『囲まれた村』

村は囲まれている。
山々に、木々に、澄みきった空気に、ありとあらゆるものに宿る神々に。
それは誰に教わらずとも物心つけば自然と悟ることであり、生活を営むためには必ず知っておかねばならないことでもあった。
この世界に生きるのは自分たちだけではないのだと。

容赦のない冷気に体を震わせながらリコは祈る。
言葉のない歌を捧げ、朝餉の時間が来るまで祈り続ける。
歌は霧に吸い込まれ、どこに届いているのか、届いてなどいないのか、やがて浮かび上がり、戻ってくる。
「山の神様……お願いです。私の祈りを受け止めて下さい。どうかあなたの手にある命を、私の弟をお守り下さい。」
東の空に光が射す。
霧が薄まっていく。
隠されていた新緑が現れ、鳥たちが声を高くする。
肌を刺すばかりだった風が朝の香りを運んできた。
世界が目覚めていく様はとても美しかったけれど、リコはくしゃりと顔を歪め、涙をこらえた。
すべてはなるようにしかならないのだと、それが理なのだと告げられたような気がした。

食事は朝昼晩とも村人全員で広場に集まってとる。
食前の祈りを導く長老の声を聞きながら、リコは大鍋を囲む人々の様子を眺めていた。
村の人口は十三人。今この場にいるのは十二人。
一人たりない。
弟はもうみんなと一緒に食事をとることもできないのだ。
村はずれの小屋で一人横になったまま外の声を聞き、みんなが食べ終えた後で水のような食事を流し込まれる。
聞こえてさえもいないのかもしれない。
もう何日も瞳の色を見ていない。声を聞いていない。魂はもはや肉体を離れつつあるのかもしれない。
何をしても、無駄なのかもしれない。
「リコ!祈りなさい!『日々の糧を与えたもうすべての神に感謝いたします。』」
ぼんやりしているうちに自分の番が回ってきていたらしい。
長老に頭を下げて、
「『日々の糧を与えたもうすべての神に感謝いたします。』」
こだまのようになぞった。
「リコ、おまえはまた歌を捧げたのだな。愚かな真似はやめいと何度言えばわかる。」
長老は祈りを終えると鋭い視線を浴びせてきた。
リコは怯むどころか責めるように視線を返した。
山の神は言葉を捨てたのだという。
翼持つものの言葉、地をはうものの言葉、地の底に住むものの言葉、流れる水を行くものの言葉、すべてを聞いているうちにどれもが理解できなくなってしまったのだ。
だから山の神は語りかけられた言葉をそのままに返す。
そうすることで己の言葉は己にしか届かないのだと教えている。
人は山の神に何も願わない。
ただ感謝を捧げ、次の日もまた次の日もその意を忘れずにいられるようにと祈るだけだ。
「もう何度歌った?何も返ってはこんかったろう。お怒りをかう前に改めるのだ。カンゼには月の終わりに月血の呪をほどこす。そのための清めも始めておる。おとなしく待ちなさい。」
「承知なさい。カンゼのことは長老様がなんとかしてくださるわ。だから……」
母が長老の言葉を引き継いで宥めようとする。
父がたしなめるように肩をつかむ。
長老の両脇に座る老婆は二人して目と口を閉ざし、大人たちは神妙な表情を浮かべ、それぞれの父と母に挟まれて座っている子どもたちは居心地悪そうに下を向いた。
「呪が効かなかったら?他の呪はどれも効かなかった!月血の呪だって効かないかもしれない!なのに……それまで何もせず待ってろって、そう言うんですか!長老様!」
リコは父の手を払い落とした。
長老はしわだらけの顔にますます深くしわを刻んだ。
「おまえが遅くまで薬草を探していることは皆知っている。何もするなとは言っておらん。わしとて人の身に許された範囲でできる限りのことをしておるつもりだ。だが、おまえはやりすぎる。カンゼ一人のために村を乱すわけにはいかん。」
「……なんですか……それ。カンゼはこの村の人間でしょうっ!まだ生きてる!助けるためならなりふりかまわずなんでもする!それがどうしていけないのっ?」
長老の右隣に座すユミル婆が両手のひらを擦り合わせる。
「カンゼはいい子だ。おまえもいい子だよ、リコ。あたしはおまえたちを愛しているよ。だがねぇ……世界には理というものがある。老若男女、善いも悪いも関係なく、生きとし生けるものはすべて死という瞬間を迎えるのだよ。何も特別なことじゃあない。自然の理だ。例えカンゼが死んでしまっても、村はこれからも生きていく。山の教えに逆らっちゃいけないよ。」
リコを挟んで座っている父と母がそれにならう。
リコは頬の肉を固くした。
椀につがれたスープは野菜や野草がたくさん入っていて美味しそうだった。
温かな湯気が嫌でも食欲をそそった。
貪欲な命。
これが理なのか。
村はずれの小さな小屋を思い浮かべ、リコは奥歯を噛みしめた。

弟のカンゼは生まれたときから体が弱く一日の半分以上を床について過ごすのが日常だった。
仕事の少ない子どもたちが中心となり村人全員で代わる代わる面倒を見ていたが、姉であるリコが最も看護を任されており、いつのまにかカンゼのことはリコに、という流れができあがっていた。
他の子どもたちは遊びのあいまに看病をする。
自分だけが看病のあいまにしか遊べない。
仕方ないとは思っていても、外から笑い声が聞こえてくるたびに苛立ちが募った。
私は朝からちゃんと働いているのに弟は寝てるだけ。
たまに元気な日は両親を泣き落として一日中遊べるだけ遊んで……裏で私が散々「とにかく無理をさせないようしっかりと目を光らせておくように」と言われていることを知りもしないで無茶をする。
好き勝手しているのは弟なのに父さんも母さんも私を叱る。
大嫌い。弟なんてほしくなかった。いらない。
気がついたらそんなふうに思っていた。
だから、ひどく顔色が悪いくせに元気だと言い張ってみんなと遊びに行こうとする姿を見たとき、思わず何もかもをぶちまけてしまったのだ。
「あんたに何かあったら私が怒られるんだってわかっててやってるのっ?どうせ遊びに行ったってみんなに心配かけるだけかけて邪魔になるだけなんだからおとなしく寝てたらどうなのよ!これ以上面倒かけないで!」
カンゼは泣きそうに顔を歪めて、それでも涙をこぼさずに、掛け布を被って丸くなった。嗚咽一つもらさなかった。
それが逆にあてつけがましく思えて、腹が立って、なんでか泣きたくてたまらなくて、この場で涙を流すのが死ぬほど嫌で。
乱暴な音を立てて出て行ったら、戸の前でカンゼを待っていたウナとプルタがいっせいに非難してきた。
『なんてこというのよ!』
『カンゼの体が弱いのはカンゼのせいじゃないだろ。』
『リコはお姉ちゃんなんだから。』
『カンゼの気持ちを考えなさいよ!』
どれもこれもリコを責め、カンゼをかばうための言葉。
誰も、
誰も私の気持ちなど、わかろうともしてくれないのだ。
「カンゼに謝りなさいよ!」
ウナが言った。
ここで謝らなければ大人たちに言いつけるに違いない。
それできっと大人たちからも同じように責められるのだろう。
でも謝りたくなんかなかった。
「私……お姉ちゃんなんかやめる!弟なんていらない!お姉ちゃんなんか……いいことなんにもない!」
「何よ!私の妹見なさいよっ!カンゼは数倍いい子よ!」
平手を繰り出そうとしていたウナをプルタが止めた。
「……カンゼは、リコが自分のせいで嫌な思いをしてるって知っていたよ。今日だって」
「もうじきあんたの誕生日だから贈り物を探しに行きたいって!だから山に連れて行ってほしいって、私たちに頼み込んでたのよ!」
ぽかんとして、頭の中に顔色の悪さをごまかして笑う弟の姿が浮かんで、次の瞬間ぼろぼろと涙がこぼれだした。
いつだって無邪気で、こっちの苦労なんか何一つわかっていなくて。遊ぶだけ遊んで寝るだけ寝て、みんなに心配されて、父さんと母さんに甘やかされて。それが当然のような顔をしていた。
人の背中に寄りかかって押しつぶすために生まれてきたんじゃないかっていう弟だった。
違う。
私がそんなふうに見ていただけ。
カンゼの苦しさを理解しようとしていなかっただけ。
ただ憎んでしまうのが一番楽だったから、自分に都合の良い見方をしていただけだ。
謝りたい、と思った途端に後悔が押し寄せてくる。
あんなひどいことを言って、どうやったら謝ることができるのか。
でも謝りたい。
言葉は一つも思いつかなかったけれど、閉めたばかりの戸を壊さんばかりに開いた。
カンゼは顔から色を無くして意識を失っていた。
それから……一体何の病にかかったのか、元々病弱だったカンゼはまったくの寝たきりとなり、村はずれに隔離され、子どもが近づくことは禁止された。
何度か忍び込んではみたものの、カンゼはいつも深く眠っていて、一言二言の会話を交わすことすらできなかった。
自分にできることは毎日日没まで薬草を探し、夜明けと共に祈りを捧げること。
ただそれだけ。
それだけだったけれど、一生懸命に、自分のすべてを捧げるつもりでそうしてきたのに。
長老がほどこした呪はことごとく効果をみせなかった。
どれだけの薬草を持っていっても何も変わらなかった。
祈っても、祈っても、こだまはそのまま返ってくる。

リコは機織りや水汲みなどの仕事をあらかたこなして太陽を仰いだ。
昼食の前にカンゼの体を拭くのが以前の日課だった。その後ご飯を食べさせて、部屋を掃除して……。
もうやらなくてすむなんて、今なら絶対に思わない。今なら黙々と作業をこなすみたいに相手をしたりしない。今日村で何があったか、誰と誰がどんなことで盛り上がっていたか、カンゼの聞きたい話をいくらでも話して、カンゼがしてほしいことをなんでもして……。
なのにどうして、二度とできなくなりつつあるのだろう。
昨日も一昨日もそんなことを考えた。
考え続けても嘆くことしかできない。
リコはスカートの端をぎゅっと握り、空を突き刺す山々をにらんだ。
「あの子もねぇ……気性が荒いというかなんというか、他の子どもが影響されないか心配だわ。気持ちはわからないでもないんだけれど、長老様も尽力されているわけでしょう?じき成人するのだから、もう少し落ち着いた方がいいんじゃないかしら。」
びくりと体がはねる。
木陰の向こうから聞こえてきた特徴ある声はウナの母親のものだ。
話し好きの彼女はいつでもどこでもかん高い声を響かせている。
リコは彼女のことがあまり好きではなかった。
それというのも、明らかに好感を持たれていないと思うようなことが何度もあったからだ。
だから繰り返される大きなため息は自分へのものだとすぐにわかった。
休憩の間中聞きたくもない陰口を盗み聞かされるのはまっぴらと、速やかに場所を移ろうとしたが、どうやら相手の方が去ってくれそうなのでほっとする。
リコは小さくなって膝を抱えた。
和を乱しているのは知っている。
ただでさえ重くなりがちだった村の雰囲気をますます悪化させている。
聞き分けのない子どものせいでピリピリとした空気の中にいなければならないのはひどく苛立つものだろう。
わかっている。
ウナの母親の言葉はどこも間違ってなどいない。
それでも胃液がくつくつと煮立つような、怒りにも憤りにも届かない、だからこそ消すことのできない炎がじわじわと胸を焦がしていた。
「毎度毎度、おまえの欠点はそれだねぇ。なんでもかんでも口に出す。言霊の神は悪戯がお好きだ。心だけを紡いでくださるとは限らないんだよ。……先にお行き。あたしゃもう少し休むよ。」
どうしても敏感になってしまう耳に小さな子どもをあやすような声が聞こえる。
ユミル婆だ。
もしかして、と思いつつ息を潜めていると、
「さぁて、リコ。赤いおべべが見えているよ。観念して出ておいで。」
やはり気づかれていた。
リコは自分の口が尖っているのをわかっていたが、直す気にもなれずそのまま顔を見せた。
「みんなそれぞれに。カンゼのことも、おまえのことも、心配しているよ……?」
「心配?私を?村じゃなくて?」
ユミル婆は口を弛ませて頷いた。
「なんでもね、己の眼に映るものだけがすべてじゃあないんだよ。視野を広くするのも、狭くするのも、大切なこと。だがねぇ、どちらかしかできないんじゃあ世の中の半分も見えてないのと同じだよ。」
長老の伴侶であるユミル婆はいつも村人のことを気にかけ、そっと支えていてくれる。
リコもこれまで数えきれないくらい慰められてきた。
しかし今はその言葉を素直に受け止める気になれない。
「ごめんなさい。どんなに的を射たお説教も教訓も今は……。私がほしいのは……言葉なんかじゃない。」
「そういうときもある。そんな顔をおしでないよ。おまえはいい子だ……。」
リコは片目を眇めてわずかに首を傾げた。
「そんなこと言うの、婆様だけよ。」
たった今自分を責める声を耳にしたばかりだ。ぎこちなく笑うしかない。
ユミル婆は小さく首を揺らした。
「いいやぁ、タカサがね、思うところがあるのにおとなしく従うだけの女じゃあいかんと、おまえは息子より骨があると言って、後妻に迎えたいなんぞと言うとったよ。」
「ええっ!」
「プルタに蹴飛ばされておったがね。」
リコは思わず吹き出してクスクスと笑った。
ユミル婆も同じように笑っている。
プルタの父タカサは少々砕けた性格をしているため、真面目な息子にしょっちゅう怒られている。親子というよりは親友同士のようで微笑ましい。おそらくは後妻発言もただの冗談で、普段から性質の悪い冗談を飛ばす父親に腹を立てていたプルタが条件反射的に足を出したのだろう。
しばらくは険しい顔をしていようと思ったのにすっかり頬が緩んでしまった。
しかしふと考えがよぎって、なんとなく笑いを止める。
「おじさん……婆様に言っただけ?みんなの前でそう言ってたの?」
「どうだろうね。『おい婆さん』とあたしを呼び止めてね、『リコはいい女だな』と、さっきのようなことを言っておったのさ。そこにたまたまプルタがいたけどねぇ。他にもそう言ったのかは知らないねぇ。」
「そうなんだ……。」
わざとなのかもしれないと思う。
ユミル婆はきっと朝から、その前からずっとリコを気にかけて、かまってくれていた。だからわざわざユミル婆にそう言って、自分たちを笑わせてくれたのではないか。周りのことなど何も気にしないようでいて、実は人一倍気遣いの上手い人だと思うから。
考え過ぎかもしれないけれど、タカサはそういうことができる人なのだ。
自分とは違って。
「婆様、私……わかってるの。私なんか、どうしようもないって。わかってるの。でも納得なんてできないんだもの。もうすぐ大人だって言うけど、まだ大人じゃないからどうすればいいのかなんてわかんない!……私、おかしい?私が駄目な子なだけなの……?私、いい子になりたかった……。」
ユミル婆はリコの両手を握りしめた。
「おまえは、おまえのやりたいように。そうやってすべてを知っていくんだよ。いい子だ。いい子だねぇ、リコ。いい子だよ……。好きなようにおし。誰も真実など知りはしない。」
リコは顔を上げられずに、ずっと鼻をすすっていた。

「私、捨て人を探しに行こうと思うの。」
リコは村の子どもたちの前で声を抑えて言った。
子どもたちといっても、村にはリコとカンゼを合わせて五人しかいない。残りの三人はプルタ、ウナ、ウナの妹のサーナ。
三人は顔を見合わせて一様に信じられないといった表情を浮かべているのを確認し、そろってリコを止めた。
「何考えてるのよ!捨て人なんかと言葉が通じるわけないでしょ!」
「そうだよ、殺されちゃうかもしれないよ。」
「……きっと一日や二日じゃ見つからないわ。その間にまたカンゼの容態が急変したらどうするつもりなの……?」
一人だけ矛先が違っているサーナの頬をウナとプルタが両側からつねる。
「何馬鹿なこと言ってるのよ!……確かにそれもあるけど。捨て人に会うってことが一番問題なんでしょー!」
「捨て人は神様によって村に入ることを許されなかった人たちなんだよ?それだけのことをしたんだよ?犯罪者とか狂人とか魔物憑きとかなんだよっ!」
「でも、捨て人なら私たちの知らない薬草や呪を知っているかもしれない!」
リコは叫んでから慌てて口を押さえた。
周囲をきょろきょろと見回して誰もいないことを確かめ、小声で続ける。
「このまま月末まで何もしないで待ってるなんてできないもの。大人たちには私が追いつけない距離まで進んだと思ったら伝えておいてほしいの。」
「リコ……でも捨て人が僕たちの知らないことを知っているかどうかなんてわからないんだよ?」
「うん。」
「……死に目に会えなくても耐えられるの?万が一の話よ。」
「……うん。」
プルタとサーナは呆れたようにため息をついた。
ウナはリコの正面に立ちはだかり、自慢の髪をはねのけて言った。
「あんたそんなに罪悪感感じてるわけ?自己満足ってやつで死にに行かれたらおじさんもおばさんも悲しむしカンゼだっていい迷惑よ。」
プルタがウナの腕を引いて止めようとする。
しかしリコは迷わず頷いた。
「……うん、わかってる。みんなに今よりもっと迷惑かけることになるんだって。私、馬鹿だから。……だから、カンゼにひどいことをしたわ。謝りたいの。ちゃんと、ごめんねって言って、カンゼの言葉を聞きたいの。でも、元気になってもらいたいって、それだけ思うのも、本当だと思うもの……。だけど他にも色々あって、やっぱり自己満足で、やっぱり私は馬鹿で……それでも動かずにいられない。」
「じゃあ死んできなさいよ。カンゼの代わりに。」
「ウナ!」
プルタが叱咤するのにウナはまったく取り合わず、きっとにらんでふんと息を吐いた。
「二人で死んだら許さないわ。」
プルタはリコと顔を見合わせて、目と目で苦笑した。
「でも本当に……気をつけて。無理しないで、駄目だと思ったら帰ってきなよ?危険を感じたらすぐに逃げるんだよ?ウナじゃないけど、カンゼが危ないのに、リコまで死んじゃったりひどい怪我を負ったりしたら嫌だよ?」
「……捨て人を悪人だと決めつけるのはよくないわ、実際に会ったことなんて一度もないんだもの。リコは捨て人の力を借りようとしているんだから、なおさら。……悪人かもしれない、にとどめておいて、本当に悪人のようだったら全速力で走るのよ……。」
リコはプルタとサーナに力強く頷いた。
「それから、あまり行きすぎないようにね。エヤンの奴らは昔僕らのご先祖様たちをたくさん虐殺したって長老様が言ってたろ?もしかしたら捨て人以上に怖い奴らかも……。」
「プルタ?」
「……駄目だ、やっぱり僕も一緒に行くよ。」
「駄目よ。プルタは狩りに行かないと。大人三人じゃきっと大変よ。私は一人で大丈夫。怖くなったらすぐに逃げるから。」
リコは頑固だから、そうは言っても実際にはどうだかわからないから心配なんだけどなぁ……とプルタは思ったが、何を言っても聞きそうにないのと村の方も心配なのとでしぶしぶ引き下がった。「本当に!危なくなったらすぐに逃げるんだよ!」と何度も言い聞かせて。

深夜、獣の鳴き声に身を竦ませながら、リコはこっそりと家を抜け出した。
月は隠れ、松明だけが村を浮かび上がらせている。
首を起こせば漆黒がどこまでも広がっていて、これからそこを一人で進むのだと思うと寒さではなく身震いがした。
一歩、また一歩、さらに一歩。
歩む毎に歩幅が縮まり、家の前からまだ三歩しか進んでいないのにもう足が動かなくなる。
情けない。
振り返って家を見る。
父と母はよく眠っていた。
これから二人の知らないうちに命を危険にさらしに行くのだ。
朝のことといい、カンゼのためにとりたてて行動するでもない両親に苛立ちを感じてはいたものの、そう考えるとなんだか申し訳なくなってしまう。
しかし、村のはずれ、闇に染まって形もわからない小屋を眺める。
長老は言った。
『我々カリビア族はもはやこの村しか持たない、たった十三名の民族なのだ。内三名は老いさらばえた身。子どもはたった五人と、未来はあまりにも儚い。子どもたちはどうあっても守り抜かねばならない。』
そうして弟を村から引き離した。
もしも伝染病だったら困るからと。
大人たちはみんな納得したけれど。
思えば、体を拭いてあげているのにうつろな目で遠くを見つめて一言もないなんてと頭にきていたあの様子は、外の音を聞いていたのだ。子どもたちが楽しそうに遊ぶ声。大人たちが仕事のあいまに立てる笑い声。森の奥から響く鳥の歌声。自由な風が木々の枝で遊ぶ音。見えない光景を想像しながら外への思いを募らせていたに違いない。たまに体調のいい日は遅くまで遊んで、また熱を出すに決まっているのにと腹を立てていたけれど、だからこそその日一日いつまでも遊んでいたかったに違いない。
村のはずれで、食事の声がかろうじて聞こえるか聞こえないかといったあんな場所で、ほとんど意識を保てていないからって、たった一人で。
村に捨てられたのと、どこが違う。
「カンゼ……。」
リコは空を見上げて宇宙の中央に月を描いた。
あそこに月がある。今は見えないけれど、あそこに月がいる。
だから闇は怖くない。
スカートの端を握りしめて大きく一歩を刻む。
見張り番のタカサはぐらぐらと船を漕いでいた。
歩き出しさえすれば小さな村を抜け出すのはあっという間だった。
「……行ったわね。」
「何をぐずぐずしてたのかしら。苦労が水の泡になるところだったじゃない。」
「……父さんに酒を持たせたのは僕だけど、なんだかちょっと泣きたくなってきたよ……。」
夜は子どもたちのひそひそ話を呑み込み、予定外の遅れを取り戻すかのように村を静寂に沈め始めた。

村の地図には近隣の山々しか記されていない。
その範囲で猟場やら採取場やらがすべて収まるのだ。十年に一度くらいは遠出をすることもあるが、めったにないことであるし、方角さえわかっていれば簡単に村に戻ることができるのでわざわざ地図に記したりはしない。
そんなことだから、村人の多くは、自分たちが暮らしているのは大陸の東端の山中で、これ以上東や北に行けば懸崖の下に海が見えるだけであり、南か西に行くしかないのだが、どちらも行きすぎればかつて自分たちの先祖を虐げたエヤン民族の暮らしている領域に到達してしまう、ということくらいしかわかっていない。
どのくらい進めばエヤン民族の縄張りに入り、どういう目印でそのことに気付けるのか、まったく知らない。
だからリコは地図に載っている範囲からほんの二山越えればそこがエヤンの土地だなどとは全然知らずに、たった一晩でそこまでたどり着いてしまった。
そうして朝焼けを眺める余裕もなく呆然としたのだった。
リコの前には刺の付いた細長い鉄を上から下まで何重にも巻き付けた柵が立ちはだかっていた。
「……これ何?罠?……何をとるのかしら。確かに痛そうだけど、これでかかるの?」
人差し指で刺の先端をそっとつついてみる。
罠があるということは、人が住んでいるということ。こんな罠は知らない。
と、いうことは。
「捨て人が近くにいるんだわ!」
リコは確かによぎった恐怖を喜びで押し流してせわしなく首を動かした。
辺りには木々が立ち並び、幹しか視界に入ってこないが、下を向けば柵の向こうに道があった。柵に沿って伸びるまっすぐな道。踏み慣らしてできたにしては草が綺麗に除かれている。きっとすぐそこに捨て人の家だか村だかがあるのだろう。
リコは柵の横を歩き、向こう側に出られる場所を探した。
が、行けども行けども柵は切れず。
太陽が昇りきるまで歩き続けても一向に切れ目が見えない。
リコは歩みを止めなかったが、足取りはどんどん重くなってきていた。
どこまで続いているのか、何度も考えたが、もしかしたら地の果てまで続いているんじゃないだろうか。
だとしたら、何のために?
もはやこれが罠だとはとうてい思えない。
「捨て人は何を考えているの?」
そうつぶやいて前方を眺めたとき、どこまでも変わりばえのなかった柵に変化が訪れた。
その部分だけ鉄の板が取り付けてある。ちょうどいい位置に取っ手がついているからには、扉とみなしてもいいのだろう。
期待をもって引いてみた。ガシャガシャと鳴るだけで開こうとしない。
押してみた。以下同文。
落ち着いて観察してみると何やら鎖が鉄板と柵とを結びつけている。
「何これ。どうしてこんなことをするの?開けられないのなら扉の意味がないじゃない。」
鎖に妙な形をした金具がぶらさがっていたが、何のために付いているのかさっぱり意味がわからなかった。
リコは長く息を吐いてとうとうその場にしゃがみ込んだ。
赤と黄色の糸で編んだスカートが土に煙る。
気に入っていた鳥の模様を指の腹でなぞってみる。
そういえばあの子ったら、一度機を織ってみたいなんて言い出したこともあったな。
「頑張らなきゃ。ぼーっとしてる暇なんかないんだから。」
自然と尖っていた口を緩ませて、よっこいしょと立ち上がった。
「誰かー!誰かいませんかー!」
大きく息を吸って叫ぶ。
捨て人がどういった人間かはこの際忘れることにした。
物音はすぐにした。
柵のこちら側、背後から。
「……誰じゃ。その言葉、カリビアの民じゃな。」
しわがれた声は老烏のようで不気味だったが、人間の言葉を喋っていることにひとまず安堵した。
「女か?子どもか?どちらでもええわい。村から出るはずのないものが何をしに来た。」
声は草を分ける音と共に着実に近づいてくる。
さっきから返事をしようと思っているのに何故か顎が動かない。
リコはたまってもいない唾を呑み込んだ。
「……それとも、おまえも同類か。」
「私はっ、聞きたいことが、あって……っ」
森の中から姿を現した老人は上がりきらない左まぶたを持ち上げ、右目をかっと開いてリコを見た。
泥にまみれた白髪は伸ばし放題。纏っているぼろ布はあちこちが裂け、血や草に汚れている。背中はひどく曲がっていて、突き出すような首に支えられた顔に浮かぶ表情は、どれも奇妙で醜悪に見えた。
歯がカチカチと小刻みに鳴る。
その音が一つでも届いたら殺されてしまいそうで、リコは必死に震えを抑えた。
「あなた……は、捨て人……?」
尋ねてからしまったと思う。捨て人という呼称は本人の前で使うべきものではないかもしれない。
「……捨て人?今はそう言うか。わしの若い頃には『人外れ』と呼んでおったが。捨て人とは……よう言うた。」
老人は片方の頬肉を持ち上げ、歪めた唇からところどころ抜けた歯をのぞかせた。
右目だけでリコを見つめ、にやにやと笑って手を差し伸べる。
ぐにゃりと曲がった長い爪を向けられ、リコはひっと喉を鳴らした。
「老いて一人生きれば形も崩れよう。もう少しはよう来たらば伝えやすいこともあろうに。……日が、上にある。刻が悪い。おいで、ここでは話などできん。」
眼球が転げ落ちそうなほどに見開かれた老人の右目。
リコは動かなかった。動けなかった。
二本の足は折れそうに震えるだけで前へ進もうとはしない。心がへたりこんでしまっていた。
老人は白髪を翻して背を向けると振り返ることなく歩き出した。
わずかな風が異臭を運ぶ。腐った肉に垢を塗り込めたような臭いだ。
眉間にしわが寄る。鼻が竦んだ。
顔がほぐれると体もほぐれたようだった。
それでも足は震えていたが、リコは左胸を拳で打って無理やりに一歩進んだ。

連れてこられた場所は捨て人の村などではなかった。
ただのうろだ。大木の根本にぽっかりと空いたちょうど人一人入れる程度の穴。
老人は木の前に繁る草の上にあぐらをかき、リコも座るようにと促した。
「村人は健やかか?」
リコはなんとなく奇妙なものを感じたが、早速本題に入ることにした。
「……。弟が……病で。助けたくて……だから、みんなが知らない薬草や呪を、教えていただきたくて……来ました。」
「子どもよ、村は山々で最も恵みある場所にある。村で尽くす手なくばどこであろうと同じこと。」
「そんな!だって……それじゃあっ」
両手を前について体を乗り出す。
老人は左目を空に向けた。
「あとは運命じゃ。」
リコは草をつかみ、奥歯を噛む。
運命。理。そんな言葉はどれもこれも聞き飽きた。
捨て人が何も知らないなら自分で探すしかない。
野山を駆け回り、例え獣の腹に入ろうと。
何か、できることがあるはず。
さっきの柵。
あの柵の向こうなら誰も知らない薬草が生えているかもしれない。貴重な薬草を守るために作られた柵だったのかもしれない。
頼りない希望に裏切られてもいい。なんでもいい。
月血の呪が効いて結局無駄な労力を費やしただけになったとしても、それこそのぞむところだ。
カンゼが生きてさえいてくれればいい。
何か、できることがあるはずだろう。
「……強情な目をしておる。子どもよ、村に帰れ。」
「あそこにいても私にできることなんか何もないわ。どうせ子どもよ!でも父さんや母さんみたいにはなりたくない!」
老人は少し笑った。
「子どもよ、子どもには子どもだからこそ易いこともあるのじゃろう。一つ、可能性を知らんこともない。じゃが、苦痛と困難だけが保証された道じゃ。忠告しよう。村に帰れ。」
段違いの両まぶたが一気に押し上げられる。
リコはもう気味が悪いとは思わなくなっていた。
子どもを脅かす大人を馬鹿にするような瞳で答える。
老人は息を吐くと、ゆっくりと唇を開いた。
「エヤンの民に助けを求めよ。」
エヤン、エヤンの民、エヤン民族。
かつては多くいたカリビアの民が今ではたったの十三名になってしまったのはエヤン民族が残虐な行いをしたためだと、カリビアはエヤンに土地を奪われたのだという話を何度も聞いた。
だがリコはエヤン民族に憎悪を抱いてはいない。
生まれてこのかたリコと共にあったのは村の人々であり、多くの動物たちであり、山々を覆う草木であり、エヤンの名は長老の昔語りの中で数回耳にしたのみに過ぎない。生首が並んだだの大地が血に染まっただのいう描写に震え上がりはしたものの、あくまで昔話であって、感覚としては怪談を聞いているのに等しい。
エヤン民族が今もこの世界に存在していることは知っている。
大陸の大部分はエヤンのものであることも知っている。
しかし、長老がどれだけ熱弁をふるおうと、プルタがいくら心配してくれようと、それらはリコにとって遙か遠き国の物語だったのである。
「『人外れ』の由来を知っておるか。」
老人が混乱に拍車をかけるように質問を投げかける。
「『捨て人』は……神に見捨てられた人だから。村に住むことは許されないとお怒りをかった人だから。」
脈絡のない流れだったが、リコは疑問を感じる余裕もなく答えてしまっていた。
「ほぼ同じ意味じゃな。しかしのう、わしは村に生まれた。村に生まれ、村に育ち、そして己の意志で村を捨てたのじゃ。……『捨て人』とな、言葉などどれだけ音を変えようと霊が入らねば同じことよと思っておったが、これはいい。これはいい名じゃ。」
「村を自分で?嘘。どうして?そんなのおかしい……。」
指に草が触れる。こんな草は食べたことがない。きっと食べられない。
さっき言ったばかりではないか。村は最も恵まれた場所なのだと。
「心の通じんものと共に暮らしても仕方あるまい。」
「……それ、みんなのこと?」
「どれだけ入れ替わったかは知らん。」
老人はぼさぼさ頭をかきむしった。
「しかし、変わっておらんのじゃろうな。おまえを見ればわかる。何も教えられとらん。」
「私が何を知らないっていうの?」
「人の言葉を話すは人のみじゃ。『人外れ』、『捨て人』、すべて人が名付けたもの。村に住むは村人のみ。村を離れるものは獣と等しい。ただ一つの、カリビアの村にとってはの。子どもよ、村は無人になるのを恐れておる。そのための『捨て人』じゃ。」
老人は長い爪で土を削る。ひびが入っていた爪は縦に割れ、土色の指に血が滲んだ。リコは目を眇めたが、老人はまったく反応しなかった。
描かれたのはいびつな長方形だった。ほんの端にまっすぐな線が引かれる。二つに分かたれた、広い方が斜線で塗られた。
「大陸のこれだけがエヤンの住む地。」
それはほぼすべてだった。
わずかに残った白い部分を指差してリコが言った。
「ここがカリビアの地?」
老人は首を振った。
「エヤンの土地じゃ。」
わけがわからない。
だとしたら自分たちは一体どこに暮らしているというのか。
さっきから人を混乱させることばかり言ってようするに何が言いたいのだろう。
眉をひそめた拍子に再び鼻が曲がり、捨て人の言葉を真剣に聞きすぎているのではないかと気がついた。すべては狂人の戯れ言なのではないか。それにしてはまともに見えるが、目的を持って偽っているのだとしたらもっと性質が悪い。
逃げなければ、と思いつつ体が動こうとしないのは、少しでも高い可能性の方にすがりつきたいからだ。獣の腹に入っても構わない勢いだが、入るだけ入って弟が救われないのでは話にならない。嘘か本当かはとりあえず後回しで、役に立ちそうな部分だけを耳に入れればいい。
「エヤンの人は親切なの?私を助けてくれる?弟を助ける方法を知っているの?会うにはどうすればいいの?」
とはいえ、どこへ向かおうとしているのかいまいち不明な長話につきあわされるのは御免なので、こちらから質問を投げかける。
老人は呆けたように動きを止めて、背中を揺らして笑い出した。
リコは馬鹿にされているのかと思って顔をしかめたが、老人はひどく愉快そうに笑い続けていた。
「エヤンの民はカリビアの民よりはるかに優れた医術を持つ。医術だけではない。すべてにおいて進んでおる。弟が助かるかどうかは知らんが、年寄りのまじないに頼るよりはましじゃろう。会うにはただ、柵を越えればよいだけのこと。今のエヤンは……おまえを殺すなど、絶対にありえんよ。」
柵といえば一つしかない。
リコの思考は次々と前へ進む。
巻いてある鉄はとても細かったから石で殴りつけでもすれば容易に曲がるだろう。少々痛くてもなんとか通れるくらいの穴なら作れるかもしれない。誰が何のために作ったのかわからないが、あれだけ長いのだし、おそらく罠ではないのだろうから、それくらいは勘弁してもらおう。
もしもこの話こそが罠で、柵の向こうで捨て人たちが待ちかまえているとしたら。
獣の腹にでも入ると言ったのはどこの誰だと、リコは握った拳に爪を食い込ませた。
今はとにかく動くことだ。自分などに考えられる範囲など、導き出せる答など、意味を成さないも同然だから。命を投げ出す覚悟でないと何もできない気がする。
「ありがとう。えっと……おじいさん。ありがとうございました。」
リコは勢いよく立ち上がった。
即座に歩き出そうとする様子に、老人は再び呆然としたようだった。
「……確かに、殺さんじゃろうとは言ったが、エヤンを恐ろしいとは思わんか。」
少しだけ間があく。
「……会ったことないもの。昔話を聞いただけ。それに、怖い人たちでも、行かなきゃ始まらないもの。」
考えようとしてみたが面倒になったのでそう言った。
一刻も早くカンゼを助けたかった。
「……そうか。もう一度言う。今すぐ村に帰った方がおまえのためじゃ。今すぐでなくとも、おまえの帰る場所は村。……万が一、そうでなくなった場合はここに来るといい。」
何を言いたいのか最後までよくわからなかった老人に適当にお辞儀して走り出した。

ちょうどいい大きさの石を見繕って作業を開始したリコだったが、柵の向こうから現れた奇妙な男に腕をつかまれて困り果てていた。
逃げようにも振り払える力はないし、
「あの、壊そうとしてごめんなさい。あなたは……捨て人?それとももしかしてエヤンの人なんですか?私、お願いがあって、なんとしてでも助けてほしくて……そちら側に行きたいんです。」
謝って事情を話そうにも、
「……。」
一言も発してくれないのだ。
じっと見つめても表情が読めない。
仕方がないので再度観察してみる。
男は箱のような帽子を被っている。もしかしたら何か入っているのかもしれない、と気になるが、それより気になるのはその身に纏っている色だ。
目に痛いほど鮮やかな赤。
どうすればそんな色が出せるのか。
自慢だが、村で糸を染めるのが一番上手いのは自分だ。今着ている服も自分で染めて自分で織ったものだ。はっきりとした赤が翻る様を見てウナもサーナも綺麗だと言ってくれた。カンゼも、すごいねと、言った。他人に自慢できるただ一つの取り柄だと思っていたのに、上には上がいるものだ。
それにしてももったいないことをしている。
普通服とは複数の布を巻き付けて着るものだ。こんなに綺麗に染めて、こんなにきめ細やかに織るのは大変だろうに、男の服は布を一度裁ってからくっつけて作ってあるようだ。ぴっちりと身に沿っていてこころなしか窮屈そうにも見える。
まじまじと見つめるうちに、リコは何故赤が目に痛いのか気がついた。
男の肌は、とても白い。
元々の赤が鮮やかなのはもちろんだが、肌が異常に白いせいで際だって見えるのだ。
ほとんど外に出ることのなかった弟より色白だが、男はがっちりとした体格で、体が弱いようにはまったく見えない。
視線が痛くなったのか、男は困った顔をした。
開いた穴から腕だけをこちら側に出し、しっかりとリコの腕をつかんでいるが、これからどうするか決めかねているように見える。
「私は頼み事をしに来ただけで、何もできませんから、安心してください。」
何を言おうと、身振り手振りで示そうと、男は困った顔をし続けている。
何度目かの説明を試みたとき、表情が安堵に変わった。
視線をたどってリコは驚いた。
もう一人、まったく同じ服、まったく同じ肌の色の男が向かってきていたのだ。
一瞬同じ人間が二人いるのかと思ったが、よく見てみれば、リコの腕をつかんでいる男は若々しいが、もう一人はヒゲを生やしており小太りで、口や目の辺りにしわができていた。
「お嬢ちゃん、どうしました?」
初老の男は穏やかな笑顔を向けて腰を曲げた。灰色のヒゲが風になびく。
「あ、の……腕を……」
リコが若い男の方に顔を向けて言えば、腕はそっと離され、初老の男が笑顔のまま告げてきた。
「ああ、失礼。それと、彼には話しかけないでください。彼はカリビア語を解してはいますが、発音がまだ心許ないのです。」
何のことだかよくわからずに首を傾げると、男は気にした様子もなく最初の言葉を繰り返す。
「お嬢ちゃん、どうしました?」
胸にじわじわと細かな泡を立てるのは不安……なのだろうか。
「迷ったのですか?」
地面を見つめて首を振った。
「違います。私は……弟を、助ける方法を探して……」
自分の言葉に正気に戻る。
「弟を助けたいんです!あなたたちは捨て人?エヤンの人?弟を助ける方法を知ってますかっ?誰でもいいから助けて!お願いします!」
男たちは難しい表情で顔を見合わせた。
「弟さんはどうされました?」
「病気なんです!何の病気かわからなくて!もうずっと横になったきり、どんどん弱っていくんです!薬草もまじないも全然効かなかった……っ!長老が、月の終わりに月血の呪をほどこすって言ったけど、不安で……いてもたってもいられなくて……お願い!弟を助けて!」
言葉に押されるようにして涙がこぼれ落ちる。
リコは男の服の袖を握りしめた。
『月血の呪といいますと……確か名前しか確認されていないまじないではなかったでしょうか。』
若い男の口から呪文のような言葉が飛び出す。
そう、何の疑問もなくそれが言葉であると直感したが、初めて耳にする不思議な響きにリコは思わず地面にすがった。
『……本来ならばこういう場合は問答無用で強制送還だろう。』
『しかし人命もかかっているようですし……。』
次から次へと頭の上を流れて行く謎の言葉。
まるで突如として別世界に紛れ込んでしまったかのようだ。
白い肌の男たちが自分を食らうために現れた怪物のように思えてくる。
『こういったことを決めるのはオレたちの役目じゃあない。お偉いさんに回すとしよう。』
二人に見つめられて下を向くと、初老の男は口元だけで微笑してリコの肩にぽんぽんと手を置いた。
「お嬢ちゃん、月血の呪というのは月の終わりにやるのだね?」
今度はわかる言葉だ。リコは力いっぱい頷いた。
「はいっ、月の終わりじゃないと効力がないって長老が……」
「なるほど。ではそれまでお待ちなさい。私は医者ではないのでね、医者の方に来ていただいて君の村までお連れするのには時間がかかる。村人を看るからには長老殿とも話をしなければならないだろうし、となればその月血の呪とやらを待つことになるでしょう。」
「そんなっ、私は今すぐなんとかしたいの!怖いんです!月の終わりなんて待っていられません!」
リコは爪の先を土に埋めて焦りと憤りを吐き出した。
何のためにカンゼのそばを離れてここまで来たのか。
夜通し歩きつづけて、昨夜から今まで、一睡もしていない。
いつもより長い一日なはずなのに、
空はすでに紅を流そうとしている。
早すぎる。
こんな時の流れを何日も見つめるだけで過ごすなんて耐えられない。
「お嬢ちゃん、私は医者じゃあないんです。申し訳ない。どうか、もうしばらく待ってください。」
「待ったら……絶対にカンゼを助けてくれるっ?助けてくれるのっ?」
男は目を閉じてわずかに顎を揺らした。眉間に小さなしわができていた。
「もう村にお帰りなさい。」
リコは幽鬼のように立ち上がり、「お願いします」と、自分にしか聞こえないくらいの声で言った。
胸にぽかんと空いた空洞に悲しみの鉛が埋め込まれている。
両手が土でざらざらする。
雨が降ればいいのにと思った。
結局この手に何ができたのだろう。何が、できるはずだったのだろう。
『あんなことを言って……大丈夫なんですか?』
『話はするだけするさ。オレにできるのはそのくらいだ。幸い世にも珍しい月血の呪って餌がある。可能性がないわけじゃあない。』
背中の向こうで聞こえる呪文が自分に呪いをかけているようだった。
何を言っているのかわからない、聞いたこともない言葉。
ああ、彼らがエヤンの民だったのだ。
今さら、本当に今さら、ぼんやりと思った。

捨て人とはちゃんと言葉が通じたわ。どうやら本当のことを教えてくれていたみたいだし、悪い人じゃなかったみたいよ。自分で村を捨てたとか、やっぱりちょっと変だったけど。エヤン族にも会っちゃった。時々変な言葉を喋るの。変な服を着てて、肌がとても白かったわ。
村に帰ったらそんな話をするのだろうか。

そして、誰もカンゼを助けてはくれなかった。

「帰れない……帰ったってできることなんかないんだもの。カンゼのために、何もできない……。」
口からこぼれる言葉はそう言うのに、薄暗い山の中には村への道しか見えなかった。
帰りたい。
「私……村から出たって何もできないんだわ。」
リコはゆっくりと、漂うように歩き出した。
遠くから響く野犬の声。夜を支配する鳥の羽音。肌に染み込んでいく冷たい風。あらゆる隙間に入り込む狡猾な闇。
行きは一つ一つに怯え、乗り越えてきたものたちが、帰りはただすり抜けていく。
鉛でさえどこかに落とし、抜け殻だけが夜をさまよう。
ふらつく足を木の根がからかった。
「痛い……。」
すりむいた膝に血が滲む。
たいした怪我ではないのに涙が出た。
いつまでも、止まらなかった。

一度日が昇り、再び沈むために空が朱に染まった頃、リコはようやく村にたどりついた。
お気に入りの赤いスカートはすっかりくすんでしまっていた。
申し訳程度に汚れを払い、カンゼが寝ている小屋へと向かう。
大人たちに怒られる前にどうしても顔を見ておきたかった。
しかし、リコは信じられない思いで空を見上げた。
淡い朱色を灰色の煙が汚している。
「カンゼ!」
走って、走って、走って、小さな村だから、あっという間もかからない。
カンゼの小屋が燃えている。早く消さなければ。カンゼは一人じゃ歩けない。
息を切らして火の前に立てば、そこにはカンゼを除いた村人全員が集まっていて。
みんな、空に昇っていく煙を見つめていた。
カンゼを除く、村人全員が。
父と母が体を寄せ合い、声もなく泣いていた。
プルタが、ウナが、サーナが、燃え盛る炎から一瞬たりとて目を離すまいとしていた。
二人の老婆が煙に向かって両手を合わせ、ウナたちの両親とタカサがそれにならった。
「安らかに眠らせたまえ。」
長老が言った。
リコは空を仰いで煙の先を目で追い、後ろに倒れた。

「カンゼは死んだわよ。」

開いたばかりのまぶたを押しのけるようにしてウナが視界を占領する。
「カンゼは死んだのよ。」
繰り返し、紡がれる。
「わけもわからず気を失ったあんたのために言ってやってるのよ。カンゼは、あんたの弟は、死んだわよ。あんたが村を出た、次の朝。葬送の儀式も全部異例の速さで行われたわ。最後の最後まで死体を燃やすべきかどうか大人たちが話し合ってた。……結局長老が、何の病だったかわからないからって、小屋ごと浄化することにしたのよ。」
淡々と、無表情で告げられる言葉に、リコは何も感じることができなかった。
ただもう一度目を閉じて眠ってしまいたかった。
寝床から出て家の扉を開き、外に出れば、いつも見つめていたその場所に今はもう何もないのだと、どれだけ聞かされても確かめるのが嫌だった。
「あんたそのままずっとそうしている気なの?」
だって、どうやったって、信じられない。
月の終わりには月血の呪がほどこされるはずだった。
それが終わればエヤンの人間が来てくれて、カンゼを助けてくれるはずだった。
あとたったの十数日で。
カンゼを助けるため、助ける術を探すために村を出たはずなのに、
「私の知らないうちに死んじゃうなんて嘘よ……。」
言った途端腹部を蹴りつけられた。
掛け布の上からあちこちを蹴飛ばされる。
小さな悲鳴をもらせば、
「あんたが代わりに死ねばよかったのよ!」
涙混じりの叫びにかき消された。
「カンゼがっ、最期に何て言ったか!カンゼはね、あんたを探してたわ!『お姉ちゃんどこ?』って。私は『リコはカンゼを助けるために頑張ってる』って言った!カンゼは……っ『お姉ちゃんを呼んで』って!『僕、お姉ちゃんに謝らなきゃ。ずっと謝らなきゃって思っていたんだ。もう完全に嫌われて、許してもらえないかもしれないけど、今謝らなきゃ僕は……。お姉ちゃんはどこ?お姉ちゃんを呼んで』……そう言って、死んだのよ!」
ウナは荒い息を整えようともせずに続けた。
「集まったみんなの前でカンゼは最期まであんたを呼んでたっ、あんたに謝り続けてた!なのにあんたは何よ!カンゼの気持ちを受け止めもせずに……二度と謝れなくなったからってカンゼの死を否定するのっ?カンゼを生き返らせることができないのなら、さっさと現実を見つめなさいよ!」
「……カンゼが私に謝ってた?」
「そうよ!」
「……だって、あれは私が悪かったのに。私が……カンゼの気持ちも考えずに……」
全身の血が引いた。
カンゼの気持ちを考えていなかったのは今、この瞬間もだ。
カンゼが謝りたがっているなんてこれぽっちも考えたことがなかった。
ずっと、ただ謝りたくて。早く元気になってほしくて。そのために走り回って。
「……カンゼのためなんかじゃない。私……っ、自分のことしか考えてなかった……っ!」
何もしなくてよかったのに。
頼りない可能性にすがって捨て人やらエヤン民族やらを探しに行かなくても、そばにいるだけで、それだけでよかったのに。
それだけで、カンゼは謝ることができた。
それだけで、カンゼと許し合うことができた。
何もできないと思いこんで。
いてもたってもいられなくて。
カンゼの気持ちを考えてみることもせず。
カンゼは一体どんな気持ちで死んでいったのだろう。
結局、あらゆる意味で助けることができなかった。
「私はカンゼのために何かしている気分になっていたかっただけ……。私は……。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい、ごめん……カンゼ、ごめん……私、何もわかってなくて……ごめんね……。」
もう遅い。
この気持ちが届くことはない。
カンゼはもうどこにもいない。
二度とわかりあえない。

己の言葉は己にしか届かないのだと山の神は言う。
それはきっと言葉が耳を二回通るからだ。
自分と、相手と。
言霊の神はわずかな距離の間に様々な悪戯を仕掛け、効果のほどを見て笑う。
だがそれだけではないのだろう。
人が言葉に寄りかかり、相手を理解しようとする心をおざなりにするから。
だから言霊の神がはしゃぐのだ。

そうして山の神は言葉を捨てた――。

村は静かに朝を迎える。
広場に集まる人数は相変わらず十二人だが、それですべてになってしまった。
そんな気力もないのか、リコを責める人間はいない。
リコはか細い声で食前の祈りを捧げ、緩慢な動作で食事を進めた。
体がだるい。動く気がしない。けれど今日が終われば明日がある。明日が終われば明後日がある。
理だとか運命だとかいう言葉はいつまでたっても好きになれそうにない。
しかしぼんやりと理解してしまったような気がするのも確かだった。
カンゼがいなくても朝になれば太陽が昇る。
カンゼがいなくても自分は生きているのだ。
少し、悲しかった。
「リコ、もっと食べろ、ほれ。女はほどよく肥えてるのがいいんだぞ。」
タカサが椀に無理やりスープをつぎたす。
村を出ていた間ほとんど食べ物を口にしていないので空腹のはずだったが、どうしても食欲がわかなかった。
ゆらゆらと首を振ると、プルタがタカサの脇腹を小突いた。
タカサの太い眉が緩やかなハの字を描く。
「……やっぱり、いただきます。」
二人の心配そうな表情が自分の顔色を教えてくれている。
気を遣われるのが申し訳なくて恥ずかしかった。

「泣いてもいいのよ、リコちゃん。」
仕事中に突然話しかけられてリコは軽く目を見開いた。
「弟が亡くなったんだもの、当たり前なのかもしれないけど……、リコちゃんがそんなふうにしょぼくれてると悲しくなってきちゃうのよ。泣きたいのに我慢してるんだったら、泣いていいんだからね?」
ウナの母親にそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
口には出さなくても、心の中では弟が危篤のときに無断で村を出ていた自分を責めているのだろうと考えていたから。
「ありがとう……。私は大丈夫です。えと、ごめんなさい。」
今までてっきり嫌われているのだと思っていたけれど、本当はそんなことなかったのかもしれない。
彼女は彼女なりに心配してくれていたのかもしれない。
勝手に思いこんでいただけで。
長老だって、カンゼの小屋を焼くのは苦渋の選択だったのかもしれない。
いや、カンゼを隔離したときからすでに苦しんでいたのかもしれない。
効果を見せない呪に苛立っていたのは誰よりも長老だったのかもしれない。
そんなふうに考えていこうとリコは思った。
これからはできる限り間違えることのないように。
誰だって他人の心を読むことはできないし、誰だってそんなに単純ではない。

両親にはお互い干渉しないようにした。
それぞれがそれぞれに悲しみを昇華していくのが一番なように思えたのだ。
タカサやユミル婆はさりげなく気を遣ってくれているようだった。
ウナの父やアイダ婆は特に何をするわけでもなく普段通りに。
長老もいつもと変わらなかった。
プルタとサーナは時間の許す限りそばにいてくれた。
二人はなるべくカンゼを思い出すようなことを言わないよう努めているようだったが、ウナはむしろ積極的にカンゼの話をした。
リコはちょっとしたくすぐったさを感じていた。
どれもこれもが自分のためを思っての行動のように思えて。
もしかしたらそんなことないのかもしれないけれど、それでもかまわなかった。
この村で、温かい人たちの中で、きっと乗り越えていける。
そう思えたから。
だから、周りに甘えるばかりでなく自分でも一歩を踏み出すために、カンゼの死をエヤンの人間に伝えに行こうと思った。
間に合わなかったが、彼らは医者を呼んでくれると言っていたのだ。
お礼と謝罪をしに行こう。
しかし前回のように勝手に飛び出すわけにはいかない。

リコは夕食を口に運びながら告げた。
「エヤンの人は全然怖くなんかなかったわ。カンゼのためにお医者様を呼んでくれると言ってくれたの。だから私……カンゼのことを報告に行かないといけない。……できれば捨て人にも。」
「馬鹿を言うな!」
ものすごい剣幕で怒鳴ったのは長老だった。
「奴らに会いに行く必要などない!リコ、おまえは奴らに会って帰ってきたのか!なんてことを!おまけに捨て人だとっ?」
「だからっ!エヤンの民がひどいことをしたのは大昔の話でしょう?あの人たちはカンゼのためにお医者様を呼んでくれるって言ったもの!いい人たちだったわ!捨て人だって本当のことを教えてくれてた!」
「黙れ!リコをしばらく蔵に閉じ込める。リコ!二度と村の外に出るな!」
リコが何を言ってもはねのけられ、蔵の扉には板が二枚、長い釘で打ちつけられた。
「どうしてよーっ!私は実際に会ったんだから!悪い人たちなんかじゃなかった!……これは私のけじめなのよ。カンゼのことを……」
叫んでも何も返ってこない扉にもたれかかり、膝を抱えて丸くなる。
蔵に閉じ込められるなど初めてのことだ。
どうしてそこまで怒り狂うのか、リコにはさっぱり理解できなかった。
実際に会ってみていい人だったと言っているのだ。何の問題があるのだろう。
もしも騙されていて、本当はいい人なんかじゃなくても、報告に行くくらいはいいのではないだろうか。殺すのならとっくに殺していただろうし、それが目的ではないにしてもわざわざ帰したりはしないだろう。
「どうして……?」
小さくつぶやいて膝に顔を埋めた。
蔵の中は真っ暗で、まぶたの裏も塗りつぶされている。
月の光のかけらもない。
冷たい静寂に思考力をとかされて、
カンゼはもういないのだと、
今さらなことを今さらに思った。
何故だか涙までわいて出て、馬鹿馬鹿しさに無理やり笑う。
ひたるように悲しんでみても何がどうなるわけでもない。
しかし涙を拭おうとは思わなかった。
泣きたいときに泣きたいだけ泣くのも一つの強さだと思うことにした。
しばらくそうしていると、扉の向こうからプルタの声がした。
「リコ、長老に謝ってしまいなよ。朝すごく顔色が悪かった。まだ本調子じゃないだろう?」
小さな声だが心配してくれているのがよくわかる。
「私、謝らなきゃいけないようなこと言ってたの?」
「それは……長老はリコのことを心配してるんだと思うよ?いくらリコの会った捨て人やエヤン人がいい人だったって聞かされても心配は心配だよ。……僕も。」
リコは眉をひそめてうつむいた。
納得できる部分とできない部分がある。
長老もプルタも、捨て人やエヤン人を危険なものだと決めつけすぎではないだろうか。
「会ったのはリコだけ……私たちは彼らを知らないのよ……。知らないものを恐れるのは当然のこと。……違う?」
「サーナ!いつのまに……」
サーナの落ち着き払った声がプルタの慌てた声にかき消される。
二人ともみんなに隠れてこっそりと会いに来てくれたのだ。
「でも……」
リコは反射的にそう言ったが、自分でもどう続ける気だったのかわからなかった。
「でも長老はやりすぎだと思うわ。聞く耳持たないって感じだったわね。問答無用ではねのけるのは……何か違うわ。」
隙間を埋めるようにサーナが言う。
プルタの動揺が伝わってきたが、リコは逆に落ち着きを取り戻した。
「うん。うん、そうだと思う!サーナ、すごい。どう言ったらいいかわからなかったことを言葉にしてくれた感じ!知らないのなら知ればいいのよ!でも、知ろうともしないのは……違うと思う。」
理解しようと努力したからといって理解できるとは限らないが、何もしないよりは可能性が開ける気がする。
もう少し自分以外のことが見えていたならカンゼの気持ちを受け止めることができていたかもしれない。
かもしれない。
曖昧だが、重くのしかかる響き。
これは、けじめなのだ。
「お願い、プルタ、サーナ、ここから出して。長老と話したい。長老を説得して、捨て人とエヤン人に会いに行きたい。……ここから出して。」
リコは扉にすがりついた。
沈黙が落ちる。
サーナは疲れたような声を出した。
「長老を説得するのは無理だと思うわ。少なくとも、今月中には。」
「……医者が来てもリコが現れなければそのまま帰っていくんじゃないかな。わざわざ行かなくても……。だって、やっぱり僕は……心配だよ。そりゃあ、今のエヤン人がどういう人間なのかはわからないけど。でも、昔僕らの先祖を虐殺したのがエヤンの人間なのは確かなんだ。」
プルタの声が次第に小さくなっていく。
リコはひどく悲しくなってきた。
「私そんなにおかしなこと言ってるかしら。……みんなが大好きなのに、みんなに嫌な思いばかりさせてる気がする。だけど、納得したふりなんて……した方がいいの?しなきゃ駄目なの?そんなことしたくない。そんなことしたら、みんなのこと大好きって言えなくなりそうだもの。」
大好きだから自分を騙したくないのに。
自分一人のせいで他のみんなをかき乱すことになるのなら。
「……ここから出して。話をさせて。」
それでもリコは謝る気にはなれなかった。
自己嫌悪が胸に渦巻く。
それでも。
「私が間違っているのなら、納得させてくれればいい。今ならきっと、お説教も、教訓も、前よりはちゃんと聞けるから。」
「……リコ。リコは……本当に頑固なんだから。」
プルタが呆れかえる様子が目に見えて、リコは苦笑することしかできなかった。
聞き分けのいい子だったらよかった。
物わかりのいい子だったらよかった。
いい子だったらよかった。
いい子になりたかった。
いい子を演じたいわけじゃない。
目の前に納得できないことがあったら、それはもう、仕方がないのだ。
「それが私だもの。嫌いだけど、気に入ってもいるの。たぶん。みんなに迷惑かける私は大嫌い……なんだけど……ね。」
「僕はそういうところにいつも困らせられるけど、リコにはそんな感じでいてほしいと思うよ。」
プルタは今どんな表情を浮かべているのか、見えるはずもなかったが、心配してくれていたウナの母親と同じ顔をしているような気がした。
「それにしても……なんだかみんなして私のこと、すごいじゃじゃ馬だと思ってるんじゃないかしら。」
「……ウナもサーナもどっこいどっこいだよ……。」
フォローになってないフォローにリコが笑うと、プルタはこほんと咳をしてみせた。
「……明日がまた僕の父さんの見張りの番だから。お酒をたくさん持たせるよ。そしたら絶対寝るだろうから……その間になんとかしてリコを出す。長老と話をするのはあきらめた方がいい。長老は筋金入りの頑固じじいだからね。」
「でも……っ」
それでは前と同じ、勝手に出て行くことになる。
リコは周囲に理解してもらった上で行きたかった。
そうでなければ意味がない気がしたし、両親にかける心配をできる限り軽くしたい。
扉に拳を押し付けると、向こう側から決意が響いた。
「そのかわり、僕を納得させて。……今度は僕もついていく。」
「私も。」
「サーナは駄目だよ!リコが行くのだって本当は反対なのにっ!女の子は危ないから、ウナとサーナは絶対に駄目だ。」
「……つまらないわ。」
「危険だって言ってるんだよ!サーナは……リコの両親についててあげて。僕の父さんは僕がいなくなっても普段と変わらないだろうけど……リコの両親は……カンゼを亡くしたばかりだから……。だから、少しでも心配を減らす意味でも僕がついてった方がいいと思うんだ。」
リコは扉に向かって深々と頭を下げた。
当然見えはしないが、そうせずにはいられない。
「……ありがとう、プルタ。」
そう、言ったところだった。
「だーれが酒持たせたら絶対寝るって?おまえがいなくなっても変わらないのは確かだけどなぁ。」
聞き覚えのある声が響く。重なる鈍い音。
扉の向こう側ではプルタがタカサに頭を殴られていた。
「蔵の方から誰かが話してる声がすると思って来てみりゃあ馬鹿息子がサーナと二人。逢い引きかぁ?と思いきや色気のない話してやがる。つまらん。ま、ある意味面白い話だったがな。」
タカサは腕を組んでにやにやと笑い、片足でばしばしと地面を叩いた。
「リコと駆け落ちか?馬鹿息子。」
「……うるさい。」
プルタがタカサをにらみつける。
「邪魔をするの……?おじさん。」
サーナが一歩前に出た。
「ん?オレは邪魔しないが、そろそろ他のみんなも話し声が気になって起きてくるんじゃないか?」
「それを邪魔って言うんだよ!」
プルタは大声を張り上げた後、はっとして口を押さえた。
タカサが太い腕を伸ばす。
プルタは思わず体をよけたが、タカサの手はプルタを素通りした。
「馬鹿息子、決意表明ってやつはなんでも派手な方がいい。こそこそやるからなめられるんだ。長老を説得する暇がなけりゃあ、せいぜい派手に飛び出していってやれ。」
蔵の入り口に打ち付けられた板がぎしぎしと音を立てる。
「ああ、面倒くせぇ。リコ、離れてろ!」
タカサは体当たりして扉を破った。
小さな村に大きな音と声が響き渡り、村人たちが動揺の声を上げる。
リコはあっけなく壊された扉の残骸に呆然として床にへたり込んでいたが、タカサにひょいと引っ張り起こされた。
「行くなら早く行くんだ。」
各家の扉が開く音がする。
リコはかくかくと頷いた。
「こんな騒ぎになって!捕まったらどうするんだよ!」
プルタが叫び、
「根性で逃げろ。根性で。」
タカサが笑う。
「後は任せて。」
微笑を浮かべたサーナが言った。
リコはプルタの手を取って走り出した。
「父さん、父さんは来ないのっ?」
一度だけプルタが振り返ってそう言ったが、
「古いものを変えていくのは若者って決まってんだよ。オレは酒を飲んで寝る。」
タカサは右手を振るばかりだった。
真夜中だというのに村は明るく照らし出され、いつまでも喧騒の中にいた。

かくして。
どこまでも続く長い柵。
鉄の刺が横たわる場所まで来た二人はきょろきょろと辺りを見回していた。
「前はこの柵の前で捨て人とエヤンの人に会えたんだけど……」
とりあえず目の前には見覚えのある鉄板があるのだが、果たして前と同じ場所なのかどうかリコには自信がなかった。
今回は途中野草を食べ、果物を食べ、疲れたら休憩をとり、余裕を持って来たが、前回はがむしゃらに進んでいた。夜に星を見ただけで、太陽の位置を確認したり目印をつけたりなどは一切しなかった。自分でもよく迷わなかったものだと思う。そんな感じだから、もしかしたら似たような扉がいくつもあるのかもしれないという可能性はできれば無視していたい。が、どれだけ進んでも果ての見えない柵を前にしては、どうしても無視できないのだった。
呆れはてるプルタの前で前後左右に大声で呼びかけるがまるで反応がない。
「捨て人には帰りに会えばいいわ。とりあえずエヤンの人に……たぶん、この柵の向こうに行けば会えると思うの。」
地面を見つめてふらふらするリコを見てプルタが首を傾げる。
「手ごろな石を見つけて巻いてある鉄を曲げるのよ。」
プルタは深いため息をついた。
「……それにしてもこれは何の柵なのかな。」
「私もわからなくて。罠かと思ったんだけど、こんなに長いし。貴重な薬草か何かが生えてるのかなとも思ったんだけど。」
「それでもこんなに長いのはおかしいよ。」
「うん。ヘンテコだけど、エヤン民族にとっては大切なものなのかもしれないわ。聞いたら教えてくれるかしら。」
早速石で鉄を曲げ始めたリコに、プルタは聞こえないようにして再度ため息をつく。
リコの中でエヤン民族はすでに友達に近い扱いだ。
複雑な気分だった。
二人で取り掛かればすぐにぽっかりと丸い穴が空いた。
プルタは、いいのかな、と思ったが、辺りに人気がないので仕方がないと思うことにする。
柵のすぐ下には柵に沿ってどこまでも続いている道がある。草が抜かれ綺麗に整えられていたが、柵と同じで果てが見えない。どうしても進む気になれなくて目の前の森に突っ込んだ。
それから一晩、二晩、辺りには木が立ち並ぶだけで人の姿はない。
「行き過ぎたのかな?」
「でも村なんてありそうになかったわ。」
「あんまり進むとまずいんじゃないのかな?」
「前はすぐに会えたのに……。」
そんな会話を交わしながら進み、ようやく森が開けたと思ったとき、足元に見たこともないような景色が広がった。
赤青黄色。色鮮やかな板がずらり。
まっすぐに美しく並べられたそれが家の屋根なのだと気づくまでに、数十秒かかった。
高い屋根、低い屋根。信じられない数の家々。信じられない高さの家。一番高い屋根に至っては空にも届きそうだ。
「エヤンの……村?」
プルタのつぶやきにリコは答えられなかった。
その代わりか、遠くから重い金属音が響く。
心臓を震わせるように、四回鳴った。
リコは膝が折れるのを感じた。
「あれに全部エヤンの人間が住んでいるの?」
「僕たちの村の何倍あるんだろう……?」
二人してぽかんと口を開く。
しばらく何も言わずに眺めていた。
「もう少し早く助けを求めてたらカンゼを助けられたかもしれないのに……。」
「これじゃあカリビアは負けて当たり前だ……。昔は、違ったのかな。」
それが同時だったので、リコとプルタは怪訝な顔で見つめ合った。
互いの眉が動いたのを見ないふりでぎこちなく微笑を作る。
まだお互いに何を知っているわけでもない。
どちらからでもなく歩き出し、山を降りた。
間近で見るエヤンの家は様々な点が自分たちのものと違っていた。
壁は白く塗られ、窓に透明な板が挟まっていた。扉にも色が塗られていて、脇に花が植えてあったりした。横幅は普通だが、ほとんどの家が縦に長い。それがところ狭しと並ぶものだから、少し歩いただけで息が詰まってしまった。
道は石を埋め込んであり、歩きやすく美しい通りが遙か遠くまで続いていた。人が通るだけでなく馬が箱を引いて走ったりもするので常に騒々しいようだ。たくさんの花をかごに入れて立っている少女が大声を張り上げていた。
人の姿が見えなくなるようなことは一瞬もなく、必ず誰かが走ったり、歩いたり、立っていたりする様子が目に映る。人々はみな体に沿った服を着て、窮屈そうに見えるのに動きやすそうだった。太陽は村と同じくらいに照っている。なのに男性も女性も大人も子供も白く透き通るような肌をしていた。
そして、誰しもが奇妙だった。
目を見開いて、あるいは目を細めてこちらを見ては、口元を押さえるなどして去っていく。ある人は早足で。ある人はちらちらと何度も振り返りながら。
二人には聞き取れない言葉を小声で交わす人間もいる。
聞き取れなくともわかることもある。
どの視線も一様に『奇異なもの』を見ていた。
「リコ、これはたぶん仕方のないことなんだね。でも僕は……エヤンの人間を嫌いになってしまいそうだ。」
プルタが耳元で囁いた。
リコは何も言うことができなかった。
最初にエヤンの人間を見た自分もこんな感じだったのかもしれないと思ったから。向けられる視線のどれもこれもが気持ちが悪くて耐え難いものだったから。
そうこうしているうちにどんどん人が増えてくる。
明らかに自分たちを見に来ている。
ざわざわという声が大きくなってきた。
二人は繋いだ手を握りしめ、言葉もなく走り出した。
大声が上がる。指を指される。追いかけてくる。
あらゆる隙間から鼠のように現れる見たこともない数の人、人、人。
野犬の群れに襲われたらこんな感じだろうか。
伸びてくる腕の間をかいくぐり、短い路地をつっきった。
「あっ!」
リコは前方を見て叫んだ。
赤い固まりがいる。
リコが柵のところで出会った二人と同じ服装をしている人間が何人も、道を埋め尽くしている。
誰かが声を上げた。いっせいに駆け寄ってくる。
リコとプルタは踵を返し、一心不乱に走った。
事情を説明したり、とりあえず敵意のないことを示してみる気にはなれなかった。
怖かった。
怖くてたまらなかった。
よくわからないが自分たちは追われている。
何もしていないのに。
みんながおかしなものを見る目で見つめてくる。
ざわめきが呪詛に聞こえる。
白い肌が笑っているようだ。
誰も助けてはくれない。
怖い。怖い。怖い。
繋いだ手が滑らないよう必死に力を込めた。

「こっちだ!おいで!」

呪詛の中から腕が伸びた。
腕は白かったが、二人は確かに聞いた自分たちの言葉にすがりついた。
「もう大丈夫。まさか家に逃げ込むとは思わないだろ。後で聞き込みに来るかもしれないが、しらをきるさ。」
連れ込まれたところは大きな家の中で、改めて見れば腕の主はプルタと同じ年くらいの少年だった。
荒い息ばかり耳に響くが、話している言葉は確かに聞き取れている。
少年は興奮した面持ちで名乗った。
「オレの名前はウィリー。二人は?なぁなぁ、どうしてここにいるんだ?それでさ!あ、まぁまずはお名前をどうぞ。」
リコとプルタは戸惑いながらも自己紹介をした。
「それで、弟が死んでしまったことを報告に来たんだけど……あの、怖くなって……逃げてたの。」
「ふーむ。そうか、そりゃあなぁ、周りはよくわからないことだらけ。言葉は通じないし、いきなり追いかけられたら怖いわな。ていうか弟さんが……そうか。」
ウィリーがうんうんと頷いたので、リコとプルタはへなへなと崩れ落ちた。
ようやく力が抜けたようだった。
「大丈夫かー?うーん……オレ、そりゃもうたくさん聞きたい話があるんだけど、まずはこっちの話を聞かせた方がいいのかなぁ。でもなぁ……いきなり話して大丈夫かなぁ……。」
ウィリーが腰をかがめて二人を凝視し、眉を反らせる。
プルタはこめかみに伝う汗を拭いながら気になっていたことを尋ねた。
「なんで君だけ言葉が通じるの?」
「そりゃ勉強したからな!」
ウィリーは力いっぱい胸を張った。
「いつかカリビア族に会って話をするのがオレの夢だったんだ!まさかこんなに早く叶うとは思っていなかった!どうだ?オレのカリビア語おかしくないか?ちゃんと話せてるか?発音は?博士のお墨付きだけど実際使ってみると不安でさ。」
目を輝かせて次々と言葉を紡ぐ。
リコとプルタは勢いに圧倒されて返事をすることができなかった。
ウィリーの視線は道行く人々のものほど不快ではなかったが、それでもその輝きの根底に同じものが見える。
あからさまな好奇。
居心地が良いとはいえない。
口をつぐんだ二人を見てしまったと思ったのか、ウィリーは申し訳なさそうに頭を下げた。
「あー、ごめん。わかってはいるつもりなんだけどつい、嬉しくて。お詫びに二人がどうして追われてたのかとか全部説明する!っていうか、知らない方がおかしなことなんだよな、本当は……。とにかく説明するから!できるだけオレのこと嫌わないでくれ!頼む!」
リコとプルタは神妙に頷いた。
何かとても大きなことを知らずにいるような不安がじわじわと浮かび上がってきていた。
ウィリーは大きく息を吸って吐くと、リコとプルタの顔を交互に見てから話し出した。
「カリビア族は元々この大陸を支配していた民族なんだよ。今ではオレたちエヤン族がのさばってるけどそれはたったここ数百年のことで、カリビア族ほど古い歴史を持っちゃあいないんだ。大陸に残る古い遺跡はすべてがカリビアのものだ。オレは子どものころからカリビア族に、カリビアの文化に憧れてやまなかった。だからカリビア族の研究をするためにカリビア語を学んだんだ。でもカリビア族は今ではたったの十三人しかいない。……弟さんが亡くなったのなら、十二人か。じきに報告が入るだろうな……。……エヤン民族はカリビア民族を散々に殺し尽くしてから自分たちには歴史がないことと、カリビアの文化が魅力に満ち溢れていることに気がついたのさ。だから数えるほどしかいなくなってしまったカリビアの人々を守ろうと思った。だからカリビア民族に大陸の東端の山々を与え……特別な人間が特別な場合にしか入れないようにして、……守ってるんだよ。」
ウィリーは一度言葉を切ってリコとプルタの様子を確かめた。
吐き出したい息を呑み込んで続ける。
「二人が追われたのは、カリビア民族がその土地を出てくるのはおかしなことだからだ。カリビア民族は与えられた土地にいないといけない。それが決まりだし、そうしないとカリビアの文化が守れない。そのためにカリビア民族に与えられた土地の周りには高い柵が張り巡らせてあるんだ。二人はそれをどうにかして越えて来たんだろ?本当は、それはいけないことなんだ……。」
リコの脳裏に刺のついた鉄線が巻き付けられた柵が浮かぶ。
どこまでもどこまでも続いている柵。
押しても引いても開かなかった扉。
無理やり穴を空けでもしないと越えることのできない境界。
何のために作られたのだろうと思っていた。
「そんなのって!私たちは閉じ込められてるってことじゃないっ!」
「……そうさ。赤い服の連中を見たろ?あれは軍隊だ。カリビア民族保護区の境界はあいつらが交代で見回りしている。外から入ろうとする奴を捕まえるためと、保護区から出ようとするカリビア族を村に追い返すためだ。」
「どうしてっ!」
「カリビア族の文化を汚さないために。……それに、大陸にはもうカリビアの土地はないんだよ。カリビア民族の住んでるところはエヤンが貸してる土地だ。」
リコは額に拳を押し当てた。
今まで信じていた世界が揺らぐ。
あの村は、あの山は、自分たちの大地ではなく。
毎日の生活は、自然なものではなく。
頭がくらくらする。
理解できない。したくもない。
「嘘……だって、そんなだったら、住んでる私たちが何も知らないっておかしいもの!」
「そうだよ!……おかしいよ。」
プルタの声が低く掠れた。
ウィリーはまぶたを伏せ、首を横に振った。
「村の長老は知ってるはずだ。毎年政府に報告書が提出されるんだから。誰が死んだとか誰が生まれたとか、収穫はどれだけだったとか、報告書を書いてるのは村長。……長老、だろ?博士が言うには、長老は村人に何も教えていないみたいだって……どうしてか、そこまではオレは知らないけど。エヤン側としてはあまり情報が行き渡って文化に影響が出てもまずいから放置してるんだとさ。」
「そんな……長老はエヤンを嫌ってたのに。」
プルタはつぶやいて頭を掻きむしり、押し黙った。
リコは何も考えられなくなっていた。
わけがわからない、理解できない、信じられないことを一気に言われても、驚くとか嘆くとか怒るとか、そんなことでさえどうしたらいいのかまるでわからない。
「捨て人が……変なことを言ってたの。何、言ってたっけ……忘れちゃった。」
顔にかかる髪を払おうとして自分の手が震えていることに気がつく。
気づいてしまったらどうしようもなかった。
驚きより何より、恐ろしい。
村は囲まれている。
何ものをも通そうとしないどこまでも続く柵に。
私たちは閉じこめられている。
否定して笑おうとする心を鉄線が絡め取る。

何も教えられとらん。

捨て人に言われた言葉を断片的に思い出し、鋭い刺が突き刺さった。
こんなことを知らないで生きていた。
これからも生きていくところだった。
こんなことさえ知らされないまま生かされていた。
気持ちが悪い。
「……カリビア民族保護のための法律もあるし国家予算も……」
「黙って!」
聞きたくない。
「……ごめん。でも、一つ知ってしまったんなら全部知った方がいいんじゃないかと思って。……だって、嫌なんだろ?」
「当たり前でしょうっ?」
信じられない思いでウィリーを見る。
まるで数の少ない珍獣のような。まるでかごの中の鳥のような。
こんな扱いをされて嫌でない人間などいるだろうか。
リコに目で殺されそうなほどねめつけられて、ウィリーは笑った。
「なら、戦うんだろ?」
リコは頭の中が真っ白になってしまった。
プルタも口を薄く開いて固まっている。
「オレの夢はカリビア族に会って話をすることだって言ったろ?色んな話を聞きたいんだ。それで、色んなことを話したい。オレはカリビア族を尊敬してる。友達になりたいんだ。……でもこのままじゃ無理だ。だったら現状に立ち向かわなきゃだろ?」
綺麗にそろった白い歯が、二人の答を見透かしているとでも言いたげだった。
リコは拳を握りしめた。
そう言うウィリーはエヤン民族だ。
リコとプルタに好奇の目を向け、特別なものへの接し方をする。
人が未知のものに出会うとき、おそらくそれは自然な反応なのだろう。
それでも耐え難かった。叫んで暴れて逃げ出してしまいたかった。真実を知った今ではなおさらのこと。
友達。
そんなものになれるだろうか。
さっきは怪物にまで見えた人間たちの仲間なのに。
今も村のみんなを閉じこめている連中なのに。
しかしリコは頷いた。
「さっき、エヤンの人たちがすごく怖かったわ。でもウィリーが助けてくれた。ウィリーは私たちと友達になりたいって言ってくれる。信じて……いい?エヤンの人も……カリビアと同じ。悪い人もいればいい人もいる。普通の人に、悪いところもあればいいところもあるんだって教えてくれる?戦うなら……『友達になるための戦い』がいい。」
ウィリーはリコの手を握り、強く頷いた。
「ありがとう。よし、オレとリコは友達だな!語り合うぞ!戦うぞ!」
プルタは怒りと憤りと戸惑いと呆れとをごちゃまぜにした感情を胸にためてそれを見ていた。
リコの行動が信じられない。
この空間にとどまっていることに耐えられない。
長老は何故すべてを隠していたのか、なんとなくわかるような気がした。
先ほど聞いた話によると、カリビア民族は完全にエヤン民族に生かされている。
あの村は、周辺の山々は、カリビアのものであってカリビアのものではなかったのだ。
自分たちは飼われているようなものだ。
文化を守るためだかなんだか知らないが、誇りはこれ以上とないほど踏みにじられている。
長老はそのことに我慢ならなかった。もしくは村人のことを思って知らせずにいてくれたのではないだろうか。
ようするに、長老が耐え難きを耐えて報告書とやらを提出せねばならないくらい、カリビア民族はエヤン民族の助けがなければ生きられないということだ。
友達とは対等な者同士がなるもの。
カリビアとエヤンの間に友情が成立するはずがない。
しかし、とプルタは思う。
友情が成立しなければ何が成立するのか。
エヤン民族にへりくだってやる気などない。だがエヤンの庇護下でなければ生きられない。
そこには確固たる上下関係が存在する。
逃れられようのない屈辱。
山を愛し、村を愛し、人を愛し、血に誇りを持っている。
自分はリコのように無邪気にはなれない。
残された道は一つしかなかった。
あの村で、何も知らなかった頃と同じようにしてこれからも生きていくこと。
長老がそうしているように。
すべての真実を閉じこめて。
「……リコ、でも、一度帰ろう?あんまり長居するとリコの両親が心配するよ。一度帰ってまた来よう。」
帰れば長老はリコを二度と村から出さないようにするだろう。
リコは納得しないだろうが、どんなに頑固でも他人を思いやらないわけじゃない。そのうち納得せざるを得なくなるだろう。みんなのためと言えば口を閉ざしてくれるだろうか。
カリビアの人間にとってはこんな真実など知らない方がいいに決まっている。
「帰ろう?」
プルタは穏やかに微笑んだ。
リコは眉をひそめた。
プルタが穏やかなのはいつものことだが、何かが違う。
この微笑みはどこかで見たことがある。
赤い服を着たエヤン人が、「お嬢ちゃん、どうしました?」と言って浮かべた微笑に似ている。

『ウィリー!ウィリー!おーいウィリー!いないのかねー?ニュースじゃぞー!』

「あっ、博士だ。えっと、オレの師匠。カリビア民族の研究してる。ここ、実は博士の家なんだ。オレ居候だから。……二人のこと教えるけど、いいよな?駄目って言われたら困るんだけどさ。」
突然聞こえてきた声に体を小さくしていると、ウィリーが申し訳なさそうに頭を下げた。
リコは躊躇いながらも頷いた。
正直怖いが拒んでも仕方がない。
深呼吸していると、プルタが肩を抱いてくれた。
『ウィリー!カリビア民族が月血の呪を行うらしいぞ!現存する文書の中で名前しか確認されていなかったあれじゃよ!どうやら口承されていたらしい!あのクソ長老前回の調査のときには何も……』
やってきた老人はリコとプルタを見て硬直した。
「博士、こちらはたった今オレの友達になってもらったカリビア族のリコちゃん。そしてこちらがこれから友達になってもらう同じくカリビア族のプルタくん。リコ、プルタ、これがオレの師匠、ハックル博士。」
ウィリーが紹介を終えたと同時に弾かれたように動き出す。
『素晴らしい!資料通りの服装!肌の色!おっと、いかんいかん。』
博士はわざとらしい咳払いをして右手を差し出した。
「あー、こほんこほん。初めまして。リコさん、プルタくん。ハックルと申しますよ。」
しかしすぐに手を引っ込める。
「しまった!カリビアには挨拶のときに握手をする習慣はないんじゃったな。申し訳ない。今のは忘れてほしい。忘れた忘れた、忘れたの?の?」
リコとプルタはあっけにとられてしまった。
「それより!どうかね?わしのカリビア語は正確かね?ちゃんと話せておるじゃろか?発音は?……君たちはどうしてこんなところにおるのかね。」
ようやく気がついて尋ねる博士に、ウィリーが苦笑して説明する。
博士はふむふむと頷くと、
「そうか……弟さんが亡くなって……なるほど、月血の呪は弟さんのために行われるものじゃったか……となると残念がるわけにもいかんのう。」
と、いかにも残念そうに言った。
ウィリーは博士の背後で頭をかかえた。
ハックル博士は決して悪人ではない。しかし、無神経なのだ。
人は本心を礼儀や建前で覆い隠すことをよくやるものだ。
が、博士の場合、このくらいなら覆い隠せるであろうという判断が他人より少しずれたところで下される。
リコは怪訝そうにしていたが、プルタの眉間にはしわが寄っていた。
「しかしこれも何かの縁じゃ。弟さんが亡くなられたことはわしがちゃんと報告しておこう。是非ともしばらくここに滞在してもらいたい。わしは聞きたい話がたくさんある。こんなことでもなければ君たちには会えんからの。」
「……僕たちは軍隊に姿を見られました。長居すれば騒動になるんじゃないですか。」
プルタの冷ややかな眼差しに、博士はまったく気づかない。
「そうじゃのう。君たちの村の長老に協力を仰いで捜索するじゃろうのう。……しかし〜〜ほれ、君たちも疲れておるじゃろ?とりあえず体を休めてはどうじゃ?」
今度はリコもこめかみがひくついた。
「リコ、村に帰ろう。」
プルタが小声で囁く。
二人以外には聞こえない大きさだったが、雰囲気で何を言ったか悟ったウィリーは慌てて間に入った。
「ああああ〜〜っ、ほら!身近に一人や二人はいるだろっ?さりげなく嫌なおっさん!悪気があるのかないのか知らないが人の堪忍袋をちくちく刺激してくる奴っ!絶対いる!そういうやつはどこにでも一人は必ずいるもんだ!それがたまたまここにもいたってだけで!エヤン人だから嫌なおっさんなんだとか思わないでくれっ!」
「……ウィリー?どういう流れだかわからんがおまえわしを馬鹿にしておるじゃろう。」
博士はウィリーにげんこつを食らわせた。
ウィリーは涙目になりながらリコとプルタの頭を引き寄せる。
「ってぇ……。博士は……ちょっと神経の使いどころを知らないっていうか、失礼なくらい正直なだけなんだよ。オレだって色んな話が聞きたいからまだまだここにいてほしいって思ってるし……その、ごめんな。」
殴られないよう小さな声だった。
博士が正直だと言うが、ウィリーだって正直だ。
リコは少しだけおかしくなってなんだか口がむずむずした。
ウィリーとなら本当に友達になれるかもしれないと、ようやく思えた。
「まぁまぁ、リコさん、プルタくん。とりあえず食事を用意しよう。帰るにしても、今夜一晩くらいはゆっくりしてもらいたい。」
博士は笑顔で告げると返答を待たずにウィリーを連れて台所に向かった。
残された二人は広い部屋の真ん中で所在なげにしていた。
のっぺらぼうの白い壁。巨大な四角いテーブル。布でくるまれた大きな椅子。ふさふさした皮を敷いた床。
壁に吊された透明な球の中で燃える炎が部屋の中を照らしている。
何もかもが自分たちとは違う。
「私、もっとエヤンのことを知りたい。」
リコの口からこぼれ落ちた言葉にプルタは耳を疑った。
「……リコは帰りたくないの?両親が心配にならない?あいつらは珍しい人間の珍しい話を聞きたがってるだけだよ。カンゼの死でさえあいつらにとっては研究材料の一つなんだよ。」
「……うん。でも、プルタだって聞いたじゃない、私たち知らないうちに閉じこめられてる。そんなの、腹が立つわ……。だからこの状況を変える。エヤン民族のウィリーがそう言ってくれるのなら可能性はある気がするの。本当に……友達になれたなら。閉じこめられているより、その方がずっといい。それにエヤンと仲良くなればもしも誰かがカンゼと同じ病気になったとき、今度こそ助けられるかもしれない。」
「リコは……楽観的だね。」
「そうかしら?」
「そう思うよ。リコはエヤンの中にもいい人はいるって思ってるんだろ?でも、エヤンはエヤンなんだよ?その人がエヤンである限り、根底にあるものはある程度同じになるんだ。だって、リコはカリビア族でない自分なんて想像もつかないだろう?」
「それはそうだけど……。その根底にあるものが悪いものだとは限らないんじゃないかって……。」
「僕たちはエヤンに生かされているんだよ。悪いものじゃなくても、確実な差異がある。深入りすればするほどそれが明らかになってくるよ。友達にはなれない。」
「プルタ……。」
そんな話をしているうちに食事が運ばれてきた。
ハックル博士が得意げに皿を置く。
リコはエヤンとは食事も違うのだろうかと、不安半分期待半分で目を向けた。
皿に盛ってあるのは皮をむいて煎ったどんぐりだった。
「いやー、庭に植えていてよかったわい。君たちを理解するために、ちょっとな。ささっ、食べなさい食べなさい。余計な調味料などは使っておらんよ。」
博士はずずいと皿を押し出した。
「あ、そうじゃった。食前の祈りじゃな。どうぞどうぞ、遠慮せず捧げなさい。」
博士はにこにこと笑っているが、二人にはどう考えても嫌がらせとしか思えない。
「あの、エヤンの人はどんぐりが主食なんですか……?」
そんなはずはないだろうと思うが聞いてみる。
案の定、博士は不思議そうな顔をした。が、すぐににこにこ顔に戻り、
「いやいや、気にすることはない。わしらはちゃんとわしらに合わせた食事をとる。今ウィリーが作っておるよ。君たちは普段どんぐりを食べておるのじゃろう?さあ、食べなさい食べなさい。」
などとのたまった。
「……ふざけないでください。どんぐりなんか食べるのは食べるものがなくなったときくらいです。僕は生まれてこのかたこんなものを食べたことはありません。」
プルタが皿を突き返す。
「しかし、君たちは菜食主義じゃろう?特にどんぐりを好んで食すと、十数年前の調査で君たちの長老が……」
「……僕たちは肉も食べます。長老の話に関しては、僕が生まれる前なら恐ろしく飢えた年もあったのかもしれません。」
博士は目をむいてテーブルを叩いた。
「馬鹿な!カリビア民族といえば昔から菜食主義者と決まっておる!肉を食すなどもってのほかじゃ!狩りを行うのは儀式の際だけ!採集と農耕で生活を営み自然を尊重した文化を……」
「いつの話ですか!確かに昔は肉を食べていなかったみたいです。長老もそう言ってました。でも今は普通に食べています。」
「けしからん!君たちの長老にはカリビアの文化を保全する義務があるのじゃ!それを……カリビア族が肉を食すなんぞ……君たちには民族としての誇りがないのかねっ?」
白い肌を赤くして博士が怒鳴る。
二人の応酬を聞きながらリコは怒りに震えていた。
エヤン民族はカリビア民族の文化を守ろうとしているというが、これではまるで……。
「……僕たちは帰ります。あんたたちとは二度と会いたくない。」
プルタがリコの手を引いた。
リコはその手をじっと見つめた。
「帰ろうよ、リコ。こんな奴ら、僕たちを理解するつもりなんかない。」
ぎゅっと握られ、視線を動かす。
博士は鼻息を荒くして皿の上のどんぐりをにらんでいる。
どうあってもカリビア民族の肉食を認める気になれないようだ。
これではまるで、カリビア民族をエヤンの想像上の型に押し込めようとしているみたいだ。
「……私、残る。プルタは村に戻って、私はしばらくエヤンのところにいるって伝えてほしいの。」
「リコっ?」
プルタが手にいっそう力を込めた。
「戦うって、こういうことでしょ?」
リコは精一杯微笑んだ。
プルタは顔を歪めて何か言いたげにしていたが、あきらめたようにそっと手を離した。
「僕は帰る。リコはリコの好きなようにしたらいいよ。……でもこいつらの仲間になるのなら、リコはもう村の人間じゃない。」
「どういう意味なの?私は私……カリビア民族よ?今はここにいるけど、ちゃんと村に帰るわ。」
リコが首を傾げるのに、プルタは顔を背けて歩き出した。
そうして振り返りもせず窓から出ていってしまった。
プルタの背中が見えなくなった途端リコはすさまじい不安に襲われたが、拳を強く握りしめ、毅然と前を見据えた。
博士は苦虫を噛み潰したような顔で目を閉じている。
「いや、すまんかったの。大人げもなく怒鳴ってしもうた。じゃが、君たちはカリビア民族なのじゃ。カリビアの心を大切にしてもらいたい。」
そこにウィリーがやってきて、分厚い肉が乗った皿を四つ並べた。
「……プルタは行っちゃったのか。せっかくプルタの分も焼いたのに。」
「……ウィリー、これはなんじゃ。」
博士の人差し指が小刻みに揺れている。
「え?リコとプルタがどんぐりは食べないって言ったのが聞こえてきたから代わりに肉を焼いてみたんですが。ちょっと遅かったみたいで……」
「馬鹿者っ!カリビアの文化を乱すつもりかね!肉を食べさせるなどもってのほかじゃ!」
怒声が響いた。
リコは今度こそ顔を上げて反論した。
「あ、あなたたちはカリビアの文化を守りたいって言うけど、私たちは遺跡じゃないんです。生きている人間です。だったら変化もあって当然だと思うっ!カリビア民族の変化は認めてくれないんですか!」
「……変化するのはいいと思う。エヤンが恐れているのはカリビアがエヤンに染まることだ。」
言葉を返したのはウィリーだった。
リコはなんとなくウィリーは全面的に味方してくれるような気がしていたので、思わず怯んでしまった。
声が震える。
「でも、そういうのって、エヤンが決めることなの?カリビアの変化はカリビアが決めることじゃないかしら。変化を抑制されるのは不自然なことじゃないの?」
言いたいことをちゃんと言えているかどうか自信がない。
だが口を閉じてしまえばそれが敗北のような気がした。
「時は流れるのよ。エヤンがカリビアを殺さなくなったように、私たちだって変わっていくわ。変わらない歴史もあるのかもしれない、でもそれはもっと自然に……私たち自身が選ぶべきじゃないの?」
ウィリーは押し黙り、博士は似たような言葉を繰り返した。
結局肉を食べることはできなかった。

リコはハックル博士が改造した空き部屋で寝ることになった。
カリビア風に整えた部屋らしかったが、はっきりいって奇妙だった。
村の家の壁は白く塗られていない。床に絨毯など敷いていない。枠がおかしいのにその中に無理やりカリビアのものを詰め込んであるのだ。
そしてその詰め込まれたカリビア風味は、
「……全然違うけど、長老の部屋みたい。」
どれも古くさくて親しみなどまったく感じないものたちだった。そのくせ材質は新しい。
どこもかしこも奇妙な部屋だ。
確かに自分はカリビア民族だが、エヤンにいるのだからエヤン風の部屋でいいのに。
「ウィリーに頼んでなんとかしてもらえないかしら。」
すごく落ち着かない。
思い立ったが吉日と、リコは部屋の扉を開いた。
ちょうどノックをするところだったらしい、目の前にウィリーがいた。
「部屋はどうって聞きに来たんだが。」
「……お願いだから違う部屋を貸してほしいの。」
ぐったりしたリコにウィリーは首を傾げる。
「あれ?どこがおかしい?この部屋は博士が力を入れて改造した部屋で……かなり実際の様子に近づけてあるはず……。」
リコはとんでもないと首を振った。
「壁と床が違うわ。なのに囲炉裏があったり機織り機があったり、全部一昔前の雰囲気を漂わせているし、変に真似されているだけ気持ち悪いの。」
「壁と床はさすがに金がたりなかったんだよ。それより一昔前って、今はどんな感じなんだっ?」
強く肩をつかまれる。
最後までカリビア民族の肉食を否定した先ほどの博士を思い出した。
リコはウィリーの手を引きはがし、ちらりと表情を窺う。
「あ、悪い。つい。……文章と古い絵でしか情報が入らないから、オレてっきりカリビア民族はこういう部屋に住んでると思ってたんだよ。」
ウィリーは手を腰の後ろに隠してみせた。
リコはぽつりとつぶやいた。
「ウィリーは、私の味方をしてくれるの?博士の味方をするの?」
気になっていたことだ。
友達になりたいと言った割にはウィリーは博士と似たような接し方をしてきたりする。
しかし肉を焼いて出してくれたように正面から博士に逆らって味方をしてくれたりもする。
瞳をのぞき込めば、ウィリーはおかしな顔をした。
何を聞かれたのか聞き取れなかったというより意図がわからないという顔だ。
「オレは博士の弟子で、リコの友達なつもりなんだが……リコ、もしかして博士と戦うつもりなのか?」
今度はリコの方がおかしな顔をした。
「ウィリーは私たちのことをわかろうとしてくれるんでしょう?博士はわかってくれないもの。私たちの敵でしょう?」
ウィリーの眉がぴくりと上がる。
ウィリーは博士の味方をするのかもしれないと、リコは思わず後ずさった。
「人間を負かしたってしょうがない。わかろうとしないことが敵だ。博士は違う。知らないことが敵なんだ。博士はオレの師匠で、随分長いことカリビア民族を研究してる。嫌なとこもあるさ。でも、リコが博士を嫌いになると……オレは悲しいかな。」
ひどく真剣な顔でウィリーが言う。
「リコ、なったばかりだけど、友達として頼みたいんだ。オレたちのわかろうとしない部分や知らない部分を教えてほしい。オレは自分の意見を言うだけで誰の味方にもならないよ。博士だってそうだ。リコもそれでいい。色んな話をしよう。」
あ。
リコは口を開けたまま固まっていた。
似たようなことがあった。
村のみんなにエヤン民族と捨て人に会いに行きたいと告げたときだ。
長老がカンカンに怒って蔵に閉じこめた。
話を聞こうともせず、最初からエヤン民族と捨て人を危険なものだと決めつけて。
あのとき自分は納得させてくれればいいではないかと憤っていたのに。
長老と同じことをしてしまったのだ。
「ごめんなさいウィリー。私、博士とたくさん話をしなきゃ。わかってもらえなくても、わかりあうためにしなきゃ駄目なんだわ。前も似たようなことを思ったのに、できてるつもりでできてなかった……。ありがとう。」
ウィリーはいつもの笑顔で応えてくれた。
「いやいや、オレだってそんなことできてるつもりないし、実際やなおっさんだったりもするから。あ、今の内緒な。いいとこもたくさんあるさ、もちろん!」
リコはウィリーと本当に友達になれるかどうかで色々と悩んだが、それらがすべて取り越し苦労だったことを知った。
二人はすでに友達同士だった。

ハックル博士はリコから様々な話を聞き出してはしょっちゅう眉をつりあげた。
長期の滞在をせがむくせにリコがエヤンについて知ろうとすると『民族の誇り』を持ち出して責める。
リコは力の限り反論するのだが、どうにも聞きいれてもらえない。
食卓には毎日野菜だけが並んだ。
ウィリーは博士に比べるとまだ柔軟だったが、話せば話すほどひっかかるところが見えてきた。
しかし言えばわかってくれるところも多く、リコはウィリーの存在に度々救われていた。
ある日リコが
「ウィリー、エヤンの言葉を教えて!私、たくさんのエヤン人と話せるようになりたいの。」
と頼んだとき、ウィリーはすぐさま突っぱねた。
「駄目だ。カリビア族の言葉に関してはすごく厳重に保護されてる。言葉は変わりやすいから。」
しかしウィリー自身がカリビア族と友達になりたいがために言葉を学んだからだろう、表情に躊躇いが見えた。
「ウィリーは変だわ。友達になりたいって言ったのも戦うって言ったのもウィリーなのに。いくらウィリーが色んなことを知っても私が何も知らないんじゃどうしようもないじゃない。」
「……うーん、わからなくなってんだよ。文化を守るっていうのがどういうことだとか。博士や今のカリビア研究に疑問は感じてるが、どうすればいいのかさっぱりだ。」
「私はわかってきたような気がするわ。ウィリーは村の友達と同じ。ただちょっとお互いを知らなさすぎて理解することが難しいのよ。私はウィリーと友達になっても、何をしてもカリビア族だわ。カリビア族が自分たちらしく暮らせばそれがカリビアの文化じゃあないの?」
「今のオレじゃリコの意見のどこが受け入れ難くてどこを受け入れたいのかさえ言葉じゃ言えない。だったら……リコがオレたちのことを知りたいって思ってくれる気持ちを尊重するのが一番いいのかなー。」
結局ウィリーは博士に隠れてこっそりエヤン語とエヤンの文化を教えてくれるようになった。
エヤンのことを知れば知るほど、自分たちのことについて見直すことになる。
例えばまじないだ。
長老はカンゼにありとあらゆる呪をほどこしたが、そのどれもに根拠がなく、効果など現れるはずもないものだったのだと知った。
リコはますますエヤンについて学ぶ気持ちを強くした。
知らないことは不幸だ。どんなことでも少しでも多く知っていれば選び取れる道が増える。その中からよりよい道が見えてくる。
リコの戦い方は着実に固まっていった。
いつかカリビアとエヤンを隔てるあの柵を取り除く。
二つの民族が自由に交流し、困ったときは助け合い、互いが互いの良い点を吸収し合えるような状態に導きたい。
きっとできるはず。
「ウィリー、私たちを理解したいと思ってくれるのなら、ずっと理解しないでいて。いつまでも理解しようとし続けていて。私もそうするから。お願い。」
「わかった。オレは決めつけない。思い込まない。確信しない。……そうなれるよう頑張る。」
きっとできるはず。

三ヶ月ぶりの村は何も変わっていなかった。
ぽつぽつと隙間を空けて建つ小さな建物。黒い土の畑。
畑仕事に精を出す男たち。家の中で機を織る女たちの声。
最初に声を上げたのはタカサだった。
「リコ!おーいみんなーリコが帰って来たぞー!」
あっという間に村人全員が集まってくる。
リコは表情に困ってはにかんだ。
怒る人々、泣く人々、笑う人、ため息をつく人、次々と「おかえり」が降ってくる。
プルタと長老だけが何も言わなかった。
リコはそれに気づかないふりをしながら、確実に誤解されるだろうなと考えていた。
両親と抱擁を交わし終えると、まっすぐに長老の前に立った。
「まず最初に、これだけは言っておきます。私はカリビア族です。どこにいて、何をしても、私はカリビア族のリコです。」
周りの人間が何事かという目で見る。
興味津々と言った様子のタカサが視界の端に映った。
決意表明は派手にやれと言ったのは彼だったか。
「私はみんなにすべての真実を明かします。そしてカリビア族に変化をもたらします。……私は私なりにカリビア族のことを思ってのことです。長老は長老なりにカリビア族のことを考えてください。私は、この村が好きです。」
派手かはわからないが、できるだけ効果的に微笑む。
「みんな聞いて!」
これが始まり。
ざわめき。どよめき。そこにどんな感情が混ざっていようと、リコは言葉を紡ぎ続けた。
「私はエヤン民族と仲良くするべきだと思う。今のこの状態はおかしいと思うの。」
結論に反応は返ってこなかった。
みな気持ちを落ち着かせるので精一杯のようだ。
「……長老様は、ご存知だったのですか?」
リコの父がうわごとのようにつぶやいた。
「……カリビアは、もはやたった十二人の民族。この大陸においては……エヤンの助けがなければ生きられん。ならば我々は最後まで我々の文化を守り通すべきではないか。リコ、おまえがやろうとしていることはカリビアの滅びを早めることとなる。我々はこの山の中で、何者の干渉も受けずに暮らすのが一番なのだ。」
長老の言葉にリコは反射的に大声を張り上げていた。
「そんなのおかしい!……この世界に生きるのは、私たちだけじゃないわ。エヤン民族が存在する限りすべてのものはその影響から逃れられない。私たちが山で生活する上で万物に宿る神に囲まれ、その恩恵を受けているように。干渉だというのなら、すべてが干渉だわ。」
言いながら、やはり長老も長老なりにカリビア民族を守っていたのだろうと思う。
ハックル博士はカリビア民族が肉食していることを知らなかった。報告書にも記載されていないと言った。
長老はカリビア民族が独自に文化を変化させていく権利を研究者たちから守っていたのだ。
考え方が違うだけで、長老だってこの村を愛している。
しかしそのやり方ではカリビア民族は滅んでいくだけだ。
「……私たちの文化って、そんなにあっけないものなの?カリビア民族が続いていけば、文化だって続いていく。どこにいて、何をしても、みんなはカリビア民族でしょう?」
リコは声を振り絞る。
すべての人にわかってもらえなくてもできるだけ多くの人に賛同してもらいたい。
いや、誰か一人でもいい。
心が届けば。
「僕は実際にエヤン人と会って話した。……仲良くやるなんて無理だと思うよ。連中は僕らを研究対象としか考えていない。それにエヤン人はおびただしい数いるんだ。僕らが何を主張しても圧倒されて終わりだよ。」
だがプルタの発言にざわめきが大きくなる。
「リコ、長老様に謝りなさい。村を騒がせて申し訳ありませんでしたと。」
リコの母がリコの耳を引っ張った。
取り合わずにいると、
「申し訳ありません。うちの娘がおかしなことを言って……気の迷いです。エヤン民族なんて、ご先祖様たちを虐殺した野蛮な民族、話が通じるはずがありません。」
無理やりに頭を下げさせられた。
それをきっかけにどんどん雲行きが怪しくなる。
「……そうね、そんな恐ろしい連中と会いたくなんてないわ。リコちゃんも脅されたりしたんじゃないかしら。」
ウナの母が口元に手を当てて小さく言い、夫が頷く。
「あたしゃもう年だからねぇ……。」
ユミル婆がこめかみを押さえた。
リコの父は難しい顔で下を向き、一度もリコを見ようとしない。
プルタの眼差しは鋭い。
ウナとサーナは深く考え込んでいるようだ。
タカサも腕を組んで目を瞑っている。
アイダ婆は表情をぴくりとも動かさず、無表情のまま。
「リコ、エヤンのことは忘れるのだ。」
長老が言い聞かせるように言った。
「嫌です。」
返答など、考えるまでもなかった。

次の日から村はその姿を変えた。
いや、村自体は何も変わってはいないのだが、リコに対する村人の態度が変わったのだ。
ウナとサーナは自分から話しかけてくることがなくなり、プルタがリコを見る目は常に険しかった。
大人たちは腫れ物を扱うようにしてリコに接した。
父は異常に無関心に、母は異常に心配性に。
長老はリコの存在を完璧に無視した。
リコは捨て人のことを頻繁に思い出していた。
あの捨て人はカリビアとエヤンの現状を知っていたのだ。そしておそらくは村を変えようと尽力したのだろう。

心の通じんものと共に暮らしても仕方あるまい。

忘れていた言葉が今さら胸を打つ。
今の自分は村の中の捨て人のようなものなのかもしれないとリコは思った。

ウナは腹を立てていた。
布を洗う手つきがどうしても乱暴になる。
その横でサーナがおっとりと同じ動作をしているが、穏やかな水の音が余計苛立ちに拍車をかけた。
三ヶ月も失踪していたくせに戻ってきた途端とんでもないことを言い出すリコにも腹が立つし、リコが落ち着くまであまり話さないようにしろとか近づかないようにしろとか真剣に言い聞かせてくる両親にも腹が立つし、いつもと違うプルタの様子にも腹が立つし、さりげなくリコを無視する村の雰囲気にも腹が立つ。
だいたいが寝耳に水なのだ。そんなに早く答を出せるわけがないではないか。
なのにみんな最初から答は決まっているとでもいうようにいっせいにリコを拒絶し出した。
なんだか腹が立つのだ。
しかしウナはついさっきリコの前を素通りしたばかりだった。
「……あんたはどっちにつくのよ。長老か、リコか。」
ふてくされた顔でサーナの方を見れば、サーナは手を止めて、
「……私はエヤン民族に会ったことがないのよ。今の状態で決められるわけがないわ。……でも、どちらについてもリコとは友達でいたいわ……。」
洗濯物を見つめたままつぶやいた。
ウナは適当に汚れを擦っただけの布を力任せに絞ってかごに投げ入れた。
「やめよ。仕事なんてやってられないわ。あんたも、さっさと結論を出すのよ。じゃないと気持ち悪くてリコの前を通れないわ。」
サーナも水に浸し始めたばかりの布を引き上げた。

「馬鹿息子ー馬鹿息子ー、で、おまえの口はどうして曲がったまま戻らないんだ?」
プルタはしつこくまとわりついてくる父親を振り払うのにいいかげん疲れてきていた。
「……関係ないよ。」
「駆け落ちまでしたリコにそんな態度じゃあ近いうちふられるぞ。」
タカサのすねを思いきり蹴りつける。
涙目で叫んでいてもすぐにけろっとしてからかってくるのだからたまらない。
観念して息を吐いた。
「……嫌いなんだ。エヤン民族。リコがあいつらの仲間になって帰ってきてますます嫌いになったよ。」
三ヶ月の間一体どうやって過ごしていたのか、考えただけで怖気がたつ。
リコは完全にエヤンに染まってしまったのか、確かめる気にもなれない。
「ほほう。そんなに嫌な奴らだったのか。そりゃあ会ってみたいな。」
タカサはのんきに笑い飛ばした。

カンゼの死を記した報告書を見つめ、長老は眉間に指を置いた。
毎年一回提出を義務づけられた報告書。もう何年も繰り返し受け渡してきた。
代々の村の長はこうして秘密を自分の胸のみに隠蔽することで村人を守ってきたのだ。
自分の知る限り、一人だけ、真実を明かそうとした男がいた。
「……リコを捨てはせんだろうね。」
突然背後から話しかけられ、まさか考えを読み取られたのではと思ったが、動揺を押し隠して頷く。
「……じき成人とはいえ、まだ子どもだ。」
アイダ。
今ではしわだらけになってしまったその肌は、昔滑らかで美しかった。
妻であるユミルの姉であり、兄の婚約者だった女性。
「……カンゼが死んで、十二人、こんなになっても……村は変わらないのかい。」
流水のように心地よかった声はすっかり掠れてしまっている。
「こんなだから……変わってはならんのだ。」
長老はまぶたを固く閉ざした。
本来ならば兄がこの村を治めるはずだったのだ。
村人全員に真実を教えカリビアとエヤンを交流させるべきだなどと言い出さなければ。
兄は父に村を追放された。
もはや気が遠くなるくらい昔のことに思える。
今になって同じことを言い出す者が現れるなんて思わなかった。
エヤン民族は圧倒的だ。
カリビアの文化などすぐに染められてしまう。
滅びが目に見えている自分たちの、せめて文化だけは守り抜きたいと思う心は、間違っているのだろうか。
「……私はリコにつくよ。……今度こそ。」
振り向いて表情を確かめることができなかった。

太陽が真上に来る頃、村人たちは広場に集まって食前の祈りを捧げる。
遙か昔から繰り返されてきた習慣を今自分も繰り返していることに、リコは軽く感動した。
今までそんなことに気がついたことなどなかったのに。
文化を守るというのは、ほんのちょっとしたことに気がついて、それを大切に思うことができたなら、存外簡単にできることなのかもしれない。
この村が好きだと思う。
カリビア民族である自分に誇りを持っている。
自分は捨て人にはなれない。
ここ以上に戦いにふさわしい場所などない。
心がかけらも伝わらなくても、村の中で、村を愛して生きて行こう。
プルタの眼差しは相変わらず険しい。
両親との間に未だかってない距離を感じる。
だからといって、あきらめてしまえばそこで終わりだ。
己の言葉は己にしか届かないのだと山の神は言う。
誰も他人を完全に理解することなどできはしない。
誰も間違いなくわかりあうことはできない。
それでも、理解したいと思い合うことはできるはずだから。
互いが努力を忘れなかったなら、限りなく近いところまではたどりつけるだろう。
この世界に生きるのは自分たちだけではない。
山奥に一人暮らしていたとしても、一人で生きているわけではないのだ。
万物に囲まれ、生かされて生きている。
自分だけでは生きられない。
誰かがいないと生きられない。
ならばその誰かのことを、もっとよく知りたいと思う。
「エヤンにウィリーっていう友達がいるの。約束したのよ。いつかきっとみんなを紹介するって。」
誰も返事をしてくれなくとも、話しかけることをやめない。
「ウィリーは私にエヤン語やエヤンのことを色々教えてくれたの。ちょっとケンカになることもあったけど、後を引くことなんて全然なかったわ。」
わかってほしいと思うことをやめない。
「みんなはエヤン民族をどういう人たちだと思ってるの?どこが嫌いなの?」
わかりたいと思うことをやめない。
「会ったこともないのにわかるわけないでしょう!困るのよ、そんなこと言われても!」
ウナが椀を地面に叩き付ける勢いで置いた。
「だから今度会いに行ってもいいわよ。」
そっぽを向いているが、こころなしか頬が赤い。
「……今度は私もついていくわ。」
サーナはいつもとまるで変わらない調子だった。
「オレも会ってみたいぞ。」
タカサがおかわりしながら笑った。
「……村も変わるときが来ているのかもしれない。」
めったに口を開かないアイダ婆が静かに頷いた。
他の人間は信じられないといった面持ちで様子を窺っている。
まだまだこれからだ。
だが、最初の一歩が、こんなにも心強い。
リコは両手で顔を覆った。
笑っているのか、泣いているのか、自分で自分の表情がわからない。
「ありがとう……。」
やっとの思いでそれだけつぶやいた。

村のはずれ、かつては小さな小屋が建っていたその場所に、今はもう何もない。
土が焼けた跡が残っているだけ。
カンゼの亡骸は山の頂上の決められた場所に埋まっている。
しかしリコはそこよりもこちらの方がカンゼを感じることができるような気がするのだった。
リコは膝をつき、土をつかんだ。
もっと生きていてくれればと何度も思う。
きっといつまでもそう思い続けている。
「生きてたら、私がやろうとしていることになんて言ったかしら。」
結構怖がりだったからエヤン民族なんかに会いたくないとでも言って反対したかもしれない。たくさんのことに興味を持って何でもやりたがっていたから賛成してくれたかもしれない。
色んな想像がかけめぐる。
想像でしかない。
「……もっと、話をすればよかったね。」
記憶の中のカンゼは実物とどれだけ違っているだろう。
その差を埋めることも、もうできない。
「カンゼ……。」
呼びかけに誰も応えない。
リコは淡く笑った。
「ごめんねカンゼ。お姉ちゃん何もわかってあげられなくて……。カンゼなんかいらないなんて言ったのはカンゼのこと何もわかってなかったから。今は、今も、何もわかってないけど、大好きよ、カンゼ。私、怒ってなんかない。ウナを通じてだけど、カンゼの気持ち、それだけはちゃんと受け取ったから。」
風の音。鳥の声。村の音。
山はその身にカンゼを抱きながら、わずかな慈悲も見せない。
それが理。
それでも時々こうしてカンゼに語りかけるだろうとリコは思った。
届いていなくとも、届いていればいい。
届くことはなくても、届いていればいい。
カンゼに。村のみんなに。エヤンの人々に。ありとあらゆるものに。
言霊の神がどれだけ邪魔をしても語りかけることをやめないだろう。
少しだけ、世界が優しくなったような気がした。
「さぁて、頑張らないと。」
立ち上がるとちょうど広場の方から自分を呼ぶ声がした。
ウナとサーナだ。
そろそろ約束の時間らしい。アイダ婆とタカサもすでに集まっているようだ。
リコは慌てて走り出した。
今日は堂々と長老を振りきってみんなでウィリーに会いに行く日。
そして途中出会うであろうエヤンの民たちに挨拶をする日だ。
村はまだまとまっていない。
あらゆる困難は始まりを告げたばかり。
すべてはこれからである。
そしてリコは、これからが楽しみでならなかった。
END.
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