『かくしことば』

その電話はいつも夕方にかかってくる。

温めたオレンジジュースをぶちまけたような色が視界を侵していた。
旭は床に描かれた光の窓に目を移し、すぐにまぶたを下ろした。
耳鳴りがする。
世界は真っ暗でも確かにものを映していて、それらはすべて何とも知れず容易く揺らぐのだけれど、その音だけははっきりと存在を貫いていく。
仕方なしに目を開く。
夕日が血の色だったらよかったのにと思った。


その言葉はいつも唐突にこみあげてくる。

冷たく冴え渡る青が徐々に侵されていく様を瞳に映し、蒼は痛くもないのに頭を押さえた。
視界が半端な赤に染まっていく。
少量垂らして指でのばした、血の、色のようだ。
毎日毎日、真っ赤に染まる前に暗闇に飲み込まれる。
幾度も飲み込まれて、気が付いたら心臓がひどくもよおすのだ。
吐き気がする。
上ってくるものは胃液でもなければ消化途中の食物でもない。
それはやがて言葉となり、口から噴き上げる。
いっそ血だったらよかったのにと思った。


名前のない電話は今日もただ一言を繰り返し紡ぐ。

殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ

ふと途切れると、静かに切れる。

「今日は殺してくれ、か…。この前は死ね、だったな。」
冷たい床の上で、旭はぽつりとつぶやいた。

「早く帰らないとアニメ始まるな…。」
電話ボックスの中でテレホンカードの残り度数を確認しながら、蒼は唇を小さく震わせた。

薄紅はみるみる空の果てへと吸い込まれていった。


死ね。
殺してくれ。
殺す。
死にたい。


「あ、一緒のクラスだ。」
「おまえもかー。あいつは?あいつの名前あった?」
「お、蒼ー!おまえ三組だぞ。俺らと一緒。」

クラス発表の掲示板の前ではしゃぐ友人に駆け寄り、同じクラスになった人たちの名前を確認する。
蒼は自分の名前の上に書かれた文字を目でなぞった。

樋崎 旭

今年もまた教室の中でその名前を聞くのかと、たいした感慨もなく思う。
新学期はたいてい名前の順に席が決まるから、しばらくはその背中を見ることになるのだろうか。
それだけ思って、樋崎旭の名は頭の片隅へと消えていった。

蒼は春が嫌いだった。
暖かな日射しが過ごしやすいからこそ冬が去ったのを見計らってやってくる周到さが気に入らない。
脳味噌を溶かしていい目を見せて、警戒心を抱かせないうちにじわじわと息の根を止めているような気がする。
はらはらと舞う桜の花びらは騙されて花開き容赦なく散らされた遺体の残骸にしか見えなかった。
それでも綺麗だとは思うけれど、踏まれて薄汚い茶色に変色したなれの果ての方が本来の姿に見えるのだった。
今年花見に誘ってくれた友達はなかなか可愛い女の子だったが、怒らせないように理由をつけて断った。
どんな理由にしたのか覚えてないが、今日一日桜の近くに行かなければなんとかなるだろう。
と、あてどなくさまよっていて、どこに行ってものぞくピンクにうんざりした。
借りる気もないのにレンタルビデオショップに入り、だらだらと時間を潰して今度は本屋へ行く。
パラパラと雑誌を流し読みしてコンビニに入り、似たような雑誌に目を通してまた移動する。
店員の『いらっしゃいませ』を聞くのが嫌で、やっぱり外を歩いた。
空がどんどん朱色に染まっていく。
財布からテレホンカードを抜き出し、小さな穴をぼんやりと見る。
そっと直して、また歩き出した。
背後で自転車のベルが鳴った。
歩道の端に寄ってもしつこく鳴り続けている。
「蒼ー、いいかげん気付けよ。」
聞き慣れた声に、ため息混じりに振り向いた。
「ゆきっちー。リンリンリンリンうるせーよ。」
「おまえはチャリどうしたんよ。ンなのんびり歩いてたら間に合わねーぞ。」
口調から花見に行く途中なのだと気付いて、考えるのも面倒くさく口を開く。
「俺花見断ったから。これから別に用事あんだよ。行けないと思うけど一応教えて。どこでやんの?」
「ああ、駅前の公園。グッチらもともりんらもいるから来れたら来いよー。」
自転車をこぎ出す後ろ姿に手を振って、角を曲がったのを見届けてから踵を返した。
わざわざこんなとこまで来んなよな。
心の中でつぶやいていた。
アニメのない日にひたすら外を歩くのは小学生の頃からの癖みたいなものだ。
電車やバスが連れて行ってくれるような目的地はない。自転車じゃ速すぎる。一つところに長居するのも面倒くさい。
何も考えずに歩いて、歩いて、歩いて、帰る。

「ただいま。」
玄関を開ければちょうど夕食ができたところらしく食欲をそそるにおいがした。
「おかえりなさい。蒼、ちゃんと手を洗ってね。」
石鹸で手を洗って席に座り、両手を合わせて「いただきます」と言ってから箸を握る。
「美味しいよ、母さん。」
三口目を噛み、四口目を運びながら目を合わせずに言うのがこつだ。
一口目で言うと安すぎて疑いをもたれる可能性がある。休まず食べている方が信憑性がある。なんでもないことのように言った方が中学生男子の微妙な心情を表現できる。
実際には毎日食べている母親の手料理をわざわざ口に出して誉める息子って実在するのか?と思っているから、下手な計算以外の何ものでもないことは知っているのだが、食前に手を合わせてから食後に再度手を合わせるまでの一連の動作がすべて儀式のようなものだった。
「ごちそうさま」と食器を片づけて部屋の片隅に置いてあったカバンから教科書とノートを取り出す。
あとは時間を見計らってふとんに入れば一日が終わる。
テレビで面白くもないタレントが必死に騒いでいるのに時計の音の方がうるさかった。
短針が文字盤の九を射す頃にはその音は倍になっていた。
母親はテレビに向かって目を開いたまま一言も発さず、蒼は教科書を顔の前に掲げて唇を噛んでいた。
蒼は春が嫌いだった。
友達は今頃桜の下でジュースでも飲んでいるのだろうか。それともすでに帰っているだろうか。
もう少し年をとれば、花見の席には当然のように酒が持ち込まれるのだろう。
父は今日酔って帰るのだ。
それならそれで、倒れるほど飲んでくれと祈った。
いつもなら「ふとんをしいてもう寝なさい。」と注意する母親が、今日は何も言わない。
蒼も何も言わない。
仕切のない家の中をテレビから聞こえてくるわざとらしい笑い声が響き渡るが、聞いている人間は誰もいなかった。
暗い玄関の向こうから力任せに取っ手を回す音がする。
「父さん鍵落としたのかな?」
心配そうに言えばすぐに扉は開いて、乱暴に閉じられた。
「おかえりなさい。お酒臭いよ?ご飯食べれる?」
「うどん。」
真っ赤な顔をした父親は靴下を脱ぎながら面倒そうに言った。
「だって。母さん、その煮物美味しかったから明日の朝俺が食べるよ。」
蒼は笑顔を向けたが、母の手は止まらず、夕飯に並べられた煮物がゴミ箱に捨てられる。空になったばかりの鍋はすぐに水を入れられた。
「あーあ。美味しかったのにもったいない。」
蒼はため息をついて、食卓につく父の隣りに座った。
「蒼ー、今日はなー、花見だったんだ。あの野郎下手な歌歌いやがって酒飲まないと聞いちゃいられねぇ。能なしのくせに偉そうにしやがっておまけにケチで。酒代父さんが払ったんだぞ。」
途端にしゃべり出す父に軽く相づちをうちながら湯の沸騰する音を聞いていると、すぐにうどんが運ばれてきた。
しかし手を付ける様子なくしゃべり続けるのを見て、仕方なしに指を指す。
「父さん、うどんできたみたいだよ。早く食べないとのびちゃうよ。」
「うるさい!黙って聞け!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!誰が養ってると思ってる!見ろおまえの母親を!人が疲れて帰ってきたのにさっさと寝やがって!俺の話を聞く気がないのか!」
「母さんも今までちゃんと待ってたよ。父さんもうどん食べてもう寝た方がいいんじゃない?明日も仕事でしょ?」
「おまえも俺を馬鹿にするのか!俺はなー、おまえらのために下げたくもない頭を下げて働いてるんだぞ!」
「うん、ありがとう父さん。」
父は延々語り続けていつしか床に倒れ込み、大きないびきをかきだした。
蒼は結局手が付けられることのなかったうどんをかき込みながら、やっぱり温め直すのだったと後悔した。

「おはよう父さん、大丈夫?頭痛い?」
「うー、かなり痛いな。」
味噌汁の中にご飯をつっこんでかき混ぜ、父は顔をしかめてみせた。
蒼は苦笑しながら漬け物を噛み、何気なく聞いてみる。
「まだ花見あるの?」
「いや、もうないよ。」
「そっか、しばらく下手な歌聴かされなくてすむんだね。よかったね。」
「そんなこと話したか?全然覚えてないな。」
「昨日はかなり酔ってたから。」
何も覚えてないと、翌朝必ず告げられる。
嘘か本当かを確かめることも、責めることも、もうとっくにする気はない。
父は泥酔したとき普段見せない姿を見せ普段口にしないことを口にする。
父にはそれが必要なのだと、自分を納得させるにはそれだけでよかった。
「行ってらっしゃい。」
その一言で父を送り出せば、次は母の時間だ。
「美味しいよ、母さん。」
「そう、よかったわ。」
「シーズンだからかみんな花見ばっかりだな。友達も昨日花見するって言ってたよ。俺は断ったけど。」
「どうして?」
「父さんの上司みたいにね、歌が下手なのがいるんだよ。そのくせ頼みもしないのに歌いたがるんだ。」
「そうなの。でもちょっと可哀想ね。」
蒼は嘘と本当を織り交ぜながら父がした話の当たり障りのない部分だけを抜き出して母に伝える。
母はクスクスと、本気ともつかない表情で笑った。

例えば手元に核スイッチがあったなら、押せばどうなるかわかっていても押してみたくなるんじゃないだろうか。
だってただそれだけで世界が容易く崩れるんだから。
そんなに簡単なものだとわかってしまえば、どうしたって押してみたくなると思う。
でも、一度壊せば元には戻らないから。
だから今は押さずにいる。
世界が崩壊せずにいる理由なんて、たったそれだけのことなのかもしれない。

「はよーっす。」
「はよ、ゆきっちー。」
「おまえ昨日結局来なかったな。」
「うん、無理だった。まぁ行けないだろうなーとは思ってたんだけどな。それよりおまえ数学やったか?今日当たりそうなんだよ。」
「やるわけねーだろ。」
「そりゃそーか。馬鹿に聞いてもしゃーないわなぁ。」
「おまえが言うなよ!どうせ俺と似たり寄ったりの脳味噌だろ?」

小さなものから大きなものまで、この手にはいくつものスイッチがある。
押さないものなら意味も価値もないのかもしれない。
持っていても無駄なのかもしれない。
ただ、いつでも押せるのだと、その瞬間自分を見つめる周りの人間の顔を想像するたび腹の底から笑いが起こる。
心から愉快なことなんて他にないから持ち続けている。


殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す

夕日の中でまた電話が鳴った。

旭は受話器を置いて、一日が終わるのを感じていた。
西の空はまだ太陽が顔をのぞかせていたが、旭にとって今日は終わったも同然だった。
今まで一日に二回かかってくることはなかったから。
それでも一応鳴るたびに自分が取るようにはしているが、今日はもうかからないだろう。
バイトができるようになったら携帯電話を買おう。
いつもそう思う。
どうやって番号を伝えるかが問題だ。
いつもそう悩む。


堀川 蒼

クラス発表のとき、自分の名前の下にそう書かれているのを見て特に何も感じなかった。
またか。
それだけ思っていた。
一見普通の空間の中で、自然にすりぬける視線。決して呼ばれることのない名前。限られた人間だけにしかわからない拒絶。
気づかないふりさえしてしまえば平穏な学校生活を送ることもできる。
一方で、鳴りやまない電話。


その電話が初めてかかってきたのはお互いがランドセルを背負っていた頃だった。

旭は同じ学年の中で一番頭がいいのは自分だと思っていた。
実際先生にしょっちゅう誉められていたし、クラスの人間もテストの結果を見てはスゴイ、授業での回答を聞いてはスゴイとざわめいた。
だが学年が上がっていくとスゴイではすまなくなっていた。
妬み嫉み、たかが小学生の成績であるのに、と言ってしまえるにはみな幼かったし、幼いからこそ正直で激しくもあった。
旭は隠された嫉妬も見抜き馬鹿らしいと思うほどには成熟していたが、見て見ぬふりをすることや、宥めすかすことができるほど大人でもなく、気が付いたら友達がいなくなっていた。
だからといって困ることもなかった。
馬鹿な友達などいらない。
むしろみんなが冷たいその態度が自分がスゴイ人間なのだと言われているようで気分がよかった。
集団行動を義務づけられたとき先生が心配そうに声をかけてくるのが鬱陶しかったが、そのつど自分は一人でも大丈夫なのだと見せつけるのも悪くなかった。
しかしさらに学年が上がると、まるで病気が治ったみたいに今まで自分のしていたことが馬鹿馬鹿しくなっていた。
休み時間にも机に座って本を読んでいるのは自分だけだ。
他の人間は運動場や廊下で遊んだり、教室で友達と話したりしている。
自分はその中に入らないのではなく、入ることができないのだ。
中学校に進んでもこんなふうに過ごすのかと思うとぞっとした。
旭は近くにいた人間に声をかけだした。
誰でもいいから他人と接したかった。
そんな行動がどう映ったのか、クラスメイトはこぞって旭をいじめ始めた。
そうなると旭もまた他人を見下してしまいそうになったが、止める人間がいた。
それが堀川蒼だった。
堀川蒼という人間は自分の対極にいると旭は思っていた。
彼はいつでもクラスの中心にいて、馬鹿なことばかりやっている。
彼はいつでもクラスの人気者で、男女を問わず友達が多い。
旭とは反対の意味で有名人だったのだ。
否応なしに視界に飛び込んでくることは多くても会話を交わすことは一生ないだろうと思っていた彼は、話しかければ普通に応えた。
彼の周りを囲む人々に対するのと同じ声音で。
いじめをやめさせたのは彼であるのに、特に気をつかう様子も恩に着せる様子もなく。
その普通具合が気に入った。
休み時間の教室で一人本を読んでいるのは相変わらず自分だけだったが、普通の話を普通にできる相手は見つかった。
放課後普通に一緒に遊ぼうと誘えば普通に承諾が返ってきた。
友達と遊ぶのは数年ぶりだったが、普通に楽しかった。
堀川蒼は樋崎旭の親友になっていた。
矢印は一方にしか向いていなかったけれど。

ランドセルというカバンには一つ大きな問題点がある。
留め具を留め忘れ、そのまま腰を曲げると、中身が全部頭の上を滑ってなだれ落ちてしまうのだ。
旭が落とした給食袋を蒼が拾おうとしたときそれは起こった。
教科書、ノート、筆箱と、いっそ綺麗という表現を使ってもいいくらい見事に床を滑った。
旭はそれらを慌てて拾い集めながら、その日返ってきたテストが含まれているのを見て、なんとなく点数に興味がいった。
友達と点を見せ合うことなど何年もなかったし、そもそも友達を作ったのがひどく久しぶりなのだから、ちょっとした悪戯心でめくってみたのだ。
このテストは難しかったから、こいつならひどい点数だろうな。
そんなことしか思っていなかった。
赤ペンで書かれた文字は90点だった。
間違えた問題が一問と、些細なミスが五ヶ所。
ほとんどのテスト100点を取っている旭でさえ95点で、久々に眉をひそめたテストだった。
「頭…良かったんだ。知らなかったよ。」
やっとの思いでそう言うと、
「まぐれだよ。たまたま。それにおまえには負けるって。どうせ満点だったんだろ?」
普段と変わらない調子で笑われた。
蒼はミスを犯した。
他の人間ならそれで騙されたかもしれないが、旭は同じだけの問題を解いているのだ。
だから何をどう考えなければ解けないと知っているし、それがまぐれではできないことを知っている。
だが、嘘だと直感したのは蒼があまりにも普段と変わらなかったからだった。
だからこそ確信した。

「……おまえ、嘘つきだろう。」

返事は返ってこなかった。
「僕は知ってる。その点数を見せれば周りの連中がどんな反応をするか。おまえは本当はずっと前から頭が良くて、僕以上に性格が悪いんだろう。」
蒼は授業中先生に当てられたときふざけたような答しか返さなかった。
教室は笑いに包まれたが、先生はわずかに困惑したような顔をしていた。
疑い始めれば責めることしかできなくて、旭は自分でも何をしたいのかわからないまま気が付いた事実を突きつけていった。
ただ、腹が立っていた。
蒼は「気のせいだろ?」とか、「考えすぎだって。」などの効果がないことを知った後、深くため息をついた。

「だから何?」

その言葉は確実に旭を傷つけた。
「おまえって、確かに頭いいかもしれないけどおつむ馬鹿なのな。ちょっと良い点とったからってみんながみんな見て見てぇ〜って騒ぎ立てるのが普通だとでも思ってんのか?そんなことしたら面倒くさいことになるの考えなくてもわかるだろ。そんなふうに言われる方がおかしい。俺はフツーだと思うけど?」
「……だからって、馬鹿のふりする必要あるのか?」
「俺がいつ馬鹿のふりをした?おまえが勝手に馬鹿だと思ってただけだろ?」
蒼は笑った。
見たことのない笑みだった。
誰の顔に貼り付いていたものも見たことがない、ましてや蒼が浮かべるとは実際目にしなければ想像もできないだろうその表情は、とても嬉しそうに、楽しそうに旭を嘲っていた。
「……いやー、勉強になったよ。頭いいやつにはもうちょっと考えて動かないとなぁ。」
何故わざわざ見せたのか、重ねて馬鹿にするためだろうと旭は思った。
嘘をついたことなど何度だってあるし、つかれたことも数えきれないくらいある。
かけらも気づかなかった嘘だってきっとたくさんあるのだろう。
それでも。
友達は一人しかいなかった。
親友だと思っていた。
許せなかった。
「なんで…っ!なんでおまえなんかが!友達たくさんいるくせに!いるのに…なんでそんななんだよ!嘘つき!嘘つき!嘘つき!僕は…っ僕はなぁっ!…っ」
泣きながら叩きつけて、押さえ込んで、殴って、殴って、殴って。
それまで自分につっかかってきた相手には理屈でやりこめていたし、無視することも多くて、人を殴ったことなど記憶の限りではなかったから、加減なんてわからなかった。
次の日蒼は右手をぶら下げていた。
腕を覆って首にくくられている布が白すぎて気味が悪かった。
右目にはガーゼが貼られていた。
蒼は左手に鉛筆を握り、読めない字をノートに綴って授業を受けていた。
左目が何度も細められた。
初めて人に怪我を負わせた。
痛そうだ。
包帯も、三角巾も、ガーゼも、汚い字も、細い目も、全部。
殴り返さなかったじゃないか。逃げるように身を捩ったけど、一度だって殴り返そうとしなかったじゃないか。顔を歪めていたけど、声なんて出してなかった。腕で頭をかばうようにしていたけど、その手も足もこっちに向かってくることはなかった。
そんなに痛いなんて知らなかった。
机の上で握りしめた拳が震えて止まらない。
白い蒼を見るのが怖くて。怖くて。でも見ずにはいられない。
蒼白になった旭を心配した先生が保健室に行くよう言ったが、決して教室を出ようとしなかった。
昼休みが過ぎても、放課後になっても、蒼は何も言ってこなかった。
それどころか片手で掃除をすませるとすぐにランドセルをつかんで出て行こうとしてしまう。
旭は必死に引き止めた。
「当番でもないのになんで残ってんの。」
「……謝ろうと、思って……。ごめん、ごめん…。ごめ…」
「謝んならなんですんの。」
「それは……」
「気にすることないんじゃねーの?骨ってくっつくんだってよ。目だってちょっと大げさにしてるだけだし。」
「でも……」
「そんなツラでまとわりつかれんのウザイって言ってんのわかんねー?だいたい謝ってどうしたいんだよ。またお友達したいってんならそうしても別にいいけど?」
謝ろうとしたのは居ても立ってもいられなかったからだ。
どうしてもこのままではいられなくて、謝らなければならないと思って、謝ることさえできなければ自分を許せなくなりそうで。
なんだ、自分のためなんじゃないか。
思い至ると力が抜けた。
散々蒼を罵倒したけれど、そんな資格があったのだろうか。
蒼はきっとこの謝罪の真意を見抜いている。
悪いと思う心より楽になりたい気持ちの方が大きいことを見抜いている。
だから嘘をつかずにすんだが、相手が蒼でなければとんでもない嘘をついて自身もそれに気づかずやり過ごしてしまったに違いないのだ。
そう思ったとき、初めて蒼を許すことができた。
「……なんでも、するから。許してほしいんだ。僕にできることならなんでもする。そうじゃないと、苦しい。その怪我は僕のせいだ。許してほしいから……なんでもするから…。そうしてると楽だから…。」
それから数日、何もなかった。
ただ蒼は旭を見なくなり、呼ばなくなり、まるで蒼の世界には存在していないかのように。
旭はそれを償いだとは思わなかった。当然とも思わなかったが、何かとてつもないことを要求されるのではないかと考えていたから。
やがて蒼の右目からガーゼが取り去られ、少し遅れて右手の包帯が解けた頃、一本の電話がかかってきた。
父も母も働いていて家にいなかった。
一人でいるときにかかってくる電話などたいていがセールスだが、たまに知り合いからかかってくるので出ないわけにもいかない。
何気なく、本当に何気なく受話器を耳に当てた。
名乗る前に届いた聞き覚えのある声はすぐに蒼のものだとわかった。
死ね、と。
ただそれだけを繰り返している。
囁くように、つぶやくように、罵るように、叫ぶように、それだけを。
「…僕に死んでほしいってこと?」
声が震えているのを気取られないよう、慎重に唇を動かしたが、相手にはそんなことどうでもよかったらしい。
「うるせぇっ!聞けよ!」
恐ろしい勢いでそう言ってまた「死ね」と繰り返した。
どれくらい聞いていただろうか、なんのきっかけもなくぷつりと切られ、旭は呆然と立ちつくした。
たぶん、本気で死んでもらいたいわけではないのだ。
彼は名を名乗らなかった。
つまりは名も知らぬ相手からの悪戯電話と同じで。
彼がしてもらいたいことと同じかどうかは知らないけれど、自分にできることは、ただ聞いていることだけ。
そうしてその電話は不定期に、だが必ず夕方かかってくる。
吐き出されるのは四つの言葉。


死ね。
殺してくれ。
殺す。
死にたい。


誰に死んでほしいのか、誰に殺されたいのか、そもそもその言葉に意味があるのか、何も知らない。
わかっていることはただ一つ。
教室の中の蒼はこちらを見ず、見ようともせず、存在を覚えていてもらっているのかどうかさえ定かでない。
蒼の世界に自分はいない。
けれど、堀川蒼がこの電話をかける相手は、確実に樋崎旭だけだということ。
旭は蒼に感謝していた。
この電話があるだけで、自分は自分を許すことができる。
この電話こそが何にも換えがたい許しなのだ。

二人はそのまま中学生になり、同じクラスになった。
そうしてそのまま二年生になり、またも同じ教室にいる。
何も変わらない。
蒼の世界も、旭の世界も、夕焼けの色も、電話の音も、二人の間を行く言葉も。


旭は過去を思い返しながら、やはり自分だけの電話があった方が便利だと考えていた。
蒼にしか番号を教えるつもりがないから、全部を自分が稼いだ金でやりくりできるようにならなければ少々都合が悪い。
本体にいくら、月々いくらくらいかかるものなのかよく知らないが、すべては高校生になってから。今から考えていても仕方ないのだろう。
と、そう思って疑問がわいた。
高校生になっても蒼は電話をかけてきてくれるだろうか。
義務教育は中学で終わってしまう。
蒼はどうするのだろう。就職?進学?同じ高校に?
今までは何故だか縁があって同じクラスだったが、違うクラスになっても、違う学校に通っても、忘れずにいてくれるだろうか。
毎日かかる電話じゃないから、途絶えてもしばらくは気づかない。
二度とかからないことに気づいてしまったら、自分は一体どうするのだろう。
たぶん、待つ。
知っていても、わかっていても、毎日日が沈むまで家で一人鳴らない電話を見つめ続けている。
それでもかかってこなければ、こなければ、
蒼はもう電話の相手など必要ないのだ。
それは旭にとって、世界に自分が存在する必要がないということ。
小学校で一等賞だった子どもは中学では三位に転落した。
ちょっとばかり頭のいい人間なんて一歩進めばわんさと転がっている。
それらを眺めるのと同じ瞳で自分を見れば、樋崎旭などただの数字にしかならないのだ。
それでも0と100くらいは貴重かもしれない。
だがその間のキリやゴロや縁起の悪いパッとしない数字たちはどうすればいいのだ。
蒼の電話を受け取る相手は、世界中で旭一人だ。
元々手にしていたのではない、ただ与えられたものとも違う、この手で掴んだ、唯一の許し。
それさえあれば自分の存在を許せるということは、それがなければ許せないということ。
樋崎旭という人間など、こんなものだけしかない。
愕然とした。
旭は中学に入って一年がたった今でも友達と呼べる存在がいなかった。
『特別』をすでに知っていたから。
蒼を真似れば簡単にできるであろう『友達』など作ろうとも思わなかった。
蒼からの電話があれば旭は孤独ではなかった。
蒼が…
蒼が…
自分たちの関係は、一体何なのだ。

「……トモダチ………」

ではない。
蒼の世界に自分はいないから。

「友達に、なりたい……」

最初に友達になるなら、蒼がいい。
他に考えられないし、蒼とそうなれなければ友達など一人もできないだろうと思った。
だが蒼からの電話は失いたくない。
小学生のときの二人のような、適当な妥協と雷同と嘘で塗り固めた彫像に『友達』と書かれた張り紙をセロハンテープでつけたような関係にはなりたくない。
世間一般に友達と呼ばれるつながりがどういうものかなんて知らないが、あの頃の自分たちが偽物だということだけは旭の中で確定していた。


蒼は子供だましとしか思えないアニメをじーっと見つめていた。
母親はアニメに間に合うよう帰宅する息子を「もう仕方がないわね。」という顔で見やってから手間暇かけて夕食の支度をしている。
たぶんわかっているのだろう、と思う。
蒼は物心ついてからずっと父と母の理想の息子に見えるよう努力してきたつもりだ。
くい違う部分の中間を探り、寒い芝居で穴埋めをしてやりくりしてきた。
家族のためだとか言うつもりは毛頭無い。
単にそうした方が自分にとって楽だからだ。
体面だか一応息子に気をつかっているんだかどこぞに愛情のかけらが残っているんだか、とにかく会話もしないくせに別れを切り出すこともしようとしない両親に構築された家庭において、四六時中冷戦を繰り広げるよりは見せかけだけでも家族ってやつをやっておいた方が精神衛生上マシだというもので。
嫌になればいつでもやめることができる。
そのためのスイッチは自分の手のひらなのだからなおさらというもので。
蒼は今日も母の理想の平穏となるべく無邪気にアニメを見て笑う。
本当は面白くも何ともないし、笑顔がはりついているという自覚もあるものだから、気が付いていないわけはないと思うのだ。
下手な芝居も何度も繰り返せばそれが普通に見えてしまうものなのかもしれないが、素の自分が消えるわけはないし、大人っていうのはそれなりに頭の回るものじゃないかと思っている。
小学生のとき一人だけだったがほんのちょっとしたボロで気が付いたやつもいたのだから、絶対にわかっているはずだと思うのだ。
水の音、包丁の音、換気扇の音、次から次へと生まれる音の中、優しげな鼻歌が聞こえる。
蒼は台所をちらりと見て、すぐテレビに目をやった。
画面では割と出番の多そうな顔をしたキャラクターが地球のためだかなんだかで傷を負いながらも戦っていて、ちょうど部屋の中がうっすら煙たくなっていたりもして、少し目が潤んだ。
アニメが終わると堅苦しい顔をしたおっさんによる辛気くさいニュースが始まってしまった。
適当にチャンネルを変えていかにも無理して盛り上げてますといった感じのお笑い芸人が頑張っている番組を映す。
誰も見る者のないテレビだが、それはそれで役割があるのだ。
蒼は教科書とノートを取り出し、食事ができるまでの間時間を潰した。

蒼の時間はそうやって過ぎていく。

いつだったか覚えていないが、世の中の仕組みというものを今以上にわかっていなかった頃、参観日に向けて作文を書いたのだ。
黒板には『わたしのかぞく』と書いてあった。
最近は複雑な事情を抱えた家庭が多いのだから、あの先生は新任だったんだろうなぁなんて、今からすると思う。
真っ正直に文章を書いた。


おとうさんとおかあさんはおはなししないです。
おはなしするのはあかいおとうさんです。
でもおかあさんねぼすけ。
おはなしできない。
だからぼくがおこられます。
あかいおとうさんはとってもこわいです。


その作文が参観日に読まれることはなかった。
先生はこっそりと「他に思い出はないかなぁ?」などと聞いてきて、「楽しかったこととか、ない?」などと言ってきて、幼い脳味噌をナゼナニ状態に陥れたりした。それでも妙に察しがよかったりしたものだから、「作文には楽しいことしか書いてはいけない。」ということだけは理解した。
家族の一日を書いた作文は料理上手な母親についての作文に姿を変えた。
参観を終えた母親はとても喜んでくれた。
あんまり喜んでくれたものだから一度書き直した話をしようかと迷ったが、「作文に楽しいこと以外を書くときっと母さんが悲しくなるんだ。」と思い至って、やっぱりやめておいた。
疑問は隠すもの。見せない方がうまくいくものは見せる必要がない。
だが隠されるのは許せない。
反抗期は密やかに訪れた。
他人の言葉の裏を探るのに躍起になった。
自分の本音を押し隠すのに必死になった。
見透かしているのに何も知らないふりをして内心で笑うのが楽しくてたまらなかった。
でも同じことをされるのは許せない。
騙されないために騙す。騙すから騙されたくない。
本当は何が真実で何が嘘かなんてこれっぽっちもわかりはしない。
だからすべてに嘘をつく。
昼の教室で。夜の家で。それぞれの流れを泳ぎやすいように。

時はただするすると流れていく。
空に数滴の血が垂らされる間を除いては。

その淡い赤は、死ぬ気もないのにカッターの刃を手首に当てたどこぞの人騒がせな人間が、怖くて、でも己を意気地なしだと認めたくなくて、指先をわずかに傷つけて垂らした血の色だ。
音もなく肌の上に落ち、ごしごしと擦って引き伸ばされた赤に似ている。
そんな光景を見た覚えはないし、見るつもりもないのだけれど、何故だかそれ以上にぴったりな表現が思い浮かばない。
蒼が望むのは動脈を切ったときに噴き出る血の赤。
それが空一面に広がってくれたなら、さぞかし気味が悪いだろうが、たぶん自分はすっきりするのだ。
けれど誰でも血を流すのは怖いから、空はいつまでも赤く染まりきらない。
蒼はいつまでもすっきりしない。
すっきりしないまま闇に覆われる。
何度も、何度も。

死んでほしいのが誰かなんて知らない。
誰に殺してもらいたいのかなんてわからない。
意味なんかないのかもしれない。

それでもどうしようもなくこみあげるから。

それは呪文。

本気で死にたいと思うほど必死に生きてなどいない。
本気で殺したいと思うほど他人を見たことなどない。

ただ唱えていると気が収まるのだ。
死ねとか、殺してくれとか、殺すとか、死にたいとか。
そんな言葉だけが。


「もしかして俺って狂ってんのかな。」
思春期の男の子にありがちな…、ちょっぴり繊細な男子中学生…、感受性豊かな少年…、等々キャッチフレーズを考えてみるものの、他人から見れば『夕日を見て発狂する少年A』といったところかもしれない。
でも、誰だってきっとあるだろう。
ただ知らないだけで。見せないだけで。
そう思わないと、自分を特殊だと思ってしまったら、どっぷり沈み込んで浮かんでこれなくなるか自分に酔って何も見えなくなるかしてしまいそうだ。
財布からテレホンカードを抜き出して隅に並んだ小さな穴をじっと見つめる。
残り度数がいくらだったか覚えてない。
蒼は眉間にしわを寄せ、テレホンカードの角を食い込ませた。
例えば、携帯電話が普及した昨今めっきり使う人の減った電話ボックスに入るとき感じるちょっとした居心地の悪さとかに、ふと、「何やってるんだろう俺。」と思う瞬間があったりもする。
パンツの色を聞いたことはないが、やっていることはそれよりも性質が悪いかもしれない陰湿な悪戯電話だ。
「しかも相手は野郎だしなぁ…。」
女だったらいいというわけではもちろんないのだが、男だとしみじみ考えるとサムさも虚しさも五割から九割増しな気がしてしまう。
受話器をぐっと下に引いた状態でため息をつく。
音が聞こえるほど深いため息なんて、こんなときでもないとする気がしない。
拳を握る。
何かを殴ることができたら楽になれるのだろうか。
物にあたるなとしつけられた。人にあたれと言われた覚えはないが。
穴を掘って王様の耳はロバの耳と叫ぶことの何が楽しいのかわからない。
眉が寄りすぎて眉間が痛い。
肺活量に問題はないはずなのに荒い息が耳につき、気持ち悪くて吐き気がする。
透明な電話ボックスは西日をこれでもかというくらいに透かしていて、見事に頭の血管をぶっちぎってくれた。

すまない樋崎少年よ。
俺はこれでも我慢はしたのだ。
恨むなら若かりし頃の己を恨め。

殺す、と。
自分でもどこから来たのかわからない言葉が頭を埋め尽くす。
吐き出さないと息ができなくなる気がする。

「堀川くん…」

少なからず驚いた。
相手が反応を返すのは初めて電話をしたとき以来ではなかろうか。
だけど、次から次へと埋まっていくから。

「うるせぇ!黙って聞け!」

これではまるで泥酔した父のようだ。
手のひらに爪を食い込ませながらも止まらない。

「いいけど、言い終わったら僕にも話をさせてもらいたいんだ。」

ああ、そうか。
小学生時代の言葉一つなんかで未だにしょっちゅう不快な目に遭うのがいいかげん嫌んなったんだろう。
よくもったもんだ。責任感強いよな、おまえ。それとも気が弱いのか。自己満足が延々続いてたんか。
なんでもいいけど世話になったわな。
ああ、ダメだ。
今はまともに物を考えられそうにない。
気がすんだとき覚えてんのか俺?モウヤメロの五文字くらいなら聞き取れるかもしんねー。
最後に礼とか言うべきなのか?変だろソレ。
ああ、今度からどうしよっかな。
ヤバイよ。全然何も考えられてないのに吐いてるうちに頭すっきりしてきたっての。
素面で殺すとか言うのってある意味面倒なんだよな。
もうやめるしかないか。

「で?話ってナニ。」
「あ、ああ、聞いてくれるんだ。ありがとう。」
「五文字なら。」
「………………。………。…。………ホ・ン・ネ・は?」
「は?」
「五文字以上…ちょっと長くなるけど、いいかな?」
「簡潔にしろ。」
「心がける。」

旭は電話の前でガチガチに固まっていた。
同年代の他人と長く話すこと自体珍しいのだから、少しでも間違うと二度と電話がかかってこなくなるこの状況は、旭にとって一世一代の大勝負といっても過言ではないようなもので、冷静になろうと思えば思うほど自分が何を言っているのかわからなくなっていた。
咳払いをして、意味もなく頷いて口を開く。
「その…僕も考えたんだが……、堀川くんは…」
「男にくん付けされんの気持ち悪い。呼び捨てにしろ。」
「その…蒼は……」
「いきなり名前か。」
「わ、悪い。その、堀川…」
「別に。蒼でいいけど。」
「な、なんだか妙にフレンドリーじゃないか?」
「…どこが?」
旭としては話がしたいと切り出した時点で問答無用で切られてしまうのではないかとビクビクしていたので、思わぬ展開にひたすら驚いていた。
「アニメ始まる前に家帰りてーんだけど。」
うんざりした口調で言われ、焦って本題に入る。

「本当は何を言いたいんだ?」

「は?」
「死ねとか、殺してくれとか。いつも僕に聞かせるだけだろう?もう…二年だけど、その間しか…それもあまり知らないけど、死ねって、本気で思ってるやつは、いないんじゃないかと…思う。で、考えたんだ。聞かせたいのか、言いたいのか、どっちなのかなと。聞かせたいのなら、死んでほしいやつが本当にいるのかもしれない。言いたいのなら、本当は違うことを言いたいのかもしれない。」
旭はこくりと唾を飲む。
遠慮なしに首つっこんできやがって鬱陶しいやつだなと思われてもいい。
興味があるんだと、知りたいんだと、友達になりたいんだと、少しでもいい、伝えることができたら。
一歩は踏み出せる。
「蒼は…僕に相づちを求めたことはなかった。僕が受話器を耳から離してやりすごしたって別に構わないみたいに…ただ叫んでた。だから、聞かせたいというよりは言いたいんじゃないかと思ったんだ。」
蒼はひんやりとした受話器を耳に当て、「こいつってこんなしゃべり方だったっけな。」などと思いながら時計を見つめていた。
早く帰りたいから簡潔にしてくれと言ったのに、わけのわからないことを長くなりそうな口調でしゃべってくるものだから。
「本当に言いたいこと?夢見んな。ねーよそんなもん。俺が知るか。」
考える前に返していた。
考えたって答が出るものではないだろうというのもあるのだが、嫌になったのなら嫌になったとはっきり言えと思ったのも理由の一つで、しかし散々理不尽な扱いを受けていて何も知らないままハイサヨナラっていうのはできないものなのだろうとも思う。
「…死ねって思うようなやつはいない。殺してほしいわけでもない。なんとなくだ。…出てくる。たぶん夕日が嫌いなんだ。」
「…何か嫌な思い出でも………」
「さあ。」
どこか気をつかうようにかけられた言葉に思わず笑いが漏れた。
「ゆ、夕日っていうと、僕はね、もっと赤かったらいいのにと思う。ほら、赤っていうよりオレンジだろう?なんだか甘そうで、気持ちが悪くなる。今日の夕日も…オレンジ色だ。」
西の空は薄紅が精彩を欠き始めていた。
ほのかに藤色の色彩が加わって、少し寂しげにしている。
もうすぐ夜がやってくる。
「甘いなんてのは初めて聞いたな…。」
血は鉄の味がするのが決まり文句ではなかったか。
あれは血だ。
どんなに薄かろうとも、あれは血なのだ。
甘いはずがない。
蒼は額に手を当て、指の隙間から空の様子を見て、なんとなく気づいてしまった。
この時間、死にはしないが殺される人間が、確実にいる。
受話器の向こうの慌てた声を聞きながら、ひどく泣きたい気分になった。
今から自分は死ぬのだ。
空が闇に飲み込まれる頃、玄関の扉を開けて別の自分が殺しにやってくる。
周囲に気取られないように、出血は最低限に抑え。
「夕焼けは……嫌いだ。中途半端なくせに…どうして血を流すんだ。朝日のように、気がついたらそこにあるように…夜も、そうやって来てくれればいいのに。」
泣きたいはずなのに、笑えた。
真っ赤に染まればいいと思う自分と、どちらが本物なのだろう。
だがどちらにしろ、毎日殺し殺されるのが面倒になったのだ。
だから、


死ね。
殺してくれ。
殺す。
死にたい。


急所をさらけ出されてくりぬかれて突きつけられた気分だ。
泣きたいのか笑いたいのか何もかもわからなかった。

泣いていると、思った。
聞こえてくる声が震えていた。
旭は何を言えば蒼の慰めになるのかわからなくて、考えるのも間違いな気がして、何も言えないまま沈黙に任せるのが嫌で、ふと思った。
そうか、蒼の力になりたいのだ。
友達になれるかどうかではなく、理由はどうであれ自分を唯一に選んでくれた蒼のためにできることがあるなら何でもしてみせたかったのだ。
蒼が何かを訴えかけているような気がしたから。
それは確かに自分のためなのだけれど、昔我慢できずに「なんでもする。」と告げたものよりは優しい気持ちのように思えた。
「僕は…本当はなんて言われたかったのかわかったよ。それができるかなんてわからない。……正直言うと自信なんてまったくないんだけど、電話を聞いていたみたいに、受け取ることならできると思うんだ。それに、…話すことも、したいと、思う。嘘は…つくのが普通なのかもしれないけど、蒼が嘘なのは、意味がないから嫌だ。えっと、だから…その、僕が言われたい言葉が…たぶんなんだけど、蒼が本当に言いたいことなんじゃないかと思うから、……できれば…言ってほしい。」

蒼は固く目を閉じて眉を寄せ、力を込めてからそっと開いて時計を見た。
アニメはもう始まっている。
空は何色というよりも暗くなっていて、血は塗りつぶされていた。
交代の時間は過ぎてしまった。
それでも家に帰れば、母は不思議そうな顔をするかもしれないが、また何事もなく日々が過ぎていくのだ。
だって、誰も何も言わないのだから。
父も母も、息子の猿芝居に気が付いているだろうに知らないふりをする。
友達ももしかしたらわかっているのかもしれない。
でも、誰も、何も言ってくれない。
断罪したのは一人だけだ。
「おまえには…嘘つきだと言われた。」
「………嘘つきだからだ。」
「……うん。」
嬉しかった。
きっとずっと言ってもらいたかった言葉だった。
「でも俺は……嫌いだったわけじゃない。みんな。みんなだ。笑ってるのが好きだったし、笑われてるのが好きだったし、……だって、そうだろ。怒っているよりずっと楽しいじゃないか。」
それが偽物だとしても。
「壊したく、なかった。……壊したくないんだ。」
世界がひどくもろいものだと知っている。
本当のことを言うだけで容易く崩れるものだと知っている。
小さなものから大きなものまでたくさんのスイッチを握っている。
そのどれもが。
「大切だから……だと、思うから。壊れないでほしいんだ。」
ただ時々それらがみな偽物だという事実に狂いそうになる。
笑いながら、すべてを壊して。
本物が、ほしくなる。
だがスイッチを押せるのは一度だけ。
「どうしろっていうんだよ!どうしたらいいんだよ!わかってるんだ!俺の勝手だ!全部、全部…っ!たぶん俺が何をしなくてもなるようになるんだ。でも俺は…っ、こんなふうにしかっ、できなかった…っ!今さら…今さらおまえなんかがっ!わかったようなこと言うな!俺にこんなこと、言わせんな!」
「それでも、なんでも聞くから。死ねとか殺してくれとかじゃなくて、もっと言いたいはずのことを。聞くだけならできるから。ちゃんと聞くから。聞かせてほしいんだ。」
そんなもの、ない。
疑問は隠すもの。見せない方がうまくいくものは見せる必要がない。
他人にも。自分にも。
だから、わからない。
「僕は、僕はね、今野望に燃えているんだけど、なんというかこだわりというものがあって、絶対に、その…、…………。…………なんだって、いいから。聞かなかったふりとかしないからっ!言えよ…っ!」
わからないのに。
こみあげてくる言葉がある。
嘘だ。
今まで一度だってこんなこと思わなかった。
頭を埋め尽くすのは死ねだの殺すだのそんなものばかりで。
だいたいこんなこと口にしたって何がどうなるわけでもない。
それはなんだって同じだけれど。
でもこれは、一番どうにもならないことで。
しかも、実際はそんなに切羽詰まってるわけでもないだろう。
本当にやるほど死にたいと思うほどでも、殺したいと思うほどでもないし。
こんな面倒なことを声にする必要なんかない。
聞くだけならできるとか、そんなこと言われたって。
言われたって。
聞くだけなら、聞いてもらえるだけだと知っていたなら、言うことができるだろうか。
聞いた相手が、聞いてやるだけのつもりで耳を向けていたなら。
それだけなら。


「…………たす、けて。」


期待なんて何もしない。

「……助けて。助けて、助けて、助けて。助けてくれ!……助けてくれっ!助けて!頼むから、お願いだから。助けてくれよ!」

言うだけだから。
言いたいだけだから。
何もいらない。
助けてなんてくれなくていいから。
だから、
頼る言葉を、縋る言葉を、
言葉だけを。


ずっと誰かに言いたかった。


「ちゃんと聞いたよ。」

ちゃんと、聞けた。
旭は口の端が自然と持ち上がるのを感じた。
「………………翌日忘れたとか、言うなよ。」
計算なのか違うのか、低くなった声に苦笑を返す。
忘れるわけがない。
「………記憶力はいい方だと思う。」
もしかしたらふと我に返り恥ずかしがっているのかもしれない。
だがそのうち彼が忘れろと詰め寄る日が来ても、絶対に忘れたりしないだろう。
見られたら憤慨されるかもしれないのに、顔が、笑う。
なんとか声に出ないように頑張っていると、呆れたような調子で言われた。
「でもおまえ天然ボケっぽいから。何やらかすかわかんねー。」
「…ボ、ボケって…そんなこと言われたの初めてだけど。」
「…おまえ友達いねーから。」
自分でも思ったことをズバリと言われてグサリとくる。
ボケているかもしれないなんて思ったことなどなかった。
「そ、それなんだけど、その、野望が……」
他人と接すればもっと色々わかるだろうか。
中途半端な数字とたった一本の電話でできた樋崎旭という人間もそれだけではなくなるのだろうか。
誰かの目に今まで知らなかった自分を見つけられたなら、なんて幸せなことだろう。
友達がほしい。
友達になりたい。
途端に声だけのやりとりが物足りなくなってきた。
なのに、受話器の向こうの声が
「言っとくけどこれからも俺おまえシカトすっから。」
攻撃する瞬間を狙っていたかのようにそう言うから。
「ええっ、えええええ?」
悲鳴をあげることしかできなかった。
倒れた旭に間をおかずとどめがやってくる。
「今さら素の自分とか、勘弁して。しかも教室でどうしていいかわかんねーし。小学校のときみたくすんの、…………嫌だし。」
かと思いきや、照れと戸惑いを多分に含んだその言葉に、嬉しいやら照れくさいやらどう応えるのがいいのか見当もつかないやら、様々な嘘に包まれた蒼という人格の中心に近い部分をかいま見させてもらったような気がした。
だからといって、だからこそ、そのまま納得する気にはなれない。
「でも野望が!どうしても外せない第一段階がっ!そりゃいつでも電話を取るけど、聞くけど、それも目的だったけどでも男は高みを目指せという心意気が…っ」
「なぁ、明日桜見に行かねーか。確かまだ咲いてたよな。」
はた、と、旭は音を立てて静止した。
「俺花見したことねーから何すんのか知んないんだけど、桜見て美味いもん食えばいいんだろ?うちの母親ァ、料理上手いから何か作ってもらうわ。………おまえと桜なんか見たってつまんねーのはわかりきってるけどな。……………まぁ、男二人だしな。」
蒼が何を言っているのかよくわからない。
いや、聞き取れてはいるのだが、それまでの話の流れからどうしてそうなったのかがさっぱりわからない。
「行く気あんのかないのかハッキリしろよ!断るならさっさと断れ!おまえ寝てんじゃないだろうなっ?」
「いや、い、行く!行く……けど……」
ついさっきシカト宣言をかましたのはどこの誰なのか。
展開のめまぐるしさについていけない。
「………なんだよ?」
不機嫌な声音。
わかりやすいようなわかりにくいような。
察するに、器用なようでいて実は不器用な彼は、学校の外では普通に接してくれる気らしい。
とりあえずは。
「…………いや、僕も花見したことがないから。どこの桜が綺麗なのかなと思っただけだよ。」
そう、とりあえずは、表向きにはしぶしぶといった感じで一緒に桜を見に行く関係。
目指すところにはまだ遠い。
だけどあくまでもとりあえずであるから、
「……これからの頑張り次第ってとこかな。」
「…?今なんて言ったんだ?」
「えーっと、あのー……アニメがある時間ってもうすぎちゃってるみたいだけど…大丈夫?」
いつかは互いが互いを友達だと、親友だと思えるような関係に。
「大丈夫なわけあるか!この頭でっかちの根暗野郎!バーカバーカ、天然ボケ!明日七時に駅前だかんな!」
「………少しずつ、しかし確実に前進中。」
乱暴に切られた電話に苦笑しながらつぶやいた。
「頭でっかちの根暗野郎だって…?当たってるかもしれないけど、キツいぞ。明日会ったら大嘘つきのあまのじゃくって言い返してやる。…………他には、どんな話をするんだろう。」
旭はめったにない用途に頭を回転させつつ、こらえきれずに笑い出した。
置いた受話器に手を触れたまま全体重をもたれさせて笑う。
ずっと力一杯握りしめていた受話器はすっかりぬくもっていて、少しべといていた。
これまでじっと聞いていることが唯一最大なのだと思ってきた。
夕方になると耳鳴りがした。
どこからか聞こえてくる電話の音が、片方の耳から頭を突き破ってもう一方の耳へと、ひたすらに往復を繰り返す。
夜が訪れるまで、本物が鳴り響くまで、その音の中だけで生きていた。
聞き分けることができなくなるのを怖れていた。
鳴りやんでしまうのを怖がっていた。
何をやっていたのだろうと、思う。
その電話がかけられたのが、どうして自分だったのか、知らない。
なんでもするからと、たった一つの言葉が、どんなふうに届いたのか、知らない。
こんな自分にどんな思いで叫んでいたのか、本当のところは、わかってなどいないのだと、思う。
でも忘れない。
「………かった……。……よかった。………聞けて、よかった………。よかったぁ…。…ありがとう。ありがとう。言ってくれて、ありがとう。……僕は、相変わらず頭でっかちの根暗野郎だけど、あの頃から少しは成長しているのかな……。……もっと早く聞けたらよかった。…僕がもっと、もう少し……。……ありがとう。ありがとう、蒼。何も知らない。何ができるわけじゃないけど、絶対に、忘れないから。何度だって、聞くから…。僕を助けてくれてありがとう……。」
親から与えられた名前と赤ペンで書かれた数字の大小だけでそこにあったような自分に意味と価値をつけることができた日。
己の許しを得たと思っていたあの日から、今、本当の意味で自分を得た気がする。
「話をしようと思えて、思うことができて、…よかった………。」
旭はすっかり暗くなってしまった部屋の中で手の甲にしずくを落としながら、いつまでも受話器を手離せずにいた。

それまでの色をどこに吸い込んだのかと思うほど空は黒く、濃い鼠色をした固まりがまだらに散らばって月を隠している。
他にも多くのものを隠しているのかもしれない。
一枚の帳を下ろしたのではなく、上から墨を塗りたくったような夜空が広がっていた。
ところどころ塗り忘れたのか、小さな星が瞬く。
電話ボックスの中からでは照明やすぐ傍の街灯が邪魔をしてよく見えない。
星を見ようとしたわけではないのだけれど。
タバコの灰が散らばった床に座り込み、破れたシールが貼り付いた壁にもたれかかって、蒼は空を見上げていた。
指の先でテレホンカードを弄ぶ。
長話をしたから穴が二つ増えてしまった。
ちらりとそれを見て、次に時計を見る。
そしてまた空を仰いだ。
早く帰らなければ。母が夕食を用意して待っている。
もしかして心配して探しているかもしれない。
だけど、もう少し、あと少しだけ動きたくない。
「……大切だから、壊したくない、……だって。…俺、そんなやつだったかよ。……楽しんでただけだったのにな。あいつの大げさなノリに流されて良い子ちゃんぶったんかな。………。」
違うとわかっている。
認めたくないのも、抵抗してみるのも、一つの知恵だ。
弱さとも言う。
気づかないほど小さなもの、他が見えなくなるほど大きなもの、相反するもの、すべて己自身だと考えると混乱してしまうから。
「……でも、いいのかな。俺だって、ガキだし。……わけわかんねーやつでも、いいよな。…これが俺だとか、言えなくても、いいよな。…………助けて…とか、言っても、いいのかな。いいの、かなァ………。」
電話をかけずにいられなかった時点で同じなのかもしれないけれど。
「言っちゃってよかったのかな…。なァ、俺ってあんなこと言っちゃってよかったの?………もう言っちゃったしなぁ……。バッカくせぇ……カッコ悪ー。何こんなとこ座って独り言とかつぶやいちゃってんの?変よ君。……変だよ俺。こんなとこに、こんな…誰が見てもわけわかんねー俺のままぼーっとしちゃってていいの?見たやつがどう思うかなんてわかりきってんのに。それで、笑われといて実はこっちが笑ってるってのが俺じゃなかったの?……あんな言葉……言っちゃって……笑われたら…………もう、笑えない。」
何度かけても何も言わず、切りもしなかった電話の相手は、笑わなかった。
笑わなかった、けれど。
「……弱く、なるよ。………俺、弱くなる。……無理やり聞かせるんじゃない。……聞いてもらえるって、思っちゃうよ………。あんなこと聞かせられて嫌じゃねーやつなんかいるわけないのに。………なんでも聞くって、言った。どういうつもりかわかんねーのに。…………俺は、………嘘つきで。大嘘つきで。……他人を信用なんか、できるやつじゃないのに……。こんなとこで一人でぶつぶつ言うしかねーやつ………なのに。」
誰かの支えを借りてしまえば次も貸してもらえると期待してしまう。
そうして伸ばした手を、誰にも受け止めてもらえなかったら。
どうすれば平気そうに見せることができるのか、わからない。
耐えられなくなるたび電話をかけた。
相手はくそ真面目っぽい性格で、自分に負い目がある。
だからはけ口に使った。
聞かせるだけだったから。
聞いてもらうことは期待していなかった。
「……でももう言っちゃったよ…。………言っちゃった、よ。助けて。…助けて、だってさ。………馬鹿だ俺。」
こんなにも、弱すぎる自分。
きっともう手遅れなのだ。
次も聞いてもらえるだろうとすでに思ってしまっている。
一人で生きていけたらよかったのに。
そうすれば、自分の弱さに気づかずに、すべてを騙し続けて、傷つく可能性も低く、
一生孤独のまま。
蒼はガラス越しの闇に白い花びらを思い描いた。
花咲くときは短く、散る様が最も美しい春の生贄。
手に取れば薄桃色をしたその破片は、多くの仲間たちと共に闇夜を照らし出すだろう。
例えすぐに踏みしめられ醜く色を変えるとしても、風に舞う姿は美しく、見る者を魅了するのだ。
無性に見たい、と思った。
桜の花びらは自らがたどる運命を知っているのだろうか。
知っていて風に身を任せるのだろうか。
無数の花びらの中には知る者も知らぬ者もいて、それでも変わらず美しいのだろうか。
蒼は春が嫌いだった。
まんまと散りゆく桜が嫌いだった。
けれど、散ることをいとわず花開く桜は好きになれる気がした。
「父さん、母さん、俺明日桜を見に行くよ。初めての花見なんだ。……花見なんか、しなくてすむ間は絶対する気なかったけど、………楽しみなんだ。……言った方が得なこととか言わない方がいいこととか、気にしないですむやつと行くんだ。自業自得だけど俺、そういうの初めてだから。……………いつか、父さんと母さんと俺で、行きたいね。母さんの料理を食べて、みんなでお酒飲んでさ。それで、いっぱい、色んなことを話そうよ。できれば笑いながら。どうしても笑えない話は…きっと、桜が笑ってくれるから。何を話しても大丈夫だから。……いつか、言うから。絶対言うから。待っててよ。もう少し、もう少し俺が強くなったら。………絶対に、なってみせるから。」
数年後の春、桜が散る様を好きだと心から思えるようになった頃、沈む夕日を見ても特に思うことも無くなった頃、父と母に、言いたいことがたくさんある。
「…助けて。助けて。助けて、か。恥っずかしいなオイ!あー、明日学校であいつの背中蹴らずにいられるかな。なんで俺の前なんだよ。嫌がらせしたい放題じゃねーか。でもやって文句言われてもどう反応すりゃいーかわかんねーしなー…。花見んとき蹴りいれよう。それまで我慢しよう。……他には、…俺とあいつで、どんな話するんだ?」
蒼は腕を組んで考え込み、はっと我に返って首を振った。
「なるようになんだろ。」
それよりも今は考えなければならないことがある。
いつも学校が終わると早々と帰ってアニメを見ている息子が、何故今日に限って帰りが遅くなったのか説明を求められるのは必至。
嘘をつくのは簡単だが、本当のことを言ってしまいたいとも思い、しかし深いところまで説明するのは今の自分にはまだ無理なので、はてさてどうするべきか困ってしまう。
それでも何故だか頬が緩んでいるのに気が付いて、蒼は額に手を当てて俯いた。
苦笑して、顔を歪めて、泣きそうになって、唇をいびつに曲げる。
指の間に挟んでいたテレホンカードを見つめ、小さく息を吐いて微笑んだ。
尻をはたいて立ち上がり、電話ボックスからやっと抜け出すと、春の風が吹き抜ける。
家までの道のりに桜が咲いていたことを思い出しながら、ゆっくりと歩き出した。


その電話はいつも夕方にかかってくる。

「あ、俺、堀川。いやー、毎回悪いね。つーか聞けよ旭!あのクソ親父超ムカつくんだよ!昨日なんかなぁ、すっげー眠かったのに叩き起こしやがって、毎回毎回似たような愚痴しかこぼさねぇくせによぉ!ババァもババァで寝たふり下手すぎんだよ!なんで結婚したのかマジわかんねー。って、聞いてんのかコラ、なんとか言え!俺様の愚痴を聞けて光栄ですとかなんでもいいからしゃべれ!時報にがなってるみてぇで虚しくなってくるだろうが!なにぃ?入る隙がないィ?そこを入ってくんのが技の見せ所だろ!普段言うこと我慢してっとふとしたときに一気に出んだよ!……あっ、待て!俺が悪かったって!マジで!ごめん!ホント許して。反省してます。あ?ん、んー、なんかすっきりしたから大丈夫。サンキュな。じゃ、へーへー。おまえ世話好きのお袋みたくなってきたのな。あー、んな大げさに反応すんなよ天然ボケ。じゃあな。」

無数の言葉が様々な抑揚を持って流れ、決して一方通行でない、名前付きの電話。
いつだって空は赤く染まりきらず、飽きもせず闇に飲まれていくのだけれど、その電話がわけもわからず吐き出された言葉をただただ投げつけることはもはやなかった。

春が過ぎ、夏が来て、秋が訪れ、冬に入る。
そしてまた春が来る。
世界は移り変わっていく。
少しずつ、少しずつ、繰り返しのようで繰り返しでない月日を経て。
幾度目かの春、二人は互いに親友の絆にたどり着き、旭は数字ではなく、蒼も嘘つきではないことを。
今はまだそれぞれの胸の奥、願い、挑み、進む途中―――。
END.
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