『食屍鬼』

人の屍を喰らう浅ましき者と言うならば言え。
だが違えるな。我々は魔物ではない。
人間なのだ。
生きていなければ、生きようとするのでなければ誰が食事などするものか。
 墓場を吹く風はいつも騒がしい。
風が墓石の上を早く通り過ぎようとするからだ。そのくせ風という奴はまだらに生えた木々のざわめきを大きくし、死者の言葉を生ある者に伝えようとする。まったく訳のわからない存在だ。
ビリーは上着の襟に頬を叩かれてそんなことを考えた。
風の音は嫌いだ。
今は、もう。
一番聞きたい声は一番聞きたくない声だから。
ビリーは美しく磨かれた墓石の前に跪くと白い百合の花を一輪供えた。本当は墓石の周り一面花で埋めつくしたかったのだが、ビリーはまだ幼く、外に働きに出ることも出来ない身では一輪がせいぜいだった。ビリーはしばらくじっと墓石に刻まれた名を見つめたまま動かなかった。あれだけ繰り返し呼んでいたその名。だが何度その名を目で追っても指でたどっても、ビリーは何も感じることはなかった。ひどく心が空虚で、現実が虚ろで、それがおかしくなって、笑った。まったく子供らしくない笑い方、のどの奥だけを鳴らすようにして笑うと、目頭が熱くなって涙がにじんできた。それでようやくビリーは心の底から泣くことが出来た。最愛の姉が死んで以来初めての涙だった。ビリーは地面に手をつき土をつかんだ。心臓をつぶすほどに荒れ狂う激情からの行動だったが、ビリーの触感は麻痺してはいなかった。手にした黒い土は心なしか湿っている。自分が落とした涙のせいでは、おそらくない。だが理由などどうでもいいことだった。ビリーは姉をこんな大地に眠らせておくことが我慢ならなかった。
こんな黒ずんでじめじめした土の中に姉さんを埋めるなんて。
そう思うと手は土を振り払い、光沢のある石を乱暴につかんでいた。
途端、墓石が揺らいだ。
ビリーは慌てて手を離した。数歩後ずさりしばらく様子を窺うと、ゆっくりと近づいて確かめるように体を屈める。墓石の下の土は柔らかく、かすかに盛りあがっていた。ビリーの姉の遺体が埋葬されたのは昨日の早朝である。土が柔らかいのも当然といえば当然かもしれない。だが盛りあがった土の周囲には奇妙なくぼみがあった。墓石を中心にして円を描くかのように、そう、それはまるで人の指のような。
ビリーは声をなくした。
姉が蘇ったのか、それとも墓荒らしか、もしくは研究材料を求めていた狂える錬金術師の仕業か、姉が吸血鬼であった可能性はない。と、そう信じたい。だとしたら、―――食屍鬼。
風が墓場を吹き抜ける。あちらこちらから死者のざわめきが聞こえてくる。木々が揺れ、暮れかけた日の柔らかい光を遮断する。恐ろしさに見上げた空は血のように赤かった。ビリーは短い悲鳴を上げて墓場から出るために走った。死者の声がビリーを笑っているような気がした。


 夜の墓場は意外に静かだった。風もなく、ただ闇に包まれている。だがビリーにはわかっていた。これこそが魔が潜む空間だと。空は血の色ではなかったが恐ろしいほど滑らかな黒が獲物に襲いかかる機会をじっと窺っている。辺りを照らしてくれる月は美しすぎてどこか魔的で、ビリーの味方はその手にあるランタンと杭だけだった。ビリーは感覚を無くして震える膝をそれでも小さく前に出し、ゆっくりと墓場を進んだ。
人間であろうと魔物であろうと、それがどんなに恐ろしいものであってもビリーは姉の墓を荒らした者をそのままにしておく気などなかった。とにかく捕まえて、姉の遺体に何をしたのかをつきとめて、それから先はビリーにもわからない。我慢がきかなければナイフで鋭くとがらせた杭を使ってしまうかもしれない。それだけの強い決意を持ってビリーは両親が眠りについた後すぐ家を抜け出してきたのだ。
大きな恐怖に激しい怒り。怒りがうち勝った分ずつ奥に入っていく。だがランタンの明かりが届くか届かないかのところに燃えるような双眸を見た途端、ビリーの怒りは恐怖に殺された。その場に膝から崩れ落ち、唯一の味方であったランタンも地面にたたきつけられて割れてしまった。立ち上がることも出来ず声を出すことも出来ず、震える手を必死に動かしてその手に杭を握る。
「近寄るな。近寄ったら刺すぞ。」
と言いたかったが、声が出ない。ビリーは震えて先端の定まらない杭をそれでも力一杯握りしめた。壊れたランタンの火が下敷きになった草に引火する。だがビリーは目の前の恐怖から目が離せない。
赤い目が、動いた。
ビリーは息を止めた。目は閉じなかったのではなく、閉じることが出来なかった。今目の前にいるのは化け物で、自分は殺されるのだとそう思った。
赤い目は近づいて来るごとにその姿を明らかにしていった。墓場の土にまみれて薄汚れた腕がビリーの目の前にぬっと現れた。ビリーは鼻をひくつかせ、顔を思いきり歪ませた。ひどい死臭だった。次に顔が近づいてくる。同じように薄汚れている。髪もひげもまったく手入れされておらず、見苦しいことこのうえないうえにひどい異臭を放っていた。だがビリーはその顔をそっとのぞきこんだ。赤いと思った目は炎を映していたからだったのか、男の目は黒く、理知の光を宿している。姿こそ化け物のようだがもしかしたら人間なのではないかとビリーはようやく恐怖を和らげた。その間に男は纏っていたボロ布を破り、今にもビリーに燃え移ろうとしていた火に押しつけた。ビリーはようやくそちらを見て慌てて消火を手伝う。火が消えた頃にはビリーの恐怖は辺りに立ちこめた煙のように薄くなっていた。手をついて立ち上がり、感謝の言葉を述べる。そんなビリーに男は言った。
「すぐに立ち去れ。夜の墓場になど二度と来るな。」
低い、抵抗を許さない男の声。ビリーは途端に反発した。
「なんでそんなことを言われなきゃならないんだ!オレは用があってきたんだ!姉さんの墓を荒らした奴をつきとめるために!」
これだけは、譲れなかった。ビリーは馬鹿ではない。姉のためでもなければわざわざ夜の墓場に来ようなどと思わない。男の言葉が無礼ではないと知りつつも、ビリーは帰るわけにはいかないのだ。
「最近葬られた死体なら私達が喰らった。」
男は至極平然と言った。ビリーが動きを止め、大きく見開いた目で問い返す。
「私達の食糧は死体だから。」
男は無表情に淡々と告げる。ビリーは恐怖と怒りと蔑みを込めて男をにらみつけた。
「食屍鬼!」
ビリーの右手が地面に置いた杭を探す。男はそれを止めようとはせず、ビリーの前に手のひらを差し出した。男の手は真っ黒だった。土のせいだけではない。何か黒々とした粘土のようなものがこびりついている。それが粘土でないのは鼻につく死臭から明らかだった。
「私達は死体を食べる。だが人間だ。そして私は人間でいることを捨てたつもりはない。君の姉さんを食べたのはそれが私達の食生活だからだ。」
もし本当に人間だとしたら、この男は狂っている。
ビリーは杭を探し当てたが、『人間』という言葉を聞いてそれを男に向けるのを躊躇った。だがもちろん男の話をまともに聞く気などない。ビリーは握りしめた杭を地面に押しあてたまま汗が冷えていくのを感じていた。
「そんなに手に血をこびりつかせてあんた何も思わないのか。人間だったらそんなことしない!あんたは化け物か、ただの獣だ!姉さんを食べただと?許せない!絶対に許せない!」
杭を握る手に力を込めるが、やはり切っ先を向けるのには躊躇いがあった。ビリーは男の言い訳を待つことにした。そうしたらきっと怒りは自分の理性を食い破ってくれるだろう。それを望んだ。
「この世界に他に食べるものがあったなら私は死体を食べることなどなかった。食べずに生きられるものなら私は決してものを口にしなかった。だがこの世界に私の口にあうものは他になく、食べずには生きられない。君は私を狂っていると思っているのだろうが私から見れば君たちの方が異常なのだ。」
思った通り男の言い分はビリーにはまるで訳のわからないものだった。だが怒りよりも憤りに満ちた疑問の方がビリーの胸に大きくわきあがった。
「オレたちのどこがおかしい!死体を食べる奴らがオレたちを異常だと?あんたはやっぱり狂ってる!」
「君はとても聡い子だ。私の話を聞こうとするか。」
男は感心したようにひげを梳いた。ビリーは馬鹿にされたと思いいらだったが姉を食べたことに正当な理由があるなら言ってみろと半ば挑むような思いで先を促した。
「君は何を食べてきた?草か、肉か。どちらにしろ命あるもの。我々は生命を喰らっているのだ。なのに何故人間は人間を喰らわない?そこに息絶えたばかりの死体がある。なのに何故それを喰らおうともせず他の動植物を殺すのだ。私はそれが気味が悪くてたまらない。だから食われるためだけに殺されたものを食べるのが辛い。その前に死体を食べる。人間の死体に限らず、死んだものだけを。」
ビリーは目をふせた。男の言わんとすることは少しわかったような気がした。しかしそれは頭の中だけでの理解だった。
「だからって!姉さんを食われたオレはあんたが許せない!他にあんたに死体を食われた人の家族だってそう言うはずだ!あんた変だよ!なんか変だよ!なんで人間を他の生き物と一緒にするんだよ!」
「君こそ何故人間を他の生物と別に考える?私のどこがどう変なのだ。」
「だまれ!」
ビリーは手に握りしめていた杭を投げつけた。説明なんて出来ない。突き刺すことをしなかったのは男の言っていることが間違っているとは言い切れなかったからだった。しかしそれを認めてしまうのはひどく理不尽な気がした。
「オレには姉さんだけだったんだ!みんなオレのことを子供らしくないって!生意気だって!でも姉さんだけはあるがままのオレを受け止めてくれた!このままのオレを受け止めてくれたんだ!姉さんが、姉さんが……っ。」
男は何も言わなかった。憎しみを込めてにらみつけてくる強い瞳をそのままにしておいた。やがて茂みの中から声が聞こえた。
「ブラウ、その子、誰?どうして、怒って、いるの?」
女の声だ。ブラウというのが男の名であることを察してビリーは憎しみに染まった目を茂みに移した。
「私の妻だ。エミリア、出ておいで。」
夫の誘いに応じてエミリアが茂みの中から顔を出す。ブラウと同じように薄汚れた顔をしていて、その体からはやはり死臭が漂っている。全体的に骨が浮き上がるほどやせていたが腹だけが丸く膨れあがっていた。
「子を宿している。君の姉さんは最上の栄養補給だった。」
ブラウの言葉にビリーがかっとなる。つかみかかろうと体をわななかせたところにエミリアが腹に手をあてて無邪気に笑った。
「あり、がとう。おかげ、子供、生める。」
ビリーは体から力を抜いてその場に手をついた。
あの腹を、つぶしてやりたい。姉さんを食った奴らが幸せそうな顔をして子供を産むなんて許せない。なのに、なのに!
ビリーは悔しくてむせび泣いた。何が悔しいのかは自分でもよくわからなかった。とにかくそうせずにはいられなかった。墓場の土を顔になすりつけるようにして泣いた。今ばかりは風が吹いていないことが恨めしかった。あの不快なざわめきでこの苦しみをかき消して、そして、そして、……姉の声が聞きたかった。もし聞こえたとしても、その声が変わっていなかったとしても、決して蘇ることはないのだとわかっていても。今ばかりは。
ブラウはそっと己の拳を握った。その手のひらの表面は土によって乾いているがその下にわずかに粘着性を残した層がある。薄いけれどもう決してとれることはない。とる気もない。ブラウはそっと手を開いた。
「君に謝る気はないし君に殺される気もない。だがこれだけは言っておく。私は妻が死んだとき彼女の屍肉を喰らうだろう。」
ビリーはその言葉をしかと聞いた。そして、憎しみを宿した瞳のままその場を去った。
闇に潜んでいたのは魔物ではなかった。
いっそ魔物なら良かったのに。魔物なら自分は容赦なく杭を突き立てたのに。こんなに許せないと思っているのに。魔物でも人間でも。どうして自分は杭を突き刺さなかったのだろう。どうして!
それをわかりたいのかわかりたくないのか。静かすぎる闇に狂わされたかのようにビリーは叫びながら墓場を走り抜けた。唯一闇を照らしていた月はあまりにも冷たかった。
「私は妻が死んだとき彼女の屍肉を喰らうだろう。」
その言葉がいつまでも胸に響いた。


 生命を冒涜などするはずもない。神を冒涜などするはずもない。
むしろ尊んでいるからこそ喰らうのだ。結局はものを食すのだ。
この世に神というものがいるとすれば生命の起源を司るような、そんなひどくあやふやでひどく絶対的な『力』そのもののようなものだろう。だからきっと、生命は神なのだ。それそのものをそうだとせずとも両者はきっとひどく近いものなのだ。そうでなければ生命がこれほど尊いわけがない。
ブラウは墓石の影でそんなことばかりを繰り返し考えた。
風が、冷たかった。もう日暮れからずっと風にあたっている。夜の帳が降り辺りが漆黒に染まっても、ブラウはいつものように墓場を徘徊しようとはせず同じ場所にずっと座っていた。今夜は風が強い。木々の間を風が走り抜け、ざわざわと声を残して去っていく。
ブラウはその様をまるで木々が風が去るのを惜しんでいるかのようだと思った。「行くな行くな。」と木々が泣く。それでも風は去ってしまう。風の心を知ることは出来ないが、例え風がどう思っていたとしても風は去らざるを得ない。それがこの世の理だから。
ブラウは木々よりも大きく泣く新しい生命に目をやった。顔を赤くして泣き続けている。生まれてから何も口にしていないのにこんなに泣いていてはそろそろ限界だろう。
ブラウはようやくエミリアの遺体を喰らうために動き始めた。
今の今まで手をつけようとしなかったのは、やはり妻の屍肉を喰らうのは躊躇われたとかそういうことではなかった。別れを告げるために必要な時間だったのだ。ブラウはエミリアの髪に口付け、ゆっくりと作業にとりかかる。ブラウにとってエミリアの死体とは死んだ妻が置いていった服のようなものだ。生まれてからずっとエミリアが着ていた服。ブラウ自身にとっても思い入れのある大切な大切な服。死んだ者が残していったものと向き合うのは勇気がいる。しかしブラウは真っ向からエミリアの死体と向き合い、それに宿る自分の中のエミリアに別れを告げた。ブラウが口に出したのは「ありがとう。」とそれだけであったが。
そしてブラウはエミリアだった死体を他のどれよりも愛しい食糧として自分たちの血肉にした。赤ん坊に血を飲ませ、自らは肉を喰らい、骨までしゃぶった。食べ残さないように丹念に舐めつくした。エミリアの顔が、体が、どんどん骨と肉になっていくのを見てもブラウは決して悔やみはしなかった。ただエミリアへの愛と食糧への感謝と生命の尊さを感じていた。
「あんた!何してるんだ!」
突然の声と明かりにブラウは目を細めてその方向を見た。そこには見覚えのある少年がいつかのようにランタンを持って立っていた。ブラウは平然と答えた。
「妻が赤ん坊を生んで死んだから食べている。」
ブラウと赤ん坊は血で赤く染まっていた。その前には大きく二つに裂かれた死体が赤黒い色をのぞかせている。脇腹はえぐられていて白い骨が綺麗に残っていた。ブラウの手にはくすんだ赤色の肉塊が握られていた。
ビリーはその光景に戦慄し、そしてブラウが平然としていることに憤りを感じた。
「村の奴らが墓場から赤ん坊の声がしたって噂してたからもしかしてと思ってきたら!あんた本当に自分の妻を食べてるのかっ?なんで!どうして食べられるんだっ!大切だったんじゃないのか!」
ビリーは涙混じりに叫んだ。あの日からずっと、ブラウがあの言葉を守らなかったら殺してやる。とそう思って過ごしてきたビリーだったが、実際に自分の妻を食べているブラウを見てビリーは逆に悲しくなった。人間としてどうしても許せなくて、同時にとても悲しかった。
「私はエミリアを愛している。」
ブラウは手に持っていた肉塊を口に運んだ。ビリーは見ていられなくて、それでも目を離せなくて叫んだ。
「だったらなんで!」
「エミリアはもう逝ってしまった。ここにあるのはもはや朽ちていくだけの屍のみだ。これから自然に還るものだ。そしてここに腹を空かせた赤ん坊とその世話をしなければならない男がいる。」
墓場の夜に木々が騒ぐ。あの日あれだけ聞きたいと望んだ死者の声は今のビリーには気味の悪いものにしか聞こえなかった。その中を赤ん坊の力強い泣き声が高らかに響く。生まれたての生命の強さにビリーは目頭が熱くなった。
「なんか、違うよ。あんたきっと大事なことを間違えてるよ。獣ならわかるけど、人間だよ、オレも、あんたも。この子も。」
ビリーは今までにない気持ちでブラウに語りかけた。憎悪でも、非難でもない。哀れみとも少し違う。ビリーはブラウを救いたいと思った。ビリーにはブラウが暗くてドロドロした沼の深淵にはまってしまったように思えてならなかった。
だがブラウは言う。
「何より大切なことは知っている。私はエミリアを愛している。そして今エミリアが残していった肉体は私達の血肉となり命を紡ぐ。君が私達を浅ましいと思うのは人間の傲慢さにあまりにも気付いていないからだ。すべての人間が正しいと信じるヒューマニズムがどれほど矛盾したものであるか、偽善だらけか、気付いていないからだ。」
「違う!そうじゃない!そうじゃなくて、あんたも人間だろ?なんで人間でなくなろうとするんだよ!」
「私は人間だ。人間でもなければこんな事を考えはしないし、考えてそれでもなおものを喰らおうとするものか。」
ビリーはもう紡ぐ言葉が何もなかった。口を閉じると遠ざかっていた死者の声が近くなってくる。
「あんた、死者の声が聞こえるか?」
「いや。私に聞こえるのは残された者の声だけだ。」
ブラウは赤く染まった口を乱暴に拭って墓場の入り口の方に目をやった。闇の中にいくつかの光が浮かんでいてまるで人魂のように見える。しかし聞こえてくる声がそれらが人魂ではないことを証明していた。
「確かに赤ん坊の声がする。」
「捨て子かそれとも亡霊か。」
村の人間がビリーと同じように赤ん坊の泣き声がするという噂を聞いてやってきたのだった。ぼんやりとした光がどんどん近づいてくる。ビリーには死者のざわめきよりもその声の方がとてつもなく恐ろしかった。ビリーが慌ててブラウの方を振り返るとブラウはエミリアの死体を抱えて立ち去ろうとしていた。ビリーはつばを飲み込んだ。
「待てよ!赤ん坊を置いて行け!」
ブラウが怪訝そうにビリーを見つめる。
「今が、チャンスだろ。今ならその子だけは普通の人間として生きることが出来る。あんた一人で、食べ物は死体だけで、その子を育てることが出来るのか?」
ビリーの言うことは的を射ていた。死体は毎日出るものではない。動物の死骸もそう頻繁に出るものではなく、引きちぎられた草を喰らって生きるには赤ん坊の体力がなさ過ぎる。母親の乳が望めない今ブラウが一人で赤ん坊を育てるのは非常に困難であった。しかしブラウはすぐには決断できなかった。その間にも村人は近づいてくる。ブラウはエミリアの死体からその髪を引きちぎり、赤ん坊に握らせた。
「幸せにする!絶対幸せにするよ!」
ビリーは精一杯声を張りあげて誓った。この食屍鬼は確かに愛を知っているのだ。人間として大切な感情をちゃんと知っている。そのことをやっと理解した。ビリーはブラウの手から赤ん坊を受けとり、決意を持ってうなずいた。赤ん坊はその身を血に染めていたがビリーはひるむことなく抱きしめた。
「あんた、生きろよ?なんでもいいから食って、死ぬまで生きろよ?」
ビリーが言うと、ブラウは少し微笑んだように頬を弛緩させて背を向けた。
そのときだった。
「なんだ?赤ん坊の他に誰かいるのか?」
村人がすぐそこまで迫っていた。一人のめざとい青年が「ひぃっ。」と音を立てて空気を飲み込むと、青年の視線を追った男達が大きく声をあげた。
「うわぁぁぁっ!な、なんだおまえっ!し、死体を!」
男たちの持っていたランタンがいくつか音を立てて地面に落ちた。足元を照らす明かりに屍肉のどす黒い赤が鮮明になる。男たちは怯えながらももしものためにと持ってきた斧や鍬を構えた。
「おまえが女を襲って食ったんだな!この化け物が!」
村人は憎悪に満ちた眼差しでブラウに向かって凶器を振り下ろした。ブラウはかろうじてそれらをよける。
「違うよ!そいつは人間だ!ただオレたちと違う考え方なだけで、尊い命を持った人間なんだよ!やめてくれぇっ!」
ビリーは半狂乱で制止を呼びかけたが、村の者は誰一人として聞こうとしなかった。ビリーの前でブラウが狩られようとしていた。ビリーはとっさに叫んだ。
「待っておじさん達!今はそいつ放っといてよ!赤ん坊が死んじゃうよ!」
村人はその言葉に反応して一瞬動きを止めた。そのすきにブラウは茂みの中へと逃げていった。村人たちは舌打ちをしたが、急いでビリーが抱いている赤ん坊の元に駆け寄った。
「生まれてすぐなようだな。こんなに血まみれになって、くそうあの化け物め!」
男が忌々しそうに言う。ビリーは唇を噛みしめてきつく赤ん坊を抱きしめた。
「ビリー、おまえは大丈夫だったか?こんな夜中に墓場に来て、もう少しであの化け物に殺されるところだ。」
ビリーは無言で首を振った。その目に涙が浮かんでいるのを見て男たちはよほど恐ろしかったのだろうとその頭を軽く叩いた。ビリーは村人達の言葉に耳を貸そうとせず、そっと空を仰いだ。月が美しい。木々の黒い影が激しく揺れても月だけは静かに闇にたたずんでいる。ビリーにはもう死者の声は聞こえなくなっていた。冷たい風に吹かれながら腕の中のぬくもりを感じて、ビリーは姉が風の中でも土の下でもブラウの肉でもなく、自分の心にいることを知った。土の下に眠る骨もブラウに食われた肉も風に混じって聞こえる声もそれはもう姉ではない。心に住まう思いこそが今では唯一の姉なのだ。ビリーは風の音にブラウの叫びを聞いたような気がした。
ブラウはきっと生きるだろう。妻を亡くし子を失い、ただ一人食屍鬼として人々に蔑まれても。ブラウは生ある限り生き抜くだろう。人間は結局他を犠牲にすることでしか生きていけない。だからこそブラウは食べることをやめないだろう。
ビリーは誰の手にも赤ん坊を渡そうとせず、何度も後ろを振り返りながら墓場を後にした。


 翌日村人は化け物に襲われた哀れな母親としてエミリアの死体を埋葬した。半分食われた死体はひどく醜くて見るに耐えないものだったが、ビリーは決して目をそらそうとしなかった。その腕に赤ん坊を抱え、必ず幸せにすると再度誓った。

 その日の夜ビリーはまた墓場を訪れた。闇の中を歩くことにももう慣れてしまっていた。ときおり揺らぐ木々の音にもひるまずビリーはエミリアの墓の前で足を止めた。いつかそうしたように一輪の百合を供え、湿った土に手を置く。土はやはり柔らかい。墓石のすぐ下には指の腹で押さえたような跡がついていて、掘り返して埋め直した後のようだった。ビリーは口の端を少しつり上げて静かにその場を立ち去った。
END.
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