている。
先生が姿を消した途端、
「いやー、ミッキーってばちゃんとやるときはやるんじゃーん。ほっとしたー、ついでにすかっとしたー。よかったよかった」
などと言ってきた。
「……うるさい」
善一は頬を押さえてうなった。
きっと腫れるだろう。顎ががくがくする。腹や鳩尾も散々に殴られて、すねを蹴られて。この上なくみじめな気持ちが胸に溜まる。
なのに、

 「ミッキー!」

今一番会いたくない顔が、息せき切ってやってきた。
「木村クン殴ったって、本当っ?」
今の今まで涙に濡れていたことがまるわかりな。小学生並みの。猿のように赤い。汚い顔。
「どーして……ミッキーが、人……殴るなんて……」
「……うるさい」
善一は鞄をつかんで早足で歩き出した。
朝子が小走りで追いかけてくる。
気の利かない女だと思った。

 「ミッキー、ミッキー待ってよ。わかんないよ。どうして……だって……」
一歩歩くたび、体のあちこちが痛い。
「もしかして……あたしの……」
消えそうな声に腹が立って、出せる限りの大声で怒鳴りつけた。
「おまえのせいだっ! 全部、全部おまえのせいだっ! どうして俺が……っ! どうして……っ」

口の端が切れる。
視界が歪む。
痛くて。痛くて。

「どうして……こんなことに、気づかなきゃならない……」

奥歯を噛みしめても、どうしようもなく。
もれてしまう嗚咽を、
おまえにだけは。
聞かれたく、なかったのに。

 『やればできそうなことをわざわざやる意味はどこにあるのか』
やりもしないのにそう言っていた。
 『しゃにむに突き進みたい道も、なんとしてでも乗り越えるべき苦難も、どうあがいてもどうにもならない壁も』
やってもできそうにないことは、最初からあきらめているくせに。
 『そこまでする価値を見出せない』
価値も、意味も。ただ遠くから眺めるだけで、見極めようともせず。

 怒りに任せる前から、殴り返されることを、散々にやられるだろう力の差を、知っていた。
知っていることを、理解してしまっていると、思い知らされた。

たかが一発食らわせるのにあれほど躊躇した自分の心。

『不真面目』なんかじゃない。
ただの、腰抜けだ。

おまえにだけは。
見られたく、ない、のに。

 「おまえなんか……っ、二度と立ち上がれなくなるくらい、ぐちゃぐちゃに叩きのめされればいい……っ!」
地面に向かって叫ぶ。
小刻みな足音は躊躇いもせず追いかけてくる。
言葉の意味を汲み取る頭もないのか。
「どれだけあがいてもどうにもならない、自分の程度を知ればいいっ!」
ひどいことを言っている。
「ずっとそう思っていた! だから望みのない恋愛の手助けも成果の出ない勉強の手伝いもしてやったんだ! おまえが一部の女子から嫌がらせを受けていることも知っていて放っておいたんだっ!」
ひどいことを、言っているのに。
「ミッ、キー……?」
ぐちゃぐちゃの顔で。
すがるように、追いついてくる。
知っている。
どんなにひどく傷つけても傷ついたままで終わる女じゃない。
頑固で強情で底抜けに明るい、不屈の精神。
人より多くのつまづきを経験しているくせに、未だに一つの匙も投げない女。
「おまえのせいだ……おまえがあきらめないから……っ、俺ばかり。どうして、こんなみじめな気持ちにならないといけないんだ……っ」
腕を、捕らわれた。
壊れた眼鏡を何度かけなおしても、世界は歪みきっていた。

 「……ミッキー、あたしのこと……嫌いだったの?」
大嫌いだ。
「でも、あたし、嬉しかったよ? いつも、どんなことも、嬉しかったよ? 話、最後まで聞いてくれるし。みんなやる前から『やめろ』って言うことも、ミッキーだけは絶対応援してくれた。ミッキーのこと、一番の親友だって思ってるよ……?」
大迷惑だ。
「ど、して……あたしがあきらめないと……ミッキーがみじめになるの……? わかんない。わかんないよ……」
頭の弱い女だ。
「ミッキーに嫌われるの、やだ。頑張るから、何を頑張ったらいいかわかんないけど、頑張るから。友達で、いてほしいよぉ……っ」
そんなふうにして、言い出したら聞かないんだ。
ほら、もう涙が乾いている。
目が目標に向かっている。
叩きのめしてやりたい気持ちの裏側で、いつも、そんなおまえを観ていたかった。

 もうやめてくれ。

「俺は、頑張れない。頑張る女は嫌いなんだ」
力の限り、突き放した。
けれど言葉の刺に鈍感な馬鹿女は、空気を読むことにも鈍感で。
「ミッキー、泣いてるの?」
フレームが歪み、レンズにヒビの入った眼鏡を顔に押さえつけたままの意味するところを、これっぽっちも汲み取らない。
それどころか見当違いなセリフをよこすのだ。
「……ミッキーは、頑張らないように頑張ってるんだと、思ってたよ……? 先生に対する態度とかクールでカッコイイって言う子いたもん。喜んだり、悲しんだりを、見せないように、頑張ってるんだと思ってた。……でも、でもでも! ミッキーが思いっきり喜んだり悲しんだりしたいのならしたっていいと思うよっ? ミッキーが泣いても全然変なんかじゃないしっ! 笑ってるところなんかすっごく見たいし! ケンカは、やっちゃえって言っていいのかわかんないけど、怒るのは悪いことじゃないと思うし、えっと、えーっと、恋愛とか、バリバリしてほしいし!」
力が抜ける。
言葉の通じない相手に何を言っても無駄なだけだ。
しずくが頬を伝い落ちる。
眼鏡を外して袖で拭い、声もなく、笑った。

 「……嘘だよ。嫌いじゃない。……頑張る、女は」

「それって! ミッキーあたしと友達のままでいてくれるってことっ? あたしのこと嫌いじゃないってことだよねっ? そうだよねっ? よかったー! 嬉しいよぉーっ!」
両目を覆ってしゃがみ込む朝子に苦笑する。
朝子は突然何かを思い出したかのような奇声を上げた。
「ああっ。……あの、あのう……ごめんね。せっかくミッキー勉強教えてくれたけど、その……あたし……木村クンの言ってたことを都合良く受け止めてただけ……みたい。馬鹿で、ごめんね。二週間もずーっとミッキーに迷惑かけまくっちゃった。……怒っていいけど、いいけど……嫌いにならないでっ! ミッキーに嫌われたらあたしの話最後まで聞いてくれる人いなくなっちゃうっ。ミッキーにだけは嫌われたくないのーっ!」
すぐさま立ち上がって両手を合わせ、固く目を瞑ってうなっている。
善一は体を震わせて、とうとう声を出した。
「ミ、ミッキーが笑ってる。レアだ。超レア。もっと笑ってっ! ……で、でもなんで笑うの……? そうだっ! ミッキーどうして木村クンとケンカになったのっ? どーしてっ? 木村クンがミッキーを怒らせるようなことしたのっ? あ、あのっ……もしかしてあたしの……せい……じゃないよね? ミッキーってばぁっ!」
「……さあね。ケンカの理由はきっと……俺の次の出席番号のやつが知ってるよ」
「ミッキーの、次? 出席番号? え? 誰? 名前は?」
「明日聞く」
「何ソレーっ! ミーッ、キーッ! ミッキーってば〜っ!」
制服の裾が引っ張られる。
がむしゃらな力に笑みを深めながら、善一はひどく楽しかった。
骨に響く痛みも皮膚の裂ける痛みも気にならない。
幼少の頃からかけ始め、今日初めて壊した眼鏡は右手の中。
裸眼で見る世界はあやふやでぼんやりして不安定だけれど、すがすがしい風がまっすぐに吹き込んでくる。
 「……歩かなければ、転ぶこともない。転ばなければ、立ち上がるなんてこともないんだな」
「ミッキー?」
「なんでもない」
善一は朝子の手を振りほどき、数歩進んでから振り返った。

 躊躇いはしつこかったけれど、殴ることはできた。
 ぶちまけた負い目は容易く散らされた。
 立ち止まっていた時間は取り返せばいい。
 喜んだり悲しんだり、どんなことでつまづくのだろう。
 立ち上がれるかどうかはわからない。転んでみなければわからない。
 すべての可能性がこの一歩から始まる。

 「――また明日」

 とりあえず明日から、三木善一は、加藤朝子のことを、初めて『友達』と呼ぶことができそうだった。
マ行の男の反応を思い浮かべ、頬の肉を持ち上げる。
口の端の傷を度々広げながら、善一は鮮やかな家路をたどった。
END.
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