『666』

自殺だと警察が言った。
机の上に花が置かれて全校生徒が黙祷を捧げた。
クラスの人間は葬式に参列して線香の匂いをかぎながら、誰一人、涙を流さなかった。

新月神無(しんげつかんな)が、この世からいなくなった。


それはもう、いっそ嫌になるくらいの青空で。
どこまで見渡しても雲一つなく。
ああ、こんないい天気もう見られねぇのかよオマエ、ざまあみろ。
などと、そう笑ってやりたいのに。
少し視線を落とせば。
黄色と黒の無粋な柵や見るからに鬱陶しいテープなどが至る所にあるものだから。
「………もったいねぇよな。この天気とこのタバコ。」
弥勒は白い煙を吐き出しながら思わず悪友の顔を思い浮かべてしまった。
ちらりとその方向を見ればそこにはやはり柵とテープがあるばかりで。
瞬間、吐き気がした。
「…うっ……げぇ………っ」
何度も何度も背を丸めて胃液しか出なくなるまで繰り返す。
眦に生理的な涙がにじむが、止まらなかった。
空は青くて、風は心地よく、決まりの銘柄でいつも通りの一服を。
狭苦しい教室を抜け出して、気に入りの場所で楽しむにはもってこいの日なのに。
来てみれば屋上はあまりに変わり果てていて。
どんなに悪態をついても……
「くっそぉ……っ。てめぇのせいだ神無ァっ!自殺だと!?ざけんなっ!てめぇがそんなタマかっ!勝手に人の安らぎタイムを奪っていってんじゃねぇ!」
弥勒は自分の目の前の空間を思う様にらみつけた。
いつも、新月神無はこの場所で、一緒にタバコを吸っていて、一言だってかんに障ることを言おうものならすぐさま人を突き落とそうとするような、そんな少年だったから。
声にならない声をあげながら、白く頼りない煙で蒼天を汚し続けた。

「ここにいたのね、駿河くん。」

聞き覚えのある声に顔を向けると、黒ずくめの担任が自分を見ていた。
「屋上はしばらく立ち入り禁止…いえ、以前から立ち入り禁止だったでしょう。」
弥勒は口元を拭い、吐瀉物を隠そうと体を動かしたがすでに遅く、
「……あなたには新月くんの葬儀にどうしても参列してもらいたかったのだけれど…でも、そうね…。……それに…もう、終わってしまったわ。」
声には気遣うような色が見え、妙にいらだちを助長した。
「………アイツ、どんな…顔してました?」
細眉がわずかにひそめられる。
それは、小さな非難。
「…安らかに逝ったと思うわ……」
それだけでも見ればよかったのにと言外に告げられて、弥勒は思いきり顔をしかめた。
「俺はあんなヤツとの思い出なんていいことなんか一つもないが、それでも思い出をこの手で殺す気にはなれないんですよ先生。」
尋ねたのは確かめるためだった。
今でも、何回聞いても信じられない、死因。
弥勒は喪服に包まれた体をむりやり押しのけて階段を駈け下りた。
「駿河くん!こんな日に言うのは非常識だとわかっているのだけれど…すぐになんて言わないわ!でも乗り越えなさい!新月くんだってそれを望んでいるわ!そんな目をしないで!」
慌てる声を足音でかき消して、馬鹿を言うなと心で叫ぶ。
アイツを誰よりよく知っているのはこの俺なのだ。
自殺なんてするようなヤツじゃない。
安らかな死に顔だと?冗談じゃない。
アイツは血反吐を吐いてもこう言うはずだ。

「探し出せ弥勒。俺を殺した奴を。何がなんでも探し出して、俺のもとに連れてこい―――。」

それが、新月神無なのだから。


一週間が気の遠くなるほど長く感じられた。
駿河弥勒は、ほとんどの教師にいわゆる不良としてマークされている生徒ではあったが、それでも自分では平和主義者だと思っていた。
何故なら弥勒はほぼすべてにおいて受動的だったからだ。
彼が自分からしたことなどタバコとナンパと制服を着崩すことくらいだった。
それ以上のことは、弥勒はしなかった。
したのは専ら神無だった。
弥勒は頬杖をつき、リズムよくチョークを鳴らす教師を見やる。
周りからは小さないびきやシャーペンの音、かすかな話し声などが聞こえてくる。
あくびをしたくなるようなごく当たり前の光景だ。
神無がいたころは、こうではなかった。
教師は男も女もわめきたて、やがてすすり泣きをした。
生徒たちは青ざめて震えているか、暴れてガラスを割ったりしているか、ほとんど席にいなかったりもした。
あのころが異常で、今が正常。
自称平和主義者の駿河弥勒としては、微笑ましい、はずだった。
なのにどうして。
口に出すことなどできず、弥勒はいきなり机を蹴り倒した。
横倒しになった机からはシャーペン一本出てこない。
全員が視線を向けてくるのを無視して、静かに教室を出ていった。

階段を上って、小さな扉に手をかける。
鍵がかかっていたが、ヘアピン一本ですぐに開いた。
こういうことを教えたのも神無だった。
屋上には未だに柵とテープが陣取っている。
それでも弥勒にとってはこっちの方が数倍安心できた。
タバコを吸う気にもなれずにしばらく風に吹かれていると、ガラリと音がする。
神無と連んでいた―――、いや、正確には使われていたと言うのだろう。
一週間前まで同じ立場にいた連中が立っていた。
「どうした川上、神無がいなくなった途端イイコちゃんになった犬ども連れて。」
「るっせぇ駿河、新月がいなくなった途端デカい口きくようになった狐が何言ってんだ。」
元から仲間だとは思ったこともなかったが。
一触即発の空気に、弥勒は口の端をつりあげた。
「で?話しに来たんだろ?どういうつもりだ?」
「…新月がいなくなったんだ。もう目立つことはできねぇしする気もねぇ。てめぇじゃダメだ。頭は切れるが信用できねぇ。俺らは潜らせてもらう。」
弥勒は納得して軽く頷いた。
「だろうな。俺は上に立つタイプじゃねぇし。が、神無がいないと何もできねぇってのは情けない話じゃねぇのか?」
「……てめぇがそういうのか?わかるだろ。」
川上は胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえた。
変わり果てた屋上で、変わらない行為。
何故か、妙に滑稽だった。
弥勒もタバコを取り出したが、火は点けなかった。
「……ああ、悪かった。裏で好きなようにやれよ。利害がぶつからねぇことを祈るだけだ。」
結局は、神無の変わりをやれる人間は誰もいないということだ。
この中の誰にも、神無の後を継いで全員を黙らせることのできるヤツはいない。
わかっていたことではあったが、やっと橋が繋がったような、そんな感覚だった。
「ありがとうな。あの薄気味悪い教室にいねぇでよかった。やっと現実見れた気ぃするわ。」
心からの礼。
仲間だと思ったことはなかったが嫌いだったわけでもない。
はみ出してしまったという同じ感覚だけはいつだって感じていた。
それを嫌悪した日もないわけではなかったが。
「……てめぇはこれからどうするんだ?」
返ってきた言葉に何の含みもないのはトーンからわかった。
しかしそれは川上だけのようで、川上の背後からこちらを見つめる視線は凄まじいものだった。
「……安心しろよ。そこらへんにゴロゴロいそうな『ちょっとひねた生徒』を一人で可愛くやってくだけだ。神無がいねぇんだ。そんなもんだろ?今さら優等生に戻る気もねぇし。」
「……潜らないのか。」
弥勒の答はお気に召さなかったようだ。
弥勒が口を開くより先に、川上が制止する。
「よせ、高山。俺たちの言うことじゃねぇ。」
だが効果はなく、後ろにいた全員が川上を突き飛ばすように押しのけて弥勒ににじり寄る。
「……こいつ前から気にいらないんだよ。新月はもういない。いっぺんボコって……っ」
高山の言葉は途中で遮られた。

「弥勒ーっ!どーこー?みろ……」

真白(ましろ)…。」
弥勒は深いため息をつく。
状況を確かめてから声をかければいいものを。
この幼なじみはいつだってこうなのだ。
明らかにそぐわない雰囲気を一人で放っている真白は、よせばいいのにその場を離れない。
「…斎木(さいき)か。あいつならチクらないな。駿河の女って罪で一緒にボコるかぁ?」
下卑た目をした高山は「それとも輪姦すか?」と、ニヤニヤ笑った。
弥勒はポケットから出したまま指で弄んでいたタバコを口にくわえて火を点ける。
「高山くん、君は何か誤解してらっしゃる。あいつとは腐れ縁なだけで彼女なんかにした覚えはありませんし僕の好みは大人の女性ですよ?んもー、早とちりさん。好きなら好きと正々堂々告白なさいな。でも高山くんの片思いの相手は黒崎さんじゃありませんでしたぁー?」
挑発に、乗ったのは相手。
吠えながら殴りかかる拳をひょいっとかわし、伸びた腕にタバコを押しつけた。
悲鳴の間に襲いかかってくる他の腕や足を捌いて、この中で一番がたいのいい高山を蹴り飛ばす。
高山は何人かを巻き添えにして屋上の柵にぶつかった。
「神無と同じところから落ちてみるか?」
弥勒が笑って言えば、怯えた顔で首を振った。
「俺はおまえらの邪魔はしねぇって言ってんだ。おまえらも俺の邪魔すんな。」
タバコをくわえ直して白い煙を吐き出す。
不味かった。
一週間前からずっと、美味しいタバコにありつけない。
肩をつかまれ振り返ると、川上がどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
「てめぇの責任じゃねぇだろ?」
「けどよ…。」
弥勒はそのまま背を向けて幼なじみの同級生の方に歩き出した。
「すまねぇ。何かあったら言えよ。」
川上の言葉に軽く手を振って。

見れば、どうやら動かないのではなく動けなくなっているような様子の彼女は、弥勒に肩を軽く叩かれてそのままへたりこんだ。
「屋上の階段はみんな掃除に手ぇぬいてっから汚いぞ。」
「え、あ。あ〜〜っ、ほこりまみれ〜。弥勒ひどいよ…。」
眼鏡の奥の瞳は少し潤んでいる。
「おまえが勝手に座ったんだろ。そもそもなんで探してたんだ。」
タバコを離して息を吐くと、白い手がすっと指をかすった。
「だめだよ弥勒。タバコやめようよ。あのすごく怖くて嫌な感じの人たちとも会わないようにして、元の弥勒に戻ろう?弥勒ならみんなにこにこで友達になってくれるよ。」
少し鋭い目を向ければそれだけで大きく肩を震わせるくせに、目だけはそらさなかった。
「……神無が死んだから?」
全身、どこもかしこも嘘がつけないから、図星をつかれたのが見るからにわかる。
真白は小刻みに震えながら頷いた。
「ごめん…。でも…だって…さ、弥勒がこんなになっちゃったのって新月くんのせいじゃない。新月くん怖いから…でも…もういないんだよ?」
「俺がこうなったのは神無のせいじゃない。」
きっかけでは、あったが。
「えっ、嘘だよ。弥勒は本当はすごくすごくすごく優しくてすごくすごくすごくマジメさんだもん。新月くんと会うまでは……」
弥勒は真白を置いていく勢いで階段を下りる。
真白はあたふたして階段を踏み外し短い悲鳴をあげた。
が、瞬間伸ばされた腕にしっかりとしがみつく。
「ご、ごめん〜〜。本当にありがとうね弥勒。」
「相変わらずボケだな。その眼鏡ちゃんと度あってんのか?」
真白はしっかりと眼鏡をかけ直して力いっぱい頷いた。
「…それと、俺以外に頼れる友達作れ、な?」
沈黙。
から首肯。
頷くというよりは俯いたその頭をぽんぽんと叩き、弥勒は振り返らずに階段を下りた。
「大丈夫だよ…だってもう………」
真白のつぶやきは聞こえなかった。

つま先で数回地面を鳴らして靴を履き、校舎の外に出ると、やはり見覚えのある人物が立っている。
おそらく自分を待っているのだろう。
神無亡き今そうとう注目されているのだと思うと、思わず苦笑する。
「門とか扉が好きですね先生。」
「駿河くんを捕まえるのに一番いいところだもの。」
返す言葉もなかった。
「で?なんですか千鶴子ちゃん。アタシの体を慰めてぇ〜んってな甘いお誘い?」
「授業を抜け出した悪い子にはお・し・お・きってな大人のお誘いよ。」
相手の方が上だった。
弥勒は降参して頭を押さえた。
「職員室で?それとも生徒指導室で?」
「………今日はここでいいわ。」
首を振る担任に不遜な笑みを浮かべてみる。
「今日は、ですか?」
「そう……、駿河くん、新月くんは……」
「自殺、ですよね?」
風が強い。
「……ええ。屋上のへりでしばらく立ちつくしていた新月くんの姿を私を含め何人かの人が見ているわ。飛び降りたところもね。そして警察が他殺の可能性は低いと言ったわ。…考えられるのは、自殺でしょうね。」
長い黒髪に邪魔されながら、赤い唇が言った。
「でも、駿河くんは信じていないのよね?そして、探す気でしょう?」
弥勒は目を細めて微笑を作った。
「警察が自殺って言ってるのに、俺に何ができるんですか?」
「何もできなくても、する気でしょう?」
目を細めていなければゴミが入りそうだった。
「私も手伝いましょう。」
弥勒はほんの少しだけ瞠目する。
「そりゃまたなんで?」
「生徒が心配だからよ……。」
ふざけた調子の弥勒に対して返ってきた言葉は随分と深刻な口調で。
「俺は後追いはしませんよ。」
「………ええ。」
弥勒は小さく頭を下げて校門を出た。


翌朝、学校は早朝から騒音に包まれていた。
弥勒の家は学校からすぐだ。
その音が聞こえた瞬間、飛び出した。
校門に、あの日とそっくりな光景が広がっていた。
白い車に運び込まれるタンカ。
黒い学生服の、顔に白い布を被せられた……死体。
あれは死体だ。
弥勒は知っている。
既視感ではない。
あれは死体だ。
あの日も、そうだったから。

屋上に行かなければと、思った。

心臓と吐息の音を振り切るように扉を開け放てば、屋上の床は黒く染まっていて。
心まで侵されそうな色だった。
落ちて死んだのではない。
間違いなくここで……殺されたのだろう。
激しい嘔吐感を、憤りと使命感が凌駕した。
早くしなければ。
じきに警察がくる。
早く。
何か。
なんでもいい。
とにかく。
弥勒は震える手で黒ずみをなぞり、目を見開いてきょろきょろと動かした。
血が、その場所に、
新月神無が落ちた場所に続いていて、その部分だけ柵が倒れている。
弥勒はそこからそっと下を見て、言葉もなく立ちつくす。
へりの部分に、おそらくは血で描かれたものだろう。

666

膝が震えてどうしようもなかった。

「何か…ありました?」

はねるように後ろを向けば、怪訝な顔の委員長がこちらを窺っていた。
「黒崎…。」
「また、ここが現場なんですね?さっき…高山くんが落ちたって聞きました。誰かいました?それとも何か落ちていた?」
弥勒は無言で首を振った。
が、すぐに問い返した。
「高山だったのか?」
「……ええ…先生がそうおっしゃっていました。駿河くん、すぐにここを離れましょう。警察の方のお邪魔になってしまうから。私も思わず来てしまったのだけど、これ以上うかつに触ってはいけないと思います。」
弥勒は神妙に頷いて、それでも一度だけ後ろを振り返った。
赤黒い数字が目に焼きついて離れない。
「……666……」
前を行く委員長が眉をひそめて振り向く。

「悪魔の数字ですね。」

一瞬、なんと言ったのかわからなかったが。
弥勒はこの後何度もこの言葉を聞くことになった。


教室の至る所からひそひそ話。
新聞はその数字を大きく印字し、テレビは暗号解きを楽しむかのように騒ぎ立てた。
弥勒は不快ったらなかった。
呪われた数字、666。
たったそれだけで、高山の死はエンターテイメントになってしまった。
あまつさえ。
「新月くんの呪いじゃないの?」
という声が聞こえてきたときには。
体中の血液は、沸点を超えるのではないかと思われた。
「うるせぇっ!」
たった一言で水を打ったような静寂が訪れるあっけなさにますます腹が立つ。
弥勒は乱暴に扉を開けて教室を出ていった。
自分がいなくなったのを確認すればすぐに元通りになるのだろう。
想像するまでもない。
自分の教室にも聞こえるように隣りのクラスの扉を勢いよく開けて、川上を連れだした。

伸び放題の草の上に腰を下ろし、同時にタバコを取り出す。
少しだけ、笑った。
「なんか、吸っちまうよな。」
二人で煙を吐き出す。
煙にぼやける景色は見ても、決して煙の先は追わない。
今は見たくなかった。
「悪い。何も知らねぇ。」
川上はぽつりと言った。
半ばわかっていたことではあったので、弥勒は「そうか。」とだけ言って、また煙を吐いた。
「神無、自殺だったと思うか?」
川上は少しだけタバコを持つ手を止めて首を振った。
「新月と自殺。世界で一番似合わねぇ言葉だ。」
「だよな。でも神無と事故っていうのもピンとこねぇだろ?」
眉間にしわを寄せる川上に、ニヤリと笑う。
弥勒はなかなか開こうとしない唇をじっと見ていた。
「………嘘、だろ。」
「俺には自殺や事故の方が嘘っぽいんだよ。」
川上はタバコを持った手をピクリとも動かせず、つい、煙の先を見てしまった。
少し前まで何もなかった屋上に、高い柵。
少し前まで新月神無と、目の前の弥勒と、そして自分たちが、高山が、タバコを吸っていた場所を、警察や記者が思う存分荒らしていった。
もうしばらくしたら工事が始まるだろうあそこに、今は、高山の血の跡がある。
「……俺は新月が嫌いだった。」
弥勒は苦笑した。
「アイツを好きなヤツなんざいねぇよ。」
「……ああ、嫌な…奴だった。俺なんか世間から見りゃ拗ねてるようなもんだ。でも新月は違った。とことん悪かった。なんつーか…悪意の塊みてぇなくせに根本は無意識っつーか…うまく言えねぇが…それで、楽しんでるんだ。全部。どんなひでぇことも。心から。」
タバコの灰を落としながら頭をかく川上に、弥勒は軽く頷いて先を促す。
「目だ。目が一番嫌いだった。あの目で俺の…心を見やがる。」
「親が知ったら泣き出すような、一番隠してぇ部分を言い当ててのけるんだよな。」
弥勒も神無の目が嫌いだった。
正確に言えば、怖かった。
「だから、逆らえなかった。」
川上は暫時瞠目して、遠慮がちに弥勒を見た。
弥勒は白い煙を見ていたが、川上の視線に気づくと薄く笑った。
「俺だっておまえとさして変わらねぇよ。」
「……そうか。……そうだ、逆らえなかった。新月は全部見抜いていやがった。見抜いていて、笑いやがるんだ。おかしそうに。俺は自分のどんなやべぇ部分よりやべぇもんを初めて知った。」
川上はまぶたの裏に新月神無の姿を見ているようだった。
一週間やそこらでは少しも掠れない、そういう存在。
「悪魔のような奴だった。」
「……オイ。」
「おまえに言われるまでもなく…俺も心の底では自殺なんか信じられねぇ。だから……」
「……やめろ。」
「もしかしたら高山が殺して…新月の怨念かなんかが……」
「やめろっつってんだよ川上ィっ!」
弥勒は川上の胸ぐらをつかみ、憤怒の形相で怒鳴った。
「…んだよ駿河。死んだやつの悪口言うなとでも言うつもりかぁ?」
「………っ」
神無も高山もすでに故人。
それも、あるけれど。
弥勒は川上の腹に拳を叩き込んだ。
殴って、すぐに謝った。
「……悪い。」
川上がお返しとばかりに同じように殴っても、何も言わなかった。
川上は二発目を繰り出す気も失せて軽く弥勒の頭を叩いた。
「いや、俺も悪かった。なんだかんだいって新月とおまえの仲は…俺らとは違ってたからなぁ。」
「……かもな。」
わかっていると思っていたものだから。
「つい、殴っちまった。」
「俺も返したから気にすんな。…でも、俺以外にもこう思ってる奴はたくさんいるぞ。」
「知ってる。」
弥勒はタバコを口にくわえたがなかなか普通に吸えず、憮然として腹をさすった。
川上も同じだったようで、少し咳き込んだ。
「……だから、容疑者は多すぎるってことだ。」
「……知ってる。だから、手伝えよ。絶対高山にも繋がってるはずだ。」
腹をなでながら口の端を上げる様子は妙だったが、川上は笑えなかった。
「何ができるってんだ?」
「知らない。でもなんかあるだろ。」
気がつけばチャイムが二回目の半分を越えていて。
しかし校舎裏で殴られた腹をさすりながら一方の手でタバコを握る二人に関係があるはずもなく。
悠々と足を組みかえた弥勒を前に、川上はため息をつきながら頷くしかなかった。

そうと決まれば現場を調査ということで、屋上への階段を登り始めた二人を、静かに注意する声。
「…屋上は立ち入り禁止よ。わかっているでしょう?」
弥勒はすでにバリケードをどけにかかっていて、瞬時に固まった。
「…調べるのなら私も手伝うと言ったはずよね?」
「いえね、僕としましては赤坂先生のお手を患わせるわけにはいかないなーなどと。」
冷や汗をかきながら言ったが、
「…それ以前に今は授業中よね?」
やはり相手の方が上手だった。
川上は二人に挟まれてどうすればいいのやらと思っていたが、突如弥勒に手をひっぱられた。
「じゃあ僕と川上くんはこれから授業に出てきまーす♪」
走って逃げる弥勒の後を追う。
「オイ駿河ァ、なんか知らねぇが赤坂が手伝ってくれんなら堂々と屋上見せてもらえばよかったんじゃねぇの。」
川上が背中に問いかけると、弥勒は振り返らずに舌打ちした。
「あの先生苦手なんだよ。いつもやたらと俺に関わってきて。そんなに熱血ってわけでもねぇし…。」
「惚れられてんのかぁー?」
「それだと悪くねぇけどなぁー。」
笑いながら見えた光景に、急ブレーキをかける。
「俺は水飲んで行くからおまえマジメに授業受けてろ。カモフラージュ頼んだぞ!」
と、適当にいなして一人になると、弥勒は頭をかいて逡巡した。
しかし結局は声をかけて近づいていく。
「真白、今日は何されたんだ?」
真白は肩を大きく震わせたが、振り向かなかった。
「んー……教科書が…なくなって。探してたんだけどね〜。」
そう言って立っている場所は掃除のときによく利用する水道で、もちろん教科書を探すのに適当な場所であるはずがない。
縮こまる背中が何を隠しているのか。
わかっていたがあえてのぞきこむと、今日の授業の教科書すべてが水浸しになっていた。
「…どうしてかなぁ。」
真白は眼鏡をかけ直した。
「…おまえはボケだが許せないほどでもないし俺は嫌いじゃないけどな。」
真白は鼻をすすって、かけ直したばかりの眼鏡をまたかけ直す。
「…だから泣くんなら眼鏡外せよボケ。」
弥勒は内心呆れながら真白の頭をそっとなでた。
子供のころから真白が泣くとこうしていた。
少しは役に立っているのか知らないが、こうすると思う存分泣いてくれるので。
鼻をすすりながら眼鏡をかけ直すのは、真白が泣くのを堪えているときの癖だった。
「……も…だいじょ…ぶって…ったのに…なぁ……。」
もう、と言った部分になんとなく気づいてしまって。
「……神無が死んだから?」
心持ち優しくしたつもりの声で聞いてみれば。
やはり嘘のつけない真白はびくっと反応して、涙に濡れた目で弥勒を見て恐る恐る頷いた。
「ごめ……、だって、新月く…は…新げ…がいるからみんな……」
「まぁ…確かにな。」
新月神無がいなければごく普通の冷めた学生だったはずのクラスメイトは、ほぼ悪い方に覚醒してしまっていたので、反論などできるわけもなく、またする気もない。
自分もその一人なのだから。
…えらく静かな教室になったと思ったが…神無がいなくなってもこういう陰湿なのは残っていくんだなぁ…。
と、思ったが口には出さなかった。
震えている頭をなでていればそんな気にはなれない。
が、真白は膝が折れたようにしゃがんでしまった。
本格的に泣いている。
弥勒もしゃがんで、また頭をなでてやった。
気恥ずかしさは多大にあるが、知らないふりをするよりはこの方が楽だった。
以前の自分なら、真白の側にできる限りいるようにして、加害者を探し出して何が何でも説明させて。
そんなことをしていたのではないかと思う。
正義の味方気取りで、まるで義務を果たそうとするかの如く。
あのころは遙か遠く、神無と出会った後では、あんなものは自分ではない。
「ごめんね……弥勒。」
真白は謝り続けたが、弥勒も負けずに頭をなで続けた。
問題は真白自身が解決しようとするべきで、自分にできることは早くそうできるようにそっと支えていくことだと。
今は、そう思っているから。
ようやく泣きやんだころ、小さな声が耳に届く。
「……弥勒も…変わってくれないの?」
「……俺は元々がこうなんだ。」
そう言うしかなかった。

結局授業には戻れず、最後のホームルームもさぼることにあっさり決定。
担任に見つからないようにと見るからに怪しげな態度で廊下をうろついていると、クラスの委員長の姿を見つけた。
誰もいない廊下に二人。
向こうも自分に気がついて、一瞬だけ視線が合う。
そらした後で、勝手に口が動いていた。
「……高山、あいつ黒崎のこと好きだったよ。」
弥勒はしまったと思った。
何度か言いかけたことはあったが、それでも言わないつもりだったのだ。
今までつぐんできた口が二人きりになってさらっと開いてしまった。
謝れる側だけにでも謝っておこうと思ったところに、返事が返ってきた。
「……そうですか。」
それだけだった。
感情の読みとれない声で、ただそれだけ。
お門違いだとはわかっていてもあまりいい気分にはなれなかった。
それが、顔に出たのか。
「どうしてそんな顔をするんですか?」
「…高山のことを知ってるからだよ。黒崎は…悪くねぇな…。ああ。」
弥勒はため息をつきかけて、早くこの場を去ろうと思った。
だが、思ってもみない言葉に足を止められる。
「駿河くんは、新月くんのお葬式にも参列しなかったのに?」
委員長、黒崎一夜(いちや)の口からその名が出たことが意外だった。
「……アイツの葬式だから出なかったんだよ。」
「……そうですか。」
やはり感情の読みとれない声ではあったが。
黒崎一夜という少女は、クラスの中にあって唯一、新月神無の影響を受けていなかった。
それでいていじめの対象になっているわけでもない。
教室がどんな状態にあっても淡々と勉強をしていて、どんなときでもそのペースを崩さない優等生。
注意などはするのもムダと思ってかすることはないが、顔の造形が非常に整っているので、じっと見つめられれば皆なんとなくかしこまってしまっていたりした。
神無のことは歯牙にもかけていないのだろうと思っていた。
「……アイツ、どんな顔、してた?」
なんとなく聞いてみたくなった。
何を期待するわけでもなく、すでに聞いた答を繰り返されることを承知で。
だが、黒崎は目を伏し目がちにして無言で歩いて行った。
見なかったのかもしれない。
弥勒はそう納得した。


清々しい朝を引きちぎる救急車のサイレン。
弥勒は玄関を蹴破る勢いで外に出た。

三回目が―――あったのだ。

タイミングが、よかったのか悪かったのか。
弥勒は見てしまった。
一瞬だったが、目を覆いたくなるような。
幼なじみの少女の、最後の表情。

殺されたのは、真白だった。

同じだった。
同じ場所から、同じように落ちた。
高山と同じように、殺されてから。
見なくてもわかる。
きっとあの数字が残っている。

666

気がついたら階段を駆け上っていた。
扉の前にあったはずのバリケードは通れるように崩されていて。
屋上に出れば、黒い染みの上にみずみずしい黒が重なっていて。
やはり。
そこだけ柵が倒れており、印が描かれていて。
想像したとおりの。
それが、
息もできないほど許せなかった。

くらりときてその場にかがめば、どうやらずっと呼ばれていたらしいことに気がついて、
「駿河くん、すぐに警察がくるから、ホラ、とにかくつかまって。」
むりやりひっぱり起こされ引きずられながら、激しい怒りの中で思い出す幼なじみの顔は先ほどの、あの。
「…絶対…許さねぇ……。」
口元を押さえながら低くつぶやき、つかまれていた腕を振り払う。
「先生、協力してくださいね。神無の死から…真白までの真相暴き。」
弥勒は自分の手足が、唇が、全身が震えているのを感じた。
怒りで体が震えることがあるのだと、初めて知った。
「……ええ。………一つだけ、聞いていいかしら?」
何を?と、目で問えば。
「駿河くんは犯人を見つけてどうするつもりなの?」
すぐには、答えられなかった。

「探し出せ弥勒。俺を殺した奴を。何がなんでも探し出して、俺のもとに連れてこい―――。」

頭の中に声が響く。
聞き慣れた傲慢な声、有無を言わせぬ命令口調。
連れてこいと、言っている。

「わ……か…りませんっ……俺には…っ」
口を動かしている間にも聞こえてくる。
弥勒は逃げるように階段を駆け下りた。

俯いて、頭を抱えて走り抜けて。
前にいる人影にも気づかずに。
ぶつかったのは、渡り廊下。
はっとして見れば、黒崎がスカートを広げて尻餅をついていた。
「駿河くん?どうしたんですか?」
「あ…悪い。大丈夫か?」
弥勒の差し出した手をつかんで立ち上がった黒崎は、そのまま弥勒の目をのぞきこんだ。
「ここにないものを見ている目をしていますよ。」
弥勒は思わずのけぞるように後ずさり、額に手をあてて目を隠す。
黒崎は、もう目を見ようとしなかったけれど。
「気をつけてください。ここにないものを見る人間に、ここにいる資格は与えられないんですから。」
そんな言葉を残して横をすりぬけられた間もずっと目を見られないようにしていた。
両眼に映っていたのは、赤い数字と、真白の死に顔。
そして、見えるはずもない、最後の命令をする神無。
それだけだった。

教室に行くために、たった今下りた階段を上る。
体中の力が抜けているのでゆっくり一段一段を確かめるように踏んだ。
まぶしい光が降り注ぐように窓から射して、その中にはっきりとした幻影を見た。
自分に向かって一段一段下りてくる。
柔らかい日差しの逆光は薄く、その表情はかろうじて読みとれた。
笑って、いる。
それはいつも浮かべていた、嘲笑のような笑みだった。
そう、彼を思い返すとき、彼は必ずこの表情をしていた。
声が出ない。
話したいことがたくさんあるのに。
あの日から…二人。
おまえと、同じ場所で。
聞きたいことがたくさんあるのに。
どうして。
誰が。
声が出ない。
「なぁ、この俺が、一人で大人しく死んでやるなんて殊勝なことするわけがないと思わないか?」
なんとか名前だけでも呼ぼうとした瞬間遮られた。
さすが、彼の幻影は、黙って消えるような薄弱なものではないらしい。
「二人なんかじゃたりない。もっといるよなぁ?そのへんの奴片っ端からっていうのも面倒がなくていいかもなぁ。こういうのはパーッといくもんだろ?」
何が言いたいのかと、聞くまでもなく、答は自分自身の中にすでにある。
「さっさと見つけだせよ弥勒。俺もう寂しくて玩具で遊んじゃうからさぁ。もっと死ぬかもよ?」
せめて音をもらそうと唇がわななくが、声帯が動かない。
「おまえから、殺そうか?」
違うだろう。
「嫌なら、おまえが奴を連れてこい。俺のもとへ、あの場所から。突き落とせよ弥勒。」
これは、違うだろう。
悪魔のようなと、たくさんの人間が形容しているのを知っている。
散々な目に遭った人間の中に、自分自身も含まれる。
けれど。
「新月神無は…おまえじゃない。俺の中で好き勝手に作られるような、そんなことは許しちゃくれないだろ。神無は…てめぇみてぇなやつじゃねぇっ!目ぇ覚ませ俺!」
こんなアイツを、他の誰でもなく俺が作り出すなんて、絶対に許せねぇと叫べば。
やはり贋作だった彼は、跡形もなく。
そこには、光が降り注ぐばかりで。
本物と違って、厄介な事件も、心の重荷も、何も残さなかった。
「幻覚でもまがりなりにもアイツだ。もっとしぶといかとも思ったんだがなぁ。」
弥勒はあえて軽口をたたいた。
効果は半分といったところか、指の先が白くなるほど手すりを握って舌を打つ。
「……わり、神無。」
すべてをなすりつけるような真似をした。
聞こえるはずもなかったが、口に出さずにはいられなかった。
新月神無という人物は、一言で言えば極悪非道。
何よりも好きなことは他人の心を弄ぶことで、エグいことを平然とやってのける。
今まで誰も殺さず、また殺されていなかったのが不思議なくらいだった。
だから、彼の呪いではないかという話が出てくるのもそうおかしくないことで、幻覚が言った言葉も、実際に言いそうなことではあるのだけれども。
弥勒には、わかっているので。

「探し出せ弥勒。俺を殺した奴を。何がなんでも探し出して、俺のもとに連れてこい―――。」

誰がそんなことを言ったのか。
よくよく考えれば、誰よりも殴るべきなのは自分だった。
俺……探すわ。てめぇ殺されて俺が黙ってられっかよ、なぁ。俺のために…探すわ。それからどうするかは……わかんねぇけど。
と、心の中でつぶやくが、当然ながら目の前には窓の形をした日だまりしかない。
もう何の幻覚も見えない。
幻聴も聞こえない。
それはやはり至極当然のことではあるのだが、弥勒は都合良く解釈させてもらうことにした。

「何やってんだぁ?」
ちょうど遅刻した川上がやってきていぶかしむような目で見たが、弥勒は曖昧な笑顔で応えることしかできなかった。
「あー、まぁちょっとな。それより話があるから1限あきらめてくれ。」
「……ああ、…今さっき聞いたんだけどよ、……斎木のことか…?」
弥勒は真剣な面持ちで頷いた。
暴走していた怒りを、心の底に押し込めて。
「かまわねぇけど……赤坂はどうすんだよ。」
「もちろん手伝わせてもらうわ。」
弥勒と川上は目を見合わせてその方向を見た。
見るまでもなくそこにいるのは弥勒の担任の赤坂千鶴子であるのだが。
「うわぁ〜千鶴子ちゃん神出鬼没〜。」
「ふざけないで。屋上から駿河くんを追いかけて探していたに決まっているでしょう。」
だから、と、腕をひっぱられる。
「後5分。ちゃんとホームルームに出てもらうわ。もちろん1限目もよ。心配しなくてもちゃんとした授業はできないと思うわ。川上くんも自分のクラスに行くのよ。話は後でしてちょうだい。」
弥勒は顔をしかめた。
腕をつかまれたことは何度もあるが、痛みを感じたのは初めてだった。
ひきずられるように歩いていく。
えらく早足で、小走りにならなければいけなかった。
後ろを見れば、川上があっけにとられて固まっている。
弥勒も同じような心境だった。
「先生、俺だけ要マーク?」
「…川上くんは駿河くんが巻き込んだだけでこだわっているのはあくまで駿河くんではないの?私は駿河くんに早く乗り越えてほしいから協力するのよ。」
角を曲がり、川上が見えなくなったところで少しだけ歩調が緩くなる。
「放課後…屋上に行きましょう。」
前を向いたまま告げられた。
「二人で?」
「ええ…。」
弥勒は簡単に頷いた。


屋上は風が強く、気のせいだとは思っても、血のにおいがした。
高山と、真白の、赤黒い染み。
現実感なんてどこにもないのに紛れもなく現実な、この事実。
弥勒は思わず眉間を押さえた。
「大丈夫?」
前を行く赤坂が心配げに声をかける。
赤黒い地面の上で漆黒のヒールが固い音を鳴らした。
「新月くんはともかく…二人はここで殺されたのね…。」
押さえた眉間にしわを寄せ、弥勒は不愉快を隠さずににらんだ。
「先生…それは…」
二人の血なのだと、言おうとしたときだった。

「三人目はあなたです。」

はっきりと言い放つ、感情の見えない声。
唇の形が表すのは、微笑みよりも、嘲笑。
射すような目が、それでも静かだった。
「黒崎…?どうして……」
その先をなんと言うつもりだったのか自分でもわからない。
ただ、ひどく緊張感のない言い方をしていた。
「それは私の言うことです。呼び出したのは赤坂先生だけ。どうして駿河くんがここにいるんですか?」
セリフに似合わない笑顔をにっこりと、浮かべたものだから。
幻覚でも見ているのだろうかと、弥勒はもう一人の女を見る。
こちらも、微笑んでいた。
「黒崎さん…そんな言い方は今までのこと…みんなあなたがやったように聞こえてしまうわ。それとも…そうなのかしら?」
風が強かった。
女たちの黒髪が、何かを隠そうとするように、または暴こうとするように……絡み、流れ、揺れている。
「……そういう、ことですか。」
脈絡のないように思われた言葉は続いていて、
「神無を殺した罪を…ひとかけらも背負わないつもりなんですね。」
弥勒の息を止めた。
「駿河くん、神無は…自殺だったと思います?」
声もなく首を振れば、冷たい微笑はほんの少しだけ温度を取り戻したかのように思われた。
「神無を殺したのは…私たちです。」
さびたにおいを風が運ぶ。
弥勒は言葉を見つけられずに、その部分を繰り返した。
「私たち…?」
黒崎は静かに頷く。
「黒崎さん…?何を言っているの?」
赤坂の声が聞こえないとでもいうように、顔にかかる髪を払ってはっきりと言う。
「神無を殺したのは私たち。そして高山くんと斎木さんを殺したのは私……。それから…これから赤坂先生を殺すのも私……。」
弥勒は心臓の音を聞きながら現実との境界を探した。
まるで夢魔に魅入られたようだった。
それでも、鼓膜を破りそうな心臓の音が警鐘となってこれは現実だと告げている。
「何…言ってんだよ黒崎…」
声が震えた。
「神無を殺したからですよ。先生、私はあなたを殺します。」
「…黒崎さん、申し訳ないのだけどあなたの言っていることがよくわからないわ。あなたがそんなことを言うなんて…どうしたの?何かあったのかしら?」
黒崎は、一歩、前に出た。
躊躇いもせずに血の沼に入ったように見えた。
途端、赤坂の体が小さく震える。
「待てっ!どういうことだよ説明しろっ!神無も高山も真白も全部っ!なんで殺した!」
弥勒は叫ばずにはいられなかった。
答は返らないかもしれないとは思ったが、それでも、こんな、目の前で静かに殺人が行われようとしているなど、冗談ではない。
説明が、たりない。
戸惑うよりも激怒したかった。
黒崎は一瞬だけ目を眇めて弥勒を見た。
その後ろで赤坂が強ばった顔をしている。
黒崎の指が、あの場所を指した。
「神無、一人のときはよくあそこでタバコを吸っていて…私は時々隣りに座って…神無を見ていました。」
初耳だった。
二人が一緒にいる姿など、聞いたことも見たこともなければ想像もできない。
しかし気がつけば黒崎は神無を名前で呼び捨てにしていて、もしや、と思えば、
「私たち…つきあっていたんです。」
予想した通りの答が返ってくる。
「嘘でしょう…?」
赤坂が眉をひそめた。
黒崎は首を振り、その場所を見つめて少し苦笑した。
「大好きでした。一夜って、名前で呼んでほしいって言ったら高山くんが影でこっそり呼んでるから嫌だなんて言って…私のことを『いち』って呼ぶんです。とても意外で…呼ばれるたびに思わず笑ってしまって…大好き…だった。」
頬に一筋の涙。
それを、赤坂が否定した。
「嘘でしょう?新月くんと黒崎さんがそんな関係のはずはないわ。あの新月くんよ?何を言っているの?」
「……だから…抱き合っていて…急にみんなが現れて…神無を責めだしたときは…私…なんでそうなるのかがわからなくて………」
「嘘を言うのはやめなさい。やっとわかった…黒崎さんは新月くんにだまされていたんだわ。だからなのね?」
「…そのうちみんなが私も責めだして…先生が、私を突き飛ばしましたよね……それで…私があそこから落ちそうになって………」
「黒崎さん、もうやめて。今すぐ自首しましょう?あなたは本当はいい生徒なんだから。もう死んでしまった新月くんに操られないで。」
「だから…神無が…私をかばって……代わりに……落ち……て………」
黒崎の頬を幾筋もの涙が伝う。
「私たちが……神無を殺した……。」
「あれは…事故でしょう……?」
弥勒は目を見開いた。
今、なんと言ったのか。
「……先生、神無は自殺だと、自分はその現場を目撃したと言ったのは嘘ですか?黒崎の言ったことは…全部…」
本当の、ことなのか。
赤坂ははっとして見るからに動揺した。
それが答で。
「じゃあっ!高山や真白はっ!」
「…高山くんも斎木さんも神無を殺した人たちの一人ですから。…だから次は先生で…私の復讐は…ずっと続くんです…最後に私を殺すまで。」
黒崎はスカートのポケットからナイフを取り出した。
日光が反射してひどくまぶしい。
目を向けずにすむものならそうしたかった。
「神無より…苦しませて殺さないと意味がないですよね。大丈夫ですよ。一応心臓を狙いますから。とどめを刺すのは地面ですけど。」
「やめろ黒崎っ!」
弥勒の叫びは微笑みに消された。
「神無が最初に私のことを『いち』って呼んだとき、教えてもらったんです。666は悪魔の数字。自分は今まで悪魔みたいに言われてきたから…この数字が好きだって言ってました。神無らしいですよね。」
「本当に、悪魔ね。」
忌々しそうに言う声。
赤坂は口を歪めて笑った。
「せっかく新月くんがいなくなったのに…どうしてこうなるのかしら。いなくなっても黒崎さんを惑わせるなんて本当に悪魔みたいな子。新月くんがいなければ…駿河くんも真面目な生徒だったし黒崎さんもそう。みんなも…そうよね?」
赤坂の視線が自分にも黒崎にもないのに気づいてその方向を見れば、扉からクラスの人間がぞろぞろと出てきていた。
おそらくは、全員。
弥勒は混乱していた。
が、頭の奥底では答は出ていた。
「またですか…?あの日もこんなふうに神無を殺して…今日は誰なんですか?私?それとも駿河くん?」
そんな言葉を聞いても、ああ、やっぱり、と、思うばかりで。
「…新月は事故だろ?どのみちあんな悪魔みたいな奴死んで当然だし。」
「あの人怖くて嫌だったの。そのうちきっと私らが殺されてたよ。みんなそう言ってるし。」
クラスメイトのセリフには怒りを通り越して呆れてしまう。
全員が、口々に。
神無にすべてをなすりつける。
「みんな馬鹿じゃねぇのか!先生も!黒崎も!なんで殺すんだ!わかんねぇよ!」
叫んでも誰の耳にも届かない。
「…だって新月くんって本当に怖かったのよ。人のこと見透かして。嫌なことばっかり言って。ひどいことしながら楽しそうに笑って。悪魔ってあんなんだろうなってずっと思ってた。」
「死んでくれてほっとしたよ。俺あいつの目嫌いなんだ。ずっと弱み握られててさぁ…。殴られることももうないんだよな。」
黒崎は冷めた目で周りを見回して、弥勒を見据えた。
「高山くんと斎木さんもこんな調子だったんです。先に選んだのは…殺しやすそうだったからですけどね。」
小さく笑って、自嘲するように言う。
「駿河くん、私、怖い女でしょう?こんな女だなんて思っていなかったでしょう?」
弥勒はぎこちなく頷いた。
「神無だけ、わかってくれたんです。」
そして、輝くような笑顔。
「駿河くんなら、わかってくれますよね?」
血の床の上で、高山と真白を殺した黒崎が微笑みかける。
憎悪を感じるべきなのだろう。
だが。
新月神無という人間は、その人が一番見られたくない、隠したいと思っている部分を見透かして嘲る。
そして、誰よりも非道なことをさも楽しそうにやってのけるのだ。
だから、逆らえなかった。
自分さえ目を背けたくなる醜い部分を、見抜いて理解して笑ってのけたのはアイツだけで。
そんなものたいしたことないとでもいうように、目の前でもっとひどいものを見せられて。
きっと、そんなつもりはなかったのだろうけど。

他のどんなものよりも、
アイツが、
救いだった。

「……神無を殺した奴を許せない。でも、高山と真白を殺した奴も許せねぇ…。」
弥勒は泣いていた。
「悪魔なんて…本気で思ったことねぇ。アイツに殴られたことはあるけど殺されたことはねぇしな。…だから、俺にはてめぇら全員の方が悪魔に見えるんだよっ!」
ふと、朝見た幻覚のことを思い出す。
きっとみんなが見ている神無はあんなものだ。
うわべだけそっくりの、自分の中の矛盾を解消させるために作られた偽物。
神無を悪魔に仕立て上げることが、みんなにとって簡単で都合がよかった。
たったそれだけなのだろう。
「あれは事故だって。俺らが殺したんじゃない。死んでよかったとは思うけどね。悪魔みたいな奴をそう呼んで何が悪いんだよ。新月が悪いんだろ。」
同じような顔をして詰め寄ってくる集団が薄気味悪かった。
同じような論調で、口々に神無をなじる。
何を言ってもこの反応だ。
弥勒は怒りに拳を震わせた。
「黒崎さん…駿河くん…できればあなたたちにはこの機会に元に戻ってもらいたかったのに…新月くんの呪いはいつまで続くのかしら…。クラスの人たちの話を聞いてもまだわからないの?新月くんはいないんだから…もう言いなりにならなくてもいいのよ?」
赤坂の声はため息混じりで、聞き分けのない子供を叱るような響きがあった。
かっとして、思わず腕を振り上げてしまった瞬間、目の前を黒髪が流れた。
間からもれる鋭い光。
煌めいたかと思えば、赤く染まる。
「黒崎ィっ!神無がそうしろって言ったかよっ!言うわけねぇだろ!おまえはわかってるはずじゃねぇのか!殺してどうすんだっ……そこらへんに憎しみばっかり増えてくだけだろぉーがっ!」
ざわめきの中で、弥勒は絶叫した。
「黒崎さんマジで先生刺したよ。もしかして私らもやられちゃうわけ?」
「せっかく新月がいなくなったのに今度は…」
嫌な予感がした。
ざわめきが次第に大きくなって、黒崎ににじり寄っていく。
神無が死んだときの再演なのか。
「てめぇら何してんだっ!怪我人増やす気かっ?んなことするより先生の手当てしろよ!黒崎っ!黒崎ィっ!」
弥勒はクラスメイトを押しのけながら黒崎の名前をひたすら叫んだ。
黒崎は血まみれのナイフを握ったまま、心からのものだろう微笑みを浮かべた。
「駿河くん、666は…西洋では悪魔の数字として嫌われているけど…東洋では三つの六、弥勒として縁起のいい数字とされているんだそうです。…神無、駿河くんのこと好きだったと思います。」
風が強い。
目を開けていられないほど風が強かったけれど、

「だから、ありがとう。」

その心臓に咲いた赤が、あまりにも鮮やかすぎて。
網膜に焼き付いた瞬間、風が。
黒崎を連れて行った。

弥勒はあと1ミリ届かなかった。
「黒崎ィーーーーーーーーっ!」
馬鹿じゃねぇのかおまえ、同じ場所で死んで、幸せそうに笑うなんて。
その命は。
おまえの好きなアイツにとって、安らかな顔をして死ねるほど価値あるものだったのに。
馬鹿みてぇな復讐に費やして、人殺しになって。
結局死ぬなんて。
「…馬鹿だろ。何が666だ。ただの数字だろぉっ?勝手に…っ……悪魔だの弥勒だの言いやがって…っ!」
弥勒は砕けそうなほど奥歯を噛んだ。

666

この数字は、神無に似ている。
そこにあるのは数字だけ、ここにいるのは人間だけだというのに。

聞こえてくるざわめきがどれも不快で、耳をふさごうとしたところに救急車とパトカーの音が鳴り響く。
川上に自分が戻るのが遅ければ呼ぶように言っておいたのだ。
無駄にならなかったことがひどく悔しかった。
「てめぇら一人だってそこ動くなよっ!警察の前で全部話せっ!どうせ……っ」
どうせきっと裁かれることはない。
すべては不幸な事故なのか。
弥勒はやりきれない気持ちでいっぱいだった。
この涙さえ風に飛ばされそうなのに、血のにおいは消えない。
それがいいことなのか悪いことなのか、今となってはわからなかった。


それはもう、いっそ嫌になるくらいの青空で。
どこまで見回しても雲一つなく。
「葬式の日っていうのは晴れるようになってんのかぁ?」
などと、呆れながら言ってみても。
天気が急変するはずもない。
弥勒はおもむろにタバコを取り出し、火をつけてしばらく眺めていた。
校舎裏の風は屋上の風に比べて随分と優しかった。
「おまえ黒崎の葬式行かなくていいのか?」
川上がタバコを吸いながら眉をひそめる。
「…あの顔二度も見たくねぇよ。それに神無の葬式にも出なかったしな。黒崎の葬式に出たら不公平だろ。行くんなら千鶴子ちゃんの見舞いでも行くわ。」
「……」
弥勒は何故か黙って自分を見つめてくる川上に首を傾げた。
「あーいや、なんか…てっきりあいつらと一緒に葬式に出たくねぇとかそんなんかと思ってたんで。赤坂の見舞いなんて行くのかおまえ。」
「……俺はあの二人に言いたいことはもうねぇよ。言うなら生きてる方に言う。」
「……そっか、そだな。」
川上は白い煙を吐き、ようやく一度もくわえられていない弥勒のタバコに気がついた。
吸わないのか、と、問おうとすると、
「このタバコ、不味いんだよ。俺、真白の遺言ってことで禁煙しようかなぁ…」
と、苦笑してみせる。
それがいつも吸っていた銘柄であることは知っていたが、川上は何も言わなかった。
弥勒もそれ以上口を開こうとはしない。
青い空に白い煙を上らせて、じっと見ていた。


「………なぁ川上ィ、人間って馬鹿だよなぁ…。」
「あぁ?哲学は似合わねぇぞ。」
「…あー、んな小難しいもんじゃねぇ。俺もおまえも黒崎も先生も真白も高山も…神無も、みんな、人間ってことだよ。」
「はぁ?人間じゃなかったらなんなんだ?」
「だな…。たぶん、全部人間だからいけねぇんだ…。逃げられねぇもんな。」
「さっきから何言ってんだ?」
「空が青いぜコンチクショウって話だよ。」
「あー、なるほど。」
END.
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