『眠れる森の美女』

 お姫様は魔女に呪いをかけられてしまいました。
ずーっとずーっと、眠ったまま目覚めません。
そう、いつか王子様が現れて、お姫様にくちづけをしてくれるそのときまでは―――。

お姫様は何年も何年も眠り続けました。
やがて王様がいなくなり、戦争が生みだした英雄たちが「我こそが王である。」と名乗りをあげる時代になりました。
彼らは王の証明のためにこぞってお姫様の眠るいばらの森につめかけ、森を焼き払い、なぎ倒してお姫様を目覚めさせようとしました。
けれどそうして野心からお姫様の目覚めを望んだ者たちも、お姫様をひとめ見るとみんな心からお姫様に恋しました。
しかし、お姫様を愛する誰が、何人、何回くちづけをしても、お姫様の眠りは決して覚めることがなかったのです。
そんなときでした。
眠れる森にその男がやってきたのは。

男はうす汚れた風貌で、見るからに卑しい身分の者でした。
けれどお姫様の魅力には身分など関係ありません。
この方の瞳の色はどんな色だろう。
声は?動きは?最初に紡ぐ言葉は何なのか。
彼は試しにお姫様にくちづけをしてみましたが、やはりお姫様は目を覚ましません。
話しかけても、触っても、くすぐっても、
何をしてもお姫様は目覚めません。

「その女はもう死んでるよ。」

男ははっとしました。
どこからか声が響いてきます。
「吐息は聞こえる。心の臓は動いている。けど目を覚ますことはない。なぜかわかるかい?」
男は首を横に振ると、その途端、黒い風がつむじを巻いて目の前に現れました。
「この女の心が死んでいるからさ。」
黒い風の正体は、とても大きなカラスでした。
カラスは嘲るように笑ってみせるとこう続けました。
「この女は幸せな夢を見続けている。しかしこの女は知っているんだよ。それが夢だということも、今のこの現実のすべても。」
では何故お姫様は起きないのか。
男は聞きました。
「起きる気をなくしたのさ。」
カラスはせせら笑いました。
「この女が待っていたのは運命の恋人だった。一人しかいないその男はたった一人この森をかきわけ現れるはずだった。でも現れたのは大勢の野心家ども。やってきたはしから女の唇を奪っていった。女はもうどうでもよくなったのさ。」
男は愕然としました。
なおもカラスは続けます。
「そいつらは全員この女を愛していたが女にとっては関係なかった。女が欲しかったのはたった一つの運命だから。そのたった一つが大勢いても女は喜ばない。」
カラスの言葉は男には理解できませんでした。
男にはカラスの言葉が「愛してるかどうかなんて関係ない。」と聞こえたからです。
しかし男は自分が恋したお姫様がそんな女性だとはとても思えませんでした。
すると、カラスはこう言いました。
「この女がどんな女かなんてどうしてわかるのさ。自分のことだって全部はわかっちゃいないだろうに。自分のこともわからず、この女のこともわからずに、どうしておまえはこの女のことを愛しているんだい?」
男は何も言えませんでした。
考えてもいい答は浮かんできません。
恋しい、愛しい、愛してる。
それは………何故だろう。
「愛に理屈など必要ない。」という考えが頭をよぎりましたが、この状況でそれはなんとなく「逃げ」のような気がしました。
男は自分の気持ちがわからなくなりました。
「この女がどんな夢を見ているか教えてやろうか?」
つけいるようにカラスが言いました。
「女が見ているのは幸せな夢。不幸で不幸で最後にはすばらしい幸せをつかむ、そんな夢。だけどおかしいと思わないかい?どうせ夢ならとことん幸せにすればいい。どうしてわざわざ不幸な目にあおうとするんだろうね?」
男は考える前に首を振りました。
考えて惑わされるより聞くのに徹しようと思ったのです。
それでも話を聞くまいとは思いませんでした。
カラスはまたも嘲るような笑いを浮かべました。
「この女は不幸に酔っているのさ。」
そう言って今度は高らかに笑います。
「幸せは一瞬で終わるもの。不幸に比べると不確かなものだ。それに、他人も自分自身も哀れんでくれる。『私はこんなにかわいそう。』そしてこの女は不幸なことで他人に優越感をもつ。こっそりと自分を正当化する。わかるかい?」
男は今度の話はなんとなく理解できました。
男は今までずいぶんと苦労してきましたが何不自由なく暮らしてきた人たちを逆に蔑んでいましたし、同じような境遇の人がいればつい苦労自慢をしてしまいます。
要するにそういうことなのだろう。と、男は思いました。
「眠り続けていることも、女にとっては甘美な不幸の一つなのさ。いろんな男たちに唇を奪われることもそう。」
男は考えずにはいられなくなりました。
何がお姫様にとって一番の幸せなのか。
考えて考えてひねり出したいくつもの答はどれも男を満足させてくれませんでした。
いっそ考えられなくなった方が楽なような気がしました。
すると、まるでその心を読んだかのようにカラスは言いました。
「考えられる人が考えることをやめてはいけないよ。それは『逃げ』だからね。逃げることも必要だが、やがて逃げることしかしなくなったとき、その人の心は死んでしまうのさ。」
そしてこう続けました。
「だけど間違えてはいけないよ?どんなに考え抜いて出した答でも、それは『まぎれもない真実』なんかじゃ決してない。大切なのは『考えること』なのさ。ただし、現実にはどうしても答を出さなければいけない問題が無数にある。その中の一つをおまえにやろう。」
男は息をのみました。
「この女の運命の相手はこの女の理想そのもの。自ずからこの女の望むままに動く人間がこの女の理想。女の望むすべてを完璧に満たし、理想との隙間は許されない。愛が義務に変わることもあってはならない。」

「おまえがその運命の相手になる気があるなら、この女は目覚める、と言ったら?」

男は逃げずに考えました。
できる限り考えました。

もし、もしも…………
自分がその運命の相手になれたとしたら、
お姫様は一体どちらを愛すのだろう。
自分なのか、それとも運命なのか―――――。
………お姫様が望んでいるのがすべてを与えてくれる理想だというのなら、それはきっと運命の方なのだろう。
けれどお姫様を愛するが故に運命の相手であろうとし、また、それ故に愛は義務へと変わってしまうのだろう。
そして二人で自分たちの不幸に酔うのだろうか。
自分を正当化するために自分を責めて、その苦痛を楽しむのだろうか。
自分が否定されないように不幸を競い、答の出ない理屈に逃げるのだろうか。
そのときお姫様への愛はどのように残っているのだろう。
この心は死んでいて――――。

そして男は眠れる森を旅立ちました。
男はお姫様を心から愛していましたが、そうすることが自分のためにもお姫様のためにも一番いいと思ったのです。
男は遠くからお姫様の幸せを祈ることにしたのでした。

結局、男もお姫様を目覚めさせることはできませんでした。

「もうお姫様が目覚めることはないのかもしれない。」
人々は悲しみました。

誰も知らなかったのです。

毎晩毎晩みんなが寝静まった深夜になると、
あの不気味な大ガラスがまるですすり泣くかのように震えながら

「誰も、………誰も本気で私を目覚めさせようとしてくれない………」

と、つぶやいていることを。

お姫様は知っていました。
自分の見ている幸せな夢が夢だということも、現実のすべても、自分の求めているものも、そして、わかる限りの自分の心も。
お姫様は男の愛が本当だということも知っていましたが、心から信じることができず、男を試したのでした。
男が去り、
「ああ、やっぱり。」
と、お姫様は思いました。
男が遠い地でいつもお姫様のことを思い、その幸せを願っていることなど、お姫様にとってはどうでもいいことでした。
お姫様が欲しいのはあくまで『運命の相手』なのですから。

お姫様はどこか間違っているのかもしれません。
しかし、お姫様は自分がまるっきり正しいとも思えませんが、本気で否定することは決してできない人でした。
お姫様は今日は泣いていますが、明日はまた同じ事をするのです。

明日もし運命の人が現れたならそれでひとまずハッピーエンド。
もしくはお姫様が同じ事を繰り返し、考え続けたならいつかはきっとハッピーエンド。

はたしてお姫様は目覚めることができるのでしょうか。
END.
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