『そして今日も家に帰る』

 Sはサラリーマンである。
毎日毎日リストラの危機と直面しながら家族のために働き、上司と部下との板挟みにあいながらも頑張ってきた中間管理職であったが、働き続けて十余年。
ここにきてふと、気がついた。
家での自分の居場所がないということに。
夫婦仲はすっかり冷めていて妻と話すことは滅多になく、思春期に入った娘は自分を見ては露骨に避ける。
Sは孤独だった。
会社での疲れを癒してくれる場所、温かい憩いの場であるはずの家が、いつのまにかこんなにも冷たいものになっていたとは。
何が理由なのかは、思いつかないわけではなかった。
自分は忙しさに余裕を無くし、家庭を顧みなかったのかもしれない。
だがどうすればよかったというのだ。
家族のために、暮らしのために、頑張って働いてきたのだというのに。
この仕打ちは、あんまりじゃないか―――?
しかしそうは思ってもそれを口に出すことはできなかった。
家に帰ってくるとSは自分の周りに結界を張られているような気になった。
話をするどころか目を合わせることもできず、Sは食事が終わるなりすぐに横になった。
来る日も来る日も、そうすることしかできなかった。

 「おじさん、何してんの?」
Y子は公園のベンチに座るサラリーマン風の男がさっきからずっと気になっていた。
時刻は深夜0時。他人に声をかけるにはちょっと遅すぎる。
それにこんな時間にベンチに座っている男なんてどうせろくな奴じゃない。
酔っぱらいか人生に嫌気がさしているか……と思いつつ、Y子はついつい声をかけてしまっていた。
「……君こそ何してる。子供は帰れ……。」
やはり男は酔っていた。
だが自分を見失うほどではないようだ。
Y子は胸の内でこっそり安堵のため息をつきながら男の前にしゃがみ込んだ。
男はいぶかしげにY子を見る。
「君は……見たとこ小学生だろう。親が心配するぞ……。」
「親はケンカ中!家にいるとヤな気分になるから抜け出したの!」
Y子は明るく言った。
男は首を傾げたが、すぐに納得したようにうなずいた。
「ケンカするほど仲がいいというやつか。」
鼻で笑う。
Y子はぶんぶんと首を振った。
「違うよ。どっちかっていうと冷戦。もう何年もそう。私が生まれる前からそうだったんだって。ほとんど口もきかないの。たまに父さんが酔って帰ってきたときだけケンカになる。……ケンカって言っても父さんが一方的に色々言うだけで母さんは完璧無視なんだけどね。」
男はうろたえた。
Y子の話が意外だったからではない。
男はついさっきまさに今Y子が言ったのと同じことをして、結局やりきれない気分になって家を出てきたのだ。
「父さんってば母さんに無視されたもんだから私にほこ先向けるんだもん最悪〜。家も出たくなるってもんでしょ。」
男はますますうろたえた。
自分のことを言っているのではないかと思うほど、Y子の話は自分がしたことそのままだった。
「……家族と話したかっただけじゃないのか?」
男はうろたえながらもY子の父親のフォローにまわった。
おそらく自分とまったく同じ境遇にいるのであろうY子の父親に共感と同情を覚えていた。
そんな男の心を見透かしたかのように、Y子が微笑んだ。
「うん。わかってるよ、そんなこと。おじさんやっぱりうちの父さんと同じなんだね。なんとなく見るからにそんな感じだとは思ったけど。」
男は一瞬言葉を失った。
「でもね、父さんは本当は私と話したいんじゃないの。自分の話を聞いてほしいだけなの。そんで自分に都合のいいことだけを言ってほしいの。」
Y子は真摯な表情で言う。
「会社で疲れたとか、そんなときだけ。酔っぱらって帰ってきて、その勢いで普段言えないことを言うの。要するに愚痴を聞いてもらいたいだけなの。」
「そんなことは…ないだろう……。娘の話を聞きたいと思うのは親にとって当然のことだよ……。」
男は眉をひそめた。
「ううん。私の話を聞きたがってもそれは自分のためなの。父親気分に浸りたいだけなの。」
Y子の表情がどんどん暗くなる。
「……君は父親に愛されてないと思っているのか?」
男は眉間にしわを寄せて尋ねた。男にはY子が暗く深い思いこみの渦の中にいるとしか思えなかった。
Y子は言う。
「ううん。私は父さんに愛されてると思ってるし私も父さんを愛してるよ。……娘だもん。ただ父さんが『ぎぜん』するのが許せないだけ。」
男はぎくっとした。
男が思ったよりももっとずっと深いところをY子は見ていた。
もしかしたらそれは今まで気付かなかった自分の心の底でもあるのかもしれないと男は思った。
「結局父さんは話を聞いてくれるだけのお人形さんが欲しいの。でも私は父さんに言うの。私は生きてますから、愚痴を聞かされるだけなんて嫌です。って。そしたら父さんすごく嫌な笑い方する。何もかもバカにしたような笑い方する。で、言うの。「父さんダメな男でごめんね。」って。「こんな話してごめんね。」って。本当はそんなこと思ってないくせに。本当はごめんなんて思ってないくせに。私知ってる。本当はごめんを言うことで自分で自分をいい奴だって思いたいだけなの。私そんな父さん見てるとすごく嫌な気分になる。ムカツクとかじゃなく、すごく嫌な気分になる。なのに父さんやめてくれない。まるで私が父さんの言葉を無視できないの喜ぶみたいに父さんずっと話してるの。……吐きそうになる。」
Y子はうずくまった。
泣きそうになるのをこらえているに違いなかった。
男は妙に焦って言った。
「でも、でも君は父さんを愛してるんだろう?」
Y子はゆっくりと顔をあげた。
「……娘だからね。むこうも、父親だから……。」
本当は大嫌いだと言われたような気がして、男は口を半開きにしたまま黙り込んだ。
Y子はぼそぼそと話し続ける。
「一回思ってること全部言ったんだ。そしたら父さんすごく怒って…誰に養ってもらってると思ってるんだ。って言った。こっちは毎日苦しみながら働いてるんだ。って。ただ遊んでるおまえらとは違う。って。……ひどいよ。そんなこと言われたら何も言えなくなるの知ってて言うんだもん。でも、私にだって悩みくらいあるのに。ねぇ、地獄でする悩み事と天国でする悩み事はどっちがつらいと思う?」
「……地獄…かなぁ?」
「私そうは思わない。すごさは違ってもつらさは同じくらいだと思うの。だって、天国にいる人が幸せだって誰が決めたの?」
Y子に正面から見据えられて男は少しひるんだ。
「私本当は父さん嫌い。」
Y子はハッキリと言った。
「母さんも嫌い。すぐ逃げるから。」
男はなんだかY子が痛々しくなってきた。
「私父さんと話すの嫌い。自分も嫌いになるから。」
Y子の頬に涙が一筋だけ流れた。
「……君の父さんが…そんな風になってしまった原因はなんだと思う……?」
男はY子から目をそらさずにつぶやいた。
Y子は涙を拭って言った。
「みんなのせい。」
「みんなって?」
「私と母さんと父さん。」
「……父さんも?」
「だって父さんは会社がすごく大事なんだもん。お金が愛だと思ってるんだもん。それに大事なだけじゃなく本当は好きなんだもん。自分の力試すのが。」
男は目をふせた。
「そっか、……そうだな。……そのとおりだよ。……君は父さんなんていなければいいのにと思うか?」
うちひしがれたようにベンチにもたれきる。
「ううん。『父さん』を愛してるから、本気でそう思ったこと無いよ。……でもそれがつらいの。」
「……そうか…。」
男は何となしに空を見上げた。
くもってはいなかったが、星は見えなかった。
Y子は急に明るい口調に戻して言った。
「でも、でもね!あんま気にしてないよ。どの家にだって問題はあるだろうし誰にだって心の傷の一つや二つあるもんね!」
無理に明るくふるまうY子を見て、男はため息をついた。
「なんでだろう。妻を愛してる。娘を愛してる。なのにどうしてこうなったんだ。」
沈痛な面持ちでうつむき、さらに長い息を吐く。
何度ため息をついても心は軽くならないとわかっていたが、ため息をつかないと押しつぶされてしまいそうな気がした。
Y子はそんな男をじっと見つめて、穏やかに言った。
「0時過ぎると『今日』なのかな?『明日』なのかな?わかんないけど太陽が昇るともう『明日』になってるんだよ。『明日』になると自動システムが動き出しちゃうんだ。」
男は首を傾げる。
「…どういう意味だ?」
Y子はそれには答えず、違う話を持ち出した。
「私、大人って悩まないんじゃないかと思ってたことある。」
「それはまちがいだな。」
男は自嘲気味に微笑んだ。
Y子も同じように笑う。
「だって父さんと母さんは話さないし目も合わさないのに毎日過ごせてたから。」
男はやっとさっきの言葉の意味が飲み込めた。
どんなに悩んでも、苦しんでも、時は無情に過ぎていく。
朝が来れば会社へ行き、夜になれば帰ってくる。
そして食事が終われば寝る。
明日また会社へ行くために。
その半自動のシステムについていくのに必死で、家族と自分のことを考えている余裕がない。
Y子はそういうことを言いたいのだと男は思った。
「……悩むヒマがないんだな。」
男は腕を組んでまたため息をついた。
「……めんどくさいんじゃなくて?」
Y子は射抜くように男を見た。
男は言葉を失った。この少女の前で何も言えなくなるのはこれで何度目だろう。そんなことを心の隅で考えた。
「君は小学生なのにしっかりしてるな。」
男が言うと、Y子は首を振った。
「ううん。私家にいるのが嫌で逃げてきたんだもん。」
男は微笑む。
「これからどうする?」
「帰る。家があるし家には父さんと母さんがいるから。」
Y子はにこっと笑った。
ほんのり赤く染まった頬に、涙のあとは残っていなかった。
男は少し目を細めた。
「…そうだな。そう……だよな。」
Y子はすっと立ち上がり、別れの言葉を言おうと口を開いた。
が、男の言葉の方が早かった。
「一つ約束して欲しい。僕は妻と娘を大事にするよ。だから君も父さんを大事にしてくれ。」
Y子は言葉無くうなずいた。
偶然出会ったもう会わないかもしれない相手との、なんの保証も束縛もない約束。
そうしてふたりはそれぞれの家へと帰っていった。

 酔いはすっかり醒めていた。
 夜風が肌に心地よく、家につくまでの間なんとなく気分が晴れやかだった。
玄関のノブに手をかけたとき、ひんやりとした感覚を感じながら思わず息をのんだ。
「ただいま」
いつもより大きくハッキリとその言葉を言って靴を脱ぐ。
家の中はしんとしている。
もうみんな寝ているのか寝ているふりをしているのかはわからなかったが、気にせず部屋でふとんに潜り込んだ。
あと数時間で朝が来る。
システムが止まっている束の間の間、明日からの自分について考えることにした。
きっと、今までとそう変わらないだろう。
朝になれば会社へ行き、夜に帰ってきて食事が終われば寝る。
そしてまた会社に行く。
これからも変わらない。
ただ、明日は「明日は何してる?」とふたりに聞いてみよう。
きっと変な顔をするだろうがかまわない。
そして明後日は「今日は何してた?」と聞いてみよう。
そんな質問から始まるたわいのない会話を交わせる日を、あきらめずにずっと望み続けよう。
そう思いながら、Sはそっと目を閉じた。
東の空がかすかに明るくなっていた。
END.
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