『guilty?』

どこまでが正常でどこからが異常なんだ?
何が正しくて何が偽りなんだ?
真実は―――どこにもない。
わかっているのは僕が有罪ということだけ。

 「辻井優一。」

頭の隅に追いやっていた名前をいきなり持ち出されて、難波はわずかに眉をよせた。
机の上に置かれた茶を手に取り口に持っていく。
玉露の香りと温かい湯気が気持ちを落ち着かせてくれる気がした。
一口口に含むと、難波はすぐさま吹き出した。
「まっずーっ。なんじゃこりゃ。浅井ィ。茶ぐらいまともに入れなさいよ。こんなもん飲めたもんじゃねぇ。ぞうきん汁でも入れたんじゃないの?」
「はい。少しだけ。」
「おいっ!」
と、つっこみをいれる難波に、浅井は怒ったようにつっかかってきた。
「入れませんよぞうきん汁なんて!僕が入れたのは青汁パウダーです!それよりちゃんと人の話を聞いてください!」
「後でこの茶全部おまえが飲むのならね。」
難波はきゅうすに波々と入っている青汁玉露を横目で見てうんざりとした顔をした。
「せっかく難波さんの健康を気遣ったのに……。」
浅井はぶつぶつ言いながらも本題に入る。

「辻井優一が出所しました。」

難波は聞く前からわかっていたかのようにうなずき、大きく息を吐き出した。
「出た……か。」
難波が目をふせた瞬間電話がうるさく鳴り響いた。
難波はすばやく手をのばし、浅井に茶を飲んでおくよう促す。
「はいは〜〜い。こちら捜査一課。って、なんだぁあ。受付の朱美ちゃんじゃないのぉ。どう?今度一杯飲みに行かない?」
浅井が難波の頭をグーで殴った。
「いてっ。いやいやなんでもないよ〜〜ん。え?おれに客?美人?美人?なんでぇ男か。へいへいどちらさんで?」

………。

難波は急に真剣な表情になり数秒沈黙した。
そして、その名を繰り返す。

「辻井優一?」

背後で浅井が青汁玉露を吹き出す音が聞こえた。


 浅井は普通の玉露と青汁玉露を用意して辻井優一が来るのを待った。青汁玉露はさっきよりもグレードアップしてかなりやばい緑になっているのだが、浅井は状況によっては容赦なくそれを出してやろうと決めていた。右手に玉露、左手に青汁パウダーの体制で突入の時のように扉のすぐ横にはりついている浅井を見て、難波は声を漏らさず苦笑した。
そうしているうちに、廊下から足音が響いてきた。


「どうもーーっ!つ・じ・い・でぇ〜すっ!」

開口一番明るい挨拶。
扉の裏側で浅井をつぶしながら辻井はきょろきょろと中を見回した。
難波の姿を捕らえて満面の笑みを浮かべる。
「いぇ〜いっ!はろぉミスターナンバ!なかなか堂々たる親父っすねー!ゆかいゆかい。はっはっはっはっはー。」
浅井が扉の後ろからなんとかはい出して辻井をにらみつけたが、
「おう!ノンノンノン!私が落としたのは玉露の粉でも青汁の粉でもあっりませ〜ん。だから神様僕にコーヒーちょんまげ。辻井よい子でーす!」
辻井の壊れたテンションにはとてもついていけなかった。
難波は難しい顔をして無精ひげを掻き、口を開いた。
「ああもういいかげんにしろよ。もっと話せそうな奴出してくれないかねぇ。優一はどうせ無理なんだろ。じゃあ充とか頼むぜ。」
途端、辻井の表情が変わった。
口元からゆるみが消え、目が少し鋭くなった。
それだけでもうさっきとは別人だ。
雰囲気からしてまるっきり違う。
「私を呼びましたか。いい判断です。爆を相手にしていては時間を無駄にするだけですからね。」
辻井はゆっくりとした落ち着いた口調でそう言った。
「で。なんの用かな。」
難波がイスにもたれかかる。
辻井は嘲るような笑みを浮かべた。

「優一は近いうちにまた人を殺しますよ。」

難波は目を大きく見開いた。
「おっと。正確には優一ではありません。優一にやらせるために私達がやります。」
「予告のつもりか?」
辻井は嘲りの色をいっそう濃くした。
「さあ、どうでしょうね。」

浅井が青汁コーヒーを完成させた頃には、辻井はもういなかった。



 辻井優一   前科一犯  自殺補助
当時21歳だった辻井優一は精神障害を持った母親と二人で暮らしていた。ある日母親が包丁で自らの心臓を刺し、辻井優一は…


 「奴のこと調べてんのか。」
難波の声に浅井はびくりと背中をこわばらせた。
「はっ、はいそうです。僕難波さんが辻井優一のことをすごく気にしているのは知っているんですが奴のことについて何も知らないので…その、少しでもお役に立てたらと思いまして。」
難波はニヤニヤ笑うと浅井の頭を乱暴になでた。
「や、やめてくださいよ難波さん。」
「おら浅井。知りたいことなんだ言ってみろ。余計な気ィ遣うんじゃないよひよっこが。奴のことならおれの方がそんな書類の何倍も詳しいんだから。」
浅井は少し恥ずかしくなった。
難波にはなんでもお見通しなのだ。
そう思うとなんだか悔しくなって、浅井は口をへの字にした。
「じゃあ教えてくださいよ!辻井優一の事件のこと!」
難波はゆっくりと話し始めた。
「辻井優一の母親の精神病は……解離性同一障害。要するに多重人格だった。多重人格ってのは普通自分を守ろうとするもののはずだから自殺のことに関してはたいして繋がりはないんだが……」


 「母さん?母さん!」
優一はがくがくと膝を震わせた後、慌てて叫びだした。
リビングは血まみれで、目も覚めるような赤が絨毯をものすごい速さで浸蝕している。
その中心で母親は人形のように動かなかった。
死んでしまったのだと、優一は頭の隅で悟った。
しかし。
優一が恐る恐る顔をのぞき込むと、母親は低いうめき声を発した。
死にきれていないのだ。
うめくたびに小さくせきこみ、赤黒い血を吐き散らす。
その様子を見て、優一はそっと包丁に手をのばした。
包丁はカタカタと動いてなかなか掴めない。
なんとか触れはするものの、付着した血で滑って触れては逃し触れては逃ししてしまう。
優一は焦った。

早く。早く。早く。
もう母は助からない。楽にしてあげなければ。
早く。早く。早く。

やっとの思いで包丁を握りしめると、苦悶の表情を浮かべていた母親が心なしか微笑んだ気がした。
口から下を赤く染め、目を痛いほど見開いたその表情が一瞬でも安らいだものに見えたのはあるいは思いすごしかもしれなかったけれど。
優一は震える指を震える指でしっかりと押さえつけ、包丁をふりかざした。
包丁についていた母親の血が手を伝い、ぬるぬるとした感触が指の間で粘つく。
優一は力一杯包丁をふりおろした。


「そのときだ。母親の中の人格の一つ、乾が出てきたんだ。」


乾は叫んだ。その口から血を吐きながら。
「よくも!よくもおれを殺しやがったなてめぇ!許さ……」
そして母親は今度こそ息絶えた。
優一は母の姿をしばらく凝視し、涙を流した。
嗚咽をもらしながらしゃくりあげている優一を、難波はいとも簡単に逮捕した。


 「僕は……辻井優一のしたことが悪いことだとは思えません。」
浅井は難波の顔を見ずにうつむいたままつぶやいた。
「…ああ。だが今の法律じゃ奴は犯罪者なんだな。自殺補助は罪。一応裁判では状況を考慮されて刑は軽減されたんだし仕方ないない。」
難波はすべてを振り払うかのように手を振った。
「奴は言ってたよ。母親を殺したことは後悔していない。ただ……」
「ただ?」
浅井が顔をあげた。
難波は目を細くする。


 あの日。
母親の側でうずくまる辻井に手錠をかけたあの日。
辻井は涙を拭おうともせずに言った。
「刑事さん。僕は…僕は母だけでなく母の中にいた何人もの人も一緒に殺してしまったのでしょうか。死にたくなかった何人もの人も…。」
その目は難波を見てはいなかった。
生温い血に赤く染まった己の手を、じっと、じっと見ていた。


 「おれが辻井優一を見たのはそれっきりだ。」
難波の重いつぶやきに、浅井は思わずきょとんとした顔をした。
「え。でもさっき来てたじゃないですか。」
難波はため息をつきながら首を振る。
「ありゃ優一じゃない。爆と充だ。優一は母親が持っていた人格を全部そのまま受け継いだんだよ。」
「そんなことできるんですかっ?」
難波はますます大きなため息をつき、激しく首を振った。
「優一は未だに自分の心に母親の亡霊を飼ってる。ありゃあ奴の罪悪感だ。」
浅井は深くうなだれた。
世の中の善と悪はあまりにも不明瞭だ。
それでも自分たちは刑事なのだ。
手錠と銃とを、使う権利と使わなければならない義務を持っている。
『捕まえるだけ。』なのは幸なのか不幸なのか。
浅井はしばらく顔をあげることができなかった。
難波が軽くその頭をたたき、苦笑混じりに言う。
「オラ浅井、へこんでないで茶でも入れろ。こんな時は茶でも飲んで落ち着くに限るぜ?ほらほら。今度朱美ちゃんと飲みに行く時おまえも連れて行ってやるから!な!」
浅井は目元をごしごしとこすってきゅうすを取りに行った。
難波はだらんとイスにもたれかかり、顔をのけぞらせて思いきり息を吐き出した。
目を閉じるとまぶたの裏にあのときの辻井が浮かんでくる。
血まみれの手をしっかりと見つめながらもどこか虚ろな様子だったあの顔が、今でもはっきりと目に焼きついて離れない。
最初で最後だった優一の表情。
優一はきっとあの顔のまま心の奥底で自分自身の胸に十字架を突き立てている。
そんな気がしてならなかった。

 「難波さん。お茶入れてきましたっ。どうぞ。」
浅井が精一杯の笑顔で茶を運んできた。
難波は緑のお茶を一口含むと、すぐさま吹き出した。
「浅井ィ。茶は普通に入れろ普通に。罰ゲームじゃないんだから。」
「ええっ。この漢方薬体にいいんですよぉ?」


 翌日。
浅井は走っていた。
寝坊してしまったのだ。
難波は意外と時間に正確で朝も早い。
そんな難波に負けじと浅井も早朝出勤を心がけているのだが、今日は不覚だった。
急いでいても信号は守る。
浅井は交差点の赤信号で自分の足に急ブレーキをかけた。
そして、思いきり目を丸くした。
横断歩道の向こう側に辻井がいる。
それも女連れだ。
浅井は信号が青になったことに気付くのに数秒の時間を要した。
辻井は浅井のことに気がつかなかったのか少し離れたところを素通りした。
浅井はしばらく立ちつくして拳を握り、辻井の後をつけていった。
「難波さん。辻井を見つけました。女連れです。僕嫌な予感がするんでつけてみます。」
携帯電話ですばやく連絡を入れると、返事を聞く前に切った。
刑事として覚悟を決めるために自分が辻井を捕まえたかった。
辻井はどんどん人気のない方に進んでいく。
もしかしたら連れの女を殺す気かもしれない。
浅井は銃をかまえると、音を立ててつばを飲み込んだ。

「ぼっ、僕を殺す気かっ。」

突然耳元で声が聞こえた。
浅井が慌てて銃を向けると、そこには辻井が立っていた。
いつのまにか女の姿はない。
浅井はこめかみに汗がにじむのを感じた。
銃を向けられた辻井はひたすら震えている。
「ぼぼぼ、僕は何もしてないじゃないか。そ、その銃を早く下げてくれ。う、う、う、訴えるぞ!」
どうやらまた違う人格が出てきているらしい。
浅井は銃を向けたまま少し考え、
「わかった。銃をおろすよ。その代わり君と話をさせてほしい。」
と言った。
辻井が無言で首を縦に振る。
浅井はそれを見届けてから、ゆっくりと銃をおろした。

「馬鹿が。」

辻井は冷たく微笑んだ。
それが、浅井が見た最後の光景だった。


 湯飲みで手を暖めながら、難波はひたすらぼやいていた。
「ったくなんでつけちゃいますかねぇ。一人でー。しかもろくな準備もしないでー。バッカじゃないの?だいたいわざわざおれの携帯に電話しといて人がなんか言う前に切るなっつーの。ていうか銃だよ〜。あんだけ忘れずに置いて帰れよって言ってんのに毎回毎回持って帰っちゃうんだもんな〜。ばれると始末書どころか懲戒免職かもしれねぇんだぞっ!マヌケマヌケマヌケこのくそマヌケがっ!」
ベラベラとまくしたてた後ひとやすみとばかりにお茶を飲み、すぐに置いてまたしゃべり出す。
「若いうちは誰だって無茶やるもんだがなぁ、おまえの場合は無茶でも無知でもないっ!馬鹿って言うんだこの大馬鹿野郎っ!おれより……」
難波は言葉を詰まらせた。
胸の内にこみあげた思いが怒りなのか悲しみなのか憎しみなのかわからない。
叫びたい。
この感情をそのまま叫びたい。
が、難波は声を震わせながらつぶやいた。

「おれより若いくせに、死んでんじゃないよ………。」

そのつぶやきを聞く者は誰もいない。どこにもいない。
主のいなくなった机のイスに腰掛け、額に手をあててうなだれる。
口を開けば言ってやりたいことが際限なく出てくるのがわかっていたが、もう何もしたくはなかった。
しばらくの間何もせず、何も考えず、ただそうしていたかった。

「難波さん……」

小さな音がして、受付嬢の朱美が扉から顔をのぞかせた。
難波は潔く顔をあげ困ったように微笑んだ。
「あの、浅井さんのお母様がぜひ難波さんにご挨拶しておきたいと…」
朱美の後ろから品の良さそうな婦人が顔を出し、軽く会釈する。
いかにも浅井の母親といった感じだ。
難波は思わず眼を眇め、容赦なく言い放った。
「あんたの息子は、大馬鹿もんです。」
「難波さ……っ」
朱美が咎めようとするが難波は声を荒げて再度言う。
「ほんとにどうしようもないっ……大馬鹿もんですよ……。」
だんだんと語調が弱くなっていった難波に、朱美も浅井の母も何も言おうとはしなかった。

「犯人は、どうなるんでしょう。」

浅井の母は難波に尋ねた。
すでに答は決まっていてそれでも確かめるようとするようなその瞳に難波はため息混じりに聞き返す。
「殺してやりたいとお思いですか?」
浅井の母は少し考え、しっかりとうなずいた。

「死刑にはなりません。」

間髪入れずに難波が言う。
「どうしてですかっ!犯人には前科もあるじゃありませんか。」
突如憤りをあらわにした浅井の母に、難波は顔をゆがめることでしか答えてやることができない。

「起訴の前に精神鑑定があるからです。」

辻井優一は多重人格。
おそらくは責任能力が認められない。
よって、不起訴。

浅井の母は泣き崩れた。
浅井の死から今まで散々流してきたであろう悲しみの涙ではない。
奥歯を噛みしめ、嗚咽を噛み殺しながら涙を流していた。
難波は知らず拳を握りしめた。
これが正義。
これが自分たちの暮らす社会の正義なのだ。

 とりとめなく流れる涙さえ悔しげにこらえようとする浅井の母をなんとかなだめて帰し、難波はイスに倒れ込んだ。
朱美がおずおずと歩み寄る。
どうやら何か言おうと言葉を探しているようだが、何を言っていいのかわからないらしい。
難波はやりにくそうに頭を掻いた。
「朱美ちゃ〜ん、おれは大丈夫だからンな気ィ遣うなって。」
朱美は力一杯頭を振る。
「大丈夫なわけ、ないじゃないですかっ!」
その目には涙がにじんでいた。
「大丈夫なわけないです。浅井さんが亡くなって、難波さんが大丈夫なわけないです……。」
朱美はハンカチで目元を必死に押さえつけた。
「あ〜あ。浅井も罪な奴だね。朱美ちゃんこーんなに泣かせちゃって。」
「難波さん!」
朱美は真っ赤な目で難波をにらみつけた。
難波は朱美の頭を軽くたたき、微笑みを浮かべて言う。
「おれは大丈夫だよ朱美ちゃん。こんな事でつぶれてたら浅井に殴られる。殺されたのが浅井だからこそ、ちゃんと……見届けないとな。」
難波の心中は複雑だった。
浅井を殺されたことはもちろん許せない。
大切な部下であり、親友であり、息子のようでさえあった浅井。
犯人を殺してやりたいと思うのは難波も同じだった。
だがその犯人が辻井優一であると思うと、難波の怒りは一気に消沈してしまう。
すべては優一の中の人格の犯行であり、優一自身には罪はない。
そう思ってしまうからだ。

浅井を殺した辻井を許せない。

優一自身には罪はなく、精神鑑定で無罪になるのも当然といえる。

矛盾が押し合いへし合いせめぎ合い、怒りは爆発しきれないまま蓄積され、ぶつけどころのない憤りだけがうごめいている。
だが幸か不幸か難波に辻井を裁く権利はない。
できることは見届けること。
例え結果がわかっていても、それしかなかった。

「さ、朱美ちゃん、茶でも飲んで。こういうときは茶を飲んで落ち着くのが一番一番。」
朱美は赤い顔を恥ずかしそうに上げ、微苦笑してうなずいた。
が。
一口口に含んだだけですぐさま湯飲みを下に置く。
「な、難波さん何ですかこれ?何入れたんですか?」
難波はニヤリと笑う。
「正露丸の粉末。のーこしちゃダメ。これは健康にいいんだから。」
「ええ〜〜〜っ。そんなっ。罰ゲームじゃないんですから。」

思わず眉をハの字にした朱美を見て、難波はほんの少しだけ寂しげに微笑んだ。


 数日後、辻井優一は精神鑑定を受けることなく検察官に起訴された。


 難波はその事実の前にしばし呆然としていた。
「馬鹿な。」
特殊な例とはいえ、辻井はれっきとした多重人格なのだ。
検察官は見破れなかったのだろうか?
それ以前に辻井は弁護士を雇わなかったのだろうか?
それとも精神異常だとは認められなかっただけなのか。
だが少なくとも難波にとっては辻井に責任能力があるとは思いがたい。
寝ている間に体を乗っ取られて犯罪を犯したとしたらそれは無罪ではないのか?
優一の中の人格が犯した罪はみんな優一のものになる。
それは許されることなのだろうか。
そう考えて、難波は充が言っていたことを思い出した。

 「優一にやらせるために私達がやります。」

すべては計画されたことだったのだ。
優一の中の人格たちが、優一を罪という名のペンキで塗りつぶすために。
難波は額に拳をあてた。
許せなかった。
明確な目的語は正確な表現が見つからず言葉に表せない。
言うならばどうにもならない理不尽のようなものが、腹立たしくて仕方がなかった。


 「べ、弁護士なんかいらないよっ。」

辻井は一歩も譲らなかった。
「そういうわけにはいきません。いいかげんにしてください。」
相手の女弁護士も一歩も譲らない。
「ほ、ほ、ほ、本当にいらないんだっ。」
「あのねぇ、あなた小学校からやり直して公民勉強してらっしゃい。」
「なっ。し、知ってるさ弁護士を雇わなきゃいけないんだってことくらい!でも、でもでもいらないんだっ!」
「だーかーら、懲役3年以上の事件は必要的弁護事件って言って絶対に弁護人がいるのよ。あなたは起訴前に弁護人を雇わなかったから国選弁護人である私があなたについたの。これは義務なの。このままじゃ死刑になったって文句は言えないのよ?いいかげんにまともに話をさせてちょうだい。」
弁護士はうんざりとした様子で頭を抱えた。

「あなたは自分から貧乏くじをひきましたね。」

ふいにまるで聞き覚えのない声がして、弁護士は驚いた顔で辻井を見つめた。
正確には口調とトーンが変わっただけで同じ声なのだが、そのあまりの豹変ぶりに別人の声のように聞こえたのだ。
実際さっきまでの辻井とは別人だった。
目を白黒させていると、辻井は嘲るように笑い出した。
「失礼。さっきまでのは明。私は充と申します。」
弁護士は未だに事態が飲み込めていない。
充は面倒くさそうに言った。
「多重人格、ですよ。」
弁護士は目を見張り、次第に顔をほころばせた。
「何よ、じゃあ思ったより有利じゃないの。あなたの場合自白しまくっちゃってるしどうしようかと思ったけど……多重人格はまだ日本の精神科医にはあまり受け入れられていないとはいえ責任能力がないと認めさせることさえできれば委託精神鑑定で死刑は免れるわ。よかったわね。精神鑑定が起訴前と裁判中の二種類あって。」
そう言って充を見ると、充は背筋が凍るような笑みを向けていた。
嘲りというよりは、冷笑。
弁護士は押されながらも必死に見つめ返した。
「な、何よ。」
「弁護士さん。あなたはそんなことを考える必要はありません。私に冤罪の可能性はない。完全な有罪なのですから。ですから申し訳ありませんがこの裁判は最初から検察側の勝利です。向こうにはちゃんとした証人もいますしね。」
弁護士はとまどった。
今まで相手にしてきたどんな犯罪者にも、こんな事を言った人間はいない。
「無罪になりたくないの?」
ごく普通の質問をしたと思った。
だが充はあからさまに眉をひそめてみせた。
「では反対にお聞きしましょう。弁護士とは犯罪者を無罪にする仕事なのですか?」
「なっ。」
弁護士は言葉に詰まった。
そんなことは決してない。
ないのだが、それは自分の中で長い間葛藤されていた問題であり、容赦なく押し寄せる現実の中であえて考えないようにすることにした課題であった。
目を背けたということは、それだけで罪なのかもしれない。
弁護士は何か言い返してやろうと思って開いた口を固く閉じた。
「どうやらあなたはまだ良心的な方のようですね。」
充がわざとらしく嗤笑する。
弁護士は握りしめた自分の拳に爪を食い込ませた。
「あんた、むかつくわ。」
「それは光栄。ではわかっていただけましたか?弁護士はいりません。」
「それとこれとは話が別よ。仕事なの。仕方がないの。」
弁護士はキッパリと言った。
充が呆れたように微笑む。
「あなたの顔に泥を塗ることになりますよ。」
「すでにあなたに散々塗られてる気がするわね。」
「これは失礼。」


 公判第一日目―――。

 「では人定質問をいたします。」
裁判長の声が響き、場が静まりかえる。
難波と朱美は傍聴席で辻井の背中を見つめ息を飲んでいた。
浅井の家族も同じように辻井の背中を見つめている。
その中にはもちろん浅井の母もいて、一際鋭い視線を浴びせていた。
「被告人、辻井優一。本籍某所。昭和某年某月某日生まれ。無職。間違いありませんね?」
「間違いありません。」
辻井はハッキリと明言した。
「違う。あれは充だ。」
難波のつぶやきは届かない。
この時点で充は優一とされ、すべての罪は優一が被ることになった。
難波は心の内で舌打ちした。
たったこれだけでも苛立ちがこみあげてくるのにこれから一体どれだけのことが起こり、自分はどの程度まで我慢できるのだろうか。
できることなら浅井を殺した人格を優一の中からたたき出してやりたい。
だがそんなことができるはずもない。
裁判はすでに起訴状朗読に入っていた。
「被告人、起訴状に間違いはありませんか?」
「間違いありません。」
「弁護人、起訴状に間違いはありませんか?」
「被告人の申し上げたとおりです。」
こうして罪状認否の手続きも終了した。
ほぼ通例通り。
何も変わったことはない。
が。
冒頭陳述に入ろうとしたとき、辻井がとんでもないことを申し立てた。
「裁判長、この裁判を執り行う必要などありません。言うまでもなく私は有罪です。」
場がいっせいにざわめき立つ。
戸惑いの声の中、辻井は自身に対して論告した。

「私、辻井優一は私自身に死刑を求刑します。」

一瞬とも永遠とも思えるようなしじま。
一時停止ボタンを押してすぐにまた再生したかのように、人々は瞬間制止し、すぐに騒ぎ出した。
裁判長が慌てて我に返る。
「静粛に!」
難波の頭に小槌の音が響き渡った。
「ちくしょう……」
憤怒の形相で辻井の背中を凝視する難波を朱美が心配そうに見つめるが、その視線はもう届かない。
少し眉をひそめて朱美も辻井に目をやった。

裁判は随分と一方的だった。
なにしろ証拠から何からすべてそろっている。
取調中に自白もしてしまっている。
自身を有罪だというその言葉の通り、無罪どころか刑を軽くできるような材料も一点もなかった。
だが弁護側にはたった一つ究極の切り札がある。
辻井優一が実は多重人格であるというその事実。
たったそれだけで、不可能を可能に、もしかしたら無罪になるかもしれないのだ。
弁護人は辻井優一の委託精神鑑定を依頼した。
辻井は何も反論せず、冷静にそれを受け止めた。


 難波は裁判所を出てすぐなんとも複雑なため息をついた。
「まぁ当然のことだね。」
そう言う表情は安心したようでもあり、納得しきれていないようにも見える。
朱美も同じような顔をして言った。
「最初から裁判で精神鑑定を受けるつもりだったんでしょうか?」
「いんや〜、そりゃ違うな。起訴前に受けた方がいいに決まってんじゃない。辻井は本気で死刑を受ける気だったんだよ。ただ弁護人としちゃそんなこたさせられない。だからこれが当然の結果なんだな。」
朱美は下唇を軽く噛んだ。
「でもなんだか、やっぱり悔しいです……。」
難波はその頭を軽くたたく。
「おれもだよ。浅井を知ってる奴はみんなそうに決まってる。」
難波は朱美と目を合わさずに苦笑した。


 あれだけやめろと言われていた精神鑑定に持ち込んだのに辻井の様子はまるで変わらない。
弁護士は面白くなさそうに辻井の頭をたたいた。
「ふん。ざまあみろよ。存分に精神異常と認定されてくるがいいわ。」
「どうでしょうね。」
辻井が言う。
弁護士は顔をしかめた。
「なんなの?」
「さあ?後のお楽しみと思っておいていただきたい。」
辻井は不敵に微笑み、決してその理由を明かそうとはしなかった。

 精神鑑定は思いのほか長引いた。
もともと日本では多重人格の存在はほとんど認められていない。
精神鑑定自体基準が不明確で非常に難しく、なおかつ特殊例の辻井が対象では当然のことだった。

そしてついに結果が出た。


 被告、辻井優一は自らを多重人格と偽り刑を軽減しようとした極めて許し難い人物である。
精神異常とは認められず、責任能力も十分にある。
犯行時の精神状態も無論正常であった。
よって、同情の余地はなし。厳しい処罰を望む。


 辻井は精神鑑定を逆手にとったのだ。



 机一つしかない灰色の部屋で、弁護士は苛立ちを抑えることができなかった。
「何よ、あんた何がしたいのよ。」
向かい合って座っている目の前の辻井は、今は『明』である。
「ゆ、ゆ、ゆ、優一を正しくさささ、裁きたいんだよ。」
怯えたような口調とは裏腹にその表情は喜びに満ちており、それは他の人格も同様であることが容易に想像できた。
弁護士は無性に腹立たしくなって下唇を噛む。
「優一は有罪。有罪なんだっ!だ、だって、僕たちをこっころ、殺したんだから!なのに正しい裁きを受けなかった。だから、だから今度こそ僕たちが正しくささ裁かせてやる!」
明の語気が荒くなる。
「優一に死刑を。僕たちが奴に裁きを与えてやるんだっ。」
弁護士は怒りにまかせて力一杯両手を机にたたきつけた。
「何よそれ。わけわかんないわよ。でもあんたたちのしたことは犯罪で、これからしようとしてることも犯罪よ!本当にそれで正しいと信じてるわけ?」
荒々しい音とわめき声が部屋に響く。
明の心にも響いたのかどうか、反応はない。
ただうわごとのようにつぶやく。
「そんなこと、し、知らないよ。正しいか、なんて……。わかっているのは一つだけ。」
弁護士は眉をひそめた。
明の口調から迷いが消える。
彼らの中で、これだけは確かなのだ。

「優一は、有罪。」


 精神鑑定後初めての公判。
検察側の言葉も弁護側の言葉も傍聴人にとってはどうでもよかった。
難波も朱美も浅井の家族も判決だけを待ち望んでいた。

死刑か無期懲役か。

唯一にして最大の切り札を自らの手でつぶした辻井に残された結果は一つしかない。
もはや蛇足のような証拠調べが行われる前で、難波は覚悟を固めていた。
手を下したのは優一でなくとも彼らを生んだのは優一の弱さのせいなのだと無理矢理自分を納得させ、心が弱いのは罪なのか、という問いには目を背けて。

 検察側が挙げた証拠はすべて崩しようがなかった。
凶器から検出された指紋、現場に落ちていた髪の毛、そして何より目撃者。
証人として法廷に立った目撃者の女性は事件の一部始終をよどみなく語った。
強力すぎる駄目押しだった。

が。
ここで難波にとって、そして辻井にとって、いや、誰にとっても予想外の事態が起こった。

 「そのとき被害者は抵抗していましたか?」
弁護士の質問に、証人は眉をひそめて答える。
「はい。かなり激しくもみ合いをしていました。そのときはただのケンカだろうと思っていたのですがあのとき私が止めに入っていればもしかしたら結果は変わっていたのかもしれません。」
「被害者は被告人と素手でもみ合っていたのですか?」
いまいち狙いのわからない弁護側の言葉に、検察官も顔をしかめた。
「裁判長、弁護人の質問は裁判に関係ありません!」
「関係あります!続けさせてください!」
弁護士は裁判長が口を開こうとする前に切り返した。
証人は緊張を隠せない。
「……はい。素手でした。もみ合いの末被告人の辻井さんが凶器のナイフを取り出して……」
「それはおかしいですね。」
弁護士は口元に勝利の笑みを浮かべた。
証人と傍聴人にはまだその意味がわからない。
「被害者は勤務前でしたが不注意により銃を所持していました。そして現場に落ちていた銃はハンマーが下りていた。引き金さえ引けばいつでも発砲できる状態にあったのです。被害者は銃を抜いていました。あなたの証言とは不一致点が見られます。」
法廷の空気が変わった。
難波は思わず声をあげて立ち上がった。
思い出したのだ。

あの日事件の直前にかかってきた浅井からの最後の電話。
その中で浅井は確かに辻井は女連れだと言っている。
辻井は最初から女を目撃者に仕立てるつもりで連れていたのだ。
しかしおそらく女は現場にはいなかったのだろう。辻井はあらかじめ事件の概要を語り、裁判での証言の仕方を教えた。だが辻井にとって計算外だったのは浅井が銃を持っていたことだ。通常刑事は勤務中以外は銃を持ち出してはならない。浅井の常識外れな不注意によってここで証言とずれが生じたのだ。

突然奇声をあげた難波に、裁判長が小槌の音を浴びせた。
しかし難波は座ろうとしなかった。
朱美が心配そうに難波の顔を見上げる。
法廷中の視線が集まる中、難波は無意識に口を動かしていた。
「その女は辻井が仕立てた偽の目撃者だ。おれは浅井の最後の電話を受けとった。」
辻井が驚きの表情で難波を見た。
だが誰よりも驚いていたのは他でもない、難波自身だった。
浅井の母の視線が痛かったが、難波はひとまず着席した。
弁護士は難波に一礼し、難波は苦々しい思いでそれを受けとる。
弁護側の反撃が始まった。

「あなたは被告人に依頼されて嘘の証言をしたのですか?」
ごまかしを許さない鋭い言葉に証人はたやすく落ちた。
「ええそうよ!頼まれたのよ。実際は人が殺されるとこなんて見なかったわよそんなもの!あたしは裁判長だまくらかすなんて気持ちよさそうなことしてみたかっただけよ。どうせ裁判なんていいかげんなものじゃない。あたしの夫は無罪だったのよ!早くあの人を出してよぉっ!」
すべては明らかだった。
辻井は何も言わず目を閉じていた。
検察官がそんな辻井に質問を浴びせる。
「しかしそのような証言をさせても被告人には何の利益もないはずです。被告人は証言を依頼したときどのような心境だったのですか?」
辻井は答えない。
このとき辻井に起こった変化に、難波だけが気がついていた。

「どいつもこいつもうるせぇなぁ。」

静まりかえった法廷に響く低い声。
公判中一度も聞こえたことのないトーン。
目を開いた辻井は、もはや今までの辻井ではない。
「ぐだぐだぐだぐだ言ってんじゃねぇ!さっさと優一の野郎を死刑にすりゃいいんだよっ!あいつはおれを殺したんだぜ?有罪じゃねぇか。なんでこんなうぜぇことしなきゃなんねーんだ?殺せ!首ぶった斬れ!殺せぇっ!」
難波は悟った。
「あれは……『乾』だ。」
朱美は息を飲んだ。

「裁判長、被告人は自ら死刑を望んでいる節があります。これに惑わされてはなりません。再度精神鑑定を望みます。」
乾が叫び続けるのもかまわず弁護士は毅然とした態度で申し立てた。
「余計なこと言ってんじゃねぇ!」
乾が弁護士のみぞおちに一撃をくらわせる。
弁護士がその場に崩れ落ちるのを見て、すでに騒然としていた場はパニックになった。
裁判長の小槌の音も今は虚しくざわめきにかき消されている。
その中で、乾は叫んだ。

「ここは悪人を正しく裁くところじゃねぇのかよ!大義名分がねぇと正しいこともできねぇのか!」

ざわめきは次第に小さくなり、それぞれの心の中に静かに消えていった。


 数日後、再び精神鑑定が執り行われた。
結果は―――


 浅井の母はなりふり構わず走っていた。
裁判所を出たところから追いかけている車ははるかに小さい。
タクシーを捕まえる頭も働かず感情に突き動かされるまま車道を走り続ける後ろ姿に、たくさんのクラクションが非難をぶつけてくる。
それでも追いかけずにはいられなかった。
やがて、前方の車が動きを止めた。
中から出てくるのは裁判長だ。
浅井の母は肩で息をしながらもしっかりと前を見つめ、ハッキリと叫んだ。
「どうしてですか!犯人には前科だってあるじゃないですか!うちの息子は何もしていないのにどうして!」
裁判長はうろたえる様子もなしに威厳のある声で言った。
「どうして……死刑にしないのかとお思いですか?」
騒音が遠くなる。
裁判長は眉をピクリとも動かさずに言葉を放つ。
「では感情論なしに被告人を死刑にすることが正しいと言い切れますか?」
感情ではなく理屈で話せと。
立場上もっともな話である。
しかし当事者にとっては冷血極まりない言葉。
浅井の母はかまわず感情を吐き散らした。
「だって息子は殺されたんですよ!こんな理不尽なことが……」
対照的に裁判長の声は決して乱れない。
「奥さん、私達に与えられた明確な正義は六法全書だけなのです。それから離れた私の良心はひどくあやふやで絶対の正義など生み出せはしない。それでも、この世で人間を裁ける者は人間しかいないのです。」
浅井の母は涙した。
二本の足でしっかりとそこに立ち、見えないものをにらみつけるように顔を上げたまま涙した。
裁判長はその震える肩に軽く手を置き、すぐにきびすを返して立ち去った。
浅井の母は裁判長を乗せた車が見えなくなるのを憎悪ともつかぬ瞳で見送る。
心臓をクラクションの波に踏み荒らされながら。


 「被告人、辻井優一を無期懲役に処す。」


 難波は数日前に聞いた言葉を繰り返し反芻していた。
難波の複雑な思いに世の中が出した答。
やり直された精神鑑定で責任能力は認められたものの精神病患者であることは間違いないと判断され、乾の叫びは精神異常者の戯言として受け止められた。

「大義名分がねぇと正しいこともできねぇのか!」

あの絶叫でさえ、なかったことにされた。
難波は不機嫌な顔で苦い茶をすする。
怒っていた。
何に怒っているのかは難波自身にもわからない。
落ち着きを取り戻すための茶も効果はなく、難波は足踏みを始めた。
こういうときに限って仕事がない。
難波は受付に電話をかけた。
「朱美ちゃ〜ん。ごめんねぇ、暇なもんで電話かけちゃったぁ。どう?今度こそ飲みに行かない?」
「難波さん……。」
返ってきたのは真剣な声。
難波は思わぬ反応に焦った。
「え。朱美ちゃん怒ったの?悪い!おれが悪かった!」
「いえ。今つなごうと思っていたんです……。」
受話器の中で朱美の声が震えている。
「難波さんにお電話です。」
難波は首を傾げた。
そうしている間に電話がとりつがれ、聞き覚えのある声が聞こえた。

「ハーイ難波!前略お元気ィ?ハッピィ?ラッキィ?おーうあいむふぁいんねー!んん〜?ナンバ!元気ナッシングからってお話ししないの僕ちゃんさみしー!トーク!トークぷりーず!れっつコント!何ゆうてまんねん。アホでおまんねん。ねんねんねんねんころころ。」
「おれがしゃべらないのは元気がないんじゃなくて呆れてんだよ。って、ええっ?つ、辻井ィ?おまっ、どうやって……」
難波は今までのことも忘れてひたすら慌てた。
「ナイスのりつっこみでーす!いきなり高等技術とはさすがナンバでーす!んもう嫌ンなっちゃうなぁホント!ど素人が爆笑さらうのは反則でーす!笑いに〜〜目覚めて〜〜幾星霜〜〜♪修行の道は〜〜厳しくつらく〜〜♪」
「何が言いたいんだお前はっ!」
「おう!そうでしたー。ナンバ!ナンバナンバナンバ!サンバ!ルンバ!ジルバ!ガンバ!」
「辻井ィ!」

「ミーがムショにぶち込まれる日に会いに来てちょ。」

ガチャッ
ツーツーツーツー

難波は呆気にとられてしばらく受話器を見つめたまま動かなかった。
辻井の意図を探ろうと思考を巡らせたがこれといった考えは思い浮かばず、苦い茶を飲んでまた足踏みをした。


 その日、難波の朝はいつもより早かった。
辻井が刑務所に入る日。
その日が今日であることはつかんだが時間まではつかめなかったのだ。
難波はまだ太陽が昇り始めた頃くらいから拘置所の前を張り込んでいた。
朝の冷気が体を包む。
ふところの銃が重くて肩を回すと間接が小さく鳴った。
辻井の電話を受けとったときから心の底に潜んでいた得体の知れない焦りが大きくなる。
足踏みが癖になってしまっていることに気付いて、難波はため息混じりに苦笑した。
どっしりと構えている拘置所を見上げ、すぐ足元に目をやる。
体に悪いと知っていても喫煙者が減らないのはこういう時間があるからかもしれない。
煙草を吸わない難波は静かに焦りを積もらせた。

そして、拘置所の門が開いた。

辻井が乗っていると思われる車が難波の目の前をゆっくりと過ぎる。
窓はほとんどふさがれていたが、難波はなんとか辻井の顔が見れないものかと目を凝らした。
難波の顔にあきらめの色が走ったとき、護送車はなぜか動きを止めた。
中から激しい音が聞こえてくる。
もしや、と難波が駆け寄ると、扉が勢いよく開かれた。
「辻井……。」
「脱走なんて思ったよりも簡単なものですね。やはりこの世界は腐っている。」
車の中では他の囚人たちが倒れ伏し、運転手も金網の向こうでイスからずり落ちていた。
「充、おまえどうやって……」
「武器を持ち込むのも簡単でしたよ。」
辻井は微笑し、手のひらに針のようなものを置いて見せた。
「私には造作もないことです。」
難波は絶句した。
こめかみに汗が流れ、頬を伝う。
信じられなかった。
辻井の見事を通り越して超人的な業と、万全でなければならないはずの警備が易々と破られたことが。
自分たちが絶対だと信じているものは実はとてももろいものではないのか。
難波の背筋に悪寒が走った。
「ご存じですか?無期懲役なんて言葉だけなのが多いんです。実際には数年たてば出所しているということがいくつもあります。許せませんよね?死刑になるべき罪人がおめおめと生きながらえてそのうえ社会復帰するかもしれないなんて。」
辻井は微笑みを浮かべていたが、瞳は鋭く光っていた。
二人の間を風が吹き抜ける。
難波の汗が凍りついたように肌を刺す。
辻井は目を細くして笑った。
「優一を死刑にするにはもっと人を殺さなければならないのでしょうね。ねぇ難波さん、私だって無駄な罪は犯したくない。どこまでが無期懲役でどこからが死刑なんです?」
「もうやめろっ!」
難波は無意識に叫んでいた。
「おまえたちのやってることはおかしいんだよ。優一を死刑にするためだけに何人の人間を殺す気だ。おれにはおまえたちの方が凶悪に見える。」
辻井は笑顔を崩さない。
「やはりあなたはそういう方だ。だからこそ……」
難波は目を見開いた。
辻井がいきなり襲いかかってきたのだ。
だが不意打ちの第一撃はかわすことができた。
辻井の武器は日光をよく弾く。
ましてや針で人を殺すとなると狙われる場所は限られてくる。
難波は次の攻撃に備えて身構えた。
が。
難波の予想は外れ、辻井の針は心臓でも首でもなく足を貫いた。
思わずうめき声を出す。
これでは思うように動くことができない。
足元から飛び退いた辻井は今度こそ殺す気で向かってくる。
難波は苦虫を噛みつぶしたような顔で銃をぬいた。
すがすがしい朝の日を、銃声が撃ちぬいた。

 肩を、狙ったつもりだった。

アスファルトを赤い血が染めていく。
辻井は膝から崩れ落ちた。
武器を握っている手はぶらんと垂れ下がり、もう襲っては来なかった。
辻井は苦しげに口を動かしたが、出てきたのは言葉ではなく血反吐だけで……
難波は銃を下に落とし、頼りない足取りで辻井に近づいた。
頭の中では何が起こったのかまだわからずにいた。
そんな難波の目を覚まそうとするかのように、一歩近づくごとに赤が鮮明になっていく。
うめく辻井の傍らまで来たとき、難波は膝をついて地面を殴りつけた。

「充おまえっ、わざとずらして心臓撃たせやがったな!」

立ち上がることができなくなった辻井は母親と同じ場所を赤く染めて微笑む。
難波は激しい怒りを感じながらも目頭を熱くすることを禁じ得なかった。
「法律が裁かないなら……、あなたに裁いてもらいたかった。」
辻井は最期とばかりに口を開いた。
「おれは人を裁いていいような人間じゃないよ。このばーたれが。」
辻井は難波の言葉を微笑みで受け流す。
「私は……ただ一人…、優一から生まれたんです。これは、彼の望みでした。彼自身が誰より死刑を望んでいた…。難波さん、ありがとう。」
辻井は銃弾を飲み込んだ心臓をさらに突き刺した。
「これで業務上過失致死の可能性はなくなったはずです。すべてはあそこの監視カメラが見ている。じきに警備員が……あ、なた、は……有罪で、は、な……」
「充!充!死ぬな馬鹿野郎!」
難波の言葉は届いた。
辻井は幸せそうに頬をゆるませて、静かに目を閉じた。
安らかに逝ったのだと難波は思ったが、よかったとはどうしても思えなかった。
難波はこみあげる涙をひっきりなしに拭いながら充の死に様を目に焼きつけた。
すると、閉じられた瞳が突然開いた。
「みっ…!」
「充」と、声をかけようとしてやめた。
その表情は充ではなかった。

「刑事さん、僕は……有罪?」

確かめるような口調。
難波はよっぽど首を振ってやろうかと思ったが、唇を噛みしめて思い直した。

「有罪だ。おまえは死刑だよ。」

そして、辻井は今度こそ息をひきとった。
その顔は微笑みに満ちている。
真っ赤に染まった死刑囚の亡骸。
難波は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら死に顔をにらみつけていた。
浸蝕に貪欲な血がじわじわとズボンににじむ。
「辻井ィ、死刑になっておまえの罪は償えたのか?解放、されたのか?」
辻井の言葉通りすぐに警備員がかけつけてきたが、難波は動こうとはしなかった。
辻井の死体が運ばれていっても、難波は黒ずんだアスファルトを見つめたまましばらくそこを動かなかった。


『拘置所の警備体制の見直しを迫られることとなった今回の事件ですが、監視カメラに写されていた一部始終は発砲した警察官の供述通りで、犯人は自殺でありこの警察官が罪に問われることはないようです。』

画面には重々しい雰囲気の拘置所の門だけが映されている。

あんなものは真実じゃない。
辻井が流した血の一滴だって映されちゃいない。

「辻井の叫びは最後まで届かなかったんだな。」
難波は自分のイスに座って湯飲みに茶を注いだ。
「でも、これで終わったんですね。」
朱美が言った。
「いんや、まだだよ朱美ちゃん。」
難波が言った。
「おれは有罪だ。この罪は決して消えないだろうね。」
自嘲しながら茶を口に運ぶ難波を見て、朱美は言い知れぬ不安に襲われた。
何故か茶を飲ませてはいけない気がして手をのばしたが、すんでのところで間に合わなかった。
「な……んばさ…」
「ん?何?」
玉露のいい香りが漂ってくる。
朱美はきゅうすの中をのぞき込んだ。
「また怪しい粉末をブレンドしたんですか?」
「もちろーん。今回は原点に返って青汁パウダーにしてみた。」
呆れたようにため息をつく朱美に、難波は香りを味わいながら言った。
「おれは長生きするって決めたの。長寿世界一になってやるのよ。まぁ見ててな朱美ちゃん。この茶を一万杯飲む頃には……」
「難波さんの味覚が壊れてます。」
難波と朱美は見つめ合い、大声で笑い出した。
「違いないね。」
「他にもやりようはありますでしょ?」

テレビはしばらく事件の概要だけを語る無表情なニュースキャスターを映していたが、やがて違う事件の現場へと移っていった。
難波と朱美はそれにも気付かずに健康茶について語り合い笑い合っていた。



なぁ辻井、
どこまでが正常でどこからが異常なんだ?
何が正しくて何が偽りなんだ?
真実は―――どこにもない。
わかっているのは何もかも理不尽で
おまえは大馬鹿もんだということだ。
END.
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