『暗黒サンタ』

草木も眠る丑三つ時。
呪いの呪文のような低いつぶやきが絶え間なく紡がれる部屋で。

貴史は羊に埋もれていた。

「にひゃくさんじゅういっぴき〜羊がにひゃくさんじゅうにひき〜ひつじが……ジンギスカン鍋って美味いかねぇ…なんか汁に羊毛が浮いてるようなイメージなんだよなぁ…メリーさんは毎日ジンギスカン鍋食ってんのかなぁ……って、また思考がよそいきやがった。羊だ!羊!羊が…にひゃく…にひゃく…一から数えなおしだクソっ。」
太った羊からやせた羊、果ては羊の皮を被った狼まで、ありとあらゆる羊を数えても眠れそうにない夜。
もはや羊の効力を信じる心など露ほどもないが、半ば意地になって数え続ける。
何せここ数日一睡も出来ていないのだ。
元々不眠症気味ではあったがここまで本格的に眠れないのは初めてのことだった。
起きてゲームをしようにも心も体も疲れていたし、睡眠薬は飲む気になれない。
チクタクとメトロノームのように時を刻み続ける時計を見ればすでに深夜三時。
「羊がじゅうさんびきたりな〜い羊がじゅうよんひきたりな〜い。」
数え方を変えてみてもまったく効果はない。
それでもしんと静まりかえる夜と向き合う気にはなれなかった。

コン コン

ふいに、ノックの音が聞こえてきた。
ベッドに横になったままドアを見るが、今のは反対側から聞こえてきた気がする。
貴史はのそのそと起きあがり、眉をひそめて窓の方を見た。

コツコツ ガツッ べたっ べたっ ガコガコッ ミシミシッ

カーテンに映る人影。段々荒っぽくなってくるこのうえなく怪しげな物音。
思わず唾を飲み込んだ瞬間、窓の一部が割られ、鍵を開けられた。
「どっこいしょ。」
いかにもくたびれたというような調子の声は男のもの。
完全に侵入を果たされてしまえば終わりだ。
こういうときどうすればいいのか、絶対に母親の部屋へは行かせない。ここで食い止めなければ。
そう思っても頭の中がぐちゃぐちゃして具体的にどうすればいいのか決断できない。
強く拳を握りしめて前をにらめば、カーテンの下から今まさに床に降りようとしている男の足がのぞく。
貴史は体をぴくりとも動かせなくなってしまった。
床から二十センチほど上の空中でじたばたともがいている片足に唖然としてしまったのだ。
「うんぬっ…このっ…足が届かんっ…。しまった体勢をまちがえ…うっ股がっ…!」
手のひらににじむ汗がなんだか悲しくなってきた貴史はカーテンの向う側でもがくマヌケに蹴りをお見舞いしようとした。
しかし男はまるで反対側から押されたように足を滑らせ、床に転がった。
両手をついてすぐに起きあがったその姿は…

アンパンマン。

ジャムおじさんでもバタ子さんでもばいきんマンでもなく、アンパンマン。
アンパンマンは貴史を見て自分の顔を両手でしっかりと押さえ、そして言った。

「初めまして、サンタです。」

昨日半袖に替えたばかりのパジャマに夜風がひどく寒かった。
「……そのふざけたお面とれ。」
「ジャムおじさんに焼いてもらわないといけなくなるから勘弁してくれないと困ります。」
無言のまま対峙すること約五秒。
「サンタジャムも糞もあるかーーーっ!不法侵入者とヨロシクする暇なんかねーんだよ!こんな部屋に忍び込んでも俺の頭は羊オンリーだ!オンリーメリーだ!羊なんか盗んでどうする!わかったら大人しく羊毛布団で安らかな眠りにつけ!」
と、思いきり怒鳴ってやりたかったが、寝ている母親を気遣って多少声を抑えた。
自分でも半分くらい何を言っているのかわかっていない。
眠いのだ。
眠くてたまらないのに眠れないのだ。
無数の羊を数える貴重な時間をたかが一匹のアンパンマンなんぞに費やしている暇はない。
貴史は無性に腹が立ってきた。
「オーノー!不法侵入者違うネ、私サンタ。日本の家には煙突ないから最近はこうやって入るネ。」
「……じゃあさっさとプレゼントよこして帰れ。」
貴史の目が据わる。
アンパンマンは見る見るうつむきがちになり、首と顎がくっついたところでがばっと顔をあげた。
「わしは暗黒サンタ!プレゼントをもらうのではなく奪うサンタなのじゃ!」
「やっぱりただの泥棒じゃねーかっ!」
「何をうっ?夢を失った若者たちめっ!サンタクラーッシュ!」
「てめぇが崩れろ泥棒アンパン!」
拳と拳のご対面、と思いきや、ちょんと触れただけでアンパンマンがのけぞって倒れ込む。
「骨が……っ骨がぁぁぁぁっ!老人の骨はもろいのを知らんのか!このわしを失うことは日本の損害っ!慰謝料のプレゼントを要求するっ!」

はた。

「今…老人って言ったよなアンパンマン。」
にじり寄る貴史。
にじり退くアンパンマン。
光沢のあるお面の上からでも焦っていることがわかる。
「そのお面とりやがれー!よぼよぼじじいの顔確かめてから警察つきだしたらぁぁぁーーーっ!」
「ま、待てっ!わかった!プレゼントをやろう!アンパ…じゃなくてサンタの方の名にかけて!」
貴史は意地悪く追いつめてやろうと思い、にやりと口を歪ませた。
「ほー。プレゼントくれるんですかサンタさん。じゃあ俺を眠らせろ。」
「……う、うーむ。…ではこれを見るんじゃ。あなたは段々眠くなーる眠くなーれ眠れ〜眠れ〜わしの胸〜で♪」
アンパンマンは必死に五円玉を動かした。
もちろん催眠術の心得などない。
これで本当に眠ってくれるなんてことないかなーあったらいいなーでも無理だろうなーなんていってごまかそうかなー隙を見て銭形平次するっきゃないかなーなどと考える時間がほしかったからやっているだけなのだ。
が。

ぐー ぐー ぐー ぐー

何故か成功してしまったのだった。
「………かくて新たな才能の芽生えにワクワクするわしは輝かしい明日を確信し何ものにも代え難い誇りを胸に今日も部屋あさりにいそしむのであった。」
アンパンマンはついさっき自販機の下で拾ったばかりの五円玉に礼を告げ、まずは机の中をあさりだした。
「……うむ、このHBの鉛筆1ダース入りなどどうじゃろう。いかにも小学校以来使ってないが新品だから捨てるのもどうかと思い放ってあるといった感じじゃ。」
そんなことをつぶやきながら次々と品物を厳選していく。
一通り部屋中を見回して、ある一点で顔をしかめた。
ゴミ箱に写真が何枚か捨ててある。
「…これは…本気ならいただくんじゃが……さてどうしたものかな。」


鳥がさえずりを始める頃、負けじと可愛らしい声が耳を打つ。
「貴史ちゃん、貴史ちゃん、朝ですよ。貴史ちゃん。お母さん今日貴史ちゃんのだーい好きな目玉焼き焼いたのよ。早く起きましょうね貴史ちゃん。」
貴史は適当な返事を返しながらも意識はまだ夢の中だった。
「んもー目玉焼き嫌いになっちゃったの?そんなんじゃあ大きくなれませんよ。貴史ちゃんが大きくならなかったら将来誰がゴジラを倒すの?頑張って起きましょうね貴史ちゃん。」
ゴジラ?
爽やかな朝に似合わない単語に顔をしかめ、ああ、今自分は寝ぼけているんだなと静かに納得してまぶたをこする。
暗闇を抜ければそこは…

アンパンマン。

貴史はゆっくりと現実世界を後にした。
「貴史ちゃん、んもーこの子は寝ぼけてるの?いけない子。」
何を言われようが反応してはいけない。二度とまともな世界に帰って来れない気がする。
固い意志でできた耳栓を装着したが、相手の方が上手だった。
「しょうがないわね貴史ちゃんたら。おはようのキ・ス♪してあげないと起きられないのね。」

ぷち。

「てめーーなぁーーー!ぶっ殺すぞ終いにはっ!せっかく眠れたのに気色悪い声で起こすな変態!出てけーーーっ!」
時計を見ればまだ起きる気にはとてもなれない早朝五時。
貴史はますます怒りを煮え立たせた。
しかしアンパンマンは悪びれた様子もなく声色のまま応答。
「だから二時間眠らせてあげたのに〜短気な子は女の子に嫌われちゃうわよ貴史ちゃん。」
こいつには不法侵入者の自覚がないのか。貴史ちゃんって呼ぶな。
そしてやっと気がつく。
「なんで、名前……そうだてめぇ泥棒だろうが!何盗みやがった!家中物色したのか?母さんは!」
まさか本当に眠ってしまうなんて。
血の気が音を立ててひいた。
アンパンマンは得意げに胸を張り、古めかしい風呂敷をすっと差し出した。
「ふふふふふ………この家からはHBの鉛筆と五重塔の模型、努力・根性・忍耐と書いてある石、そしてこのポテトチップスをいただく!」
貴史は間の抜けた顔になり、すぐさま眉をひそめ、アンパンマンの身体チェックをしてみたが怪しいところなし。ますます妙な顔をした。
「そんなもん盗んでどうすんだ…?」
アンパンマンは答えない。
「……なぁ、五重塔は返してくれ。それ友達が買ってきてくれた土産物なんだよ。」
「この先友達はどれだけ旅行に行くんじゃ?その度に模型をもらう気か?それは引っ越したり結婚したりしてもずっと持っておくのか?決していらないと思うことがないというのなら返してやろう。」
仁王立ちのアンパンマン。昇りたての朝日に輝くお面はお決まりの笑顔。
どう見たって間抜けな状況なのに何故か笑えなかった。
「何言ってんだ…?つーか泥棒だろ。返してやろうじゃなくて返せよ。」
「泥棒違います。サンタです。その証拠に!わしは!貴史ちゃんに!安眠をプレゼントしたっ!」
貴史は押し黙った。
状況判断が上手くできないのは決して寝起きのせいだけではない。
状況が異常すぎるのだ。
アンパンマンが泥棒なんだけどサンタで不法侵入までして変なものばっかり盗むしついさっき羊をプレゼントされたばかりだ。
おまけにアンパンマンの人格も異常。
これをどう判断しろというのか。
常人には絶対に無理だと思われた作業だが、貴史は瞬時に結論を出した。
「……そうか、睡眠不足による幻覚か。…………今度こそ寝なきゃあな。」
「寝直すのはかまわんが一つ答えてからにしてくれんかね。」
幻覚に頬をぺちぺちと叩かれる。

「写真が欲しい。」

突如として目が覚めた。
目の前に差し出された写真をひったくろうとするが軽く避けられ、頭に手を置かれる。
「ゴミ箱に捨ててあったこの写真じゃが…いらんのならくれんかね?」
「……やるくらいなら捨てる。」
貴史はすぐさまその手を叩き落とした。
「貴史ちゃん、世の中はね、ギブアンドテイクなのよ。もらってばかりであげないっていうのはダメ。貴史ちゃんはぐっすり眠ったんだから、サンタさんにプレゼントあげてもいいんじゃなーい?」
一見ふざけた、神経を逆なでする言葉。
おそらくわざわざ尋ねたのもわかっていてやっているのだろう。
「そんなもん…盗んでどうするんだよ。」
「そんなもんじゃからいただくんじゃよ。この写真は?いるのかいらんのか。」
決断を迫られるのはひどく不快だった。
答はもう出ているのだと薄々感づいているのに口に出せない自分。
きっとくだらない理由で、納得できずにいる自分。
アンパンマンはさらに煽った。
「もう一度じっくり見るかね?君とご両親の家族団欒の様を。」
貴史は苦いものをすべて吐き出すかのようにため息をつく。
「……………返せ。いる。」
「次の瞬間再度ゴミ箱ということはなかろうな?」
「……………いる。まだ…ダメだっただけだ。」
わずかに苦笑した貴史に写真を渡し、アンパンマンは心からすまなさそうに言った。
「それはすまんことをしたな。明日から…というわけにはいかんじゃろうが君がぐっすり眠れることを祈っておるよ。」
貴史は写真を一瞥してそっとふせた。
「あんた、マジにサンタ?」
「アンパンマンでいる間はな。」


「……って、ことがあったんだよ。気がついたら五重塔とられてたわ。悪い。」
貴史は音を立てて両手を合わせた。
英二はまったくの呆れ顔で頬杖をつく。
朝のホームルーム、いつも遅刻気味な貴史が珍しく早く来て気まずそうにしていると思ったらこれだ。
何があったのか少なからず心配した自分が馬鹿馬鹿しかった。
「いいけどな、あの模型は半分ギャグだったし。でもその作り話はなんなんだよ。」
「夢かと思ったら五重塔はないわ努力・根性・忍耐はないわHB鉛筆はないわポテトチップスもないわでやっぱり現実だったっぽいんだよ。世の中まだまだミステリーであふれてるぞ。」
英二は露骨に大丈夫かコイツと顔に書いたが、すぐに話を変えた。
「でもまぁ久しぶりに少しは眠れたわけだ。……ふっきれたんか?」
貴史は苦笑する。
さりげない心配を心地よく思う余裕が戻ってくるまでに随分長くかかってしまったのだと実感した。
「とっくに許してたよ。」
「よく言うよ。」
英二に肘でつつかれたが、嘘ではない。
許すだけなら早くから許していた。
ただ色んな事が納得できずにいただけなのだ。
「子供だからな。」
「都合いい奴だな。」
悪戯っぽく笑われて貴史も笑った。
「明るくていいでしょ♪」

貴史の名字が変わってから一ヶ月になる。
母の旧姓と自分の名前を初めて並べて口に出したとき聞き慣れない響きがおかしかった。
クラスの連中に名前が変わったことを告げたときも内心喉の奥で笑っていた。
こいつ気まずそうにしてやがる。こいつはどうでもよさそうだな。こいつはどう思ってるのかな?
一人一人の反応を見るのがとても楽しかった。
今時珍しくもない親父の浮気。今時珍しくもない親の離婚。
それでも貴史はひどく驚いた。
父も母も一切そういう雰囲気を自分に見せなかった。
まさしく寝耳に水だったのだ。
両親は残酷な優しさで明るく幸せな家庭という空想を息子に与えた。
息子は崩壊寸前まで何も知らずにそれを信じていた。
紛れもない現実が二度と戻らない夢に変わる瞬間がくるなど、思ってもみなかった。
裏切られた。
憎しみと、悲しみと、怒りと、ありとあらゆる感情を静かに燃やした。
燃料がなくなると、だがそれもある意味優しさだったのだと多少は理解できるようになった。
十年以上つれそってきた夫をなくした母の気持ちも、母と自分を捨てていく父の気持ちも、少しずつ胸に入ってきた。
世界に裏切られても、世界を嫌いにはなれなかった。
ただ、どうしても納得できずにいただけなのだ。


退屈な授業が適当に過ぎて、お待ちかねの昼休みに学校を抜け出す。
見張りのいない門をよじ登ってしまえば後はコンビニまで猛ダッシュ。
証拠を残さないように買った物はそのへんで食べる。
ほぼ毎日の日課を、貴史と英二は今日も遂行した。
見つかれば先生に怒られてしまうがそのちょっとしたスリルもまた楽しい。
時々すれ違う同志の獲物を見て今日は何を買おうかなどと考えながら走った。
コンビニのドアを開けたとき二人をむかえたのは店員のいらっしゃいませではなくて客の一言だった。

「つりは全部五円玉でお願いします。」

思わず店員が聞き返す。
「五百円を……全部五円でですか?」
「あんた五円を馬鹿にしとるのかね?五円は霊験あらたかな小銭じゃ!わしは昨日五円に命を救われたんじゃぞ!」
突如怒り出した客は背筋が伸びていて、堂々とした老人だった。
「は、はい。五円玉を出しますのでちょっとお待ち下さい。」
悲しいかな客命。悲しいかなアルバイト。店員は微妙な表情を浮かべてレジから五円玉をかき集め始めた。
貴史と英二は呆然と見つめていたが、英二が我に返ったようにぽつりとつぶやいた。
「あれ…川村さん……だったと思うんだけどな…。」
「知り合いか?」
「近所に住んでるってだけだ。」
貴史は英二ににやりと笑った。
「俺は知り合いだ。」
店員から五円玉百枚を受け取り、財布に入りきらないそれを商品と一緒の袋に入れて満足げに頷いた老人が出口に向かって一歩踏み出す。
二歩目はなかった。
無言のまま対峙すること約十秒。
貴史は寒気がしそうなほどの笑顔を浮かべて楽しそうに言った。

「こんにちは。サンタさん。」

霊験あらたかな五円玉の詰まった袋が音を立てて落ちた。
老人はゆっくりと腰をかがめて袋を手に取り、何事もなかったかのように貴史を一瞥する。
「すまんがどいてくれんかね。出たいんじゃが。」
「五重塔返せ。」
バチバチと火花が散る中、英二は貴史と老人を交互に見て店員に愛想笑いを送った。
「おい貴史…とりあえず出よう。ここじゃ迷惑になるだろ。」
そう言って貴史の腕を引いたとき、老人は英二の横をすり抜け、貴史に袋を叩きつけた。
五円玉が飛び散る。
老人を追いかけようとする貴史を英二がひきとめる。
「貴史!川村さんの住所なら知ってるって!それより五円玉拾え!俺は店員のねーちゃんが哀れでしょうがねーんだよ!」
貴史が後ろを振り返れば、こめかみに小さな青筋を見え隠れさせて必死に五円玉を拾う店員の姿があった。


草木も眠る丑三つ時。
アンパンマンは自宅の鍵がかかったかどうかを二回ほど確かめた。

「現行犯逮捕だな。」

びくりと振り向くとコンビニ袋を持った若者が二人、言わずとしれた貴史と英二が立ちはだかっていた。
「…おまえ馬鹿だろ。なんで家出るときからアンパンマンのお面してるんだよ…。」
至極もっともな貴史のつぶやきにアンパンマンが今気づいたかのようにぽんと手を打つ。
貴史は言いようのない疲労感を感じた。
アンパンマンはうなだれて今かけたばかりの鍵を開け、二人を手招きした。
「五重塔返すから…逮捕だけは勘弁してね貴史ちゃん。」
返事はなかった。

家の中はそこら中にところ狭しとがらくたが並んでいた。
古ぼけたおもちゃだの壊れた家具だの本当にどうでもいいようなものが、きちんと並べてあるのだ。
家族が文句を言わないのだろうかと思ったが、一人暮らしなことはすぐに知れた。
敷かれた座布団は一枚。机の上の湯飲みは一つ。何もかも一つずつ。
おびただしい量のがらくたがなければひどく寂しい家だろうと貴史は思った。
「ほい。お迎えじゃ。」
アンパンマンは綺麗に磨かれた五重塔にそう言って、すっと貴史に差し出した。
貴史はちらりと横を見たが、英二はただ眠そうにしているだけだった。
「いらんのか?」
「……いる。」
五重塔が飾ってあったあたりを見れば、努力・根性・忍耐と書いてある石がやはり綺麗に磨かれて置いてある。
机の上のHB鉛筆はピンと尖っていて、まだ少し使っただけなのがよくわかる。
おそらく昨日奪われたものだろう。
貴史は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

「…なんでこんなことしてんの?」
「一人では寂しいのでな。」
アンパンマンは湯飲みに茶を入れて、飲もうとしてやめた。
お面をつけていては飲めない。
「…川村さん、俺たち顔知ってるんだから…そのお面とったらどうです?」
アンパンマンは英二の言葉に首を横に振り、湯飲みを差し出した。
「取り返しに来た奴は初めてじゃ。大事にせにゃまた盗むぞ。」
「いや、だから盗みは犯罪だっつーの。」

「いらないと思われておるもんをもらいうけて何が悪いのかね。」

貴史は口をつぐんだ。
英二の手前口には出せないが、盗まれたものはなくても困らないものばかりだ。
五重塔だってほこりをかぶったまま部屋の片隅に放ったままだった。
冗談とはいえ親友からもらったものだったのにもかかわらず、だ。
「必要とされているものをとったりはせんよ。この家に集めたのは必要とされていないものばかりじゃ。気づかなかったかね?だからわしは君に聞いたろう。写真をもらってもいいかと。」
それは在りし日の現実。
現実だと思っていたただの夢。
二度と戻らない至高の夢。
憎み、焦がれ、いらないと振り捨てて、それでも欲しいと望む。
戻らないからこそ捨てたくないと、夢だったけれども捨てきれないと、悔しくて苦しくてゴミ箱に投げ入れた家族の写真。
貴史は黒い目に疑念を映した。
このとぼけたじじいはどこまでわかっているのだろうと。
「俺は……いるって言った…………。」
「そう、だからわしは君に返した。必要とされているものは必要としているものが持っているべきなのじゃよ。」
貴史は弾かれたように顔をあげた。

「なんで一人暮らししてんの?」
「おい…」
英二が小さな声で非難したが、アンパンマンは気にした様子もなく言った。
「家族にわしは必要ないのでな。」
必要とされないものばかり詰まった家に、必要とされない人間が住む。
この家には必要とされていないのに捨てられずにいたものばかりある。
貴史は五重塔を取り返した。
けれど、引っ越ししても、結婚しても、ずっと持っているだろうか?持っていたとしてもまた部屋の片隅でほこりを積もらせるのではないだろうか?
捨てにくいけれどいらないものを、いつ捨てようかと考えるときがこないとどうしていえるのだろう。
「息子たちはみな別居を選んだ。孫が小さい頃はよく遊びに来て孫もわしに懐いたが…そうじゃのう、もう君たちくらいの年になったのう。最近はまったく会っておらん。仕事の都合で遠くへ引っ越したせいもあるがな。それでも時々は手紙や電話を受け取った。」
貴史は拳を握りしめて話を聞いていた。
視界の端に英二の心配そうな表情が映るが無視を決め込んだ。
「わしはこう見えても体が悪くてな。去年入院を勧められたが入院費は馬鹿高い。年老いたゆえの故障で入院しても快復の見込みはなかろう?息子達には息子達の生活がある。こんな老人の世話を誰がみる。去年から電話や手紙はない。定期的に口座に通院費が振り込まれるがな。」
アンパンマンのお面の下にどんな表情が隠されているのか読みとりようがなかったが、声は淡々としていた。
貴史は手のひらに爪を食い込ませながらアンパンマンをにらんだ。

貴史は何も知らなかった。
父がいつのまに浮気相手を作ったのか、そもそもの発端は何年前、どんなことだったのかさえ。
だが大切なことは自分が父を好きか嫌いかだと思っていた。
最初は裏切りだと憎んだが、落ち着いてからは優しさだったのだと納得できないながらも理解していた。
しかし、父が一ヶ月前まで自分と母を捨てなかったのは何故だったのだ。
ほこりをかぶらせておきながら、それでも捨てなかったのは何故だったのだ。
そして今になって捨てたのは何故なのだ。
端の方から霧散しつつあった憎しみが途端に寄せ集まる。
貴史は結局父が好きだった。
だから父を憎み、信じた。

「俺は俺が……いらないなんて思わないっ!俺はあの写真がいらないなんて思わない!あの写真は薄っぺらい夢だ…夢だった…でも意味がないなんて思わない!思わせない!こんな瞬間にだって意味はあるんだ…あるはずだろう?夢を見ていた間にだって…意味はあるだろう!」

捨てられてもなくならない意味があるはずだろう。

英二が貴史の背中に手を置く。
貴史は顔を見せられなくて、そっとうつむいた。

「アンパンマンは何故自分の顔を食わせるのかね?」

唐突な問いだった。
「顔がなくなりすぎればその場で力尽きる可能性もある。何故自分の顔を食わせる?何故ジャムおじさんは何度も顔を焼いてやるのかね?」
貴史はうつむいたまま、英二は怪訝な顔をして答えない。
「世の中はギブアンドテイクなのよ君たち。アンパンマンは顔をあげる。相手はアンパンマンを助ける。ジャムおじさんは顔を作る。アンパンマンは平和を守る。わしは体を痛めた。あげるよりももらう方が多くなった。だから必要とされなくなったのじゃろうな。」
アンパンマンは一つ息を吐いて、貴史の頭をなでた。
「だが…相手がアンパンマンの敵になる可能性を何故考えない?ジャムおじさんが裏切る可能性を何故考えない?」
貴史はわずかに顔をあげた。
「優しさの循環じゃよ。見えるものが何もなくても。この瞬間に君が意味を見るように。金が振り込まれるだけのつきあいになってもわしが家族を大切に思っているのは…そういうことじゃないかね?」
声は少し自嘲気味だった。
理解していても納得できないのかもしれない。
「わしは必要とされていないと言ったが…その方がいいという思いもある。与えられてもわしに返せるものは少ない。君は意味があると言ったが…そうかもしれんな。そうかもしれん。だが…寂しい。」

隠し通すのはつらかっただろうか?
貴史は夢の日々を思い返した。
子供に何も気取らせずにいた両親は、つらかっただろうか?
知らなかった。
自分が憤っていたものは両親の裏切りだけではなかったのだ。
何も知らずにいた自分が、こんなにもつらい。
今でも父を好きだと思う。
あの日々は優しさだったのだと思おうと思えば思える。
だが真実を知るには父の心をのぞくしかなく、時は二度と戻らないのだ。
それでも父が好きならば。
やることなど一つではないか。

「なんだ…馬鹿馬鹿しいくらい簡単じゃん。」

貴史は拍子抜けして笑い出した。
英二が戸惑いながら声をかけてきたが笑いが止まらなかった。
しこたま笑った後で、アンパンマンを指差す。
「川村さん、お面とってくれよ。俺はあんたが変態で泥棒で寂しがりのじいさんってことしか知らないんだ。それでもなんかあんたのこと好きみたいだから…俺にじじいの友達くれません?サンタさん。」
アンパンマンは少しの間固まったが、すぐに困ったような照れているようなため息をついた。
「わしは暗黒サンタじゃからな。友達になってやるかわりに友達になってもらうぞ?」
アンパンマンのお面が、机の上にそっと伏せられた。

で。

時間が時間なため川村家に泊まることになった貴史と英二は客用布団を借り、連日の睡眠不足で限界だった貴史がいち早く寝転がった。
「羊がいっぴき羊がにひき…」
目をぱちくりさせる二人の前で貴史は恨みを込めたような低い声で羊を数え始める。
十匹も数えないうちに声はいびきに変わっていた。
「あーすいません。こいつなんか羊への恨みがやっと解消されたところなんですよ。気にしないでやってください。」
英二が口の端をひきつらせてフォローすると、川村は苦笑して手に持っていた五円玉を少しだけ残念そうに手放した。
「それより明日から盗んだものをこっそり返しに行きましょうね。捨てるとか捨てないとかは本人が決めることなんですよ。いらないものを引き取る仕事を始めるとか、他にやりようあるじゃないですか。」
至極もっともな英二の提案に川村が今気づいたかのようにぽんと手を打つ。
英二は川村と貴史に隠れてそっとこめかみを押さえた。

「ありがとう。君たち…。」

川村は二人のいびきを聞きながらそっと目を閉じた。


翌日、貴史は五重塔を机に飾り終わると母から父の電話番号を聞き出した。
コール音の度に唾を飲んだりせきをしたりしてなんとか緊張を押さえる。

「あ、父さん?そう、俺。そういえばまだ言ってなかったなと思って。」

まだ納得しきれないことがたくさんあった。
これから納得できる保証もありはしない。

それでも父が好きならば。
やることは一つなのだ。

「もうなんでもいいからさ、とにかく幸せでいてよ。」
END.
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