『美女と野獣』

おまえの本性は獣と変わるまい。
魔女が言った。

「そう、元は人間なのね。心から誰かと愛し合うことができたら元の姿に戻れるの。」
薄闇に包まれた館に美女の白い肌が透けるように輝く。
「ちょっ、カーテンから出てこないで。いちいち失神するのも疲れるわ。」
まぶたに置かれた指は細くたおやかで、鈴の鳴るような声は耳に心地よい。
初めてその姿を見、声を聞いたときは、まるで薔薇のようだと思ったものだ。
それもただの薔薇ではない、この世に一輪しかない、己の運命を決定する薔薇だ。
「……そうだ。だがタイムリミットがある。魔女がよこした薔薇の花弁がすべて散るまでに戻れなければ私は一生この姿のままだ。」
部屋に安置してあるそれは最初はつぼみだったが今ではすっかり花開き、すでに四枚の花びらが落ちている。
時間がない。
「はいはい。あのねぇ、あなたすでに声からして怖いわ。どうしてそんな地獄の底から悪魔を率いてくるような声しか出せないのかしら。あなたは私を愛そうとするつもりなのでしょう?ならまずは形からでも恋人にささやくような声を出してみるべきだわ。」
野獣はカーテンにくるまったまま顔をしかめた。
薔薇には刺がある。
という一言ですませてしまえるほどには、余裕のある心を持っていない。
「私の声はこのようにしか出てこない。………貴女は私に姿を見せるなと言った。」
「あなたの顔怖いんですもの。自分でもわかっているのでしょう?くれぐれもカーテンから出てこないで。」
「このうえ声を聞かせるなと言うのか?」
「だからその声が怖い響きなのよ。飢えたハイエナが舌なめずりする音だってあなたの声よりはましだわ。」
野獣は自分の奥歯が軋むのを聞いたが、カーテンを握りしめてこらえた。
「貴女には私を愛してもらわねばならない。姿を見せず、声を交わさず、どうしろというのだ。」
美女はクスリと微笑んで、嘲るように言った。
「知らないわそんなの。私はあなたを愛さなければならない状況にいないんですもの。それに顔を見て声を聞けば愛せるとでも?」
その微笑みはひどく美しく、カーテンの中から覗くように見ていた野獣を逆上させるには十分すぎるほどだった。
布を裂く音が部屋に響く。
鋭い牙の向こうからうなるような声が轟く。
それだけで、美女の体が後ろに倒れた。
気丈な瞳は固く閉じられ、言葉を選ばない口はうっすらと開かれたまま動こうとしない。
悲しみが一瞬にして怒りに勝る。
野獣は美女の傍にひざまずき、薄いピンクのさした頬に触れようとした。
カーテンを裂いたばかりの手で。

「……………貴女の言う通りか…。私は醜く、恐ろしい。受け入れられるはずがないのだ。」

そんなことはわかっていた。
半ばあきらめてもいた。
だが、最後だ。
おそらくこの少女を逃せば、次はない。
薔薇は散ってしまうだろう。

野獣は裂いたカーテンを身に纏い、かろうじてぶらさがっていたカーテンも引きちぎって美女をくるんだ。
爪が食い込まないように、細心の注意を払ってベッドへ運ぶ。

「……私は…貴女に愛されなければならない。」


目覚めたとき視界に映ったのが巨大な布の塊だったので、美女は思わず声をたてて笑った。
「あなたずっとそれで過ごす気なの?結構笑える性格してるわね。」
「………姿を見るたびに失神されては愛されるも何もないからな。」
しこたま笑い転げて一息つくと、起きあがってベッドのへりに腰掛け、隣りを軽く手で叩く。
「座れば?」
野獣は動かない。
「…そう、別にいいけど。私はあなたを愛する必要なんてないんだけど…町に戻るわけにはいかないの。しっつこい男がいるのよ。しかもお金持ち。無事に戻ったらきっと無理矢理結婚させられるわ。絶対に嫌よ。だから私はここにいたいの。もしここにいさせてもらう条件が…あなたを愛することだというのなら、努力はしてみるわよ?」
美女は顎に手を置いて微笑んだ。
その微笑みは美しくはあったが、不敵、不遜、という言葉が似合いそうだと野獣は思った。

「契約といこうじゃない?」

それでもこの薄暗い館に光が差したようで、差しのべられた手に己の手を重ねるのは躊躇われた。
「貴女は私を愛せるのか……?」
ただ声を発するだけで牙の鳴る音が響くというのに。
被っている布をとればたちまち倒れてしまうだろうに。
美女は正面に立ってその両手に野獣の片腕をのせた。
先ほどまで天井から吊されていた布はなかなかに材質がよく滑らかな手触りをしていたが、その向こうにある太い腕はごわごわとした体毛に覆われている。
人の名残を残したような五本指の先には研ぎ澄まされたナイフよりも切れそうな爪が光っている。
美女は面白そうに野獣の腕をいじりながらあっさりと言った。

「無理ね。」

毛深い小指がぴくりと揺れる。
「でも努力してみてあげるって言ってるのよ。そもそもあなたは私を愛せるのかしら?」
美女は野獣の指に生えている毛を一本抜いてみた。
「………わからん。」
今度は自分の手のひらと野獣のとを合わせて、大きさを比べてみたりする。
「あなたは人間に戻るために。私はしつこい男からの解放のために。ギブアンドテイクではいかが?」
そっと、野獣の親指を握るような形で手のひらを重ね、握手してみる。
「……わかった。貴女はここにいればいい。だが、私を愛してもらう。」
「契約文が違ってるわ。愛そうと努力してもらう、よ。」
野獣の手にほんの少しだけ力が込められる。

契約は成立した。


姿も声も野獣にはどうしようもないことだったので、美女に慣れてもらうことになった。
声は失神するほどではないので渋々承諾された。
姿は何度見ても慣れないようで、美女は後頭部にこぶができると言って細い眉をつり上げた。
「はい、腕よーし。足よーし。胸よーし。……サイズがなかったんだろうとは思うけど…それじゃあ普段着がカーテンっていうのと変わらないわねぇ…。あ、ちょっと待って。顔はダメ。目とか鼻とか口とか一つずつにしてちょうだい。はい、右目よーし。左目よーし。充血してるわよ。寝不足なの?鼻よーし。口……品のない大きさの口ね。そのうちその口とキスするのかしら?あまり考えたくないわ。これでパーツごとは大丈夫ね。次は顔ぜん…ぶ…」
またもや大きな音を立ててひっくりかえった美女に嘆息を禁じ得ない。
初めに比べればかなりの進歩だとは思うが、こんな調子で愛し合うことなどできるのだろうか。
美女の自分への想いは少なくとも恐怖ではないようだった。
が、愛にはほど遠いことは明らかで。
では自分はどうなのかというと、美女を見て呆れたり憤りを覚えたりはするものの愛しさなどはわいてこない。

薔薇の花がどんどん開いていく。
重力に引かれるように。
野獣はじわじわとした焦燥を感じていた。

「私は人間に戻れるのだろうか…。」
「無理だって言ってるでしょう。」
頭の後ろをさすりながら起きあがってきた美女に手を貸して立たせる。
この恐れ知らずの口ききにも随分慣れたものだと思いながらも、眉間にしわが寄る。
美女は口の端を少しつり上げて野獣の手を離した。

「だってあなた愛を知らないじゃない。」

瞠った瞳に華やかな笑顔が映る。
美女は外見には非の打ち所がなく、実際に心奪われた青年が数多くいるようだった。
野獣もすでに何度も美女に目を奪われた。
その度その美しさを認識したが、それは絵画の美しさに喉を唸らせるのと同じものだ。
それよりも、投げかけられる美女の言葉が締め付けるほどによく響く。
野獣は愛されなければと思いながら考えたこともなかったのだ。

愛とはなんたるかを。

「私だって愛が詳細に記されている辞書を見たことも愛が入っている宝箱を開けたこともないわ。だから無理なのよ。愛し合うことなんて。」
美女は唖然とした野獣になおも微笑みかける。
「無理して人間に戻る必要なんてないと思うのだけど?醜いからなんだというの?もしもあなたの顔が彫像のように整っていて、私の顔が赤くなったとするわ。私は恋をしたと思ってあなたと愛の言葉を交わしたいと願うのかもしれない。それが愛だというのなら……魔女も随分ぬるい呪いをかけたものね。」
「だが貴女は…私を見て倒れる。」
野獣はなんと言っていいのかわからずに間の抜けたことを言ってしまったと思った。
案の定美女は声を立てて笑った。
「あなたの顔が怖いのは事実でしょう?」
理性が制止を呼びかける前に怒りが燃え上がる。
わかっている。
美女の言葉は真実。
わかっているのだ。
だからこそ。
「……痛いのだけど。」
五本の爪が美女の腕を赤く濡らす。
少し力をこめれば、簡単にちぎれ飛ぶ。
何故そうしないのかと、問われるかと思ったが、美女はまっすぐな目で見つめるだけだった。
「…貴女には…私を愛してもらわなければ……………」
「契約だから努力はするけれど?無駄骨だと知っていてもね。」
野獣はこの女を八つ裂きにしてやりたいと心底から思った。
だが薔薇はまだ散ってはいない。
「…私は…人間に戻りたい……………」
「あなた馬鹿ね。そのうえ運も悪かったんだから最悪ね。」
美女は庭の泉で傷を洗ってくると言って扉を閉めた。


また一枚、花びらが散った。

野獣は花びらをそっと拾い上げ、指先で回しながら自分は今どんな顔をしているのだろうと思った。
悲しみに満ちた顔だろうか、絶望に染まった顔だろうか。
少しでも人間らしい顔をしているだろうか。
館にあった鏡は遠い昔にすべて叩き割った。
それでも窓や水面などそこらかしこに映し出される己の姿に慣れてしまうまでどれだけかかっただろうか。
今ではもう人間だった頃の顔を思い出せない。
「…魔女よ、私は愛を知らないと?それ故の呪いか?それとも呪いを解く術はないと?私を笑っているのか。」
未だ望みを捨てきれないのは愚かなことなのか。
薔薇は答えない。
静かに咲いているだけ。
その姿は美しすぎて儚かった。
野獣は眉を寄せ、美女のことを思い浮かべた。
初めて見たときこの薔薇のようだと思ったその姿は、確かに折れそうなほど細くて儚げではある。
だが中身は大違いだ。
悪戯な黒猫を思わせるあの瞳。
出てくる言葉のすべてが第一印象を裏切り、見透かしたように嘲笑う。
無造作に神経を触り、それを楽しむような女だ。
「人間に…戻る必要はないだと……?何が…わかる。この姿!他のどの獣とも比べようがないほど醜いこのっ!誰もが…誰もが私に怯え、忌み嫌い、私の元から去った!私を慕い、集った者たちすべてが!………っ…………小娘の…戯れ言だ……理解できるはずがない。」
野獣は己に言い聞かせる。
言葉がどれほど揺るがせようと、それを紡ぐ美女自身はまだ少女と呼ぶのが似合うような年齢だ。
真実を刃として遊ぶ、幼い故の残酷さであって、物事を深く考えているわけではない。
だから自分は呆れ、憤るのだ。
野獣は拳を握りながら自分を納得させるために頷いた。


冷たい泉に腕を浸して、美女は盛大にため息をついた。
野獣のことを思い浮かべるたびに水を散らして波を立てる。
血の流れる傷口を見てはつくづく馬鹿な男だと思っていた。
「あの人自分が何故人間に戻りたがっているのかとか考えたりしてるのかしら?」
おそらく、いや、絶対にしていないだろう。
「人が見たくもない顔を見る努力をしてあげてるっていうのに…自分は努力しているようには見えないわよね。」
どうも野獣は思考が短絡的だというか単純だというか他が見えていないというか。
考えれば考えるほど苛立ってくる。
「それでもあの男に追いかけ回されているよりはましだわ。」
一目見て恋に落ちたのだと言ってはばからない男。
その財力をも己自身の魅力だと信じて疑わない男。
自分に靡かないのはまだ恋に目覚めていないからだと思いこんでいるめでたい男。
それゆえにしつこく食い下がり、拒んでも拒んでもあきらめようとしない最低な男。
あの男と関わることに比べれば醜くて考えの足りない野獣と同じ館で暮らすことの方が我慢できた。
「……違う…でしょう……っ」
美女は泉の水をつかんで、力一杯握りしめる。
自分の中にある矛盾に気がついてはいる。
答もすでに出ている。
それでも認められずにいた。
「……ほら、姿が人間だって野獣だって大差ないのよ……心は変わらないんですもの。」
そう言って泉の水をすくったとき、木陰が小さく動いた。

嫌な予感がした。

「助けに来たぞ。野獣が来ないうちに早く逃げるんだ。」
声を小さくして近づいてくる男は先ほどまさにこき下ろしたばかりの人物で。
美女はまたもや盛大にため息をついた。
「大丈夫、俺が守ってやるから。親父さんにもちゃんと話をしてきた。心配いらない。」
私の意志を考えたりはしなかったわけね…と、言ってやりたかったがやめておいた。
下手に反論しても逆効果だと今までの経験から十分わかっていたからだ。
にっこりと微笑みながらハッキリと告げる。

「私、野獣を愛してしまったから。」

もちろん真実ではなかったが、この場さえしのげれば館に戻れる。
呆然としている男を口の端で笑って駆けていく。
「だから逃げられないの。ごめんなさいね。」
とどめを刺すように華やかな微笑みを浮かべて。
しかし最後の言葉はとどめになるどころか男を回復させてしまったということに、美女は気づかなかった。
「……逃げられないのか…そうか…脅されているんだろう…?……だったら………」


野獣は美女の腕に巻き付けられた布を見て顔を歪めた。
もちろん野獣の顔は隠されていたが気まずい雰囲気というのは伝わるもので、美女は小さく息をついた。
「後悔すると思うのなら最初からしなければいいのに。私はマゾヒストじゃないわよ。好感度が大分下がったわ。」
「……すまない。」
野獣の声が憮然としている。
こういうところに呆れはすれど、嫌いではないと美女は思った。
どれだけ背伸びをしても愛には届きそうにないが、思わずいじめてやりたくなるくらいには好意らしきものを抱いている。
時折ひどく苛立つのはもどかしいからだ。
ようするに、放っておけないということなのだろう。
「安心して。まだここを出て行きたいと思うほどではないから。」
野獣は背を向けて夜が映った窓を見つめる。
美女は自分が野獣から言葉を奪うのに成功したのを確認すると、顔を見ないようにそっと目を閉じた。
「……想像力が…豊かだと言えばいいのかしら貧困だと言えばいいのかしら…そういう人が多いのよ。」
いぶかしげに振り返った野獣に構わず続ける。
一度止まってしまえばもう口に出せないだろう。
「誰だってほしいものがあるの。実在してほしいと願うから心の底でそれを信じている。でも本当にあるかどうかなんてけしてわからないわ。自分を語る自分の言葉でさえ嘘か真実か見抜けないことがあるくらいだもの。」
閉じられた瞳に何を映しているのか、意図するところが理解できず、野獣はどうしたらいいのかわからなくなった。
「何を…言っている?」
「だからこそ容易く夢をかぶせて願いを叶えるんだわ。疑いも抱かずそうできる人は幸せね。」
思わず美女の顔をのぞき込みそうになって、また気を失われてはたまらないと踏みとどまる。
美女は目を閉じたままぴくりとも表情を動かさない。
「でも私はそんなふうにはなれないわ。」
だが体の前で重ねられた指先がわずかに震えているのに気がついてしまった。
野獣はますます困惑して美女の肩をつかみそうになった。
そんなことをすれば爪が食い込んでまた傷つけてしまうだろう。
うかつに触れることができないのをこんなにももどかしく思ったのは初めてだった。
今、この状況で、思うままに接触できるのは声だけ。
しかし野獣には自分が何を言いたいのか、自分自身の心がわからずにいた。

「私がほしいものはもっと確かなもの。わかりやすいもの。………、」

初めて言い淀むということをした美女を見てひどく不安な気持ちに襲われる。
生意気な双眸が閉じられているせいだろうか。
目の前の少女が、初めて見たときのように儚く、折れてしまいそうに見えるのは。
ピンクの唇が薄く開き、すぐに閉じられる。
何に躊躇うのか。
それだけの意味がこの話にはあるということか。

そして、はっと気がつく。
今、この瞬間。
野獣の頭には戸惑い以外何もなかったのだ。

そのとき大きな音を立てて一斉に窓が割れた。

美女が驚きに目を瞠る。
野獣は森の中に無数の火を見て、一瞬で状況を悟った。
「……町の人間が私を狩りに来たか………。」
そう、町、だ。
魔女の術により長い年月を獣の姿で生きてきたため、こうしたことは度々あった。
その度に野獣は力の限り応戦して生き長らえてきた。
一番大人数で襲撃されたのは数十年前。
現在の町はそのときはまだ村だったのだ。
「……たぶんあいつだわ。前に話したしつこい男。」
美女の顔が歪む。
先ほどの儚さはかけらもない。
野獣は少しほっとしたがすぐに神経を尖らせた。
「矢が飛んでくる。奥に入るといい。」
美女はその場を動かずに首を傾ける。
「どうするの?首謀者はあいつだろうから私が戻って上手いことを言えばどうにかできるかもしれないわよ。」
野獣は近づいてくる火を見つめたまましばし逡巡した。
呪いを受けた遠い日から共に生きてきた薔薇の命がもうすぐ尽きる。
美女と愛し合うことができなければ人間に戻る機会は永遠に失われる。
館から逃すわけにはいかないというのが本音だ。
だが、森を照らす火の数は見たことがないほど多い。
「いっそのこと二人で逃げてみるっていうのもありかもしれないわね。」
思ってもみなかった言葉に自然と目が見開いた。
「貴女は…」
言いかけた言葉を飛んでくる矢に阻まれる。
矢の先は布にくるまれ、火がついていた。
「……やっぱり私が戻っても無理かもしれないわ。よかったわね、選択肢が減ったわよ。」
館のあちこちから窓の割れる音がする。
おそらく脱出するのを待ち伏せる作戦なのだろう。
「とにかく館から出よう。じきに火が回る。」
美女は頷くと野獣が体にまとっているカーテンをそっとつかんだ。
「こんなもの巻いてたら燃えちゃうんじゃない?でも私が倒れると困るわね。どうしましょうか。」
状況がわかっているのかいないのか、野獣は思わず頭を抱えたくなった。
だが、やはり。

「貴女は私から逃げようとは思わないのか。」

先ほど言い損ねた言葉を今度こそ口に出す。

「契約したものね。」

美女は淡く微笑んだ。


思ったよりも火の回りが早く逃げ道は自然と限られた。
途中飛んでくる矢を振り払いながら進む。
大切な薔薇は箱に入れて美女の胸元に抱えられ、なんとか花弁を落とさずにいた。
生きて館を出られるかさえわからないが、まだ人間に戻る望みを捨ててはいない。
いや、人間に戻りたいからこそ生きて館を出るのだ。
簡単に命を絶つようならとうにやっていただろう。
だが、野獣は心に迷いが広がるのを感じていた。
自分が何かを間違えているような、そんな気がした。

なんとか崩れ落ちないうちに館から出ると、予想通り多くの人間が待ち伏せていた。
何故か周りを取り囲むだけで手を出してこない。
その顔には恐怖と憎悪がこびりついているというのに。
野獣はよほど襲いかかろうと思ったが攻撃してこない相手にそうするのはやはり躊躇われた。
話し合いではどうにもならないだろうとわかっていながら、口を開こうとする。
しかし、その男がやってきた。
「みんな、ありがとう。よくやってくれた。」
男はそう言って頭を下げるとすぐに野獣に向き直って斬りかかった。
「野獣め……よくもっ!おまえはこの俺が殺してやるっ!」
ああ、この男なのだと、野獣は悟った。
太刀筋はたいしたことがない。
避けるのは容易で、攻撃を返すことも簡単だ。
だが、囲まれている。
この男を殺したとしても逃れられないだろう。
ならばあえて人間を殺す必要があるだろうか。
今までなら命の限り戦ってなんとしてでも生き延びようとしたと思う。
けれど今、野獣は迷っている。
自分の行動の意味に迷いが生じている。
それは何故なのか、考えているうちに剣が迫った。

炎に照らされた剣先が赤い線を描く。
野獣はその光景をどこか遠くで起こったことのように見つめていた。
その温度に触れるまで。

剣を地面に落とし、男は信じられないといった顔をした。
薔薇の花が、舞った。
赤く染まった美女の胸を、さらに彩るように。
野獣は目を閉じた美女の顔を見ながら、今、何があったのか、まったく理解できずにいた。
「なんだ……?これは。」
声が怖いとよく言われた。
「これは………………」
顔を見せたたびに気を失われた。
目を閉じたまま動かない姿を何度も見た。
だが、これは。

野獣はかろうじて巻き付いていた布を取り去って低く咆哮した。
男は立ちつくしたまま身動きもしない。
武器を持って取り囲んでいた人々は一斉に青い顔をして後ずさった。
頭の中に何も浮かばない。
ただたぎる感情が出口を求めている。
野獣は男に飛びかかろうとした。
そこに、白い手がのびる。

「……悪いわね。薔薇が散ってしまったわ。」

野獣の頬をなでるその手は小刻みに震えていて、明らかに無理をしていた。
「ねぇ、あなたは私を館に呼んだだけで人や町を襲ったりはしていないわ。でもその姿をしているだけで町中の人がこんなことにのる気になってしまうのね。本性が獣と変わらない、ですって?あなたは運が悪かっただけで…誰だって同じなのよ。」
野獣は喋るなと叫んだ。
しかし美女は笑うだけで、口を閉じない。
「人間に戻っても姿が変わるだけだわ。それはそんなに大切なことかしら?」
美女の手がいたわるように野獣の頬をなで続ける。
野獣はようやく気がついて、目を見開いた。
「難関の顔を見事達成。あとは一番重要な心なのだけど…もう意味がないわね。」
薔薇は散った。
人間に戻る機会は永遠に失われた。
しかし野獣はこんな状態でまだそのことを口にする美女に悲しくなった。
確かに人間に戻りたかった。
なんとしてでも。
そのために美女に愛されなければとそればかりを考えていた。
美女が何かを伝えようと言い淀んだあのときまで、片時も頭から離れることはなかった。
だが、美女の血に触れて、やっとわかったのだ。

「……私は人間に戻りたかったわけでは…ない。」

この姿に変えられたその日から野獣は一人になった。
親しかったもの、信じていたもの、すべてが自分から去った。
それらを取り戻すことこそを望んでいたのだと、そのために人間の姿に戻りたかったのだと、今さら。

「……すまなかった…。」
こんな言葉が言いたいわけではない。
けれど一番言いたい気持ちは言葉にならない。
「別にかまわないわよ。そのおかげで契約が結べたんだから。」
美女はおかしそうに笑う。
「確かでわかりやすいものが好きよ。人の心は欲望だけわかりやすいわ。愛とかそういうものは嫌いなの。悩むのは性に合わないのよ。あなたは人間に戻るために私を受け入れた。私は…逃げるためだけなら……ここへ来なくてもよかったけれど……」
野獣は声を出すのが苦しくなったのかと思って顔を歪めたが、すぐにそうではないことに気づく。
あのとき言い淀んだことを言おうとしているのだろう。
躊躇いがちに唇が開かれる。

「…それでも誰かといたかった。愛なんていらない。私を必要としてくれる人がほしかったの。」

美女は目を細めた。
ずっと誰にも言えずにいたことをこの獣になら言えるかもしれないと思ったのはいつだったろうか。
契約を結ぶ相手は自分に特殊な好意を抱いていない相手なら誰でも良かった。
野獣の姿は恐ろしかったけれど内面はそうでもないのだとすぐにわかった。
衣食住がそれなりに保証されていて、何よりも野獣が必死だったから、理想的な契約だった。
そこにわかりづらいものが紛れ込んだのは、ああ、そうだ。
野獣が何故人間に戻りたいのか、その理由に気がついたときだったろう。
野獣と自分が求めているものは同じなのだ。
姿は違えど、求めているものは。
だから契約はただの契約ではなくなった。
無理だとわかっていても叶えてやりたいと思うようになった。
結局自分はわかりにくいものを好きになれなかったので、愛をほしいとも与えたいとも思えなかったが。

「……私は貴女を必要としている。」

野獣のつぶやきに美女は顔を曇らせた。
野獣の口からは決して聞きたくない言葉がある。
祈るような気持ちで次の言葉を待った。

「私も私を必要とする人間がほしい。それができるのは私の顔を見ても平気でいる貴女だけだ。だから、私は貴女を必要としている。」

頬を熱いものが伝っていくのを感じて、野獣の首にしがみつく。

「わかりやすい理由ね。気に入ったわ。契約を…結んであげる。私もあなたも、自分を必要としてくれる人を手に入れるために。一緒にいましょう。ずっと……」

そうして意識を手放した美女を、野獣はそっと抱きかかえた。
美女は「死ぬまで」とは言わなかった。
魔女の呪いはとけなかったのだから、元々野獣は美女よりも長い年月を生きるのだ。
だが、美女は契約を残して逝く。
愛ではない。
それでもこの相手しかいないと思う。
野獣は薔薇を踏みしめて歩き出した。

周りを取り囲んでいた人々は怯えてはいるものの、すっかり戦意を喪失した顔をしていた。
二人を呆然と見やっていた男は弾かれたように正気を取り戻して納得できないという顔をした。
しかしすぐに唇を噛む。
「………とっさに…力は抜いたつもりだ。もしかしたらまだなんとかなるかもしれない。医者に診せよう。助かったら…二人でどこかへ行くといい。俺はおまえにこの付近に住んでもらいたくはないし…そいつの顔も見たくない…。」
野獣は深く頭を下げて、心から礼を述べた。


やがて小さな町から美女と野獣が旅立ち、幾年月を共に過ごすことになる。

二人の関係は契約だけが知っている。
END.
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