内藤匡祥、47歳。職業・校医。
彼は非常に仕事熱心な男である。
自らの職務に誇りとやりがいを感じ、学生の健康のためなら苦労は一切惜しまない。
中年と呼ばれる年になっても日々向上心を高め、空いた時間を見つけては学び、新しい知識も次から次へと積極的に取り入れるようにしている。
ほんの一月前もある本から『現代人の七割は軽い精神病にかかっている』という一節を見つけ、深い感銘を受けたばかりである。
今の職場に異動してきたのは二月前。
彼はこの学校の生徒たちが誰もみな疲れたような顔をしていることを、一ヶ月間ずっと気にかけてきたのだった。
「……うん、これはまとめ終わったね。さて次は何をしようか……」
年をとると独り言が多くなるという。
彼は努めて内心を口に出すようにしている。
そうすることで痴呆になりにくくなるのだと、以前読んだ本に書いてあったのだ。
「……そろそろまた保健だよりを出そうかな。そうだね、それをやろうか。確かこの前四コマのいいネタを思いついたんだよ。ああ、ああ、なんだったかな……」
彼は非常に仕事熱心な男である。
生徒の診察から書類の整理まで、何事にも手を抜くことはない。
しかし今は学生の訪れもなければまとめる書類も残ってない。
顔のパーツを中央にかき集めておみくじを引くように頭を揺り動かす。
ひどく真剣な面持ちで黙りこんだ後、彼は何もない空間に向かってにこにこと微笑み、うん、と頷いた。
「忘れてしまったものは仕方がないね。新しいのを考えないと」
ひっきりなしに目をさまよわせる。
「うーん、うーん、あっ!」
頭上斜め右で豆電球が古典的にひらめいた、まさにその瞬間。
ガラッ
「すみません、頭が痛いのですが……」
「ああ、ああ、いらっしゃい。まぁまずは腰掛けて。……あ」
「……?」
「……忘れちゃったよ……」
彼は晴れ晴れとした笑顔をしゅんとしぼませた。
とっておきのネタを立て続けに忘れてしまうなんて。
保健だよりの四コマ漫画はいわば学生との心の交流。保健室の扉を開きやすいものにするためのステージ。ユーモアのキレの見せ所だというのに。
しかし困惑した面持ちの訪問者の前でそれ以上そんな姿をさらしているわけにはいかない。
「頭が痛いのかい?」
軽く首を傾げて顔をのぞきこむ。
「ええ。頭痛薬などありましたらいただきたいのですが」
その学生はこの学校の生徒特有の青白い肌をして、もう何年も深い眠りについていないような表情をしていた。
それもまたこの学校に通っている証のようなものだったが、自分の縄張りに足を踏み入れたからには薬を渡してハイおしまい、というわけにはいかないよ、と、彼は思った。
「ああ、ああ、大丈夫。薬ならあるよ。ほら、飲みなさい。だがね、どうして頭が痛いんだい」
「さて?特にぶつけた覚えもありませんし、理由はわかりませんが、薬を飲めば治ると思います」
あっけらかんとそう言うが、水でごくごくと飲み下すその様は、まるで枯れ果てた土地をさまよう旅人のようだった。
「いや、君。それはいけない。それは駄目だよ。薬なんて一時的な症状を和らげるだけの麻酔のようなものだと思いなさい。根本的なことを解決しなければ、何度も頭痛に悩まされるかもしれない。僕は薬の飲み過ぎで癌の発見が遅れて亡くなってしまった人を知ってるよ。駄目だよ君」
彼がそう言うと、学生は事も無げに
「たいして意味のない頭痛だってあるでしょう。それほど頻繁にあるわけではありませんし、思い当たる理由はないんです。俺は薬をいただきに来ただけですから」
と立ち去ろうとするのだった。
「いやいやいやいや、ちょっと待ちなさい。いいかい、君は疲れているだろう。ここのところ十分な睡眠をとっていない。健康的とは言えない生活をしているね?」
「ええ。高校受験が間近ですから」
「先生方にも親御さんにも『勉強しろ』、『勉強しなさい』と言われている」
「まぁ、確かに言ってはいますが」
「うん、うん、そうだろうね。ちょっとうんざりしてきているだろう?」
「まったくしてないと言ったら嘘になるでしょうね」
「勉強も嫌になってきたんじゃないかな?」
「毎日みっちりやっていれば嫌にもなりますが……先生?」
「何もかもやる気がなくなってくる」
「……今一番したいのは一日寝て過ごすことかもしれませんけど。……先生?」
眉をひそめる学生に、大きく頷いてみせる。
「うん、それはストレスだね」
彼は痛ましげに息を吐いた。
『それほど頻繁にあるわけではない』ということは、頻繁ではないにしろ何度か経験している、ということだ。
この学校の生徒たちは無茶をしたがる子どもが多い。
今この瞬間を一分一秒たりとも無為に過ごせばたちまち命が消えてしまうとでもいうように、鬼気迫る勢いで暮らしている。
倒れてしまっては元も子もないのに。
「その頭痛は、ストレスが大きな原因だと思うよ、うん」
追いつめるように言う。
まずは自覚することが大切だと彼は思った。
「……はぁ」
気のない返事に、顎をさすりながら付け加える。
「それから無気力症候群のごく軽いやつだね」
「……はぁ」
「いいかい、無気力症候群っていうのはね、……」
説明を始めようとしたところでまっすぐに手が挙がった。
「先生」
「なんだい?」
「今の先生の態度から連想されるものがあります」
「ええ?なんだろう?ああ、できればさっき僕が忘れたネタを君が思い出してくれると嬉しいんだけどなぁ」
「……いえ、先生の態度から連想されるものは……俺には小学校一年生のいとこがいるのですが、入学したての頃は新しい知識を得ることが楽しくて仕方がなかったようで、学校で学んではその知識を俺にひけらかすのです。もちろんすべて俺にとっては既知のことなのですが。そのときのいとこと先生が重なって見えました」
「そうかいそうかい、僕もまだまだ若いのかもしれないね」
「いえ、そこではなく」
「いいかい、ストレスがたまって良いことなど一つもないよ。頭痛だけではすまなくなるかもしれない。心身共に健康的な生活をだね、……」
「先生のおっしゃることには一理ありますが、俺の頭痛の原因がストレスだと断定されたのはいつ、どのあたりからでしょうか」
「だって君には思い当たる理由がないんだろう?ストレスというのはね、本人が気づかないことも多々あるものなんだよ」
「他に思い当たる理由がないという、それだけの理由で断定なさるのですか」
「いいかい、現代人の七割は……」
「先生!」
彼はようやく学生の声が怒気を孕んでいることに気がついた。
少し目を丸くして、すっと眉を下げる。
「……最近カルシウムの不足がちな生活を送ってはいないかい?カルシウムが不足すると怒りっぽくなるそうだよ?清涼飲料水のがぶ飲みや、スナック菓子の馬鹿食いをしてはいけない。ポテトチップスは美味しいけれど、ああいったものは……」
「俺はポテトチップスはあまり好きではありません」
「じゃあ何が好きなんだい?」
「かっぱえびせんです。もう何年も食べていません」
「じゃあ……」
「ポカリスエットもアクエリアスも清涼飲料水系は何も口にしていません。購入するのはお茶くらいです。おやつの時間は何年も前に卒業しました。間食する暇があるなら公式を解きます」
彼は思わず目を見開いた。
この学生は公式を主食にお茶の点滴で生きているのか。
枯れ果てた土地をさまよう旅人というのもあながち間違った比喩ではないかもしれない。
「それはストレスになって当然じゃないか……」
頭痛の原因のストレスのさらにその原因も現代人の約七割に見られるケースにあてはまってしまいそうだ。
なんだか悲しい気持ちにまでなってくる。
しかし学生は相変わらず怒気を漂わせたまま、鋭い視線で前を見据え、淡々とした調子で言った。
「……先生、どのような意味でも、子に関心のある親ならば、受験の際に口やかましくなるのは当然だと思われます。先生方もまた然り。一つのことに熱心に取り組むのと健康的生活の維持とを両立させるのが難しいというのもいわば当然。長期間同じことをしていれば飽きがくるのも当たり前のことです。苦しみを感じていないとは言いません。ですが俺がそれに負けたと見なされるのは我慢ならない。俺にとって勉強は強制労働ではなく、自らを磨き上げる訓練のようなもの。俺は戦っています。今現在も。頭痛の一つや二つくらいで喜々として病人の枠にはめないでいただきたい。例えこれがストレスによるものだとしても、望むところです。どのような困難も、乗り越えるためにある」
学生と彼との間に激しい火花が一方的に飛び散った、まさにその瞬間。
ガラッ
「先生、また来たよー」
新たな訪問者が現れた。
今度の学生は顔色も良く丸々と肥え太っているが、逆にそれが不健康な印象を抱かせる。保健室の常連だ。
「ああ、ああ、君か。すまないね、ちょっと待っていてくれるかな」
彼は少し困った顔をした。
おそらく今日も具合が悪くなって来たのだろうから、外で待たせるのはどうかと思うが、他の生徒の心理的相談を聞かせてしまうのも非常に良くない。「待て」と口にしてはみたものの、一体どこで待たせるべきか。
しかし常連客は快く頷いた。
「先客か。先生は名医だからねー」
そのままゆっくりと隙間を狭くしていく扉を、先客である学生がすっと立ち上がって押しとどめる。
「すみません、この……彼と話したいことがあるのでしばらくお待ちいただけますか?」
「ああ、ああ、いいとも」
彼は快く頷いた。
学生同士が仲良くしているのは嬉しく好ましいことだ。
なんとなく、ノスタルジックな気分になって、すりガラスの向こうの影と影に加わりたいような。……ついつい聞き耳を立てたい衝動がわきあがったが、それはしてはならないことだよ、と、小さくつぶやいてこらえた。
薄壁一枚隔てたところではひそひそとした声が彼について語り合っていた。
「あんた、あの先生が名医だと言いましたね。ズバリ聞かせてください。本心ですか?」
「……本心だよー?毎日通ってもどんな症状で訪れても触診されたことは一度もないけどねー」
「あんたのお薦めする病院を教えてください。絶対にそこへは行きません」
「まぁまぁ、聞きなよ。あの先生はさー、名前をつけてくれるのさー。俺のどんなに小さな『症状』や、どんなに小さな不安にも。もっともらしい病気の名前をさ」
「……仮病ですか」
「……違う。……俺は、病気なんだ。ちょっとばかりとち狂ってても全然おかしくない。病気……、なんだから。お母様は信じてくれなかったけど、病気なんだよ……ホントに、ホントだ。じゃないとこんなに苦しいわけがない。だろう?そうだろう?……なぁ」
「……あんたの気持ちなんてわかりませんし、医学や心理学に通じてもいませんが、あんた、もしそれで高校に落ちたら『病気のせいだ』って言うんですか。理由は問題ではありません。口にした時点で何かに負けたことになる、俺はそう考えます。名前がついて、原因がわかって、それでどうなる病気でもないでしょう。たいしたハクになるとも思えませんし。医者に頼るくらいなら自分で動いた方が、動こうとした方がよっぽど早い。……あんた、今会ったばかりの俺にそんな話をする……もう気づいてるんじゃないですか?俺は今日のことで二度と保健室には立ち入らないと決めましたよ」
「……おまえみたいな、おまえみたいな強いヤツに、俺の気持ちは……わからないさ。動きたくても、どうしようもないヤツだって、いるんだ……」
「……強い?俺はただ腹が立っただけです。単純にそれだけですよ。人間、怒るべき時には腹を立てることができていないといけません。……まぁ、俺にあんたの気持ちがわからないというのは確かですが。……ああ、そうだ、……コンビニ行きましょう。スナック菓子……かっぱえびせんを馬鹿食いするんです。今日一日くらい大丈夫でしょう」
「なんでスナック菓子……?……かっぱえびせんー?」
「かっぱえびせんです」
「……スナック菓子なら俺ポテトチップスの方が……」
「かっぱえびせんです」
窓に映る影が歩き出し、やがて消えていくのをじっと見つめていた彼は、耳を押さえつけていた両手を離すとにこにこと微笑んだ。
机の上のシャーペンを握る。
保健だよりの四コマのネタを考え直さなければ。
お客様が退室されたからには、ぼーっとして時間を過ごすなんてことは許されないのだ。
現在・勤務時間中。
彼は非常に仕事熱心な男だった。
内藤匡祥、47歳。職業・校医。
現在の私立中学に異動してから約二ヶ月経過。
一ヶ月前から保健室の利用者が激減したことにもちろん気づいてはいる。
長らく保健室を訪れていない学生を目にしてはにこにこと微笑み、穏やかなつぶやきをもらすのだった。
「元気になったのかなぁ……よかったなぁ……」
END.