『果て』

風が砂嵐を作っていた。
歩を刻めば一瞬にしてかき消され、それだけではたりぬとばかりに襲い来る。
一歩一歩確実に踏みしめなければ刮がれてしまうだろう。
だが大地は絶え間なく流れ続け、風を助けるのだ。
砂が音を立てて打ち付け、呑まれるがいいと笑う。
風が世界を砂で覆い、混ざるがいいと誘う。
足を奪われ体を打たれ目と耳を封じられてもなお、男は同じ動きを繰り返した。
進んでいるのか、退いているのか、知るものはいたが、考えるものはない。
砂しか映らぬのに前を見つめ続ける双眸はどこか虚ろで、幻を見ているようだった。
やがて嵐が収まり、紅の太陽が向かい合う。
男は微かに目を細めるが、ただそれだけだった。
巨大な日輪は男を照らすだけ照らして少しずつ地平線に消えていった。

「夜が来るよ。」

薄紅が流れるあたりからすでに星が瞬く。
「一晩歩いても抜けられはしないさ。」
蝕まれていく昼を見るでもなく、侵していく夜を見るでもなく。
「お休みよ。」
星のささやきを聞くでもなく、砂の流れを聞くでもなく。
「時間が君の存在を知るはずもないのだから。」
五感に届くすべてをすり抜けながら、男が歩く。
「何を……目指す?」
まばらな光が闇に、乾いた風が砂に、無数の道を描く。

「果てを。」

男はどれも選ばずに、ただ、歩き続ける。
「………問いならば答えるだろうと思ったよ。」
濁った瞳に小さな星がいくつか映る。
「何故……?」
だが男が見ているのは星ではない。
男はやはり幻を見ているのだ。
澄んだ沈黙に答を見て、問いかけが変わった。

「歩かされているのだと知りながら、何故……?」

砂の音では、この世の音では消せない問いが、深くしみこむ。
瞳の中の幻がわずかに揺らいだ。
錆びついた五感とともに動きを止めようとしていたものが振動を始める。
男はゆっくりとまぶたを閉ざした。

いつだったのか、もう忘れた。
遠い少年の日。
古ぼけた地図には生まれた国しか記されていなかった。
それは、ほんの小さな。
笑われただけで吹き飛ばされるような好奇心だった。
だから、何故だったのか、忘れたのではなく答がないのだ。
突き動かされるようなものも、引きずられるようなものもなかった。
気がつけば歩き出していた。
何かを成すために生まれてきたのだと、何かを成せるはずだと、何も考えずに信じていた頃。
何処へ、と問えば、
果てへ、と。
自然と口が紡いだのだ。
帰る場所はすでになく、作る必要もなかった。
果てへ。
ただ、果てへと。
ひたすらに歩き続けてここまで来た。
寝る間も惜しみ、辿り着くために。
幾年月を越え、歩き続けて。
来た道を戻ったことは一度もなかった。

「何故足を止めることができない?」

最初の迷いはいつだったのか、それもやはり覚えてはいない。
歩きながら、深く、浅く、いつだって悩んでいた。
答を出し、打ち消して、結論を、また疑い、同じ答を同じ言葉で何度も消して、何も考えられず考えずにはいられず何かを閉ざしてしまうまで。
おかしな話だった。
放り出した結論を今なら出せる気がした。
納得するように、一つ頷く。

「恐ろしいのだ。」

まぶたを閉じたまま、それでも歩き続ける足は、止めようと思えば今すぐにでも止めることができる。
止めようと、思えば。
突き動かされるようなものも、引きずられるようなものもない。
それでも男は歩き続けなければならなかった。
歩くのを止めてしまえば二度と歩けなくなる。
すなわちそれは死なのだと、知らない場所で知らないうちに決まっていた。

「歩かなければならない。辿り着くまで。歩みを止めたとき、鼓動が続いていても、俺は終わるのだ。」

男の瞳にはいつも大地と空とすべての果てが見えていた。
まっすぐ、そこを目指して、今までもこれからも歩き続けていく。

「終わらないさ。今ここで足を止めても、踵を返しても、辿り着かずとも、鼓動が続く限り。道などなく、終わりもない。」

男は虚ろな瞳で空と大地の境界をなぞった。
そして再び扉を閉ざすかのように目を濁らせた。

「果てはないんだよ……永久に…辿り着くことはない。」

それともそれが望みなのか。

最後の問いかけは音にはならなかった。
壊れたからくりのように同じ動きを繰り返すだけの男をそっとなでて、少しずつ砂を舞い上がらせる。
何度目かの砂嵐。
風は男の死を望みながら、未だ手を下せずにいた。
END.
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